雑食風読書ノート(その11)



福岡伸一. (2007). 生物と無生物のあいだ. 講談社現代新書.
「おそらく終始、[オズワルド・]エイブリーを支えていたものは、自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して、これをR型菌に与えると、確実にS型菌が現れる。このリアリティそのものが彼を支えていたのではなかったか。/別の言葉でいえば、研究の質感といってもよい。これは直感とかひらめきといったものとはまったく別の感覚である。往々にして、発見や発明が、ひらめきやセレンディピティによってもたらされるようないい方があるが、私はその言説に必ずしも与できない。むしろ直感は研究の現場では負に作用する。これはこうちに違いない!という直感は、多くの場合、潜在的なバイアスや単純な図式化の産物であり、それは自然界の本来のあり方とは、離れていたり異なったりしている。[中略] あくまでコンタミネーションの可能性を保留しつつも、DNAこそが遺伝子の物質的本体であることを示そうとしたエイブリーの確信は、直感やひらめきではなく、最後まで実験台のそばにあった彼のリアリティに基づくものであったのだ。そう私には思える。その意味で、研究とはきわめて個人的な営みといえるのである。」(pp. 555-56)

「仮説と実験データとの間に齟齬が生じたとき、仮説は正しいのに、実験が正しくないから、思い通りのデータが出ないと考えるか、あるいは、そもそも自分の仮説が正しくないから、それに沿ったデータが出ないと考えるかは、まさに研究者の膂力(りょりょく)が問われる局面である。実験がうまくいかない、という見かけ上の状況はいずれも同じだからである。ここでも知的であることの最低条件は自己懐疑ができるかどうかということになる。」(p. 67)

「数値、図表、顕微鏡写真、X線フィルム・・・確かに、科学データは客観的に見える。しかし、データAを目にしているすべての観察者が、まったく同じ客観的事実A’を見てとっているわけではない。一見は、百聞に勝るかもしれない。が、その一見がもたらすものは異なる。そしてその異なり方、つまりデータが一体何を意味しているのかという最終的なアウトプットは常に言葉として現れる。その言葉を作り出すものが理論負荷性というフィルターなのである。」(p. 118)

・・・オズワルド・エイブリーやロザリンド・フランクリンの研究に対する真摯な姿に打たれる。またなによりも、全編に流れる筆者の豊かな感性が心地よい。


阿部菜穂子. (2007). イギリスの「教育改革」の教訓:「教育の市場化」は子どものためにならない. 岩波ブックレット.
「この流れ[地方分権化]の中で、教育面では大きな変化が起きた。諸地域で、一九八八年のサッチャー教育改革から離れた独自の教育政策が採られるようになったのである。競争主義に基づくテスト体制をやめて、『子ども中心』の教育理念の下で、テストでは計れない『総合的な学力』をつけさせることを目指した体制が模索されているのだ。」(p. 32)

「クーム小学校[2005年の11歳児ナショナル・テスト全国トップ]のバーバラ・ジョーンズ校長は、現行制度を『確実に敗者を作る不公正な教育体制』と呼んだ。市場の競争は、勝者とともに敗者を作る。『教育は敗者を作ってはいけない。すべての子どもに学びと成長の機会を与えてやるのが教育です。市場原理の適用は教育にはなじまないし、間違っている』と、彼女は一点の曇りもなく言った。」(p. 53)

・・・先行する試みから学んでこそ、本当の改善ができるはずである。なお阿部氏は2007年5月29日の朝日新聞朝刊にも本書のエッセンスを寄せている。


足立恒雄. (2007). √2の不思議. ちくま学芸文庫.(1994年出版の書籍の加筆訂正・文庫化)
「証明というのは論理的に正しければそれでよいのだが、腑に落ちる、納得がいくというのは別の次元の問題である。それは、その人の数学的体験や数学的知識量に大いに依存しているからである。数学者といえども、たんに証明が正しければよいと思っている人はそんなにはいないはずで、自分の数学観に応じた直感に訴えるような、なるほどと思える証明がよいとは思っているのである。」(p. 29)


秋月龍a. (2006). 誤解された仏教. 講談社学術文庫.(1993年出版の書籍の改題・文庫化)
「[良寛の漢詩を受けて]花は無心で蝶を招き、蝶は無心で花を尋ねる。花が開くときに蝶がくるし、蝶がくるとき花が開く。私は他者を知らぬし、他者も私を知らぬ。互いに知らぬながら、それでいて自然(じねん)の法則に従っている。−花が開くとき蝶がくる、他力の本願不思議によって自力が開ける。蝶がくるとき花が開く、自力を尽くしてはじめて真に他力が分かる。小さな自我を投げ出して、己を空じて、一切のはからいを離れるとき、そこにはじめて『天真自然』に通じる道がある。『捨ててこそ』、それはいわゆる他力宗・自力宗を問わず、宗教の極地である。『自我(エゴ)に死んで自己(セルフ)に生きる』のである。禅者のその徹底としての『任運騰々(にんぬんとうとう)』から念仏者の『絶対他力の信』へ(たとえば『妙好人』の生きざま)、それはほんの一またぎではないか。『自然法爾(じねんほうに)』(妙力)こそ、仏教の、いや宗教の神髄である。/私は『無我の我』こそが『仏』だといった。『仏法には<無我>にて候』(蓮如)である。『自我』を空じて無我を実現し得たとき、『法(ダンマ)』が『無我の我=真人=仏陀』が露わになるのである。それを、『自我に死んで自己に生きる』(死んで生きるが禅の道)というのである。」(pp. 177-178)

・・・菅野氏の著書と同様こちらも、本当は何が大切なのか、ということを考えさせてくれる一冊。


菅野覚明. (2004). 武士道の逆襲. 講談社現代新書.
「本書では、新渡戸武士道を含めて、明治期に盛んに鼓吹された武士道を、近代以前の武士の思想と区別して、『明治武士道』の名で呼ぶことにする。[中略]はっきりいえば、今日流布している武士道論の大半は、明治武士道の断片や焼き直しである。それらは、武士の武士らしさを追究した本来の武士道とは異なり、国家や子民政(明治武士道では、しばしば『武士道』と『大和魂』が同一視される)を問うところの、近代思想の一つなのである。」(pp. 13-14)

「武士道は、こうした、自分が身につけ、使うことのできるあらゆる力を勘定に入れながら、本当の強さとは何か、最後に勝つ武士の条件は何かということを切実に追求する中から生まれてきたのだ。/武士道の根源は、本当の実力とは何かという問いにある。自己の実力だけが、自分の存立を支える武士の世界にあっては、この問いはまさに自己の生命を懸けた問いであった。武士道の厳しい自己探求の精神は、そこから生まれてくる。甘さが直ちに死を招く世界では、己れに対するいささかの手かげんも許されないからである。/存亡を懸けて、自己を問う。刀を持たない現代人にとって、武士道がなお訴えかけてくる何かを持つとすれば、それはおそらくこの一点に存するものと思われる。」(p. 38)

・・・流布しているものの実態を知ることの大切さ。情報が氾濫する今日だからこそ必要なことではないだろうか。


石原千秋. (2004). 漱石と三人の読者. 講談社現代新書.
「たぶん、プロの書き手ならば、自分の文章が発表されるメディアがどういう読者層を想定しているのかを意識しないで書くことはない。それが『何となく顔の見える存在』としての読者である。しかし、書き手にとって読者とはそれだけではない。自分の予想だにしなかった読者を得て戸惑うことも少なくはない。それは『顔のないのっぺりした存在』としての読者と言えるだろうか。その上に、具体的な何人かの『あの人』がいる。書き手にとっての読者とは、こうした何人かの読者が複雑に絡み合った錯綜体とでも呼びたくなるような存在なのである。/漱石にとっても読者とはそういう存在ではなかっただろうか。しかし、おそらくははじめからそういう存在としてあったのではなかった。小説を書き始めた頃の漱石にとって、読者はごく身近な『顔の見える存在』でしかなかった。その意味で、『漱石は国民作家だ』という言い方は単純にすぎるかもしれない。朝日新聞の専属作家として小説を書き続けなければならない道を選んだことによって、漱石にはしだいに読者が錯綜体としての存在として見えてきたのだと言ってもいいからである。作家としての漱石を鍛えたのは、そういう読者との小説を通した関わりの体験である。」(pp. 4-5)

「私たちは、漱石の読者意識が設定した位置から『坊ちゃん』を読んでいる。それは『近代人』という、当時としては特別な位置である。ところが、私たちが抱いている中流意識が、すべてに目隠しをしてくれているのだ。私たち現代の読者は、はっきり自覚しないまま『近代的感性による近代批判という自己矛盾』を生きてしまっている。『坊ちゃん』には私たちの『顔』が映っているのに、それさえ見ようとしない。そう、大衆には自分の『顔』は見えないのだ。」(p. 110)

・・・小説に組み込まれた3つのタイプの読者という視点から、漱石の作品が考察され、「そんな仕掛けだったのか」という思いにさせてくれる。


苅谷剛彦, 増田ユリヤ. (2006). 欲ばり過ぎるニッポンの教育. 講談社現代新書.

苅谷 [中略]日本の教育って、完成品をつくるための完全なポジティブリスト主義に、どんどんなっているように見えます。/たとえば、チャンスのウィングをもう一つ広げるために、英語ができたらいい、みたいな感覚というのは理解できます。できないよりは、できたほうがいい。だけど、そのチャンスを広げるためにたとえば小学校で英語を必修科目にしたとすると、時間の制約もエネルギーの制約もあるから、ほかのことができなくなっていくはずですよ。ポジティブリストにどんどん足していって本当になんでもできるようになるんだったら、延々とリストを長くしていけばいい。だったらすばらしい教育ができますよ。ところが、現実には子どものキャパシティの問題もあるし、教える側のキャパシティの問題もある。いろんな制約がある中で、リストにどんどん足したって、必ず何かはみ出してくる。僕らの仕事だってそうでしょう。あれもやりたい、これもやりたいと思ったって、一つ別の仕事を入れたら、どこかにシワ寄せがいって、ほかのことをやる余地は減るじゃないですか。大人はみんな知ってますよね。」(pp. 45-46)

苅谷 というか、学校に依存することによって、近代社会をつくってきたんですよ、日本は。多分そこがヨーロッパの社会と比べたときに、根本において一番違うんじゃないかと思います。じゃあ、日本が高校進学率六〇%のままだったらどうなっていたか。大学進学率が一五%くらいでとまっていたら、今どうなっていたか・・・。学校にまつわる社会問題は、きっと今の半分以下ですよ。そのかわり学校の外側にたくさん問題があったと思う。学校や教師が問題にしなくてもいい、そのかわり警察や福祉関係の機関や病院や、ほかのところが問題にしなきゃいけない事柄がたくさん出たと思う。/すごく極端な話をすると、もし一五歳で義務教育が終わって、四割くらいの子どもが社会に出ていれば、一五歳から二十歳までの青少年問題の多くは教育問題じゃなくなるんです。学校にいないんだから当然ですよね。高校の先生が一生懸命、退学しないように生徒指導するなんていう苦労もないし、生徒がいろいろ問題を起こして先生が警察にもらいうけに行ったりすることも必要なくなる。でもそれは、その子たちが高校に行っていないから、学校が面倒をみないだけの話であって、だれかが面倒を見るということになります。」(pp. 105-106)

・・・他に、インプットの評価をせずにアウトプットの評価をしても仕方ない、という指摘(p. 84)など、今日の教育を考える上で重要かつ見落とされてきた視点が満載。それにしても民間の手法なるものを考えるなら、インプットとアウトプットの話は当然のはずなのに、民間の人も教育談義になるとそうした話をしないのは、あまり真剣には考えてないのだろうな。


藤田英典. (2006). 教育改革のゆくえ:格差社会か共生社会か. 岩波ブックレット.

「校内暴力・いじめ・不登校・学級崩壊や少年犯罪の主な原因は、家族の変化や刺激と誘惑にみちた情報消費社会・都市化社会の進展にあります。むろん、学校にも一端の責任はありますが、主な原因は社会にあるという意味で、『社会病理』と見るべきものです。それだからこそ、日本だけでなく、多くの先進諸国が共通に抱える問題になっているのです。[中略]こうした事実は、それらの『教育病理』と言われてきた現象が、日本だけの問題ではないこと、日本の教育のあり方に原因があると言えるような問題ではないということを示しています。」(pp. 14-15)

「非常に皮肉なことですが、その両方の側面[教育機会の開放と基礎学力の向上;引用者註]で、日本の教育は当時から欧米諸国にとって、一つの成功モデルとして注目されてきました。特に注目されたのは、基礎学力の形成と、学校のケア機能の充実と、そして、それを支える教職員の資質・力量の高さと協働性の三つだったと言えます。しかし、この四半世紀にわたる改革は、その優れた側面を否定し、その卓越性を支えてきた基礎を突き崩してきたのですから、これほど皮肉で不幸なことはないと言えましょう。」(pp. 52-53)

・・・教育を考える上で社会学的な感性が重要であることを認識させてくれる。少なくとも自分の経験がどの程度の一般性を持っているのか、自分の経験を支える基本的要因が何かに注意を払える程度の感性を、教育について語る人間は持つべきであろう。前提条件も吟味せず、少ない経験からの意見を全国に推し進めれば、齟齬が出るのは必然であろう。


山口仲美. (2006). 日本語の歴史. 岩波新書.

「あなたは、今話している日本語がなくなったらどうなるかという問題を考えてみたことがあるでしょうか?たとえば、英語だけで用をたさなくてはいけない状態になったとしたら?むろん、権力で強要されれば、長い時間をかけて、英語だけを話すようになるでしょう。でも、英語という糸で織り成される文化は、日本語という糸でつむぎ出されていた織物とは全く異なっているのです。」(p. 4)

「日本語は、論理性に欠けるあいまいな言語であると言われることがあります。そんなことはありません。第V章で見たように、日本語も、鎌倉・室町時代から、主語がどれであるか、目的語がどれであるかをきちんと明示する言語に変化してきています。接続詞もつかって、文と文とをしっかり論理的につないで文章を書いています。繰り返しますが、日本語は決して非論理的ではありません。論理的に話しを進める訓練がなされていないだけです。日本語の方は、論理的に構成されて来ているのに、日本人は、まだ話しの場で、その遺産を十分に生かしていないのです。」(p. 219)

・・・係り結びがなくなる過程、言文一致体が作られる過程など、今の日本語ができてくる過程を概観することができ楽しい。


丹羽宇一郎, 御手洗冨士夫. (2006). 会社は誰のために. 文藝春秋.

「多くの制度が時代遅れになっていますが、今掲げている改革というのは、目に付いたものをときどき変えるだけのパッチワーク的な対症療法に終始しています。構造を変えるところまで踏み込んでいないのです。そして『何のために』という目的が明確になっていません。[中略]だいたい、対症療法的な改革は、海に並んだタコツボのどれか一つを掘り進めているに過ぎません。全体のビジョンがあり、その上で各々の改革を位置づけていかなければ、特定のタコツボだけが海底に伸びていってしまいます。後になってそれに気づき、全体の長さを調整しようと思っても、もはや身動きがとれないところまでタコツボは深く長くなっていってしまうのです。このことは、行政も企業も同じでしょう。改革、改革と言っていれば、何だかいいことをしているような気分になり、周りも皆、自分が泥をかぶらない範疇ならば、それを拍手喝采して支持する。そんな安易な風潮を私は危惧します。/改革とは、まずは全体的な目的をはっきりさせること。その上で、各々の手段を見極める必要があるのです。」(pp. 21-22)

「『信』なくして国立たず。会社も『信』なくして立ちません。『信』そのものが社外に対してのコーポレートブランドになりますし、また社員の信頼を得られないようでは経営者失格、会社は成り立たないということです。/そのためには、前述のように嘘をつかない、すなわち、つねに言行一致であることです。陽明学では『知行合一』といいます。給料を返上すると言ったなら、必ずそれを実行する。私は社長の任期を自ら六年と定めましたが、実際の公言したとおり、二〇〇四年には社長の座を退きました。ちょうど六年の任期です。/言ったことには責任を持つ。これはトップが持つべき心構えの一つではないでしょうか。」(p. 153)

・・・トップが自らに求める厳しい態度に触れることができる。


半藤一利, 江坂彰. (2006). 日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか:撤退戦の研究. 知恵の森文庫.(2000年刊の文庫化)

「バブル崩壊で大量の不良債権を抱え込んでしまった銀行のトップは、まさにラ・ロシュフーコーの言う "人の偉さの旬" を知らなかった実力会長たちです。自分の旬を知らなかったために、鈍った判断力で重大な時期の決断ができなかった。[中略]日本でもよくある例に、実力会長といわれる人が晩節を汚すのは、すべて側近に囲まれて祭り上げられてしまった結果です。/"偉さの旬" をすぎた人間がトップに座りつづける弊害が、老害です。」(p. 56)

「[ダメな経営者のタイプの]第一に、目的がはっきりしていない官僚的経営者。分かりやすく言えば、目的の達成よりも手順、手続きが正しければそれでいい、といったリーダーです。[中略]第三は、問題を先送りする経営者です。[中略]第三点は時代を読む目、読む力があるかということ、読んでどう行動するかという決断力の有無にもつながります。[中略]第六は、いまだに『全員頑張れ』と言っている経営者。[中略]これからは、ネルソンの言ったように、スペシャリストはスペシャリスト、ゼネラリストはゼネラリストとしての自分の義務と責任をきちんと果たす時代になる。だから、経営者には、スペシャリストとゼネラリストが戦いやすいような環境をつくっていく責任がある。『いざ決戦、全員頑張れ』を繰り返している経営者はもうダメです。」(pp. 136-139)

・・・他にも「成功の復讐」など、多くの興味ある視点に触れることができる。


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