「なんと、蛍も劇場の拍手も工学的な問題(ラジオの同期など)も、数理的に見ると『周期的に振動しているものが相互作用によって周期Tを調節する現象』というものとして同一視できるのです。さらに最近の研究では、相互作用の及ぼし方も数理的には上記の現象間に共通した法則があることが明らかになってきています。その結果、現象の背後には『周期的に振動しているものが相互作用によってリズムを合わせる現象の方程式』というものが存在していて、上記の現象のすべてを(いくつかの)統一的な方程式で表すことができる段階にまで同期の理解は進んでいます。したがって、その方程式のことを理解すれば、一挙にそれらすべての問題の同期の機構が分かることにつながります。これが数理の威力の1つです。」(pp. 205-206)
・・・数学が世界を理解することに役立つ様々な事例に触れることができる。
「いまの若者たちは、自らの個性の発現について、この『無限性の病』にかかっているかのようです。『個性的であること』へと休みなく駆り立てられ、つねに強迫神経症的な不安におののいています。内閉的な個性志向とは、自らの内発性に重きをおく欲望であるはずなのに、その欲望は、内発的な欲求から切り離されて他律化し、社会的に駆動させられているのです。/したがって、『自分らしさ』の実現という目標には、定められた目標を達成できないという欲求不満と違って、最終のゴールがありません。むしろ目標を追いかければ追いかけるほど、そのゴールもさらにレベルアップして無限に後退していきます。こうして個性への欲望を再現なく肥大化させる悪循環のような文化規範のメカニズムが、現在の日本には作動しているのです。/以上のように、若者たちの個性のとらえ方が内閉化してきているとして、では、なぜその一方で、前章で見たように彼らの人間関係は重く感じられるようになっているのでしょうか。」(p. 43)
・・・“現代”に関わり感じるいくつかの論点が関連づけて論じられ、一つの視点を与えてくれる。
「真剣に働く者にとって、働くということは常に恥を晒して生きるということである。そういう営みのなかでこそ、ほんとうに学ぶことができるのではないか。自分の恥と向き合うことなしに、働きながら技能を向上させるなんて、絵そらごとではないか、とさえ思うのである。」(p. 86)
「不可能を可能にしたのは知恵である。知識ではない。捨てる部分に絞りを入れるような工夫はどんな本にも書いてないし、大学でも教えてはくれない。それは知識ではなくて知恵だからである。知恵は訓練だけでは得られない。問題に直面している現場に居合わせ、ものを向き合ったときにはじめて湧いてくるのが知恵である。/熟練は器用さとはちがう。手の技プラス知恵で、困難を乗り越える問題解決能力をもっている職人こそ、熟練工というにふさわしい、とわたしは思っている。」(pp. 130-131)
「このことを通してつくづくと考えさせられたことは、社会科学習においては、学習の展開途上に出て来る問題を、如何に全体の中に位置づけるか、その問題を教師はどうとらえるかということが、“いきいきとした学習が出来るか出来ないかのかぎの一つがあるんだ”ということであった。」(p. 53)
「ライプニッツは、iは存在と非存在が奇妙に入り交じったものだと考えた。二進法の1(神)と0(無)の中間のようなものだというのだ。ライプニッツはiを精霊になぞらえた。どちらも形がなく、実体があるかないかの存在だ。しかし、ライプニッツさえ、iによってやがてゼロと無限大の関係が明らかになるとは思っていなかった。数学上の二つの重要な展開があってはじめて、その真のつながりが暴かれることになる。」(p. 189)
・・・0は小学校1年生でも習うが、その背後にこのようなドラマがあることはちょっと驚き。
「教室はとにかく、一段一段と力がついていくのでないと、教室と言わないのではないかと私は思います。ほかの生活のどの場所にも、そういう所がないのです。楽しく暮らす場所は、いくらでもありますけれども、ぐんぐんと、学力がついていく場所、それを専門に目ざしている場所が、教室なのです。いかに楽しくても、そういう姿が見られないのは、教室ではない。あるときはもう、つらくって、力のかぎり、ぎりぎりのところまでやっている、力の伸びるのは、そういうぎりぎりまでやっているときと私は思います。[中略]みんなが楽しそうにしているところで、安心するといいますか、指導者が、ホッとしてしまうわけです。そこで腰をおろしてしまわずに手を出します。よくやれましたというところに、とどまらないで、よくやれていたら、『では、こういうことは』ということ−ことばは、このようななまなことばでなく−が出されなければならない。それが、教室の魅力を生むと思うのです。」(pp. 47-49)
「教師は、『やってごらん』という場所ではないからです。それをやらしてしまう場所だからです。『もっとよく読んでみなさい』、『詳しく読んでごらん』、そういう場所ではなくて、ついつい詳しく読んでいた−そういう自覚もないぐらいに−詳しく読む必要があるのでしたら、その場で詳しく読むという経験そのものをさせてしまうところです。『読み方が粗い、まだ詳しく読んでないではないか』、そういうことをいう場所ではない。それでは何にも魅力を生まず、ありがたい場所でもない。それは、おとなに向かって言うことであって、子どもというのは、これからどんなにか成長するのですが、いまは子どもです。ですから、学習そのものを、やらせてしまわないとだめだと思います。」(pp. 59-60)
・・・子どもの成長に力を注ぐということが実感できる。自由にさせることが実は教師の怠慢だとの指摘は耳が痛い。
「アメリカのある州議会では、宗教的理由のために、聖書の値、π=3を法案として制定しようと考えたという話がある。この話は単なる噂話であることがわかったが、それがこじると、1897年にインディアナの州議会で本当に起こったエピソードほどに大きくなることは大いにありうる。インディアナ州議会はπの値を制定する法案(その値はまちがった値だった)を討議にかけ、満場一致で通してしまった。法案の起草者は円を正方形にすることに成功したと宣言し、これをインディアナ州に限っては誰でも自由に使える贈り物として提供したのだ(他の州の人はもちろん使用料を払わなければいけないのである)。」(p. 288)
・・・小学校でも習う円周率の値。でもπの歴史や求め方は案外知らない人も多いもの。その基本的な理解のための手頃な一冊。
「『付加価値方式』とは、イングランドで近年重視されているもので、『学校の力』は『平均点の高さ』だけではなく、『子どもの学力をどれだけ伸ばしたか』で評価されるべきだとする考え方である。[中略]しかしながら、こうした『付加価値』という考え方は日本にはまったく普及していないものであり、今後検討を進めていく余地がある領域だと思う。平均値だけを比べるなら、豊かな家庭の子どもたちが多い学校の方が有利に決まっている。『付加価値』とは『伸び率』のことである。『伸び』を比べるのなら、多くの課題をかかえた家庭の子どもたちが比較的多い学校でも、十分に『勝負』することは可能なのである。」(pp. 49-51)
・・・1960年前後の全国学力調査、英国の状況などを検討しながら、全国調査の可能性をコンパクトに論じている。読みながら、結局は、全国調査の結果を使う側の知恵が試されているのではないかと感じた。
「当たり前のことをいうようだが、本来、理論が先にあって問題がひねくりだされるのではなく、区々たる問題があって理論が作られるのである。」(p. 281)
「さらに書き加えるなら、[数学者]フライはこの仕事[フライ曲線の導入とフェルマーの大定理の谷山予想への還元]を除けば、第一級の数学者とまではいえない人だけに、私はこの人の業績に特に焦点を当てたい。フェルマーの大定理を解決する突破口を開いた数学者は、数学の専門家やファンが好んで口にする、いわゆる『天才』ではなかったのだ、ということを書き留めておきたいのである。」(p. 283)
・・・成功しなかった試みからも解決せねばならない問題が明らかにされたり(p. 165)、ある定理の証明に失敗して、その過程を振り返る中で別の定理の証明ができているのに気づいたり(p. 279)、以前に放棄した考え方に欠けていた鍵を発見したり(p. 322)といったことも、数学が生まれる話しとして興味深い。