「日本人にとっては身近なことであるはずなのに、なんとなく自分とは関係ないと思いがちな地震。そんな地震の基本的な性質、地震の大きさをあらわすマグニチュード、地震のマグニチュードと発生頻度やエネルギーの関係、地震の発生周期や平均的な発生回数について、常用対数や確率を用いて説明をしてきました。/確率はともかく常用対数となると『見るのも嫌だ』という人も少なくないでしょう。しかし、ここで紹介した地震に関するいろいろな関係式や考え方は、教科書に載っている単なる暗記物の知識でなく、実際に地震の被害想定をする際に応用されています。[中略]地震への備えといえば、防災グッズをそろえる、家屋の耐震補強をする、あるいは地震保険に加入する、という面にのみ意識を傾けがちですが、実は高校数学を習得することも立派な備えの一つなのです。」(pp. 161-162)
・・・数学が世の中との向き合い方を変えてくれることを、いろいろな分野の専門家が教えてくれる。「コンピュータがいくら発展しても、それを使いこなすには十分な数学の知識が必要」とする川西先生の考えも、数学教育に携わるものには心強い。
「環境の中の情報は無限である。したがってそれを探索する知覚システムの動作も生涯変化しつづける。知覚システムは、動物がどのような環境と接触してきたかによってまったく個性的であり、情報の数に対応するように無限に分化しうる可能性をもっている。知識を『蓄える』のではなく、『身体』のふるまいをより複雑に、洗練されたものにしてゆくことが、発達することの意味である。」(p. 81)
・・・あとがきに書かれた、理論から自由になり現実に忠実になるという研究姿勢も見習いたいものである。
「釈先生のおっしゃる『執着・無明』とは、自分の身に起こった出来事をどういう物語的文脈の中に整序するかの選択に際して、できあいのストックフレーズを無批判に流用して怪しまない知性の怠慢、不活性のことを指しているのではないでしょうか?/たとえば、わが身の不幸を単一の『原因』(誰かの悪意とか幼児期のトラウマ)に帰して『納得できる』人間と、無数の前件の複合的効果として受け止める人間のあいだには、人間性の深みにおいて際立った差が生まれるでしょう。/『無数の前件』の中には、自分の知らない、自分の理解を超えた、自分の経験の枠組みに登録されていない出来事も含まれます。/そのような『知ることのできない前件』の可能性を想像できる人間は、自分が宇宙開闢以来の無限の出来事の一つの結節点であり、自分のなにげない行為もまた、他の多くの人々にはかりしれない『結果』をもたらすことの可能性にも思い至るはずです。/仏教がもし単純な因果関係による説明をいましめているのだとしたら、それは因果による思考を放棄することではなく、広大で、豊かな因果のネットワークを構想する知性を励ますためではないかと私には思われるのです。」(pp. 50-51)
「さきほど、宗教とは意味を与える体系であると書きましたが、仏教も生きる意味、死ぬ意味を、内面に賦活させる機能をもっています。しかし、仏教には、その生み出された意味への懐疑という側面が常にあります。主体の思惑が生み出す認識、枠組み。それらはすべて虚構である、とするからです。[中略]もし、<仏教>という商品のカタログがあるなら、そこにはぜひ『脱構築機能内蔵』と書き添えていただきたい。」(pp. 63-67)
・・・仏教と他の哲学との関わりを感じることで、逆に仏教の魅力が浮き彫りになるような気がする。「子ども」(というか「おこちゃま」)の議論は快哉と同時に冷や汗ものか。
「教会の建設にのめり込むと、必然的に自分自身の在り方についても思いを巡らしていく。仕事が増えたことで得られた豊かさは、苦学生だったガウディが望んだものだったが、宗教心が高まった教会建築家にとって、むしろ自己の矛盾の原因になってしまうのである。ガウディは、自分の本来あるべき姿、自分にふさわしい生き方を自問する。無理に背伸びをして楽しくもないブルジョアたちとの交際を続ける必要があるのか。彼らが満足する建築をつくればそれでいいのか。さまざまな思いに悩まされるのである。[中略]そして一八九四年の四旬節をむかえた時には、断食を始めてしまう。[中略]父や助手たちの説得に応じなかったガウディだったが、心から尊敬していた神父の熱心な説得にはさすがに心を動かされる。サグラダ・ファミリア教会を建設するのは、自分しかいないことに気付くのである。/ガウディは、すでに設計においてドメネクを凌ぐ力を蓄えた建築家だった。『わざわざ周りの人々と同じように振る舞わなくても、建築に専念すれば、それによって自分を表現できるではないか!』と自分に言い聞かせるのである。/そして、ようやく断食を解き立ち上がる。体力が回復すると、再び仕事に専念する。苦悩の日々を乗り越え、背伸びしない本来の自分を取り戻したのである。」(pp. 150-152)
・・・当時最も有名であったリュイス・ドメネクとの対比の中で、ガウディの魅力が新たに浮かび上がるように見える。
・・・学生の頃に読んでずっと記憶に残っていた。怠けている自分に時々言い聞かせるようにするが、実現はむずかしいです。でも気持ちだけは・・・
「ある理論のあるひとつの用語や概念を知る、とはどういうことなのだろうか。その理論の全体構造を把握していない時期にそれを知っているということと、おおまかであれ、全体的な構造の組み立ての中でそれを知っているということとでは、その知識の質に雲泥の差が生ずることは明らかである。[中略]ヴィゴーツキー理論をめぐる、少なくともわが国での知識の現状は、いまのところ、理論の全体構造を把握しないままの知識の水準にとどまっている、と私には思われてならないからだ。つまり、私がおかしたような理解不足や誤りを、それとは知らないままに−なぜならば、理論の全体構造を把握していないので、そのことに気がつかないから−、ヴィゴーツキー理論の用語や概念を解釈していると思われてならないのである。」(pp. 95-97)
・・・全体の関係で部分を理解することの重要さ。安易な相互作用賞賛に対する警告でもあろう。