雑食風読書ノート(その16)



新井紀子. (2012). ほんとうにいいの?デジタル教科書. 岩波書店.
「教育は良質かつ多様な人材を育成することで、経済を支える役割がある。その意味で、教育は一国の経済と切っても切れない関係にはある。しかし、教育を、特に初等中等教育を、経済成長の手段にするようになっては、国はおしまいであろう。」(p. 65)

「初等中学校教育は、私たちの未来を担う人材を育成する場である。その際、重要なのは短期的な成果に一喜一憂しない長期的な視点である。人を育てるには手間と時間がかかる。経済の用語を使えばそれは『コスト』である。その中でも、愛情、つまりは一対一の人間として心を込めて子どもとつきあうということに、実は最大の『コスト』が必要となる。しかし、人間の仕事がどれだけコンピュータに代替されていこうと、これだけは決して削減し得ないコストなのである。」(pp. 65-66)

・・・異様な興奮を自覚的に鎮めるべきとの提言はまさにその通りと思われる。必要以上に興奮し、またやってはいけないほどに冷めるのが、わが国の一番の問題かもしれない。


苅谷剛彦, 西研. (2005). 考えあう技術:教育と社会を哲学する. ちくま新書. 「学校の果たすべき役割とは何か。一言で答えるならば、市民社会の担い手となる自立した個人の育成といえるだろう。社会を構成する一人前の大人になるための準備をするところ、それが学校だといってもよい。/ところが、学ぶことの意味や学校に行くことの理由がわかりにくくなったといわれる。その理由のひとつは、一人前の大人になるというのはどういうことであり、学校で学ぶことが、そのための準備としてどのように結びついているのかが見えにくくなっているからだろう。」(p. 109)

・・・学校に何を求めるかを根っこの部分から考え、社会の中で合意を得ることは、本当に大事なことと思われる。それなしに、いろいろな手立てのレベルで議論をしても、結局は、矛盾するものが盛り込まれ制度疲労を加速するだけであろう。自分の好きなものや必要と感じたものを安易に学校に入れろと主張することは、教育のことを真剣に考えた行為ではなく、学校という、既に社会の中に空間的にも時間的にも広がっているネットワークを利用したいという欲望に過ぎない。


小倉明彦. (2011). 実況・料理生物学. 大阪大学出版会.
「報道者や消費者には、潔癖ヒステリーではなく、科学リテラシー(正しい知識にもとづく判断力)を発揮していただきたいものだ。」(p. 99)


三品和広. (2006). 経営戦略を問いなおす. ちくま新書.
「マイケル・デル氏[Dellの創業者]が戦略として掲げる内容は、すべて単なる掛け声にすぎません。掛け声なら、それこそ掛け放題ですが、掛けたからといって、必ず結果がでるというものではないのです。現に世の大半の『戦略』は、掛け声倒れに終わります。同業他社もよしとする理想論を、それを具現化するための方法論に踏みいることもなく、ただ叫ぶだけで戦略になるのなら、何の苦労もいりません。同業他社には再現できない何かを造り込む、そういうところに立ち向かわないかぎり、戦略にはならないのです。」(pp. 9-10)

「経営戦略がアナリシスの発想と相容れないのは、その真髄がシンセシス(統合)にあるからです。これは個別の要素を組み合わせ、まとまりのある全体を形作ることを意味します。全体のミッションを機能ごとに分解して分業体制を敷けば、専門化のメリットを活かして『効率』を上げることができます。さらに人の定期異動をこれに組み合わせれば、マンネリによる『効率』の低下も防げるでしょう。しかし、それぞれの部署がバラバラのままでは、『効果』が上がりません。人が替わるたびにチグハグが起こっても、『効果』を損ねます。全体を統合して、こういうチグハグ・バラバラを防ぐことが、経営戦略には求められるのです。」(pp. 61-62)

・・・戦略はサイエンスというよりもアートであるとの指摘は本当に素晴らしい!


佐々木紀彦. (2011). 米国製エリートは本当にすごいのか. 東洋経済新報社.
「討論を重視するのは、米国の素晴らしい点ですが、しゃべることが先行しすぎて、基礎知識が疎かになっている学生が多いのはいただけません。米国人学生の多くはしゃべりの達人ですが、内容面で唸るような鋭い質問や発言に出くわすのはまれです。」(p. 19)

「基本的に、知識の整理・発信能力の二つは、一定の訓練を受ければ、誰しもが一定のレベルには達します。結局、人と知力で差をつけるカギとなるのはインプット量である、というのが私の結論です。[中略]つまるところ、日米の学生の差を生んでいるのは、インプット量、読書量の差なのです。米国のエリート学生は、大量の読書を強いられるため、平均値が高いのです。ここでスタンフォードの学部生の読書量を推計してみましょう。スタンフォードは、秋、冬、春の三学期制で、各期の長さは一〇週間です。各期にだいたい四つの授業を選択しますので、一年間の授業数は、三学期(三〇週間)×四=一二〇、学部生はそれを四年間繰り返しますので、合計の授業数は四八〇です。授業一回あたりの読書量を本一冊(二〇〇ページ)とすると、最低でも四八〇冊(九万六〇〇〇ページ)の本を読むことになります。しかも、課題図書の大半は堅い本ですので、流し読みでは歯が立ちません。」(pp. 31-32)

「『日本の教育は机上の空論ばかりで、社会に出ても役に立たないけれど、米国の教育は実践的だから素晴らしい』。日米の大学−大学院教育を比べるとき、こうした意見がよく聞かれます。この通説は、ある意味、正鵠を射ています。ただし、問題は『実践的』という言葉をどう定義するかです。[中略]米国流教育の強みは、一見わかりにくい実践性にあります。具体的にいうと『演繹的に物事を考える能力』『限られた情報から物事を予測する能力』を鍛えるよい訓練になります。仮説を立て、それを検証し、修正していく−こうした習慣を、米国の学生は毎日叩き込まれるわけです。日本では、留学やコンサルティング会社での勤務経験がある人間でもない限り、こうしたトレーニングを受ける機会はありません。/米国流教育の特徴は、その内容が抽象的、イデオロギー的であるということです。」(p. 75)

・・・後者の引用のあとに書かれた筆者の考える理想的なリーダー像は、本当に大切なことだと感じる。


西成活裕. (2011). とんでもなく役に立つ数学. 朝日出版社.
「数学者や物理学者は、現象を数式で表すとき、イメージをとても大切にしています。数式は無機質な記号に見えるかもしれないけれど、研究者にとっては違う。私もそうですが、方程式を見ると、『ああ、これはこんなことを言っている』と、その呼吸のようなものが聞こえてきたり、風景が動いて見えたりするのです。/そういったイメージが持てるようになると、数学との付き合い方が変わってくる。」(p. 74)

「[インクジェットプリンターの]チューブの先端が動くと、チューブが大きくたわんで波が発生する。その動きに対する微分方程式を立てたところ、ソリトン理論を使って計算可能になったのでした。/もちろん、はじめはうまくいかなかった。チューブの動きを見て、直観と理論で数式を導いても、実際にプリンターで実験してみると合わない、という期間が1年ぐらいつづきました。試行錯誤しながら実験とモデルの修正をくり返すうちに、解決策が見えてきた感じです。[中略]こうしてチューブまわりの設計がうまくいき、商品化に成功しました。うれしいことに、いまだに売れつづけている商品ですし、私の研究室でも大活躍しています。」(pp. 152-153)

・・・「なんでも数学を使って解決しよう」(p. 149)という意欲がすごく、それをやってしまう専門性とセンスがすごい!


野崎昭弘. (2011). πの話. 岩波現代文庫.(1974年刊の文庫化)
「そうしてみると、曲線の長さとか、曲線図形の面積とかいっても、“はじめからある”ときめてかかるのは、そうとう危険なことなのです。[中略]もし、α、β、γ、・・・の値が、ある一定値ωに近づいてくれるなら、そのωこそ、その図形の面積であるとみなしてよいでしょう。一方、もしそのような一定値ωが存在しなければ−−その図形は“面積をもたない”のです![中略]けっきょく私たちは、“近づく”とか“近づかない”とかいうことを、もっと慎重に考えなおさなければなりません。」(pp. 152-153)

「けっきょく、現代科学の基本法則は、(少なくとも仮説であるという点で)ターレスの仮説“万物は水である”の子孫である、ということもできるでしょう。こういう自由な構想力がなければ、円周率についての私たちの知識も、経験的に知られた3とか22/7などの値から、いくらもぬけだせなかったと思われます。また、ターレスの節が“仮説である”という点も、たいへん教訓的です。私たちも、/自分で自由に考える/と同時に、/自分の意見が、まちがっているかもしれない/と考えるだけの謙虚さをもちたいものです。一歩一歩と確実に進んでゆく、ゆとりをもちたいものです。さもなければ、無理数比の発見者を死刑にしたというピタゴラス派の人々や、権威の名を借りて、男の肋骨が女より少ないと主張した人々を、笑うことはできないのですから。」(pp. 182-183)

・・・円周率に関わる話題を分かりやすく示してくれるとともに、数学や科学の基本的な考え方にもさりげなく教えてくれる1冊。


板倉聖宣. (2010). 数量的な見方考え方. 仮説社.
「村松茂清は『円周の内側に書けるいくつもの正多角形』を考えて、その辺の数を計算することが出来たのですから、それと同じことを円周の外側に書ける正多角形についても計算することなんか、簡単に出来たはずです。しかし、彼は『そういう計算ができなかった』のではなく、『計算しようともしなかった』のです。そこで、他の人びとを説得できなかっただけでなく、自分自身をも納得させることが出来なかったのでした。[中略]江戸時代の日本の数学にはまだ、古代ギリシア以来の数学の伝統である『すべての人びとを納得させずにおかない研究法』が確立していなかったのです。」(pp. 106-108)

「そこで私は、『これらの教科書・参考書はどうして<たのしい数学>の授業を展開させるものになりえないのか』、全面的に検討せざるを得なくなりました。その結果、私は『すべての子どもたちにわかるように、やさしくやさしくと書いていることが、かえってその内容を楽しくないものにしているのではないか』という皮肉な事実に突き当たることになりました。そして『<わかる授業>と<たのしい授業>との対立』を本格的に考えなおすことを迫られることになったのです。/多くの人びとは、『算数・数学の授業がたのしくなくなるのは、算数や数学の内容がわからなくて、授業についていけなくなるからだ』と思っているようです。たしかにそういうこともあるでしょう。しかし私は、『これまでの算数・数学では、子どもたちが<わかるに値する>と思われるような内容を教えていないのではないか』と思ったのです。数学で『わかるに値する授業』をするには、子どもたちが『<実用的に役立ちそうだ>と思えるような数学的な知恵』や、『数学の論理的な見事さに感動できる事実』を教える授業をすることが大切でしょう。『数学の授業のたのしさ』というのは、『数学とは本質的なつながりのないゲーム』で誤魔化すことではないと思うのです。」(p. 131)

・・・ある意味算数・数学の外から算数・数学の根本にもどっていろいろと指摘をしてくれており、中にいて見逃していることに気づかせてもらえる。


柳 治男. (2005). <学級>の歴史学:自明視された空間を疑う. 講談社.
「『学級』の存在を自明視したままで、そこで生活している子どもの意識を十分に理解しうるはずはないであろう。『学級』の中で生活している児童・生徒の生活や感情は、『学級』の存在に慣れ親しんでしまって自明視するという認識論的な限界を持つ大人の目では、明らかにされうるはずはないのである。[中略]三○人前後の児童・生徒を掌握し、学級秩序を維持していくということは、複雑かつ大変な仕事であり、通り一遍の言葉で言い尽くせるはずはない。しかし、言葉として迫ってくる理想論やタテマエ論は、脅迫的あるいは暴力的力を持って、この複雑かつ微妙な現場の問題を、簡単な言葉で片付けてしまう。実際に学級秩序を維持する仕事を担っている教師の多くが、このような理想論やタテマエ論にとまどいを感じ、また違和感を覚えている野である。」(pp. 3-6)

「教師・生徒関係は、周知のごとく児童中心主義教育思想の成立により、『子ども中心対大人中心』という論理の中に組み込まれ、二者択一的思考パターンが広く教育界に広まったのである。それは直ちに、『経験中心対学問中心』、『生活中心対教科中心』という単純化された図式のカリキュラム論争となって教育界を被った。われわれは今も、このような二項コードの渦中にある。宗教としての教育言説は、あるいは記号としての教育言説は、『良い教育』対『悪い教育』という二項コードの記号を作り上げる。[中略]人は教育を語るとき、『よい教育と悪い教育』という、真贋論争の中に完全に入り込んでしまったのである。言説への依存が強化されるに従い、当の学校組織の存在は自明視され、存在が自己目的化する。機能性を軸にした学校評価は徐々に遠のき、言説の記号価値、すなわち言葉が放つ気分や、イメージ効果へと人々の関心は向けられていく。」(pp. 132-133)

・・・自明視されたものを歴史的にひもとくことで、新たな光のもとに照らしてくれる。こうした議論から私たちは出発すべきではないだろうか。


福澤一吉. (2002). 議論のレッスン. 日本放送出版協会.
「一見これ以上分析不可能にみえる論拠の内容も、さらなる分析は可能です。もちろん易しいことではありません。自分が夢にも思っていなかった仮定が論拠の中に潜んでいるかもしれません。これを探ることが“分かりやすい議論”のはじめの一歩なのです。/そして、“論拠の発見”は、自分の内側に答えがあるという意味において“自分自身の発見”である、と私は思っています。」(p. 160)

「この社説の議論が分かりにくくなっている理由は、この時点では以下の4つの点に集約できそうです。

  1. 主張の内容が不明確な場合がある。
  2. 主張だけで根拠がないものがある。
  3. 主張と根拠がある場合でも、論証という枠のなかで両者の関係が明示されていない。
  4. 論証が第三者に分かりやすく提示されていない。
[中略]主張の中心は『(今回、国の検定を終了した教科書を)教室で使うのはふさわしくない』ですが、このジャーナリストがなにをもってして『ふさわしい』とするかを提示していない以上、この主張に関する根拠は見つかるはずがありません。しかも『ふさわしくない』とする理由すべてを『やはり』に受け持たせているのがこの社説の最大の問題点です。」(pp. 182-184)

・・・テレビでの議論や新聞の社説がよく理解できなくなっており、年で理解力が低下していると感じていたが、この本を読んで考えてみると、杜撰な“議論”(もどき)が氾濫していることも理解しにくい原因であることがよくわかる。もちろん自分の頭の問題がないとは言いませんが。


広田照幸. (2005). 教育不信と教育依存の時代. 紀伊國屋書店.
「私のみるところ、現代の教育の現状はプラス面もあるしマイナス面もある[中略]。現実に存在するものとは別の教育を望ましいと考える人たちがいて、私にいわせると、『別の教育』は、実はどれもそんなにバラ色ではなくて、それぞれにプラス面だけでなくマイナス面もある。また、たくさんの『別の教育』の間には微細な上下はある。その上下は人々の価値観によって評価が異なってくる。しかし、トータルな評価としては、『別の教育』群は、おおよそ、それも現実の教育と似たりよったりの位置にある。/しかしながら、それぞれの『別の教育』は、それを信奉する者にとってはバラ色に映っている。もしその教育理念が実現した時に生じるであろうネガティブな面には目を向けないからである。」(pp. 21-22)

「教育という営み、学校の日常は、さほど面白くない、というよりも、ずいぶん単調で退屈なルーティーンワークによって、大半が占められている。生徒が何かの知識を理解する瞬間、あるいは、生徒が自分の生き方について何か気づくようになる瞬間といったものは、当の生徒にとっても、さほどドラマティックな体験として自覚されないのが普通である。それは、禅における『悟り』の瞬間のような、世界の見え方が一変するようなものではない。いつの間にかまとまった知識が身についており、以前とは違うものの考え方をしている自分に気づく、というふうなものである。ドラマティックな瞬間を演出しようとする授業や実践はないわけではなかろうが、普通は、退屈な学校の日常の積み重ねが、生徒を違った存在へと変化させていくのである。/だから、いい教育実践は、『事件』としての派手さを持たない。表に出ない地味なエピソードの累積だからである。[中略] [普通の能力を持った教員が、十分な創意工夫を試みたり、個々の生徒にきちんと対応できるだけの、時間的・精神的余裕を確保するようにすると]そうすれば、表には出ない『いいエピソード』が増え、『中学校生活は楽しかった』と回顧する生徒の割合が、さらに高くなるような気がするのだが。」(pp. 137-138)

・・・多様な考え方や多様な要因の可能性に目を配った、バランス感覚のある議論と感じられた。皆がこうしたバランス感覚を持っていれば、もう少し何とかなりそうな気がするが。


佐々木毅. (2007). 民主主義という不思議な仕組み. ちくまプライマリー新書.
「民主政治は有権者が横着を決め込み、無闇にわがままを言ったり、無理なサービスを政治家に求めたりする政治ではありません。有権者自身が自ら努力することによって、世論を変えていくこと、あるいは成長させていくものであることを忘れるならば、民主政治は怠惰を煽るような政治体制になってしまいます。これでは、民主政治はまともな人々の支持を得られません。そういうところでは、『独裁者の支配』への願望が密かに培養されても不思議ではないのです。」(p. 112)

「選挙に参加し、政党の言動や選挙の結果に目をやるのは重要ですが、私たちに求められるのは、その政党や政治家が何を、どの程度できるのかについて、真剣に見定めることです。国民不在の『官民調和体制』は困りものですが、政治家と官僚との間で不毛な対決が漫然と繰り返されることも困りものです。日本の政治はこの点でなお課題を抱えていると言えます。」(p. 127)

・・・この本を読むと、日本が本当に民主主義国家なのかがだんだん疑問に思えてくる。


北川東子. (2002). ハイデガー:存在の謎について考える. NHK出版.
「あることばの意味がわかるということは、それを使ってコミュニケーションができることです。広く捉えれば、そのことばで生活できるということです。辞書に並べられた同意語を挙げることではありません。したがって、ことばの意味は、最初から固定して考えることはできません。コミュニケーションの状況によって、同じことばが異なった意味で使われることがあります。逆に、さまざまなことばが同じひとつの意味で使われることがあります。つまり、ことばの意味をわかるとは、それを生活のなかで体験することだと言えます。意味の体験が深まり拡がるにつれて、私たちの意味についての理解が深まり拡がります。ことばの意味の問題について考えることは、このように、意味の実践について考えることです。」(pp. 26-27)

「私たちは、なぜ問いを発するのでしょうか。知識や情報を獲得するため、答えを手に入れるためでしょうか。それだけではありません。選択の自由を与えられているとき、私たちはその事柄の意味について問いかけてみることがあります。『これでよいのだろうか』『もっとよいやり方があるのではないだろうか』『最善とはなんだろうか』というように、よりよい可能性を求めて、今の状態を疑ってみることができます。ですから、疑うことができる、問いかけることができるというのは、人間の自由の現れでもあります。自由から発せられる問いは、よりよい可能性を求める問いですから、きちんと答えが見つかるものではありません。『これでよいのだ』という結論が出ることなく、いつまでも続くことがあります。反対に、答えが見つからないのに、突然に終わってしまうこともあるのです。」(p. 36)

・・・「下方が開いた弦としての『自分』」(p. 54)、このわかったようなわからないような表現に、何故かひっかかってしまう。


小島寛之. (2006). 算数の発想:人間関係から宇宙の謎まで. 日本放送出版協会.
「理論経済学では、主張が数学的に表現されているため、反例を提示するのがほかの社会科学の主張に比べてやりやすい。どの(暗黙の)仮定が現実と整合していないか、それを冷静に考えれば、設定をどう変えると反例が成立するかを見抜くことができるからである。これこそが経済学的主張を数学的に構築することの効能だといっていい。」(pp. 72-73)

「経済学を研究してきて、あるいはそのために必要な工学や物理学や統計学を勉強してきて、一番大事だと実感したのは、『ものごとを素朴にプリミティブに理解する』ということだ。これらの分野の代表的な結果を理解する上で、それがどう記号表現されていてどういう数理操作でその法則が証明されているか、そういう『数理的な記号操作をすること』は、考えを緻密にまとめる上では大切だが、何かを本質的に理解することには役に立たない。本質的に理解するためには、『それが要するにどういう発想なのか』を、とことん自分の中でかみくだいて、単純化して、できるだけ身のまわりにあるような感覚や人生観に引きつけて、その上で理解する、そういう作業が大事なのだということが身にしみてわかってきたのである。これをひとことでいうと、まさしく『ものごとを素朴にプリミティブに理解する』ということになる。そして、頭のなかで爆発が起こってみてわかったのは、それこそが『算数の発想』ではないか、ということだった。」(p. 228)

・・・算数のよく見かける問題から、いろいろな分野にどんどん話が拡がっていくところが素晴らしい。


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