雑食風読書ノート(その13)



宮川公男. (2003). 統計学でリスクと向き合う:あなたの数字の読み方は確かか. 東洋経済新報社.
「このようなこと[打席間の独立性を仮定することや相手投手との相性などが打率では考慮されないこと]は統計学の『理論モデル』を『現実』に用いるときによく注意しなければならない点である。打撃力というような基本的な概念の定義や測定尺度が妥当か、『理論モデル』の前提が『現実』にどの程度当てはまっているか、これはどんな科学でも現実に適用しようとする者の基本的な心得である。」(p. 105)

「経済現象について基礎的な理解のない人が新聞の経済面を読んでも、それはバラバラな記事の集まりにすぎない。様々な経済指標の数字も無関係の数字の集まりにしか見えない。これに対して、ベテランのエコノミストであれば、一見バラバラな経済記事や数字の間のつながりをつけることができ、多くの経済現象を秩序づけて認識することができるのである。[中略]一般に、物事の道理、法則性を理解していない人ほどより多くの情報を欲しがる傾向がある。それは自分の解決しようとしている問題に何が重要な関連を持つ要因であるかを理解していないために、重要な情報とそうでない情報とを区別することができず、見さかいなく情報を欲しがるからである。これに対して科学的法則性を理解している人は、問題に関連のある情報と関連のない情報とを見分けることができ、むやみに多くの情報を要求しないですむのである。」(pp. 213-214)

・・・統計のプロである著者が自らのガン治療を通して得た「決定=客観+主観」、「決定=計算+直感」といった教訓(pp. 189-190)は、私のような算数・数学教育の人間にとっても大きな教訓である。


増田ユリヤ. (2008). 教育立国フィンランド流教師の育て方. 岩波書店.
「『物理的な環境条件に学校間の格差があったとしても、教育内容やそのレベルにおいて学校間格差が少ない』/その理由のひとつは、一九九〇年代初頭から行われてきた大胆な教育改革によるところが大きい。当時のソ連崩壊によって、それまで経済的に依存していたフィンランドでは失業率が二〇%に達し、深刻な不況に陥った。そこでもともと資源に乏しいフィンランドでは『人』という資源に投資をしてIT産業など新しい産業を生み出す力をつけることによって、国際競争に立ち向かっていこうと考えたのである。その礎となるのは教育にほかならない。だからこそ、一人として落ちこぼれを出すわけにはいかない。すべての子どもに『平等の教育』を受ける権利を保障し、それを達成するために『現場を信頼』し『質の高い教員を養成する』ことを改革の柱としたのである。/『現場を信頼』するというのは、国家や行政が余計な口出しをせず、現場に徹底的に任せるということである。フィンランドの教育行政は、教育省と国家教育委員会が担当している。教育省は、日本の文部科学省にあたり、教育予算の獲得が主な仕事で、具体的な教育内容に関しては口出しをしない。日本の学習指導要領にあたるナショナル・コア・カリキュラや教育内容を決めるのは、専門家集団である国家教育委員会だ。国家教育委員会に所属する職員は約三五〇人。所属する研究員は万を数えるという。[中略]コア・カリキュラムは、日本の学習指導要領のように詳細なものではなく、最低授業日数など『国民として修得すべきこと』の基準を示すのみである。そして、コア・カリキュラムをもとに、各地方自治体は、実情に即した時間数やカリキュラムを決定し、さらにそれをどういう教育内容にするか、どう実践していくかは、各学校に、また教師一人ひとりに任されている。」(pp. 10-11)


高橋昌一郎. (2008). 理性の限界:不可能性・不確定性・不完全性. 講談社現代新書.
国際政治学者 さらに衝撃的な事実が、一九七三年にミシガン大学の哲学者アラン・ギバードとウィスコンシン大学の政治学者マーク・サタースウェイトによって独立に発見されました。それは、独裁者の存在を認めるような投票方式でないかぎり、戦略的操作が可能になるというもので『ギバード・サタースウェイトの定理』と呼ばれています。
運動選手 それはどういうことですか?
国際政治学者 つまり、いかなる民主的な投票方式においても、必ず戦略的操作が可能だということです。もし戦略的操作ができないような投票方式があるとすれば、そこには必ず、すべての決定権が一人の投票者に委ねられるという意味での独裁者が存在するというわけです。
数理経済学者 要するに、完全に公平な投票方式は存在しないのです。したがって、そのような投票方式に依存する完全民主主義も、存在しないというわけです・・・。」(pp. 72-73)

大学生A その限界を見抜いたゲーデルも、やはり人間は機械だと信じていたのですか?
論理学者 それは興味深い質問ですね。実は、ゲーデル本人は、『人間精神は、いかなる有限機械をも上回る』あるいは『人間精神は、能の機能に還元できない』という哲学的帰結を導いているのです。彼は、一九五一年、アメリカ数学会で伝説的な講演を行ったのですが、そこでこれらの帰結を述べた後、隠遁生活に入ってしまいました。
会社員 しかし、ゲーデルは、どうして不完全性定理を発見しながら、人間精神は機会を上回ると考えたのでしょうか?
論理学者 というよりも、逆に、ゲーデルは不完全性定理を発見したからこそ、人間精神の奥深さを立証したと考えたのです![中略]彼らの主張は、非常に単純化して一言でいうと、テューリング・マシンの限界を示す定理を証明した人間は、テューリング・マシンよりも優れているということになります。この点は、先の講演で明言はしていませんでしたが、実は、ゲーデル自身が信じていた主旨でもあります。彼らは、不完全性・非決定性・停止定理を証明するためには、アルゴリズムに還元できない思考力が必要だと考えているわけです。」(p. 253)

・・・専門家と素人が混じった架空の対話を追っているうちに、理性の限界が垣間見えてくる。最後に出てくるアマルティア・センの「合理的な愚か者」の話は肝に命じるべきことであろう。


廣松渉. (1988). 哲学入門一歩前. 講談社現代新書.
「本節の行論は、『帰納的抽象』による『普遍概念』の形成と称されている手続が論理的背理を孕んでいることを指摘し、“概念形成”観の常識を覆す所以ともなる筈である。[中略]検討してみると、しかし、『抽象』という手続による『概念』形成ということは論理的にみて成立しえない。/そんな馬鹿な!!と読者は叫ばれることであろう。抽象による概念形成が成立しない、などと言い出したのでは、科学は成立たない道理ではないか!! だが、どうやら、常識や科学者が『抽象』という手続で概念形成をおこなっているつもりでいるとき、実情は人々がそのつもりでいる『抽象(アブストラクション)』とは別途の機制になっていそうなのである」(pp. 115-116)

「慧眼な読者は、右の構制からいちはやく、『コノ犬は斯々然々(かくかくしかじか)』とか『犬というものは何々』とか、個体的実体や普遍的本質を事物的主語に据える通常の文法的判断に対して、『所与コレは犬である』『所与xは犬である』といった超文法的判断事態が先行的・第一次的であることを諒解されるであろう。/事物(もの)に対する事態(こと)の論理的先行性!実体ないし本質としての犬というものに対して、『所与を<犬>として覚識すること』、『所与が犬であること』、この事態の方が認識論的・存在論的に第一次的なのである。」(p. 170)

・・・事物(もの)に対する事態(こと)の一次性を説くのではなく、「こと」なる「もの」を擬物象化することすら克服しようとする(p. 218)ところに、思考の厳しさを感ずる。


小方 厚. (2007). 音律と音階の科学:ドレミ・・・はどのようにして生まれたか. 講談社ブルーバックス.
「われわれはドとレの音高差と、レとミの音高差は同じと感じている。[中略]周波数差が均一なら、ピアノの鍵に対応するピアノ線をならべると、その長さは音が高くなるに従い直線的に短くなるはずである。しかし実は直線ではなく曲線を描いて短くなる。[中略] [ドから半音ずつ上がっていく音列で隣り合う音の周波数比を計算すると]これらは公比約1.0594の等比数列だったのだ。そしてこの等比数列を実現するように弦を並べると、弦の長さは図5に示したハープの図形になり、管を並べると、管の長さはパンフルートの図形になる。このように音の高さに対するわれわれの感覚は『比』感覚だ。さらに、音の大小に対する感覚も『比』感覚である。」(pp.19-24)

「音楽辞典には『和声とは和音の連結のこと』とあるから、『コード進行・イコール・和声』であろう。機能的和声という言葉あるが、和声すなわちハーモニーの指導原理の下にメロディが従属するのが西洋音楽の主流である。ジャズ好きは『コード進行・イコール・ジャズ』と思っているが、コード進行は西洋音楽ではもっと普遍的なものなのだ。クラシック音楽ではコード進行は曲の底に沈んでしまって表面からは見えない。しかしジャズでは即興演奏の手段として、コード進行という形の『記号化』が必要なのである。」(p. 131)

・・・物理学者にしてジャズプレーヤーの著者が音の秘密を解説してくれていて、普段何げなく聞いている音楽の裏にある別の「美しさ」に気づくことができる。


岡田晴恵, 田代眞人. (2007). 新型インフルエンザH5N1. 岩波科学ライブラリー.
「さまざまな情報や議論に接し、何を根拠に、新型インフルエンザ対策が国際機関でよびかけられ、欧米先進諸国で対策が推進されているのかに疑問をもっている方もおられるだろう。また、科学的な根拠に乏しい事柄が、十分に検討・評価されることのないままに、一般的な常識として語られていると感じている方もおられるかもしれない。新型インフルエンザ出現のリスク評価とその根拠に関する科学的な情報提供が、少なくとも日本においては非常に少ないので、このような疑問をもたれても仕方がない。」(p. 10)

「今、必要なのは、H5N1型鳥インフルエンザウイルスを、科学的に正面から見すえ、この鳥型ウイルスがどのような性質の新型ウイルスに変化していくのか、その可能性を科学的に直視して見きわめ、危機管理、国家安全保障の問題として、最善の準備対応策を早急に講じることではないか。それこそが、新型インフルエンザ大流行の大災害から多くの尊い人命を救い、国の未来を守る、二一世紀の真の英知となる。新型インフルエンザは出てみなければわからないというのは、サイエンスではない。科学を放棄した無責任な言動である。」(p. 116)

・・・未知の部分のあることを認めながらも、課題に関わり分かっていることを総動員し、現時点での最善の策を立てるという姿勢は、他の分野においても生かされるべきものではないだろうか。


オールダー, K. (2006). 万物の尺度を求めて:メートル法を定めた子午線大計測 (吉田三知世訳). 早川書房.(原書は2002年)
「そうすれば [度量衡の共通語を作れば]、合理的で一貫性のあるシステムを作ることができ、それを使う人々は、世界を合理的で一貫性のある方法で把握することができるだろう。しかし、フランス革命−人々がユートピアを求めたことによって生じた歴史の亀裂−が起こり、慣習という軛を捨て去り、世界を合理的な原則に基づいて一から築きあげるという思いもよらないチャンスが巡ってこなければ、学者(サバン)たちの大計画も幻想のままに終わっていたであろう。フランス革命によって万人が共有する権利が宣言されたが、それと同じように、万人が共有する度量衡も宣言されるべきであると学者たちは考えた。そして、彼らが作った度量衡が、ある特定の個人やある一つの国家が作成したものに過ぎないと取られることがないように、世界そのものを測定した結果に基づいてその度量衡の基本単位を制定することにしたのである。」(p. 15)

・・・他にも「[2台の測角器の]1台は従来の360度目盛りだったが、もう1台には十進法による400度目盛」(p. 75)、「手慣れた日常業務を新たな問題とすることによって科学は進歩する」(p. 83)など、面白そうなことがあちこちに見られる。


林 大地. (2008). 見習いドクター、患者に学ぶ:ロンドン医学校の日々. 集英社新書.
「このように、表面的なことを見ただけでは、日本もイギリスも大差がなく、一概にどちらが良いとも言えないかもしれない。だが、両者には一つ決定的な違いがある。それは、イギリスではすでに『患者中心の医学教育 (Patient-centred medical education)』が定着しているということだ。[中略]『患者中心の医学教育』とはなんなのか、そしてそれがイギリス医療の根幹である『患者中心の医療 (Patient-centred medicine)』へとどうつながっていくのか、出来るだけ分かりやすく書いてみた。[中略]『医師が患者を診療し、患者はただそれを有り難く拝受する』という『一方通行の医療』から、『医師と患者がお互いを教育しながら、力を合わせて患者のための医療を実現し、ひいては日本の医療の発展へつなげる』という『両方通行の医療』へのシフトが今後は必要になってくるだろう。『患者中心の医療』を実践するには、なによりも『患者中心の医学教育』が必要不可欠なのだ。」(pp. 9-11)

「『なーに、臨床医学はな、何事も経験なのさ。俺達は毎日こうして患者と向き合うことで、いろいろなことを学べる。今日は胸部写真について教えたけど、画像に全てが写るわけじゃない。もし画像と臨床所見が一致しない時は、患者の臨床状態をもう一度洗い直して、診断を組み立て直す必要がある。患者自身が常に答えを握っているんだよ。写真の所見が全て一緒でも、患者によっては症状が全然異なることだってあるんだ。だから迷ったら患者をもう一度きっちり診察するんだ。問診で聞き忘れたことはないか、検査で見落としたことはないか。俺達は患者を診るのであって、エックス線写真を診るんじゃない (We treat the patient, not the X-ray)。そのことを忘れなければ、必ずいい医師になれるさ。」』(p. 114)

・・・ここに書かれてあることで教育にも参考になりそうなこともたくさんあるように思う。言うは易く行うは難し、ではあるが。


読書ノート目次
布川ホームページ