雑食風読書ノート(その10)



古山明男. (2006). 変えよう!日本の学校システム. 平凡社.

「教育もサービス業の一つである。それは大事な視点である。しかし、普通の企業と同じように、教員たちを賞罰と競争で駆り立て、研修で教え込んでも、けっきょくサービスは悪くなるだけだろう。/学校では、教師が『人間らしく生きている』ことが、生徒に対する最大のサービスなのである。教育は、知識や技能を伝えると同時に、教師という人格を通じて、判断力、感受性、道徳性などのモデルを見せているのである。子どもの自主性を引き出せるのは、自主性を持った教師だけである。つまり、アメとムチで動かされる先生ではなく、人間らしく生きている先生である。/学校が、教師に対しても、生徒に対しても、アメとムチで動かす発想から抜け出すこと。それが、生徒への最大のサービスであり、かつ最大の道徳教育だと思う。」(pp. 152-153)

「オランダでは専門的・技術的な部分を管理機関からきちんと分離して、別機関にしているのである。サポート機関と、学校を監査・評価する機関の二つが、管理機関とまったく別になって存在していた。[中略]学校の評価やサポートは、学校管理とはまったく別立てにして、純粋に技術的、援助的にやらないと、ほんとうの問題点が浮かび上がらないし、有効なサポートができないものである。[中略]サポートセンターの所員に、「授業がうまくいかなくて困っている先生が来たらどうしますか」と尋ねた。すると、「とにかく、その先生の授業を見せてもらいます。あるいは、ビデオを持ってきてもらいます。それから、その先生といっしょに問題を探ります」[中略]学習で、結論の天下りはよくない、考えて問題を解決する教育を、と言われる。それにはまず、教師が抱えている問題にたいして、結論の天下りをやらないことからはじめることだろう。」(pp. 195-197)

・・・社会における学校の役割、そしてそれが最も適切に実現するシステムとはどのようなものなのだろうか?それを考える材料を多くて提供してくれる一冊。


片野善一郎. (2006). 数学を愛した作家たち. 新潮新書.

「かなり以前から、数学によってある種の精神能力、例えば直感力とか論理的推理力のようなものが養われるという根強い主張があった。こういう説に[エドガー・アラン・]ポウは反対しているようである。分析(解析)は数学の専売特許のようになっているが、たまたまその言葉が数学に使われたからそう思われるようになったのであって、分析の能力と数学とは関係がないというのである。[中略] 観察の質は、相手の表情の変化を一つも見逃さず、それから心の動きを読み取ることだ。こういうことができるのは詩人でなければならない。単に数学的推理だけでは不可能であると言っているのである。/分析的推理を活用するには、観察能力が必要だという考え方は、シャーロック・ホームズの問題解決でも重視されている手法である。」(pp. 154-156)

「とにかく高校時代までは、どの学科でもしっかり勉強させなければならない。そのためには、数学教育の内容や教師の指導法を大いに改めて、数学嫌いをできるだけ減らすようにしなければいけない。それには数学という学問を、単なる計算技術としてだけでなく、他の自然科学との関係はもちろん、社会、経済、哲学、思想などといった広い視野から眺めて教えることが必要なのである。」(p. 185)

・・・興味ある視点から、単純な理系、文系の分類に一石を投じている。アンセルメやクセナキスのように数学のよくできる音楽家もいるわけだし。


スウィフト, J. (1980). ガリヴァー旅行記 (平井正穂訳). 岩波文庫. (原書は1726年)

「あらゆる就職の場合、その人選に当たっては、有能な人間であることよりも有徳の士であることを重視する。政治が人類全般にとって必要欠くべからざるものである以上、ごく当たり前の人間的理解力の方が各種の地位にふさわしい。それに、神にしても、公務の遂行を、それこそ一時代に三人とは生まれない、ごく僅かな、途方もない天才だけにしか分からないようなひどく深遠な仕事にしようなどとはお考えにはならなかったはずだ。それどころか、真実や正義や節制等々といったものは、誰にも手の届かない美徳ではない。経験と善意の力をかりてこれらの美徳を実際に実践できる人間なら、誰だって充分に国家公務員としての資格がある。もちろん、一定の専門的な研修が必要な部門は例外であるにしてもだ。しかし、道徳的観念が欠けている場合には、いくら天賦の知的才能に恵まれていてもそれをみたすことはできない。そういった性質の人間の危険な手に、大切な公務を委ねることはできない。篤実な人間にしても、無知のためについ誤ちを犯すかもしれないが、少なくともそのような誤ちは、生まれながら堕落しやすい性格をもち、しかも抜群の知能を駆使して自分の腐敗行為を巧みに処理し増大させ言い繕う人間の所業に比べれば、国家の公共の福利に対してそれほど致命的な害を及ぼすことはないはずだ、−−これが彼ら[リリパット国の人々]の考えであった。」(pp. 69-70)

・・・当たり前そうに見えて実はこれが一番難しいのだろうな。人の心は移ろいやすいし。


赤瀬川原平. (2006). 四角形の歴史. 毎日新聞社.

「犬も風景を見るのだろうか。」(p. 6)

・・・ここから広がる考えの流れ、そしてイラストがとても楽しい。四角形の歴史については、知的充実度は薄い、かな。


西原博史. (2006). 良心の自由と子どもたち. 岩波新書.

「もともと民主主義は、さまざまな意見があることを踏まえて、自分と対立する意見を力ずくでつぶしていくことを断念した上で、相手を尊重しながら討議を重ねていって初めて成り立つ。それを前提とすれば、学校が民主主義の政治過程に向けたトレーニングの場となるためには、お互いの違いを確認し、それでも相手を尊重しながら討議を進められるような能力を育てていく必要がある。/ところが日本の学校には、むしろ個人の信条に関わる問題を扱うのを避ける傾向があったように思われる。子どもたちの間で一人ひとり違いがある点は、私的な問題であるという理由で、授業の素材からできるだけ排除されてきた。しかし、信条の対象となる問題を学校の公的空間から遠ざけることは、民主主義で必要な討議能力を育てる上でも、適切ではなかった。/他方、教育問題だという扱いを受けた主題は、本来ならば信条問題として一人ひとりの違いを尊重すべきテーマであっても、教師が『正解』を独占して見解の押しつけを生じさせやすい構造になっていた。この点には、思想・良心の自由という観点で深刻な問題があった。学校が、一人ひとりの子どもが自分なりの信条を形成することを妨害していたことになるからである。」(p. 32)

「実際には、学校が[道徳的指導に]全面的な責任を負えるわけがない。現在、提言として言われているのも、部分的な責任の引き受けであって、子どもの道徳的な発達に関わる最終責任が親に委ねられている状況を根本的に変えようとする主張ではない。現実論としては、国家の側で最初から完全には果たせない責任を中途半端に引き受けて最も重要な親の責任をあいまいにするよりは、学校が<無理なものは無理!>とはねつける姿勢の方に見識と将来性があると思われる。」(p. 190)

・・・学校の中での良心の自由に関わる問題点が丁寧に論じられており、結構根深い問題があることに気づかされる。


デューイ, J. (2004). 経験と教育 (市村尚久訳). 講談社. ( 原著は1938年)

「新しい運動には、それが押しのけ取って代わろうとしている ものがもっている目的や方法を拒絶しようとすると、そこには 常に危険が伴う。つまり新運動の原理を積極的にまた建設的に ではなく、むしろ消極的にしか発展させないという危険が常に みられるというのである。したがって、新しい運動の行く手に おいて、その実践上の道しるべは、その運動それ自体の哲学の 構成上の展開から得られるのではない。それどころか、拒否さ れるものから、新しい運動の実践上の手がかりが得られるので ある。」(pp. 22-23)

「個人が世界のなかで生きるという言明は、具体的には、個人 が状況の連続のなかに生きていることを意味する。そして、個 人がこれら状況の『なかに』生きていると言われるとき、『な かに』という言葉の意味は、銀貨がポケットの『なかに』ある とか、ペンキが缶の『なかに』あるといわれる場合のその意味 とは異なっている。いま一度言うと、『なかに』の意味は、相 互作用が個人と対象物あるいは他の人との間で進行しているこ とを意味する。『状況』とか『相互作用』という概念は、相互 に分離しては成り立たない概念である。経験は、常に、個人と そのときの個人の環境を構成するものとの間に生じる取引的な 業務であるがゆえに存在するのである。」(pp. 63-64)

・・・「あれかこれか」にとらわれない慎重な議論の仕方をも っと見習ってもよいのではないだろうか。


ニキ・リンコ×藤家寛子. (2004). 自閉っ子、こういう風にできてます! 花風社.

「ニキ「コタツも、脚がなくなってこわいですよね。」
藤家「脚なくなりますよね、コタツに入ると。私一回それで、やけどしたことがあります。見えないから、コタツの中の熱いところに脚を押し付けていたのに気づかなくて。雨は痛いんですけど、熱には鈍いみたいなんです。『じゅ』って音がしたんで気づいたんですけど。」
ニキ「コタツから出るときって、やっぱりコタツ布団めくります?」
藤家「めくって脚の位置を確かめないと立てないですね。」
ニキ「そうですよね。私もコタツ布団めくって、脚があるのを確かめて、それを引き寄せて立つ、って全部これもマニュアル作業です。」
藤家「それがふつうですよね。」
ニキ「でも定型発達の人はそうじゃないらしい。」」(pp. 44-45)

「さて『見えている範囲が狭い』ということは、裏を返せば、『見のがしている情報が多い』ってこと。特に、『全体像』とか『構図』とか『主目的』とか『大前提』とか『全体の雰囲気』とか『文脈』とか『TPO』とか『背景情報』とか『暗黙の了解』とか、そういうのがわかりにくい。つまり、視野が広くないとわからない情報が、見のがされやすい。『木を見て森を見ず』ってやつね。『全体の雰囲気』や『背景情報』がわからないととりわけ苦労するのが、人間関係。だから、人間関係の育ちは遅れる人が多いし、好き嫌いはともかく、負担に感じる人が多いのね。[中略]見のがしやすい情報が多い上、せっかく得た情報は互いにばらばらで、結びつけができない。応用がきかない。そうなると、なおさら見のがす情報が多くなる。わずかな、断片的な情報を頼りに生活するしかない。だったら、その『わずかな手持ちの情報』は、どれもめちゃくちゃ貴重だよね?貴重だから、精いっぱい活用しようとするよね?」(pp. 214-216)

・・・ある意味新鮮な世界観。著者の一人であるニキ・リンコ氏のHPはこちら


好井裕明. (2006). 「あたりまえ」を疑う社会学:質的調査のセンス. 光文社.

「さまざまな状況のもと、人々は自らが生きている世界を少しでも変えていこうとして、語りだす。世の中を調べようとする社会学者は、語りだす力を、できるだけ敏感に感じ取り、自らの分析や解読に利用する必要がある。/ただそれは、人々の語りを読み、自分が感動した部分、重要だと思える部分をそのまま切り取ってきて、引用することではない。[中略]批判や非難の言葉が強烈で印象的であればあるほど、なぜ、どのようにして、こうした言葉が語りだされたのだろうかと、語りだす力の"源"とでもいえる何かに向かって想像力をふくらませ、語った人、そして、語りの背後にある現実を調べようとする営み。それが語りだす力と向き合うセンスであり実践の一端なのである。」(p. 179)

「常に自分の中に『風穴』をあけておき、いわば常に自分を『危うさ』に直面させておく。このことが、実は世の中を質的に調べるセンスの核心にあるのかもしれない。」(pp. 241-242)

・・・技巧よりも質的調査の「リサーチ・マインド」(p. 17)をエスノメソドロジーの第一人者がわかりやすく語ってくれる。


岡田暁生. (2005). 西洋音楽史:「クラシック」の黄昏. 中公新書.

「こうした『音楽は聴くものではない(!?)』という考え方の源流は、音楽を数学の一種と考える古代ギリシャにまで遡ることができる。その代表はピタゴラスであって、彼は数学者であると同時に、音響学者でもあった。弦の長さを半分にすると一オクターヴ上の音が鳴るといった、音程比と弦の長さの比率関係を発見したのは彼である。古代ギリシャにおいてすでに音楽は、『振動し鳴り響く数字』であり、超越的な秩序(数学的比率)の感覚的なあらわれであった。おそらく中世において、そしてそれ以後も、真にその名に値する『音楽』(芸術音楽)とは、現象界の背後の客観的秩序を探求認識するという意味で、一種科学に近いものと考えられていたのだろう。[中略]『音楽は必ずしも耳に聴こえる必要はない(音楽は現象界の背後の数的秩序だ)』という特異な考え方こそ、中世から現代に至る西洋芸術音楽の歴史を貫いている地下水脈である。」(pp. 21-23)

「実際ポピュラー音楽の大半は、特に旋律構造や和声や楽器の点で、一九世紀のロマン派音楽をほとんどそのまま踏襲しているといっても過言ではない。また『市民に夢と感動を与える音楽』という美学もまた、そっくりそのまま一九世紀の西洋音楽から引き継がれたものだ。『感動させる音楽としてのロマン派』の延長線上にあるのが、ポピュラー音楽なのである。『クラシック』と『ポピュラー』は地続きであって、決して世間で思われているほど対立的なものではない。」(pp. 224-225)

・・・「(西洋)音楽」の大きなうねりのようなものが感じられる一冊。


岡本 薫. (2006). 日本を滅ぼす教育論議. 講談社現代新書.

「教育という分野についても、次の時代に向けた教育改革の具体的な内容を考え、提案し、それを社会全体の中で実現していくためには、まず『現状』を正しく認識し、次に現状をもたらした『原因』を究明し、さらに具体的な『目標』を設定して、そのために有効な『手段』を開発・実施していかねばならない。そうした目標や方向を社会全体のものとし、手段を実施していくためには、『集団意思』の形成による政策化・ルール化(国会での立法化等)を実現しなければならず、さらに、手段の実施後には『評価』(結果と目標の比較)を行って、次の段階に結びつけていかなければならない。[中略]このように、マネジメントのプロセスにそったロジカルな思考の欠如という問題は、何らかのアクションを実際に行う場面においても、また、将来に向けたプランを議論する場面においても、教育を含む様々な分野について日本では広範に見られる。」(pp. 16-21)

「大陸ヨーロッパ諸国においては、一般に宗教が『心の教育』を担ってきたと言われているが、日本では、先進諸国中で唯一、『学校で心の教育を行う』という政策が実施されている。このために日本では、学校教育への期待・依存が極めて高く、学校や教師に過度の負担を与えてきた。」(p. 120)

・・・教育を例としながら、日本的な議論の問題点を明確に示してくれている。そういえば、ここで言われているようなこと、身の回りでたくさん起こってますね。



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