雑食風読書ノート(その5)


四方義啓. (2003). 数学をなぜ学ぶのか. 中公新書.

岩木秀夫. (2004). ゆとり教育から個性浪費社会へ. ちくま新書.

「産業主義の時代のハードな人格(自我同一)システムのもとでは、労働やその他の義務にとって妨げになりそうな欲望は、理性(言葉)によって管理され意識下に抑圧されました。さきにあげたようなサービス産業が発達したのは、それらの欲望を意識のうえに呼びさますような、音響や映像、文字などの多様なシンボルを、商品として供給することによってです。抑圧された欲望は理性との対比で身体とも呼ばれますので、ポスト産業社会のフロンティアは身体であるということもできます。身体的欲望がつぎつぎに商品化され、消費されることが、経済発展のフロンティアになってきたということです。/しかし、理性の管理・抑圧からはなれた身体的な欲望が充足されるといっても、それは人びとの自由奔放で、創造的な活動を意味しません。事態はむしろまったく逆です。」(p. 189)

・・・ゆとりや学力向上をもっと広い文脈の中で位置づけて見せてくれ、その上で今後の教育の方向性について提案がなされている。


四方義啓. (2003). 数学をなぜ学ぶのか. 中公新書.

「実は、現代人がそれとなく感じている『なんとなく透明な疎外感』のもとは、いろいろな機械を使いこなさなければ現代生活が成り立たないにもかかわらず、そのなかで何が行われているのかがまったくみえない。したがって自分自身の未来を見つけることが出来ない、という焦燥感のなせる業であるような気がしてならない。/そんな焦燥感は、トンカチや切り出し小刀を振りまわしていた時代、あるいは、ある機械や定理をトンカチのように完全に使いこなせる人間にあっただろうか?ここにこそ、『数学をなぜ学ぶのか』『学問とは何か』という問いに対する答えが潜んでいるように思うのである。」(p. 75)

「最近の教室崩壊、教育崩壊などのある部分は、どうやら『計算や論理ばかり、記憶だけの学問のなかに、未来を見つけられない、空しい』から始まっているようである。しかし、ユークリッドの幾何学一つをとってみても、その公理と道具の選択に当たってユークリッド先生は、どこにターゲットを絞り、何を目標にすべきかを考え抜いて、知らず知らずのうちに、自分自身のなかに、そして幾何学のなかに、人間の未来を取り込んでいたのである。だから『未来は公理とその選択のなかにある』ということも出来よう。これを思うとき、幾何学ひいては学問に対するこのような感覚は、わが国には輸入されなかった、根づかなかったのではないかと心配になることもある。」(p. 112)

・・・解と係数の関係は「鬼ごっこ」、コーシーの解析学の整備は「かぐや姫と一休さんを口説きおとすこと」として説明される。数学のイメージが変わる?


菅野 仁. (2003). ジンメル・つながりの哲学. 日本放送出版協会.

「ジンメルの<相互作用論的社会観>は、人間と社会を全く対立した非親和的なものとしてとらえるのではなく、人びとの日々の関係の営みが社会を作り上げ、そしてそうした社会の全体的性格から人びとが影響を受けながら行為を繰り広げる姿を浮き彫りにしようとする社会観なのである。こうした社会のイメージに立ってはじめて社会の流動性や変容のあり方が捉えられることになる。[中略]つまり人びとが意識的あるいは無意識的に制度を受け入れ、社会的ルールにしたがった行為を積み重ねることによって制度やルールが維持されるのであり、また人びとのそうした行為の積み重ねの性格が変わっていけば、制度やルールのあり方もそれに呼応して少しずつ変わらざるをえないのだ。」(pp. 61-62)

「『自分探し』には多くの場合は、『ほんとうの私』をほんとうにわかってくれる他者を求めることが同時に生じることが多いからだ。したがって、『ほんとうに自分』探しと『ほんとうの自分』をわかってくれる他者探しとは表裏一体なのである。しかし、いったい『ほんとうの私』とはどのように理解したらよいのだろうか?また自分のことをほんとうにわかってくれる他者との関係とはどのようなものなのだろうか?」(p. 90)

・・・ジンメルの思想を手がかりに<私から社会>へとつながる道を探していく。


榊原洋一. (2002). アスペルガー症候群と学習障害. 講談社.

「これまでの子どもの発達検診は、子どものからだの発達と、周りの世界を理解する能力(認知)、そして言葉の発達にほぼ限定して調べてきた。しかし、これまで述べてきたように、子どもがこの社会に適応して生きていくためには、身体や言葉、あるいは物事を分析的に理解する認知能力に含まれないさまざまな能力をうまく発達させていく必要がある。[中略] 少子化でわが子の発達を鵜の目鷹の目で見つめてきた親も、検診の結果や知能テスト、あるいは学校での学力テストの結果に問題がないことで、その裏でその子どものソーシャルスキルが十分に発達せず、その結果社会的知能に問題が生じていることに気づかなかったのではないだろうか。」(p. 72)

「[算数障害の子どもは]数字を読むことには問題はない。しかし、まず数の概念をつかむことが苦手だ。鉛筆三本と、馬三頭が、同じ『三』という数字で示されることがまずわからない。三と五でどちらが大きいか、といわれても、数字の大きい小さいがわからない。またある子どもは、数を数えることができない。『一、二、三、四、五』と数字の読みを暗記することはできても、目の前にある鉛筆を、一本、二本、三本と数えることができない。[中略] 前述のように、ヨーロッパ語圏に多い、失読症の子どもや大人は、特別な配慮が必要な障害者として社会的に認められている。車椅子が必要な身体障害のある人に対して、スロープや段差のない社会の構造を目指すのと同様に、読字障害のある子どもや大人には、文字を音読するサービスが行われているのだ。/同様のことが、算数障害の子どもや大人に対して行われるのは当然ではないだろうか。だがそのためには、そうした障害が存在することを、本人と周りの人々がきちんと認識することが大前提となるのである。」(pp. 179-180)

・・・ソーシャルスキルと知能の関わりや算数障害などの特定の困難さについての議論を通し、人の頭脳の複雑さが改めて感じられた。


蜂屋邦夫. (2002). 荘子=超俗の境へ. 講談社.

「そもそも、例えば『孝』という言葉の中にすでに世の中が入り込んでいる。自分は孝を行っているのだという意識が少しでもあれば、それはつまり世の中の人々を意識していることに他ならない。次に、かりに自分の側にその意識がなくなったとしても、世の中の人々は、親疎濃淡の違いはあっても、やはりまだこちらを意識しているわけで、その意識をなくすことは至難のわざであろう。それができて、つまり、天下の人々にこちらを意識させないようにして、はじめて至仁なのだと、荘子は言っているのである。[中略]荘子の考えでは、至仁とはその天地自然の活動に同化することに他ならない。」(p. 49)

「たとえば儒家と墨家を彼と是とすると、儒家の立場だけから言えば儒家が是で墨家が非であるが、儒家も墨家も超えた天に照らす立場から見れば、儒家の中に是もあり非もある、というようなことであろう。『一是非』とは言うけれども、視点は是非を超えているのである。/こう見てくると、要するに是と彼という対立は本来は存在しないのだ、ということが議論の焦点になっている。[中略] 道は、彼と是とか、是と非とか、あらゆる差別をそのうちに包み込んでいながら、なにも差別しない。」(pp. 122-123)

・・・この本で荘子の世界に触れている間だけは、普段の細かいことを忘れることができる。


大村はま/苅谷剛彦・夏子. (2003). 教えることの復権. ちくま新書.

大村 ふだんの授業でも、活動の中で話し合う必要はいくらでもあったけれども、それとは別に、話し合いそのものを教えるための時間を作っていましたね。今の時代に、国語の先生で、話し合いをやらせない先生なんていません。なんでも話しあってごらんということになっているでしょう。でも、いけないのは、話し合いを教えていないということ。[中略] 話し合いというものをちゃんと理解して、あるべき形を心がけて勉強している子どもはいないわけです。活発に発言できるとか、そういうのはありますね。でも話し合いそのものを教えるということがないと思います。」(p. 75)

苅谷 『教えすぎる』ことと『教えるべきことをちゃんと教えること』との境目が曖昧になってしまった。その上に、『子どもが自ら自由に学ぶ』ことが『大人のてびきがあって初めてできること』よりも価値の高いものとされるようになった。[中略]
 大村 それをちょうどいいところで区別できるのが教師じゃないですか。本職なんですから。でも、詰め込み、教え込みが悪いと言われたとき、ちょうどいい程度を探ろうとしないで、教えないほうへ行ってしまったんでしょうかね。/たとえば、自由題の作文を書かせるといったときに、そこにいる全部の子どものために、それぞれ、これをやったらどうかという腹案を持ってない教師がいたとしたら、怠慢だと思いますよ。腹案を持っている人が、相手をしっかり見ながらヒントを出していくと、詰め込むといった行きすぎは起こらない。教師が空っぽだったら、そんなの教師ではない。」(p. 145)

・・・大村氏の姿勢に、自分に厳しいからこそ教えられるのだ、と感じた。


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