雑食風読書ノート(その4)



池内 了. (2002). 物理学と神. 集英社新書.

「無限に神が存在するのか、唯一神がどこにも存在するのか、いずれであれ、カオスという賭博に入れ込んだ神が絶えず出入りする場所は、ストレンジ・アトラクターというフラクタル世界であり、神はそこで無限の相似な神々へと分岐しているというイメージになる。フラクタル世界は神の遍在を示唆していると解釈できそうだが、それが西洋的な唯一神なのか、東洋的な八百万の神なのかは、あなたのお好み次第である。それを古典的に決定することも、量子論的に確率を計算することもできない。ただ運を天に任せるカオス賭博に神自身が身を委ねているのだから。」(p. 152)
「机の上では唯物論者である物理学者だが、自然の摂理を解き明かしていくうちに、その絶妙な仕組みに感嘆して秘かに神の存在を仮想することがある。かくも美しい法則は神の御技でしかあり得ないだろう、と。あるいは、自らの審美観と相容れない自然の姿に逢着すると、それを否定するために神を持ち出したりもする。厳密な論理を組み立てて得られた物理法則であれば、それを気に入らないと拒否するためには神に頼るしかないからだ。一神教の西洋に発した近代科学も、神と無縁であったわけではないのである。/そこで、物理学の歴史をたどりながら、それぞれの時代において物理学者が神の名を使って何を表現しようとしたかを提示してみようと考えた。また、近代科学四〇〇〇年の歴史において、決定論から確率論そしてカオスへと物理法則は大きく変容してきたが、そこで見いだされたさまざまな物理法則を神の所産と仮想すれば、それらから推測される神とはいかなる存在であるかを描けないか、とも考えた。物理学も人類の歴史の産物であるのだから、時代の子どもである物理学者が抱いた神のイメージも時代の諸相を反映していると思うからだ。物理学における神の相貌も歴史とともに変化してきたのである。」(pp. 249-250)

物理学と神を併置することで、実はどちらも私たちの世界の捉え方に関わるものだと気づかせてくれる。


木村 敏. (2000). 偶然性の精神病理. 岩波書店.(1994年出版の同名書の文庫化)

「同じように『現実』といっても、リアリティが現実を構成する事物の存在に関して、これを認識し確認する立場から言われるのに対して、アクチュアリティは現実に向かってはたらきかける行為のはたらきそのものに関して言われることになる。[中略] 離人症の場合、リアリティは−少なくとも知覚的には−保たれているのに、アクチュアリティはすっかり失われてしまう。そして患者は、『自身のアクチュアリティが失われているというリアリティ』を、大きな苦痛を伴って生々しく感じ取っている。[中略]患者はリアリティを『リアル』に知覚し表象する能力には人一倍すぐれていて、だからアクチュアルな世界との行為的関与によってのみ感じ取れるような、特別な意味での『現実感』が感じられなくなっていることを、リアルに痛々しく知覚しているのである。」(pp. 13-15)

「そういった場面[集団で一つの行動を行うような場面]で、個別的自我の存在意識や自他の区別の意識が集団全体の『一体感』の背後に退いて、全員の行動がだれのものでもない(匿名の)『統一する動き』によって抗いがたく支配を受けるということは、われわれのだれもが認めている経験的事実だろう。しかしこの『支配』が個々のメンバーの行動を全面的におおいつくし、各自の個別的な意志が完全に消え去ってしまう程度まで強力なものになることは、それほど多くない。ほとんどの場合には個別性と一体性がさまざまな比率で混じり合って競合している。[中略] わたしがだれかと関係をもつ場合、生きた人間と人間との関係である以上、どのような関係の中にも行為的な契機が含まれている。相手と視線をかわすというだけで、すでに申し分のない行為である。そのようなとき、わたしはつねに自己意識の認識的な現在と、相手との相互関係における行為的な現在との、つまり個人的主体性と間主観的主体性とのあいだの『ずれ』を生きている。それを明確に感じ取りはしなくても、非対象的に経験してはいる。」(pp. 166-168)

2003年2月22日に木村先生のご講演が本学でありました。<わたし>と<われわれ>の緊張関係としての垂直の<あいだ>というお話をもっと理解したいと感じました。


鷲田清一. (1999). 「聴く」ことの力:臨床哲学試論. TBSブリタニカ.

「臨床哲学が試みるべき作業をとりあえず描きだしてみるなら、問題としての『苦しみ』を解体するのではなく−いうまでもなく、精神科の治療においても問題はたんに緩和・解消するだけではないが−問題をともに抱え込み、分節し、理解し、考えるといういとなみをつうじてそれを内側から超えでてゆくこと、あるいは超えでてゆく力を呼び込むこととでも表現できるだろうか。[中略] 『〜というわけですね』というふうに、じぶんのことばを受けとめてもらえる経験、じぶんのことばを聴きとってもらえる経験が、受苦者にとってはとても大きな力になるということ、その<聴くことの力>を少なくとも信じて、臨床哲学の核に据えることができないかとおもうのである。」(p. 55)

「他者を迎え入れること、それは他者を『われわれ』のうちに併合することではない。すなわち、他者をサプロプリエする(s'approprier=同化する、専有する、横領する)ことではない。それはむしろ、自己を差し出すことであり、その意味で他者とのぬきさしならぬ関係、関係が意味を決めるのであって<わたし>が関係の意味を決めるのではないような他者との関係のなかに、傷つくこともいとわずにみずからを挿入してゆくことである。[中略]<臨床>とは、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかでじぶん自身もまた変えられるような経験の場面というふうに、いまやわたしたちは<臨床>の規定をさらにつけくわえることができる。」(pp. 136-139)

著者が述べる「同一性の<外>に出る用意」は「臨床」を口にする全ての人が持つべきことではないだろうか。


丸谷才一, 山崎正和. (2002). 日本語の21世紀のために. 文春新書.

山崎 その結果、二十世紀の言語は、ある意味では二極分化していったと思うんです。一方では先ほどのモダニズムの頽廃系というか、爛熟系というか、内面にどんどん沈潜して、要するにひとり言を言っているような文学が生まれます。自己確認はできるけれども、その自己は他人にはほとんど理解されない世界に行ってしまう。/他方では、内容空疎な言語が大量生産されて、やたらと広く共有される。この背景には映像文化、電波メディアといった、媒体の変化が密接に関わっています。」(p. 29)

山崎 [中略]でも、たとえば生物学や地学といった学問は、物事を記述しなきゃいけないんですね。文化系の学問もほとんどすべてそうです。考古学で遺物や遺跡を写真に撮っても、それだけでは何の意味もない。『ほらほら』と指でさしても、現象は存在することにならない。それがどういう形であるか、言葉による記述があって初めて事実は存在することになって、論争が始まるんですね。ですから、すべての学問の基礎になり、社会生活の基礎になるのは記述なんですね。
丸谷 そうです。そういう訓練を放棄したのが、明治以後の言語教育だったんですね。」(p. 71)

こうした対談から繰り出される日本語教育への提案も小気味いい。


竹内 淳. (2002). 高校数学でわかるマクスウェル方程式. 講談社ブルーバックス.

「筆者がケンブリッジ大学のある教授と議論したときのことだが、『オリジナルな発見は、オリジナルな実験装置によってこそ生まれる。それが、アーネスト・ラザフォード(1871〜1937年) 以来のケンブリッジの伝統である』と聞かされた。[中略] 物理の歴史を眺めてみると、オリジナルな装置によってオリジナルな結果が生まれるのは、ラザフォードより1世紀以上昔のこのクーロンの例でも見られる。さらに少しさかのぼると、フランクリンの凧や避雷針もまったくオリジナルな実験装置であると言える。逆に言うと、独創性のない装置を使って研究する限り、他の研究者と同様の実験結果しか得られず、新発見は難しいということになる。」(pp. 41-42)

「科学の発展にとって言論の自由のほかに、より重要な自由が存在する。その自由とは発想の自由である。/例えば第1部第3章で見た近接作用の考えかたで、『物質と空間の間に力が働く』という新しい概念を受け入れたが、ここには『普通の認識』からの大きな飛躍があった。このように、壁を乗り越えるためには自分自身の思考の中に大きな自由が必要である。/新しい学説は、従来の学説では齟齬をきたす部分に芽生える。その場合、従来正しいと考えられていたことの一部をひっくり返す必要が生じることが少なくない。思考の中に自由がなく旧説にがんじがらめに束縛されていると、その壁を乗り越えられないのである。」(p. 205)

理論のエッセンスを平易に説明してくれる手腕に脱帽。よくわかっている人にこそできることなのであろう。


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