雑食風読書ノート(その6)


アチソン, D. (2004). 数学はインドのロープ魔術を解く(伊藤文英訳). 早川書房.(原書は2002年)

「本書の冒頭で、わたしは勇敢にも(あるいは愚かにも)、数学をたったの3箇条に要約した。/数学とは/1 見事な"定理"/2 華麗な"証明"/3 多彩な"応用"/この要約が的を射ていると感じてもらえたなら、うれしいかぎりである。さらに、定理であれ、証明の方法であれ、何か気に入ったものがみつかったなら、もっとうれしく思う。」(p. 192)

・・・見事、華麗、多彩といった側面を、私たちが生徒に伝えているのかと考えると、反省させられる。ともかく楽しい一冊。


城 繁幸. (2004). 内側から見た富士通:「成果主義」の崩壊. 光文社.

「『成果主義』が結局は従来の管理職に利益をもたらし、若い世代にだけ不利益をもたらすとしたら、企業の社会的責任は大きい。それは、多くの若者から『未来』を奪うからだ。その結果、日本社会はどんどん老化する。成長力が失われ、『勝ち組』企業と外資系企業だけが幅を利かせ、ひいては日本の文化も伝統も破壊されてしまうだろう。」(pp. 204-205)

・・・大企業に成果主義が導入されたときに生じることが、大変具体的にレポートされている。ところで新球団設立の問題や自民党の新世代総理を創る会などの動きにも、城氏と似た感覚が感じられないだろうか。


斎藤貴男. (2004). 教育改革と新自由主義. 子どもの未来社.

「『できない子をありのまま』受け止めることと、その子ができるようになるような努力を放棄することはちがいます。公教育のなかで大切なことは、可能なかぎり同じスタートラインに立たせることです。言い換えれば、必要とされる知識や技能をどの子にもしっかりつけること、つける努力を社会全体がすることなのだと思います。」(p. 131)

「公教育とは、なにをおいてもまず第一に教育の機会均等を保証するものであり、どの地域のどの学校に行ってもしっかり基礎学力は身につき、内面の自由は保障されるという、教育の理念が貫かれているかどうかが問われるものではないでしょうか。親の願いの基本もそこに置かれています。そこをないがしろにして、このまま企業の論理を教育に注入しつづけていけば、公立の学校は、選択の自由の名のもとにどんどんやせ細り、いずれ公教育は崩壊していくでしょう。」(pp. 147-148)

「[企業と教師では] どちらがの方が大変とか楽とかいうことはないのです。企業の論理に従い、成果を数字として上げねばならない民間企業のサラリーマンの大変さと、日々の成長がかならずしも目に見えないところで子どもの数年後まで見通して教育をしていく教師の大変さと、それは別のものであって、比べられることでもないでしょう。」(pp. 153-154)

・・・新しい教育の動きを考える際に、その背景にある別の動きにも注意を払う必要性を教えてくれる。


柄谷行人. (2000). 倫理21. 平凡社.

「道徳性は善悪よりもむしろ『自由』の問題です。自由なくして、善悪はない。自由とは、自己原因的であること、自律的であること、主体的であることと同義です。」(p. 74)

「責任は、われわれが自由である、すなわち自己が原因があると想定した時にのみ存在します。現実にはそんなことはありえない。私が何らかの意図をもって行動しても、現実にはまるで違った結果に終わる場合がある。しかし、その時でも、あたかも自分が原因があるかのように考える時に、責任が生じるのです。」(pp. 78-79)

・・・責任を引き受けるところに道徳性が生じるとすると、責任回避をしている限り道徳とは無縁のはずなのだが・・・


阿保順子. (2004). 痴呆老人が創造する世界. 岩波書店.

「お互いがお互いの立場を相対化していくことによって、それぞれの暮らしは保証される。南川さんが描いている輪郭の世界をそのままに認めることができれば、彼女は家庭でも暮らせる。その世界を知ることによって、対応はかなり違ったものになっていく。内容の矛盾点や詳細に触れることなく、痴呆老人自身の意味づけをそれとして認めること、彼女たちの行動の意味も、彼女たちの視点からとらえていくことが肝要である。そうするためには、できるだけ、老人たちにぴったりと寄り添うことが大切である。干渉的にならず、彼女たちが何をどう解釈しているのか、いっしょに行動しながら、時折『これは何?』とか『どこへ行くの?』とか、ほんの二言三言たずねてみるとうまくいく。時間的な制約を抱えて介護している方々にはむずかしいことかもしれない。だが、一日だけでもいいので、時間をとってつきあってみると、案外それ以降の介護がスムーズになる可能性があるし、それ以上に、『人間』の奥深さに触れることができるかもしれない。対応がむずかしいと言われる痴呆老人が紡ぎ出している生活は、逆に私たちの日々の生活の煩わしさを、『それが生活というものよ』とか『そんなチマチマしたこと、何の意味があるの?』と問い直しているかのようである。」(pp. 30-31)

・・・各自が自ら創造する世界に触れることの大切さを示してくれているが、同時に、そこに描かれる純な人と人とのつながりも魅力的。


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