雑食風読書ノート(その2)



内田 樹. (2002). 寝ながら学べる構造主義. 文春新書.

「自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ『自己実現する』のではありません。ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで『作り出した』意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は、主体の『存在』にではなく、主体の『行動』のうちにある。これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。それは見たとおり、ヘーゲルとマルクスから二〇世紀の思考が継承したものなのです。」(p. 32)

「テクストも読者もあらかじめ自立した項として、独立に自存するわけではありません。例えば、非常にインパクトの強い本の場合、最後まで読み終えたあと、そのまま間をおかずにもう一度はじめから読み直すことがあります。そして、その二度目に、私たちは一度目には気づかずに読み飛ばしていた『意味』を発見することがあります。なぜ、最初は見落としたこの『意味』を私は発見できるようになったのでしょう。それは、その本を一度最後まで読んだせいで、私のものの見方に微妙な変化が生じたからです。つまり、その本から新しい『意味』を読み出すことのできる『読める主体』へと私を形成したのは、テクストを読む経験そのものだったのです。」(p. 126)

タイトルに偽りなし。本当に寝ながら学ばせて頂きました。


市川伸一. (2002). 学力低下論争. ちくま新書.

「民主的な社会が維持できなくなるということも、学力が低下するとまずいことの大きな理由になると私は考えている。民主主義社会に参加するためには、一人一人が、さまざまな情報を理解したり、自らの主張を表現したり、確かな知識に基づく判断をしたりしなくてはならない。さもないと、例えば『選挙で誰に投票するか』、『原子力発電に賛成するか反対するか』、『自衛隊の海外派兵に賛成するか反対するか』といった意思決定場面で、個々人が主体的に判断ができなくなり、そのトータルとしての民主的な決定が、基礎から危うくなってしまうであろう。選挙の投票率の長期的な低落傾向からも示唆されるように、こうした社会的問題への関心や知識を育てることにも、わが国の教育はけっして成功していないようだ。」(pp. 174-175)

「よい論争というのは、『なぜかみ合わないのか』がしだいに明らかになり、意見の一致をみないまでも、当事者や観衆の認識が深まる論争のことだと私は考えている。[中略] 私はそうした意味で、今回の学力低下論争は、積極的に評価すべきだと思う。[中略] さまざまな論点や提出されたデータを整理してみると、『なるほど、そういうことも考えなくてはいけない』と思わされることが多いはずだ。少なくとも私はそう考えているし、本書を読んだ方々は、たとえ自分の主張が以前と変わらなくても、より考えを広めたり深めたりするきっかけにはしていただけたのではないだろうか。」(p. 205)

相手の主張にも真摯に耳を傾ける著者の姿勢にホッとする。その著者の提唱する「みのりある教育」とは。


上野俊哉, 毛利嘉孝. (2002). 実践カルチュラル・スタディーズ. ちくま新書.

「一方で主体は構造に規定されており、その格子や網の目のノード(結節点)にすぎないが、他方でその構造の枠組みから逃れ出たり、逸脱したりするようにしてふるまうことがある。[中略] むしろ、主体はしばしば自らが主体的な意志において自覚しないままに、つまり無意識にそれと知らずに、しかし具体的かつパフォーマティヴ(行為遂行的)に構造の決定性を一時的にであれ『のりこえる』ことがある。言いかえれば、それとして意識せずに行使される『主体』性がありうる。あるいは構造のなかの主体は、つねにそのようにふるまうほかないと言える。」(pp. 102-103)

「カルチュラル・スタディーズは社会学や理論の言葉で個々のサブカルチャーやそのシーンを分析、記述するだけであってはならない。それは現場(シーン)で考えられていること(意図的内容)よりも、現場がはからずもやってしまっていること、語ってしまっていること(無意識的な意志の効果と内容)にも注意を向けていなくてはならない。その上で、現場(シーン)と研究者の間を往復するだけでなく、オーディエンス(受け手)からもアーティスト(送り手)からもずれている『間』をうきぼりにするような言葉をさがすべきである。」(p. 128)

「環境としての文化を斜交いに横切って生きる身ぶり」(p. 46)をとるのは楽しいかも・・・


佐藤学. (2002). 身体のダイアローグ(佐藤学対談集). 太郎次郎社.

佐藤 ところで、ぼくは子どものころ、いつも気に入った石ころをお守りのように持ち歩いたんですね。考えてみますとあれは、モノの世界に触れると同時に、精神的なかかわりであったと思うのです。[中略] 現在いちばん大きな問題は、モノがあふれているといいながら、あふれているのは商品だけで、実際にはモノが遠のいていることですよ。」(pp. 66-67)

佐藤 できあいのことばや安易な物語を拒絶して沈黙してみる。そのとき、『聞く』という行為が浮かび上がってきます。話すこと・見ることに対する『耳の優位性』というか。受動性に身をさらすということにどれだけ開かれるか。これはぼく自身のテーマでもありますが、よく考えてみると、学びという行為も最初は受動性なんですね。『聞く』『容れる』という応答的な行為ですから。[中略] 先日、デューイについて論文(『公共圏の政治学』、『思想』2000年1月号)を書く機会があったんですが、彼はコミュニケーションにおいて、書きことばよりも話しことばが優位だとまずいったうえで、話しことばのコミュニケーションのなかでも聞くという行為がいかに重要かということをいっています。『聴覚と、いきいきとほとばしる思考や情動との結びつきは、視覚とそれらとの結びつきよりも圧倒的に緊密であり多彩である』と。『見ること』は観照者(評論家)になることであり、『聞くこと』は『参加者』になることだといってまして、なるほどとうなったんです。現代という社会は、意見をつねに求めているけれど、その手前にある『聞く』という行為がつくりだす、もっと多彩な目に見えない絆、あるいは見えない確執を消してしまっている。」(pp. 90-91)

佐藤先生が書かれている「教育の語りにおける越境性」を実感できる対談集


キーン, E. (1989). 現象学的心理学(吉田章宏, 宮崎清孝訳). 東京大学出版会. (原書は1975年)

「要約すれば、行動のある断片を理解するためには、第一にその行動をその人間の直接の知覚的場というコンテクストの中で見なければならない。その場についての彼の経験が統合しているいくつかの地平を記述することで、その場を分析することができるだろう。第二に、その場をその人間の世界というコンテクスト、彼がその世界とその中での自分の位置をどう解釈しているか、というコンテクストの中で見なければならない。データが多くなればなるほど、彼についての私達の理解はより個人的で深いものになるのだ。つまり、私達は、彼をその独自性において知ることができるようになるのだ。第三に、この理解の過程は私達がすでに暗黙のうちに理解していることの明確化である。彼の行動が私達に語りかける。そして私達はその行動を彼の語りとして、つまり彼の世界=内=存在の表出として理解する。現象学的心理学の目標は、私達の理解のために、私達が、その行動の表出のできる限り多くの層を開示していくことである。」(pp. 49-50)

他の人の行動を、そしてそれを見る自分を深く理解する、ということを教えてくれる。


寺田寅彦. (1996). 柿の種. 岩波文庫.

「今朝行って見ると、[コスモスの]枝の尖端に蟻が二、三疋ずつついていて、何かしら私語をしている。
 よく見ると、なんだか、つぼみらしいものが少し見えるようである。
 コスモスの高さは蟻の身長の数百倍である。
 人間に対する数千尺に当たるわけである。
 どうして蟻がこの高い高い茎の頂上につぼみのできたことをかぎつけるかが不思議である。」

何気ない事象の中に宇宙の不思議を感じる寅彦の感性。


関 満博. (2002). 現場主義の知的生産法. ちくま新書.

「実は『現場』には、私たちがイメージできていない何か特別なものが横たわっていることが少なくないのである。それは事前の勉強では把握できないのである。/だからこそ、『現場』での対話が必要になる。やや経験の深い私の場合は、雑談から始めることにしている。五分、10分の雑談を重ね、周囲の環境に視線を走らせながら、私が探っていくのは『この方は、どのような話を持っているのか。日常的に誰かに話したがっていることは何か』という点である。経営者、その夫人、従業員の誰でもが『人に話したいこと』を胸に抱えているのである。五分、10分でそのことを確認すると、私は残りの二時間、話の焦点をそこに置くことにする。そして、『対話』しながら、徹底的に彼(彼女)の話したいことを引き出すのである。そこには、事前の資料による常識とは全く別の世界が広がってくる。そこから新たな『発見』が生じるのである。」(pp. 23-24)

「工場調査を実施する場合、訪問してエールを交換した後、細かな話を聞く前に、作業現場、倉庫等を詳細に見ることから始めることが好ましい。実際の『作業現場』には実に多くのことが詰め込まれているのである。経営者、ないし工場長に案内されながら、わからないことはどんどん聞いていくしかない。機械や素材、製品には特に興味を注ぎ、一つひとつ自分の知識を蓄積していくことがなによりである。知識と経験が深まるほどに見えてくるものが違ってくる。」(p. 89)

バイタリティと「現場」への熱い思いがあふれる知的生産の本。元気が出ます。


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