雑食風読書ノート(その12)



広田照幸, 川西琢也. (編著). (2007). こんなに役立つ数学入門:高校数学で解く社会問題. ちくま新書.
「選挙という政治現象は、数を扱うという数学という道具立てを応用しやすい対象だといえるでしょう。ここに示してきたよいうに、高校数学をちょっと応用するだけで、民主主義を支える選挙の姿が、新聞で報道されるのとは少し違った形で見えてきます。『文系』の学問も、数学が活躍する余地は、まだまだ残されているのです。高校からの卒業が、数学の卒業となる、そんな、二つの卒業を同時に味わうのではなく、もう少し数学とおつきあいくださり、数学からの卒業を人生の先に持ち越してしまう、そんな生き方というのも悪くはないと思うのですが・・・」(p. 79)

「日本人にとっては身近なことであるはずなのに、なんとなく自分とは関係ないと思いがちな地震。そんな地震の基本的な性質、地震の大きさをあらわすマグニチュード、地震のマグニチュードと発生頻度やエネルギーの関係、地震の発生周期や平均的な発生回数について、常用対数や確率を用いて説明をしてきました。/確率はともかく常用対数となると『見るのも嫌だ』という人も少なくないでしょう。しかし、ここで紹介した地震に関するいろいろな関係式や考え方は、教科書に載っている単なる暗記物の知識でなく、実際に地震の被害想定をする際に応用されています。[中略]地震への備えといえば、防災グッズをそろえる、家屋の耐震補強をする、あるいは地震保険に加入する、という面にのみ意識を傾けがちですが、実は高校数学を習得することも立派な備えの一つなのです。」(pp. 161-162)

・・・数学が世の中との向き合い方を変えてくれることを、いろいろな分野の専門家が教えてくれる。「コンピュータがいくら発展しても、それを使いこなすには十分な数学の知識が必要」とする川西先生の考えも、数学教育に携わるものには心強い。


佐々木正人. (1994). アフォーダンス:新しい認知の理論. 岩波書店.
「アフォーダンスは刺激ではなく『情報』である。動物は情報に『反応』するのではなく、情報を環境に『探索』し、ピックアップしているのである。したがって、アフォーダンスが利用される背景には、時間の長短はあれ、かならず探索の過程を観察することができる。また探索は、常に間違う可能性をもっている。アフォーダンスは、刺激のように『押しつけられる』のではなく、知覚者が『獲得し』、『発見する』ものなのである。」(pp. 63-64)

「環境の中の情報は無限である。したがってそれを探索する知覚システムの動作も生涯変化しつづける。知覚システムは、動物がどのような環境と接触してきたかによってまったく個性的であり、情報の数に対応するように無限に分化しうる可能性をもっている。知識を『蓄える』のではなく、『身体』のふるまいをより複雑に、洗練されたものにしてゆくことが、発達することの意味である。」(p. 81)

・・・あとがきに書かれた、理論から自由になり現実に忠実になるという研究姿勢も見習いたいものである。


内田樹, 釈徹宗. (2005). いきなりはじめる浄土真宗. 本願寺出版社.
「『悪がなされ、義人が不義で苦しんでいる』ことを批判する切れ味のよい言葉は誰もが競って口にしますが、それについて『私の責任です。ごめんなさい』と言う人間はどこにもいません。/政府を批判する人も、ナショナリズムを批判する人間も、家族を批判する人間も、学校を批判する人間も・・・どなたにも、ろくでもない制度の『共犯者』の一人として、あるいはその制度の『受益者』として、謝罪する様子はうかがえません。/でも、『謝らない人』というのは、要するに『子ども』のことです。/『月光仮面』の到来をいらつきながら待っている『子ども』だけが、無垢なる批判者の権利を行使できるのです。[中略]よれよれの老人であろうが、脂ぎったオジサンであろうが、けたたましいオバサンであろうが、『責任者、出てこい』と叫ぶ人は原理的に『幼児』です。/でも、世の中を住みやすくするのは『責任者出てこい。なんとかしろ』と怒鳴る人間ではなく、『はい、私が責任者です。ごめんなさい、なんとかします』と言う人間です。そういう人間が出てこない限り、世の中は少しも変わりません。」(pp. 27-29)

「釈先生のおっしゃる『執着・無明』とは、自分の身に起こった出来事をどういう物語的文脈の中に整序するかの選択に際して、できあいのストックフレーズを無批判に流用して怪しまない知性の怠慢、不活性のことを指しているのではないでしょうか?/たとえば、わが身の不幸を単一の『原因』(誰かの悪意とか幼児期のトラウマ)に帰して『納得できる』人間と、無数の前件の複合的効果として受け止める人間のあいだには、人間性の深みにおいて際立った差が生まれるでしょう。/『無数の前件』の中には、自分の知らない、自分の理解を超えた、自分の経験の枠組みに登録されていない出来事も含まれます。/そのような『知ることのできない前件』の可能性を想像できる人間は、自分が宇宙開闢以来の無限の出来事の一つの結節点であり、自分のなにげない行為もまた、他の多くの人々にはかりしれない『結果』をもたらすことの可能性にも思い至るはずです。/仏教がもし単純な因果関係による説明をいましめているのだとしたら、それは因果による思考を放棄することではなく、広大で、豊かな因果のネットワークを構想する知性を励ますためではないかと私には思われるのです。」(pp. 50-51)

「さきほど、宗教とは意味を与える体系であると書きましたが、仏教も生きる意味、死ぬ意味を、内面に賦活させる機能をもっています。しかし、仏教には、その生み出された意味への懐疑という側面が常にあります。主体の思惑が生み出す認識、枠組み。それらはすべて虚構である、とするからです。[中略]もし、<仏教>という商品のカタログがあるなら、そこにはぜひ『脱構築機能内蔵』と書き添えていただきたい。」(pp. 63-67)

・・・仏教と他の哲学との関わりを感じることで、逆に仏教の魅力が浮き彫りになるような気がする。「子ども」(というか「おこちゃま」)の議論は快哉と同時に冷や汗ものか。


アレナス, A. (1998). なぜ、これがアートなの? 淡交社.
「創作には必ず、『認識』することが必要である。認識とは、なんら関係性もあるいは意味もないものを、頭のなかで『額(がく)』に入れることで、それに意味を与える作業をさす。私たちはこのような誰かによって『額』に入れられたものを身体で感じたり、頭で考えようとすることはあっても、身近の物や出来事にこのような注意を払うことはない。アーティストとは精密な具象画から奔放な抽象画にいたるまで、千差万別の手段を用いて不思議な現象を引き起こすことができる人々だ。しかも、いわゆる制作行為を放棄しても、それを可能にすることができるのである。[中略]『なぜ、これがアートなの』『どうしてこれが重要なの』あるいは『これが私となんの関係があるの』といった質問や疑問なしに、この便器[マルセル・デュシャンの作品『泉』:引用者註]を見ることは不可能だ。ところがこのような疑問は、通常のレンブラントの絵を前にしては抱かない。ただしデュシャンの作品で訓練を受けた私たちは、レンブラントの絵も、同じような疑問をもって眺めることができるようになるかもしれない。」(pp. 37-39)


森枝雄司. (1990). ガウディになれなかった男. 徳間書店.
「そこへ話を進める前に、バルセロナがどのような歴史から生まれた街なのか、この時代のバルセロナがどのような変遷をたどっていたのか、追っておきたいと思う。/[リュイス・]ドメネクやガウディたちの活躍するための舞台が、バルセロナの新しい街並みに用意されていく過程、そしてバルセロナの古い歴史が彼ら建築家に独特な条件を課していく理由が、おのずとわかってくるからである。彼らの大胆な建築や奇抜な造形は、単に建築家の個性や才能だけで開花したものではなかった。近代バルセロナの発展の歴史によって導かれたものだったのである。」(p. 38)

「教会の建設にのめり込むと、必然的に自分自身の在り方についても思いを巡らしていく。仕事が増えたことで得られた豊かさは、苦学生だったガウディが望んだものだったが、宗教心が高まった教会建築家にとって、むしろ自己の矛盾の原因になってしまうのである。ガウディは、自分の本来あるべき姿、自分にふさわしい生き方を自問する。無理に背伸びをして楽しくもないブルジョアたちとの交際を続ける必要があるのか。彼らが満足する建築をつくればそれでいいのか。さまざまな思いに悩まされるのである。[中略]そして一八九四年の四旬節をむかえた時には、断食を始めてしまう。[中略]父や助手たちの説得に応じなかったガウディだったが、心から尊敬していた神父の熱心な説得にはさすがに心を動かされる。サグラダ・ファミリア教会を建設するのは、自分しかいないことに気付くのである。/ガウディは、すでに設計においてドメネクを凌ぐ力を蓄えた建築家だった。『わざわざ周りの人々と同じように振る舞わなくても、建築に専念すれば、それによって自分を表現できるではないか!』と自分に言い聞かせるのである。/そして、ようやく断食を解き立ち上がる。体力が回復すると、再び仕事に専念する。苦悩の日々を乗り越え、背伸びしない本来の自分を取り戻したのである。」(pp. 150-152)

・・・当時最も有名であったリュイス・ドメネクとの対比の中で、ガウディの魅力が新たに浮かび上がるように見える。


勝浦北星, 浦沢直樹. (1989). MASTERキートン第3巻. 小学館.
「人間はなぜ、学ばなければならないのでしょう?[中略]人間は一生、学び続けるべきです。人間には好奇心、知る喜びがある。肩書きや、出世して大臣になるために、学ぶのではないのです・・・では、なぜ学び続けるのでしょう?・・・それが人間の使命だからです。」(pp. 22-24)

・・・学生の頃に読んでずっと記憶に残っていた。怠けている自分に時々言い聞かせるようにするが、実現はむずかしいです。でも気持ちだけは・・・


中村和夫. (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本:「最近接発達の領域」と「内言」の概念を読み解く. 新読書社.
「最近接発達の領域の概念に関するこのような理解[大人の働きかけ或いは大人や仲間との相互作用・共同活動の主導性や有効性を示すとする理解]は、決してこの概念の独創性やヴィゴーツキーの文化−歴史的理論の本質をとらえるものではないのである。そもそも、単に一般的命題として、最近接発達の領域にはたらきかける教育(文化的実践)の主導性とか、相互作用や共同活動の有効性をいうだけならば、それはすでにマカーシーの功績に帰せられるものであった。したがって、そこにヴィゴーツキーの独創性はない。」(pp. 13-14)

「ある理論のあるひとつの用語や概念を知る、とはどういうことなのだろうか。その理論の全体構造を把握していない時期にそれを知っているということと、おおまかであれ、全体的な構造の組み立ての中でそれを知っているということとでは、その知識の質に雲泥の差が生ずることは明らかである。[中略]ヴィゴーツキー理論をめぐる、少なくともわが国での知識の現状は、いまのところ、理論の全体構造を把握しないままの知識の水準にとどまっている、と私には思われてならないからだ。つまり、私がおかしたような理解不足や誤りを、それとは知らないままに−なぜならば、理論の全体構造を把握していないので、そのことに気がつかないから−、ヴィゴーツキー理論の用語や概念を解釈していると思われてならないのである。」(pp. 95-97)

・・・全体の関係で部分を理解することの重要さ。安易な相互作用賞賛に対する警告でもあろう。


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