雑食風読書ノート(その7)



矢島文夫. (1999). 解読 古代文字. ちくま学芸文庫.(1980年刊の単行本の文庫化)

「彼女[オリエント学者・シュマンベセラ]は、こうした品々[球形、円盤形、円錐形、四面体などの形をした粘土細工]を比較し検討するうちに、これらは、古代の人たちが取引上の計算のときに、現物のかわりに使った代用品にちがいないと考え、これを『証票(token)』と名付けた。[中略]結論からいうと、シュマンベセラ嬢は、この証票こそもっとも初期の文字、つまりのちの楔形文字の原型だ、というのである。最古の時代には、取引の計算のために現物をかたどった粘土の細工品が作られ、これと引き換えに現物が渡されたり精算がおこなわれた。これらは、ときにはまとめてブルラ[粘土で作った容器]に入れられ、遠方の地に運ばれた。ブルラの外側には、粘土がまだ柔らかいうちに証票が押しつけられ、これらがなかに入っていることが表示された・・・。/しばらくのちに、証票の形が簡略化されるとともに、これをブルラの外側に押しつけるかわりにへらのようなものでここにその形を描くことが考えだされた。」(pp. 230-231)

・・・似た話はキース・デブリンの「数学:パターンの科学」でも紹介されていた。外側の「印」が内側の粘土細工と一緒に使われる期間が結構あったというのは興味深いことではないだろうか。


吉田新一郎. (2004). いい学校の選び方:子どものニーズにどう応えるか. 中公新書.

「以下のような状況について、あなたはどう思われるだろうか。/学校で、さまざまな環境問題について教わりながら、学校でも家庭でもリサイクルや残飯の堆肥化をしていない。/算数・数学を教わりながら、日常の中で使われているたくさんの算数・数学について気づいたり、また使いこなすような機会がいっさい与えられていない。/英語を教わりながら、生活の中でまったくそれを使う機会がない。/さまざまな道徳的な価値について教わりながら、それらのことは日常のやり取りの中ではまったく生かされることがない。」(pp. 135-136)

「ビジョンはないのに、みんな忙しい。“気の毒なほど”忙しい。よけいなお世話かもしれないが、なぜ忙しいのかを考えてみた。私は何度考えても『ビジョンがないから』という結論に達してしまった。それほどビジョンは大切なものなのである。/ビジョンがないと、どうなるか。/・あいまいな目標しか立てられない。なぜならば、目標はビジョンを達成するために段階的に立てるものだから。/・優先順位がはっきりしない。/・本来やらなくていい仕事まで含めて、たくさんの仕事を抱え込まなければならなくなる。/・忙しいので、一見仕事をしているつもりにはなれる。/・新しいことをすることが難しい。/・考える時間、創造する時間、話し合う時間がない。/・本音で話せる仲間がいない。/・合意を得るのが難しい。/・課題の解決に取り組む際は、短期的には問題解決になるように見えても、実はならないか、長期的には新たな問題を作り出している可能性すらある。/まさに悪循環である。」(pp. 241-242)

・・・学ぶこと、教えることを考え直す契機にもなる本。この本を忠実に実践する保護者は学校にとって手強い相手になるだろうが、もしそうした保護者が学校を一緒に育てる側に回ってくれたら力強い味方にもなるのではないか。


横江公美. (2004). 判断力はどうすれば身につくのか:アメリカの有権者教育レポート. PHP新書.

「もはや第一次世界大戦のときに見られた、一方的に愛国心を植えつける有権者教育であってはならない、という合意が戦後五十年に出来上がっている。武力行使には、賛成する人もあれば反対する人もいる。それぞれの意見を認めた上で、『一致団結』の方向に進むには、違いを認め理性的かつ感情的に納得根拠と正当性が必要となる。/九・一一テロ以降、有権者教育には、一つの視点が強調されるようになった。違いを理解する視点である。[中略]いま、学校でイラク戦争を取り上げることは、教師にとって避けられない“挑戦”となったが、混乱するセンチの情報は、客観的なニュースであるとは言い切れない。愛国心に走りすぎた議論になっても、民主主義の決定を無視する議論になっても困る。バランスがとれた内容で冷静にイラク戦争を取り上げることが教師の命題なのである。」(pp. 29-31)

「アメリカの選挙を中心に政治を追いかけていると、『日本の民主主義になくてアメリカの民主主義にあるもの』に興味が引かれた。アメリカはアメリカなりに政治の問題を抱えているが、日本の政治の何ともいえない閉塞感には、アメリカのエッセンスが役に立つと思われた。私には日本の選挙が体に染み込んでいるため、呼吸する政治風土の違いを、自然と比較する癖(特権)がある。/いきついた答えは、民主主義の成熟である。思想としての民主主義ではない。現実に民主主義を作用させる方法でありスキルである。[中略]これからの国際舞台での日本の地位を考えれば、アメリカに対してだけではなく、一つの国家としての情報力、情報に基づいた判断力、そして判断を現実にする交渉力と行動力を向上させなければならない。」(pp. 220-222)

・・・テレビの討論などを見ながら、日本人は根拠を示しながら主張したり反論することが苦手なのか、と思っていたので、そうした議論を可能とするアメリカの有権者教育には興味を持った。


高橋哲哉. (2004). 教育と国家. 講談社.

「しかし、国が最終的な公共の場とはいえません。より外側のものとして、たとえば国際関係が考えられますし、もっと思想的に、あるいは哲学的に言えば、見えない他者とか、過去の人々や未来の人々まで含めて、そういった人々の普遍的利害を考えるのが真の公共性であるともいえます。現在の人々だけで公共性を考えている立場に対しては、常に過去の、死者の記憶があるとか、あるいは未来のこれから生まれてくる世代の問題があるという議論が可能なわけです。私自身は、閉じられた共同性を超えていく運動なしに、公共性を考えることはできないと思います。[中略] 社会科の時間は、そういう政治的教養を身につけ、公共性に対する関心を十分喚起するべき場でしょう。その意味で、政治的教養を教えるということをもっと積極的に考えるべきではないでしょうか。」(pp. 75-77)

「学校だけが教育の場ではない。しかし、今日の日本で今なお次の世代の教育の中心的役割を担っている学校は、その本来の役割にふさわしい場所であってほしい。学校は、子どもたちが、そして若者が、教員の助けを得て、自分の頭でものを考え、自分の全身で世界を感じ、他者と交流する仕方を学んでいく、そのような場であってほしい。そのために必要なのは、何といってもまず第一に、スコレー、つまり精神的な余裕、ゆとりであり、それを保証する物理的な余裕、ゆとり、とりわけ時間であろう。」(pp. 209-210)

・・・現在の動きが実は昔からの"地金"の現れであることがわかる。もちろん古いから悪いわけではない。ただ、改革の手法を論ずる前に公教育の役割についての共通理解が必要なのではないか。読みながらそんなことを考えた。


畑村洋太郎. (2004). 直観でわかる数学. 岩波書店.

「なんの断りもなしにスルスルと論旨を変えていくような説明は、じつにケシカランと私は思う。わかっている者の論理で『わかれ!』と言われても迷惑なだけである。教科書の筆者は、自分がいかに数学に毒されているかをまず自覚すべきである。こんな説明は教科書の筆者の自己満足にすぎない。わかっている人間の傲慢さを示す何よりの証拠である。そんな説明はぜんぶ無視すべきであると私は考える。」(p. 113)

「数学者という人たちは抽象的世界で遊びふけっているようにしか見えないが、こういう人たちは日常世界と没交渉でもいいし、いくらでも抽象世界にいられるのだろう。それこそが仕事だともいえる。/しかし、私たち凡人はそうはいかない。日常世界との結びつきが切れたら、そこにいる意味がなくなってしまうのである。だから、『なんで数学なんかやるの?』と言う人たちは、ある意味、感覚の鋭い人たちである。そういう日常世界との没交渉に居心地の悪さを感じているのである。/私がこの本を書いているのは、そういう没交渉状態をなんとか解消して、数学という本当は豊かな世界をみんなとともに味わいたい、その偉大な成果を私たち凡人でも使えるようにしたいからである。」(p. 137)

・・・通常の数学の教科書の代わりになるかはわからないが、少なくともそうした教科書に書かれていない発想の部分が書かれている。「数学に毒されている人」の毒消しにもなるかもしれない。


無藤隆, やまだようこ, 南博文, 麻生武, サトウタツヤ. (編). 質的心理学:創造的に活用するコツ. 新曜社.

「たしかに質的研究では、具体的な事例が重要であり、事例が少ないからという理由だけで研究の良し悪しが決まるわけではない。やむをえず量を犠牲にして少数事例とていねいにつきあう方向へ行くのは、『多様性』と『深さ』を求めるゆえである。それは、人が生きる文脈や存在のしかたの多元性、多声性、そしてそこからなお導き出せる深い統合の感覚に鋭敏になることである。私たちが実際に生きる世界が、多様な差異と複雑な文脈に埋め込まれた世界なら、単純な一般化を犠牲にしてでも、腰を据えて具体的な事例にていねいに取り組む他はない。」(p. 10)


白取春彦. (2004). 仏教「超」入門. すばる舎.

「若いときはおろかなことをしても、周囲の人がいろいろと注意をしてくれる。年齢を重ねるほど誰も注意してくれなくなる。/だから本人は気づかぬまま、えんえんとおろかな言動を繰り返す。そして、うとんじられていくというわけだ。/最近の若者は年上の者を尊敬する気持ちがないという意見があるようんだ。しかし、若い人たちからすれば、さまざまな状況における年長者の言動をよく観察していて、彼らは尊敬するに値しないと見限っているのかもしれない。」(pp. 100-101)

「そうであっても、物事がどう見えるかはやはり自分の心のあり方が強く作用する。『法句経』の最初にこういう言葉がある。/物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。/これは物事の本質が空であることを基本的に意味している。/同時に、各人の心のあり方が、その各人に見える物事となっているということをも示唆している。/つまり、煩悩に悩まされている人は物事が悪いと嘆いているわけだが、その悪い物事とはまさしく自分の心の現れなのだということだ。」(p. 103)

・・・「面白きこともなき世を面白く過ごすは人の心なりけり」という感じなのでしょうか。そうなれば楽だとはわかってはいても・・・でもこの本を読むとちょっとだけ楽になるかも。


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