雑食風読書ノート(その15)



ラオ, C. R. (2010). 統計学とは何か:偶然を生かす. ちくま学芸文庫.(原著は1997年)
「学生時代に私は数学を専攻した。数学は与えられた前提から結論を演繹する論理である。その後、経験から学ぶ合理的な方法として、結果が与えられた場合に前提の是非を識別する論理である統計学を学んだ。自然の知識の進展においてであれ、日常のきまりきった仕事を効率的に運用することにおいてであれ、人間のすべての行動に関して私は数学と統計学の重要性を認識するようになった。そして私は次のことを確信するに至った。
    究極のところ、すべての知識は歴史となる。
    抽象的な意味においては、すべての科学は数学である。
    すべての判断はその根拠を問えば統計学である。」(p. 11)


佐佐木隆. (2007). 日本の神話・伝説を読む:声から文字へ. 岩波新書.
「無文字時代の神話・伝説はどのような特徴をもつものだったのかということは、文献に残っている伝承を細かく分析することによって、ある程度まで明らかにすることができるはずである。無文字の状況でしか起こりえない事態と、文字が媒介となることによってしか起こりえない事態とがあり、両者が識別できるからである。文献が編纂された時に既存の漢字資料から採用された伝承にしても、また、文献の編纂時に初めて文字化された伝承にしても、それらは長い無文字時代を経てきたものである可能性がある。本書では、個々の伝承を読みながら、無文字の状況でしか起こりえないはずの要素を一つひとつ拾いあげていくことになる。そうした作業を積み重ねることによって、個々の伝承が成立した契機や背景といったものが見えてくる場合もあるはずである。」(pp. 17-18)

「どのような文献・作品でも、特定の方向からの読みかたしかできないということはない。また、一つの方向からの読みかたが、ほかの方向からの読みかたよりも優れているということもない。文献・作品自体に含まれる明確な事実や、ほかの資料によって確認できる事実などを踏まえておきさえすれば、自分が興味・関心をもっている方向から読んでいってよい。本書で私がおもに取り上げた『古事記』『日本書紀』『風土記』についても、実際に歴史・政治・民俗・文学・言語などはもとより、その成立・受容まで、追究は多くの方向から行われてきている。これらの古典が含みもつものは、それほどに豊富かつ多様である。」(p. 233)

・・・著者が示す昔の人びとのおおらかなイマジネーションの広がりが魅力的。最後に論じられる神話・伝説と説話の違いにも当時の人の姿が見える。


山口昌哉. (2010). 数学がわかるということ:食うものと食われるものの数学. ちくま学芸文庫.(1985年刊の書籍の文庫化)
「数学のきちょうめんさ、または論理的であるということは、はじめに述べた数学の“あらさ”とちょうどつり合ってそのあらさを補っているのではないかということです。“あらさ”といったのは現実のものを映し出すものとしての数学についていったのですが、それだからこそ、現実そのものでないからこそ、それ自身に矛盾があってはならないということではないでしょうか。[中略]そして、この論理というものが無限集合の大きさくらべのときに示したように、われわれの想像力を助けてくれているわけです。もしnという記号や、論理がなければ、自然数の集合と偶数の集合の大きさが等しいなどということはわれわれは想像できないのです。」(p. 62-63)

「1つの約束を守り通しながら、かつ現実のものをあらくみるということから、この世のものを通じて出来上がりながら、この世のものとも思われない世界が出来上がります。/これが“数学の世界”ともいうべき世界であって、そこでは人は現実をはなれて、あそぶこともできるのです。[中略]数学はたしかに、§2でいったように現実から素材をえながら、現実の外の幻想的な世界(そこでは約束事だけが生きている)に出発しますが、そこで行われた結果は再び現実の世界に帰ってきて意味をもったり、現実的な質問にこたえたりできるのです。/こういう意味で数学の世界は§6でマルサスの時にくわしく述べたように比喩の世界なのです。そしてそれが人の世に必要なのは生命というものがあり、その生命につながって数学の文化が生じたからだと思います。」(pp. 218-219)

・・・最後のセクションのタイトルは「数学は文化である」。ここでの「文化」は「生物(人間もふくめた)全体についての1つの遺産」という意味とのこと。このことを頭の隅において数学を勉強するだけで、ずいぶん違うんじゃないだろうか。


高木貞治. (2010). 数学の自由性. ちくま学芸文庫.
「我国に於ける数学のやり方というようなものは、もはや一応再検討を要する時 期に来ているのではないかと思います。どうも、どっちかと申しますと、低い所 から高い所へ、山の麓から頂上へ向かって一歩一歩進んでいくというようなやり 方でありますが、従ってそれを私は百科全書主義と言っているが、百科全書のよ うになる。何か立派に書き上げてある大きな本を第1頁から順番に読んで行くと いうようなことで、知識の蓄積はあるが、批判ということは自然おろそかになる 。物を高く、しかも広くやるということになると、どうしても一歩一歩よちよち 行くのでは追っ付かない。他の方法で行くより仕様がない。その方法は、まず初 めには飛行機か何かに乗って上の方から、全体を見下ろす。それで一通り見渡す というような訳で、それからなおもう少し詳しく知る為には、今度は自動車か何 かで乗り廻して、もう少し近くからよく見る。そういうように段々、どこからで もよいが、飛行機だけで間に合えばそれでもよいが、もう少し詳しく知りたけれ ば自動車で乗り廻す。なお一層知りたければジャングルの中までも行く。そうし て或る方面だけでも詳しくという、それはほとんど専門家になる訳ですが、或い はいろいろな業務に従事しておって、又自分の職域というか、それに必要があれ ば、今度は小さな小径へも入らなければならぬ。或いは道を探しても入らなけれ ばならぬ。これは自分の足で歩いて行くより仕様がないが、そんなような順序に でもするのも一つの方法ではなかろうか。」(pp. 110-111)

「[和算の円理を役に立たないとした批判に対し]世に用なしは、間違いだろう。こ ういう断言をするのは、あまり大胆過ぎる。これは『予に用なし』だろうと直し た(笑声)。自分には用がないのだろう。それを世に用なしと思うのだ。よく考え てみると、いろいろなものの実用、実用という場合は、大概これです。予に用な しなんです。予に用なしといっても、自分ではどんな恩恵を蒙っているか知らな い。間接に恩恵を蒙っているのだが、それを自分が認識しないで、予に用なしと 思っているのだ。[中略]しからば実用性はどこから来るかというと、それは完全 な理解、徹底的な理解から来る。徹底的な理解の上にのみ実用性がある。それな くしては、実用性は得られないというのが、私の考えであります。」(pp. 113-122)

・・・数年前に二次方程式の解の公式を自分が必要としないとして指導要領から はずした人があったが、その人に高木先生のような見識があればと思ってしまう 。また高木先生が、世の中のうまくいかないことを全て「教育不行き届きの為」 にしてしまう論調に疑問を呈し、「善い世の中にのみ、善い教育が存在し得るの ではなかろうか」(p. 274)と昭和10年に書いていらっしゃることを、教育改革を 声高に叫ぶ人たちには一度考えてみてもらいたいと思う。


赤川 学. (2004). 子どもが減って何が悪いか! 筑摩書房.
「利用されたデータの出典は何か。何年度のものを何ヵ国について集計したのか。こういう情報がなければ、私たち視聴者、というより統計情報の消費者は、この“事実”や発言が正しいかどうかを検証しようがない。根拠となる資料・データの提示、引用文献の明示は、アカデミックな世界では基本中の基本だが、社会的な統計が公表されるときには、しばしば無視される。それは、情報の垂れ流しにつながっていく。」(p. 11)

・・・データを適切に扱うことの大切さと難しさを感ずる。情報化社会だからこそ必要な素養なのだろうが。


米盛裕二. (2007). アブダクション:仮説と発見の論理. 勁草書房.
「つまりアブダクションは論理的規則にしたがって機械的に行われる推測ではなく、試行錯誤的な推測であるからこそ、それゆえにかえって、アブダクティブな推測においては、とっくに意識的に熟慮的で自己修正的でなくてはならないのであり、十分納得がいくもっとも理にかなった推測に到達するまで熟慮に熟慮を重ねなくてはならない、といわなくてはなりません。そしてそういう意味でアブダクションは論理的に統制された推測とみなしうる、ということはすでに繰り返し論じたとおりです。」(p. 63)


古荘純一. (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:児童精神科医の現場報告. 光文社. 「こうした[オランダの]考え方は、子どもに一斉テストを課して、平均点を引き上げるように指導しなければならない、という日本の発想とは全く異なることがわかると思います。日本では八割以上の子が、学校がストレスであり、行きたくないと答えるとの報告もあるのです。/子どもに対して、一斉に授業をして、一律に教育していくことに、もう限界がきているのだと思います。もちろん、昔はそれで成り立っていたのだから、それでよいのだ、という意見もあるでしょう。オランダでも一九七〇年ごろまではそのような教育を行っており、小学校でも多くの留年者を出していました。しかし、そのままでは、教育を効率的に行う観点だけではなく、子どもたちの将来にもよくないという大議論を経て現在に至っているのです。実際には今、日本の学校でも授業の成立が難しくなっているのですから、別の方法を考える時にきていると考えたほうがよいと思います。」(pp. 96-97)

「子どもたちの求めているものと、今の立法、行政に関わる人々の考えに大きな隔たりがあります。子どもたちが求めていないものを押しつけることはやめるべきです。このままでは子どもの将来が心配、と大人が憂えるのはかまいませんが、子どもにとっては『よけいなお世話』となりかねません。/子どもたちには、プライドもあり将来もあります。大人の不安に振り回されずに、子どもたち自身がたくましく、目標、希望を持てるように支援することが大人の役目です。」(p. 241)

・・・QOL尺度を用いた調査結果や日頃の診断をもとにした話で興味深い。ただ大人の押しつけはせず、かつ「プライド」を尊重しながら「たくましさ」を育てる、というのは理想的ではありながら具体的にはどうしたらよいのか・・・


斎藤憲. (2008). ユークリッド『原論』とは何か:二千年読みつがれた数学の古典. 岩波書店. 「プラトンの対話が、議論の場面を活写し、語られるものとしての数学を伝えているとすれば、『原論』は逆に、数学の内容をその場にいない人に伝えることを目的とした「書かれた数学」である、ともいえるでしょう。/しかし『原論』を注意深く読んでいくと、プラトンの対話篇にあるような、口頭での議論や教育が、『原論』のスタイルに色濃く反映されていることがわかります。『原論』は「書かれた数学」であると同時に、「語られた数学」の痕跡を残しているのです。[中略]実は、ひたすら命題の証明を積み重ねていく『原論』のテクストにも、仮想の議論の相手を想定しているように思われる箇所は少なくありません。一言でいえば、『原論』はモノローグではなく対話(ダイアローグ)なのです。」(pp. 13-14)


ガッセン, M. (2009). 完全なる証明 (青木薫訳). 文藝春秋.
「調査を通して見えてきたのは、彼[グレゴーリー・ペレルマン]の頭脳のタフさだった。彼が数学の恐るべき難問[ポアンカレ予想]を攻略できたのは、独創力のおかげでも、想像力のおかげでもなく、強靱な頭脳のおかげだったのだ。問題は十分シンプルに定式化されていたが、解答は複雑をきわめ、ペレルマンが登場するまで、その全貌を把握できるほどタフな頭脳をもつ者はいなかった。彼よりも独創的な頭脳の持ち主や、インスピレーションのひらめく頭脳の持ち主が、問題を部分的に解明してはいたが、全体像を捉えることはできなかったのだ。」(p. 3)

「世界がペレルマンに与えてくれたのは、ひとつの問題にとことん向き合うなかで、強力なその頭脳に磨きをかけていくという習慣だった。そしてハミルトンが成し遂げたことは、いわばポアンカレ予想をスーパー数学オリンピック問題に仕立て直すことだった。ハミルトンはある意味で、この予想の地位を引き下げたといえるかもしれない。数学者の世界における最上位の知的エリートは、新しい地平を切り開き、かつて誰も問うたことのない問いを発する人たちだ。それより一段低いランクは、そのような問いに答える方法を考えつく数学者たちである。[中略]そして三つめのランクに属するのは、きわめて稀なタイプの数学者たちだ。彼らは証明への最後の一歩を踏むのである。ひとつのことにこだわり抜き、緻密で、忍耐づよく、他の人たちが夢に見て、選び抜いた道を、最後まで歩き通す。私たちの物語では、ポアンカレとサーストンは第一のランクに、ハミルトンは第二のランクに、そしてペレルマンは仕上げをする第三のランクに属するといえよう。」(p. 208)

・・・ペレルマンの成長過程を旧ソ連の数学専門学校と関わらせて論じている点が面白い。


堀場製作所コーポレート・コミュニケーション室. (2004).「はかる」と「わかる」:くらしを変える分析の話. 工作舎.
「『はかる』ことは対象の『わかり方』を修正し、その修正された理解の仕方が次の『はかる』につながってゆきます。対象が発信している見えない言葉をさぐりながら、対象を理解するということはまた、コミュニケーションのプロセスでもあります。そして測定・分析機器とはまさに、人間が自然の言葉を聞き、理解するためのメディアでもあるわけです。」(p. 13)
「しかし分析の歴史は、それまで分析できないと考えられてきた対象に挑戦することによって、進歩してきました。また人間は、『気配』や『雰囲気』をはじめ、分析不可能とされている多くのモノゴトを、生活のなかで無意識のうちに『測定』し『分析』し、そして『判断』してきたのです。もしかすると、『はんなり』や『間』、『勘』や『直観』、そして『場所』や『気配』などをめぐる、人間の『あいまい』な能力こそ、二十一世紀の分析技術の大きなテーマになるのかもしれません。」(p. 247)

・・・高度な分析・測定技術が「こんなところにも!」活躍していることがわかる一冊。


大村英昭, 野口裕二 (編). (2000). 臨床社会学のすすめ. 有斐閣.
「学級で要請されるさまざまな行動や態度は、日常の生活世界に根づいたものではないだけに、それだけでは意味のない奇異なものにすぎない。したがって、それらが受け入れられていくためには、生活世界とは異なるが児童・生徒にとって有益で意味のある物語が導入されることが必要になる。つまり、学級という閉じられた空間においては、そこで起こるさまざまな出来事や行動を意味づけ、解釈していくための新しい枠組み=物語が重要になるのである。したがって、学級の秩序は、どのような物語によって意味づけられ位置づけられてきたかに大きく依存するのであり、その意味では脆弱な基盤のうえに成り立っているといえよう。」(p. 151)


落合仁司. (2009). 数理神学を学ぶ人のために. 世界思想社.
「日常言語の論理では、無限の神が弱さすなわち限界を有することは、論理矛盾であるがゆえにありえない。しかし神の無限を数理言語における無限集合あるいは位相空間と解釈すれば、神の無限は無限であるがままであたかも有限であるのように扱うことが可能となるのである。[中略]本書は、集合論あるいは位相空間論という数学を方法として、キリスト教の福音を論理的に一貫させる、すなわち神学を構築する試みにほかならない。」(p. ii)


島内景二. (2009). 中島敦「山月記伝説」の真実. 文藝春秋社.
「ではなぜ、人間は『正気』の上り階段を踏み外して、堕ちてしまうのか。転落のきっかけのひとつは『誇り』だと、中島敦は考える。『誇り』は、『驕り』と限りなく近い。[中略]美しい孔雀が、華麗に羽を広げている。まるで『誇り』と『矜持』を見せびらかしているようだ。それを見て、中島敦は非常に憎らしく感じた。なぜか。底に、『誇り高すぎる自分自身』の自画像を見て、自己嫌悪に駆られたからだろう。美に誇る孔雀は、中島敦から見た他人ではない。自分自身の姿なのだ。[中略]誇りや尊大な自尊心は、心の病である。それは、肉体の病よりも悪質だった。」(p. 51)

「この、わかりやすく格調の高い[「山月記」の]英語訳を読んだ人たちの中から、世界各地に中島敦の『心の友』が新たに生まれることを切に祈る。いつの時代にも、事、志と違って、過酷な運命に敗れた人はいる。その悲しみを個人的な体験で終わらせず、普遍的な芸術作品に昇華させたのが、中島敦の『山月記』である。/人生の敗者であることに気づいた読者の前に、常に『山月記』の世界は開かれている。」(p. 132)

・・・「山月記」が親友への切なる訴えだとする筆者の論に引き込まれてしまう一冊。


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