メイン講義教職講座 音楽小学校で音楽が担当できるためには

『教育実践の原理と展開−若い教師のための入門−』川島書店
野村新、下山田裕彦編 1989.4

V章 実践のための音楽教育とは 

小 川 昌 文(pp.115-136)


はじめに

1 学校音楽教育の理念
 1.1 音楽の本質とは何か
 1.2 音楽はなぜ教育に必要か
 1.3 学校の音楽教育の目的は何か
 1.4 学校の音楽教育の内容は何か
 1.5 音楽の授業とは何か

2 音楽指導の原理と方法
 2.1 何を目指すのか
 2.2 どのような音楽を教えるのか
 2.3 どう行うのか
  2.3.1 指導意欲の源泉
  2.3.2 指導における根本原則
  2.3.3 指導の方法
  2.3.4 何をしなければならないのか

結び




V章 実践のための音楽教育とは

−音楽の本質に根ざした指導のあり方−

  はじめに
  未来に向かってたくましく強く生きている子どもたち。彼らの成長の日々の糧として、音楽は最も相応しい教科の一つである。太古の昔から人類が築きあげてきた文化である音楽には栄養がいっぱい詰まっている。民謡の素朴な旋律に心を惹かれ、合唱の美しいハーモニーに酔い、オペラの迫力に圧倒され、シンフォニーの見事な構成と調和に感動する。音楽によって彼らの人問性は深められ、叡智と直感力が備わるようになる。学校の教科として音楽があるのはまことに当然のことであり、これからますます充実を図らなければならない。
 だが、今、日本全国のどれだけの小学生、中学生、そして高校生が本当に音楽の授業を、かけがえのないものとしているだろうか。残念ながらそのような児童・生徒はきわめて少ないと言わざるを得ない。その証拠に、あたりをすこし見回すだけでも無残な音楽授業の実態が目に飛び込んでくる。教師が生徒に歌うことを声を張り上げて要求してもまったく歌わない生徒たち。内職や私語を止めず、教師の言葉の揚げ足を取ったり、挙げ旬の果ては教室を徘徊し、授業に参加しようとしない生徒たち。合唱コンクール、運動会等の行事のために追い立てられて音楽をさせられている生徒たち。発表会のステージで級友たちが皆演奏をするなか、下手で全体の響きを壊すという理由で、本人の意に反して笛を吹く真似をさせられ、歌う真似をさせられ、指を動かすだけ、口をパクパク動かすだけの生徒たち。歌のテストで間違えたために、同級生のみならず教師にも嘲笑され、以後まったく声を出さなくなった生徒たち。研究授業で、我を忘れるほど喉を鳴らして夢中で歌うことなく、きわめて冷静に「曲の感じ」を分析する生徒たち。いったい彼らの心のどこに歌があるのだろう。どこに音楽があるのだろう。そして音楽は彼らに何を与えているのだろう。
 教育は、いうまでもなく、教科の種類や指導方法の如何を問わず、教師の能力と意欲に最も大きな部分を委ねている。教師の仕事とは、未来を強く目指して生きる児童・生徒と共に生き、教える教科の内容だけでなく、教師の生き方そのものによって、児童・生徒にさまざまのことを学ばせることであろう。そして音楽の授業の成否は一にも二にも指導する教師の能力と指導のあり方にある。教師が日々の授業の中で、その能力を十分に発揮し、音楽の魅力、音楽の素晴らしさを彼らに存分に伝え、音楽する暮び、音楽する楽しさを十分に味わわせているならば、このようなことが起こることは決してないだろう。しかし音楽教育の現状を見るかぎりでは教師が必ずしも十分で適切な指導を行なっているとはいい難いようである。
 教師は無限の可能性を秘めた児童・生徒たちの芽を伸ばし、育み、音楽によって生きることの尊さ、素晴らしさを身をもって教えられるべくつねに研鑽をし、十分な能力を養わねばならない。しかし、教師が受けてきた大学の教科教育等の教育内容、現場で用いられる指導解説書の類いをもっていくら情熱を傾けても、授業を、そして児童・生徒を変えていくことができないというのがもう一つの現実ではないだろうか。
 一般に教員養成大学などでは音楽や音楽教育に関する理論的な内容が主として講義されてきたといえるだろう。曰く「音楽教育の歴史について」「音楽教育の目的とは何か」「音楽教育の動向について」云々。しかしこれらの内容を学んでも、実際目の前の子どもをどのように教育すれば良いのか、どのように授業を構成し、臨機応変に対処しながらどう指導していくのかといったような実践力は決して養われることはなかった。講義においては実際の授業に即適応できる内容にはほとんど触れられてこなかったといえるだろう。かくして学生は音楽実技、そして音楽指導の技術、方法についていずれも能力不十分のまま教育実習を行ない、教職に就いても自信を持てないでいるのである。
 一方、教師のための指導解説書等においては、指導する曲について至れり尽せり事細かく指導内容が述べられている。しかしそれらはあくまでそれぞれの曲に関してのみの指導事項であり、他の教材の指導に関してはほとんど応用することができない。また、「〜に気づかせながら歌わせる」とか「情景を思い浮かばせる」といった指導の手引きはあっても、それぞれの指導行為の根拠、指導の際の教師の心構え、子どもが心から歌えるようにする方法といった指導の本質的なことにはなんら触れられずに済まされてしまっている。無味乾燥とも言えるこのような指導書を読んで指導をしても、児童の心を捉えて音楽に夢中にさせるような指導になるとは思えないのである。
 このようにいずれの内容も、抽象的であったり、あまりに具体的であったりして、経験の浅い教師が実践の場で成果を挙げるには非常に困難があるといえる。これまでこの欠点を補う方法はただヴェテラン教師のコツを盗むか、自身が長い年月をかけて実践の中から会得する以外なかったのである。さて、この小論は、教える学年や教える音楽のジャンルを問わず、これから音楽の指導に携わろうとする教師が実践の場で実感を持って教えることのできる音楽指導のあり方を考察しようとするものである。
 ここで述べる「音楽教師」とは、専門の音楽的訓練を受けた音楽専科教師だけを指すのではない。専門教育を受けているかいないかを問わず、音楽科を担当する全ての教師を音楽教師と呼ぶことにする。そして音楽の専科教師はもとより、小学校で音楽を担当しているクラス担任教師、および教員養成課程の学生を主たる読者対象として論を進めていこうと思う。まず前半部分では、音楽を教育するとはどういうことなのか、学校で音楽を教えることの意義について考察を行ない、後半部分では音楽の指導理念・指導方法について考えていくことにしたい。

↑このページのトップ

 1 学校音楽教育の理念

 1.1 音楽の本質とは何か
 一般に音楽は「音を楽しむ」と書くことから人間の楽しみのためにあると理解されている。そこには「音楽=楽しいもの」という無言の了解がある。だがそれは真に音楽を正しく捉えた見解といえるだろうか。音楽は人間にとって楽しいだけの存在だろうか。確かに楽しい感じを持つ音楽もある。しかし、例えばJ・S・バッハの「マタイ受難曲」やバルトークの「弦楽四重奏第二番」などを聴くときには楽しい感じはしない。むしろ、響きの美しさや作品の偉大さなど何か「楽しさ」以上のものを感じ、深く感動する。果たして音楽とは何か、そして音楽は人間にとってどのような存在なのか、その本質について考えてみることにしよう。
 まず第一に音楽は、音による魂の表現、人から人への心のメッセージである。私たちは音楽を聴くとき、思わず込み上げてくるような気持ち、激しい感動を覚えることがある。また音楽によって心が慰められたり、落ち着いたり、うきうきしたりする。言葉を介することなく、直接私たちの心にヴィヴィッドに訴える。音楽は音と沈黙によって構成された心のメツセージといえるだろう。言葉では言い表わせないもの、言葉にすると何か物足りないものを音に託して聴き手に伝えようとするもの、それが音楽ではないだろうか。そして音楽は聴く人びとの間に共感、共鳴を呼び起こし、聴くものの心を全て一つに繋ぐ。
 第二に音楽は人間の生活から分化して生まれたものであり、音楽の原点はつねに人間の生活そのものの中にある。音楽がいつどのようにして生まれたのかは定かではない。しかし、獲物を取るときの合図の音や、意思を伝達するための音など、人間が生活の手段として使っていた「音」から音楽が生まれてきたのであることは想像に難くないであろう。労働歌を聴けばその労働がどのようなものなのかが大体想像できるし、反戦歌や領主の圧政を嘆いた民謡を聴けば、住民の苦しみ、悲しみが否応なしに伝わってくる。宗教音楽を聴けば、人びとの救済への思い、敬虔な気持ちがひしひしと感じ取れるし、わらべ歌を聴くと子どもの世界が見えてくる。音楽の中に人間の生きざま、生き方が凝縮され、それ自体が生命をもって私たちに迫ってくるのである。私たちは音楽を通して人間の「生」を見ることができるのである。
 第三に、音楽は芸術であり、美の追求をとおして、人間の本質を鋭く捉えようとする。人間はその能力を最大限に用いて豊かな音楽の世界を築き、芸術にまで発展させた。そして人間は音を通して自らを深く追求することを止めない。芸術は人間をありのままに写しだし裸にする。そして複雑きわまりない人間の正体を暴こうとする。音楽はつねに「人間とは何か」と強く問いかける芸術である。音楽は人間の楽しみのためだけに存在するのではない。音楽は人間の生活の一部ではなく、人間の全てであり、人間そのものである。音楽によって人間は自分自身を見つめ、自分が生きていることを確かめることができ、人間を高めることができる。音楽は人間を動かす大きな力を持っている。

↑このページのトップ

 1.2 音楽はなぜ教育に必要か
 およそ人間の行動は無目的に行なわれるのではない。そこには必ず何らかの意図があり、それを達成しようとして人間は行動を起こすのである。人間の教育活動においてもまったく同じである。教育というものは、その存在意義と目的をはっきりと認識することなく行えるものではないし、行ってはならない。全ての音楽教師は、なぜ音楽が教育に必要なのかその存在理由について深く理解していなければならない。さもなければ音楽科の存在価値も、教師自身の存在価値もないのである。
 音楽が教育に必要な理由は明快である。それは音楽が、人間の健全でたくましい成長に不可欠であり、かつ、他の教科にはない特質をもっているからである。ではその特質とは何か。それは、「音楽の本質」で述べた通りであるが、いま一度これらの特質を敷衍して述べてみることにしよう。
 まず、音楽は人間を含めた全ての生物を取り巻く自然である音を素材としている。人間は生まれる前から母の体内で胎内音を聴き、また生まれてから死ぬまでさまざまな音を聞き続ける。人間はつねに音の中に生きている。人間の基本的感覚である聴覚を用いて繰り広げる人類の文化−音楽−について学ぶことは、人問自身について学ぶことであり、人間にとって必要不可欠のことではないだろうか。
 そして音楽は何よりも音によって人間を高めることができる。音楽は音によって構成された小宇宙である。全ての人に新しい、劇的体験をもたらす。瞬間を精一杯生きる児童・生徒にとって、瞬間の美を追究する音楽は何よりもふさわしいジャンルといえないだろうか。その未来に開けた無限のエネルギーは音楽によって何倍にも膨らませることができるのである。
 長期間の厳しい練習を重ねて臨んだ演奏会。生徒らはわずか数分の演奏時間ながらステージで力の限りを尽くして燃焼する。そして終わったときの充実感と安堵感。割れるような拍手。それまでの苦労は吹き飛んで、爽やかさと幸福感に満たされる。これまでの自分とは違う自分を発見する。場面は変わってべートーヴェンの交響曲第五番の鑑賞。終楽章のコーダ付近。体を突き抜ける感動。もはや心は自分自身のものではなく・べートーヴェンが乗り移って崇高な精神へと導かれる。聴き終わったとき、やはり訪れる満足感。心が洗われた感じになる。音楽によって人間が高まるということは言葉を変えると、音楽によってより成長した新たな自分に生まれ変わることができるということなのである。
 音楽が教育に必要なのは、簡単に、あえて誤解を恐れずにいえば、それが素晴らしいものだからである。人問は素晴らしいものに触れたとき、必ず他人にその素晴らしさを伝えようとするだろう。それは人間がそうするのではなく、素晴らしいものそれ自体が人間にそうさせるのである。素晴らしいものは自ずから人に伝えようとするエネルギーに満ち、教育しようとする「意志」を持っているのである。

↑このページのトップ

 1.3 学校の音楽教育の目的は何か
 小学校、中学校、そして高等学校は、心身共に人生で最も成長の著しい時期に、将来の社会生活に不可欠の知識と教養と感性を身に付け、人格を形成し、自身の適性を見つけさせることをその主要な任務とする公教育機関である。特に小学校・中学校は義務教育として全国民が就学する義務を持ち、人間として最低限必要で本質的な教育内容が教授されるべきところである。
 このような任務を持つ学校教育において音楽教育は何を目的とすべきであろうか。児童・生徒はそれぞれ皆未来に向かって大いなる可能性を持ち、その秘められたエネルギーは計り知れないものがある。この時代に学んだものは全て将来の生の糧となるものである。彼らは自分の未来のために一瞬一瞬を精一杯生きている。そういう人間を教育するためには相応の目的が用意されなければならないのは当然である。同じ音楽教育といっても、職場のレクリエーションや、カルチャーセンターにおける音楽とは目的が自ずから異なってしかるべきである。
 現在わが国の学校教育においては、文部省によって定められた「学習指導要要領」という、指導のための理念と内容の基準に添って教育が行なわれている。音楽科においては、小・中・高校のいずれにおいても「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽性を培うとともに、音楽を愛好する心情を育て、豊かな情操を養う。」という目標が明碓に規定されている。この目標に対して筆者は反対する理由は何もない。その通りであるとは思うが、将来への無限の可能性を秘めた児童・生徒のための目標としてはいささか物足りない感じを拭うことは出来ない。
 「愛好する」とは自分自身とは別なものに対して抱く感情で、音楽は人間とは分離した、別物として扱われている。だが、音楽は人間にとってそのような存在ではなく、人間の存在そのもの、人問にとって不可分のものである。従つて、「音楽」は「愛好」以上の対象であり、音楽を愛好する精神は人間であるならばすでに備わっているのである。指導要領の目標はあまりにも当然で、論議以前の段階に留まっている。
 今日、わが国においてはテレビ、ラジオなどマス・コミによって大量のそしてあらゆる種類の音楽が流され、児童・生徒はその影響をどの世代よりも敏感に受けている。「好きな音楽は」と聞けば必ず歌謡が第一位を占めるし、学校の音楽は「ダサイ」というのが大方の生徒の感想である。マス・コミは若者の気持を引きつけるためにさまざまな方法で華やかに演出する。彼らが夢中になるのは当然なのである。マスコミは教育のために音楽を流すのではないのである。音楽の授業を「愛好するかしないか」といった、歌謡曲等のジャンルとならんで生徒が選択する対象として位置づけているかぎり、決して児童・生徒は学校の音楽の授業を重要視することはないだろう。学校の音楽教育は、児童・生徒の人間的成長のために特に用意されるべきものである。
 学校における音楽教育の目的は何よりも自身の内にある音楽を最大限に目覚めさせること、音楽の持つ力、素晴らしさを児童・生徒に知らせ、そして音楽によって人間を高めていくことであろう。音楽の持つ特質を最大限に生かし、音楽そのものを自身の体験として味わわせるべきである。そのことによって、音楽を能動的に促えさせることができ、そして多くの、音楽に対する新たな発見が一人ひとりの内にもたらされるであろう。発見することで人間は自分自身を見つめ直し、自分自身の真実を促え、現実を知ることができ、さらに自分を高めていこうとする意欲を起こさせるのである。

↑このページのトップ

 1.4 学校の音楽教育の内容は何か
 このように学校の音楽教育の存在理由、目的について考えてくると、教育の内容がいかに在るべきなのかが自ずから明らかになろう。すなわち教育における音楽の存在理由が、音楽が「音」という人間にとって本質的な関わりのある素材を用いた人間の文化であること、音楽が人間を高めるという優れた特質を持っていることであり、学校の音楽教育の目的が、音楽の特質を最大限に生かして、児童・生徒を音楽の世界に導き、音楽の持つ力、素晴らしさを知らせることであるとすれば、その内容は音楽の本質に根ざした教育、音楽そのものの教育であるべきなのは明らかである。
 では「音楽の本質に根ざす」とはどういうことか。答えは簡単である。つねに「音」に関わっていくことである。ごく当たり前のことであるが、実際の音楽の教育現場では必ずしもそうではない。歌う楽しみを、アンサンプルする楽しみを何一つ教えずに、音符の読み方や作曲家の生没年の暗記に終始するなど、ともすると音から離れてしまっている実践も少なくはない。つねに音に関わって展開される教育が音楽科のなかで行なわれなければならない。
 音によって繰り広げられる豊かな世界を知り、音によって高まり、音によって大きく成長する。このような活動は人間の聴覚をとおして、音に対する感覚を磨き、研ぎ澄まし、人間自身の感性を育てていくことに他ならないのである。結局、音楽教育とは、『耳を通しての音そのものに対する感性の教育』なのである。
 そしてこのような教育は「音楽の体験そのもの」によってのみ内容を満たすことができるといえよう。児童・生徒はおとなにはない優れた感受性、感覚をもっているが、音楽そのものの体験にはきわめて乏しいといえるだろう。優れた感覚は実際の音楽の体験と結びついてこそ生かされるのである。さもなければ、その優れた感受性は年と共に萎んでいってしまうのである。絶えず「音楽させること」、学校の音楽教育は、このことが中心になってこそ本来の目的が達成されるのである。

↑このページのトップ

 1.5 音楽の授業とは何か
 「授業」、それは教育の目的を達成するための実践現場であり、学校の教育の根幹を成す最も重要な時問である。各教科の教育は全て「授業」において行なわれ、それぞれの教科の「授業」のなかで児童・生徒は自身と格闘し、成長する。
 ところで、音楽科において「授業」は果たしてどういう意味を持つのだろうか。いまさら問うべき質問ではないかもしれない。しかし、学校教育の中で授業というものがあまりにも日常的に行なわれているので、私たちはその重要な役割や意義、尊さをともすると深く認識することなく過ごしてしまう恐れがある。音楽の本質、音楽教育の存在意義、目的、内容が明らかになったところで授業とは何か、あらためて考えてみることにしよう。
 まず第一に、授業とは児童・生徒にとって音楽との出会いの場、音楽の世界を広げる場である。今日、児童・生徒の多くの音楽の捉え方はきわめて受動的である。音楽の授業においてはこのような児童・生徒にできるだけ多種多様な音楽に触れさせ、音楽体験を通して自らの音楽の世界を豊かにする機会が与えられなければならない。そのことで、自らが望んで、積極的に音楽を求めようとする姿勢を育てるべきであろう。
 第二に、授業とは児童・生徒が音楽に目覚める場、音楽によって高まる場である。毎時間毎時間の授業がつねに新鮮であり、発見がなければならない。そしてそのことによって音楽とはどういうものなのか、音楽とはいかに素晴らしいものなのかを身をもって体験させることが必要である。
 第三に、授業とは音楽的技術を向上させる場である。これまでの音楽教育の考え方では、一般に音楽的技術の訓練とは普通教育においてはそぐわないもの、児童・生徒の音楽授業嫌いを助長するものとして避けられてきたといえるだろう。だがどんなに初歩段階の音楽表現も技術を使わないものはない。音楽に関わることはすなわちその表現枝術に関わることである。そして新たな技術を習得することは音楽の世界をさらに大きく広げることである。教師が一方的に技術の習得を強いるのではなく、児童・生徒が自らの音楽を求めていく課程で自ら技術向上を目指すような授業を目指さなければならない。

↑このページのトップ

  音楽指導の原理と方法

 本節では前節において述べられた音楽教育の理念をいかに授業に反映させるか、その基本的な考え方と実践にあたっての留意事項について論じることにしたい。言うまでもなく、音楽の指導においてはいくら理論が崇高で立派であっても、それが実際児童・生徒の音楽的成長に寄与しないのであれば意味がない。実際に児童・生徒の音楽がどのように変化し、素晴らしくなっていくかということが、あくまでも音楽教育の理念と指導の関心の核にならなければならない。

 2.1 何を目指すのか
 かつてわが国の音楽教育においては、音楽という芸術本来のあり方にはおよそそぐわない、「徳性の極養」とか「皇国民の育成」などという奇妙な目標が設定されていた。このような教育においては、音楽は目標の達成のための単なる手段に過ぎず、むしろ音楽によって達成される何ものかに最も重大な関心が寄せられていたのである。音楽そのものにはあまり関心がなかったといえるだろう。
 今日の音楽教育においては音楽が手段として用いられることはない。音楽のためにある教育、自己目的としての音楽教育が主流である。しかし、つい最近まで「円満な人格の形成」とか「心豊かな人間の育成」といった類いの目標がわが国の音楽教育において設定されていた。確かに素晴らしい目標であると思うが、実はこれらの目標はなにも音楽をわざわざ使わなくても達せられるのである。筆者が危慎するのは、もしこのような類いの目標を音楽科に設定した場合、これらの目標が音楽を行なわずとも達成することができるゆえに、音楽不必要論が出てこないとも限らないことである。
 実際の音楽の指導で何を目指すのか、この重要な問題については前節で述べた理念に添って考えるべきであろう。児童・生徒に音楽の素晴らしい世界を知らせ、体験させることを目的とし、つねに音に関わって音楽の本質に根ざした指導を行なうという方針で指導が行なわれるとすれば、当然、指導の目指すものは純粋に音楽の美しさ、豊かな音楽の世界の創造であろう。全ての学校の音楽の授業において、音楽そのものの追求が行なわれ、芸術が目指されるべきなのである。
 この点に関して、「普通教育は專門教育と違うのであまり高度のことをする必要はない、程度は低くても構わない」といった意見がある。筆者はこれには反対である。なぜなら、音楽というものは、一旦音が発せられると音楽そのものが芸術の法則に従い、自らが美しくあろうとするからである。専門教育であろうと普通教育であろうと求めるべきものは同じはずだからである。そこには人間と音楽という関係が存在するだけである。音の前には皆平等なのである。どんな教育においても妥協することなく高いレヴェルの音楽、美しい音楽を目指して指導が行なわれなければならない。

↑このページのトップ

 2.2 どのような音楽を教えるのか
 では次にいったいどのような音楽が音楽教育に相応しいのだろうか。これは決してどんなジャンルの音楽が相応しいかという意味ではない。学年によっても、地域によっても、教師の個性によっても教える音楽は必然的に異なってくるはずである。だが、いかに音楽が異なっても、それらは学校の教育でおこなうために相応しい共通した特質を備えていなくてはならない。
 音楽の指導で不可欠なのは、「質の高い音楽」「本物の音楽」「生きた音楽」である。これらの音楽が用いられてこそ、児童・生徒は音楽への興味を増し、積極的に音楽に取り組もうとするであろう。だが「質の高い」「本物の」「生きた」音楽とはいったいどのようなものなのだろうか。十分な考察を行なう必要があろう。
 まずこれらの形容詞はあくまでも「各教師にとっての」という前置きが必要となる。一般に、音楽、音楽作品には、それぞれ揺るぎない絶対的な価値があり、私たちは何の疑いもなく、その価値体系を受け入れている。しかし教師がこのような価値体系を鵜呑みにして安易に教室に持ち込んでも決して児童・生徒にとって「質の高い」「本物の」「生きた」音楽にはならないであろう。教室においては、教えようとする音楽がなぜ「質が高」くて「本物」で「生き」ているのか、教師の十分な理解・解釈が必要なのである。
 では、具体的にどのような音楽が「質が高い」「本物の」「生きた」音楽なのだろうか筆者はこの三つの言葉はほとんど同義と考えているので、ここではこれら三つを「本物の音楽とは何か」という問い集約して考えてみたい。
 「本物の音楽」とは音楽の作り手の真実の心から出た、音によるドラマ、リアリティーのある精神性の高い音楽である。「本物の音楽」とは必ずしも難しいテクニツクを用いた音楽ではない。自分自身の真実の気持ちから発せられていることが何よりも必要である。反対に、自身の真実の気持ちから出ていない、自分を偽った音楽はどんなに高度のテクニックが用いられていても、「偽りの音楽」といえるだろう。「本物の音楽」には、感動がある。感動することで人間は真の人間になることができる。
 音楽そのものの美しさを追求し、豊かな音楽の世界を創造するためには、一人ひとりの教師によってこのような「本物の音楽」が提示され、指導されることが不可欠なのである。

↑このページのトップ

 2.3 どう行なうのか
 音楽の指導の仕方はさまざまであり、正解もなければ正しい手順もない。同じ音楽を指導するにしても百人の教帥がいれば指導方法は百通りある。音楽の指導というのは、音楽の演奏と同じで指導する教師の個性によるところが非常に大きい。音楽指導のなかで教師は自身の音楽に対する音感覚、感受性、そして音楽的能カをあますところなく披露する。
 しかし、指導がいかに異なっていても、それぞれの指導に共通点を見出すことは難しくない。独自の個性を出して展開する優れた教師の指導には明らかに共通する普遍的な指導のポイントがある。それはおそらくどの教師も芸術を目指し、素晴らしい音楽を造るという共通の目的を持っているからであろう。本項では指導を行なうために必要な前提条件、そして普遍的な指導のポイントを提示することにしたい。

↑このページのトップ
  2.3.1 指導意欲の源泉
 優れた教師は次から次へと魅力ある、鋭い言葉を発し、児童・生徒をまたたくまに音楽の世界に導いていく。経験のない教育実習生などにとってはなぜそのような指導ができるのか不思議に感じるであろう。音楽を指導するという意欲、意思はどこから出てくるのだろうか。
 指導とはある分野において経験者が未経験者に対して行なう教育行為である。指導者が経験した内容や知識を効率よく、正しく伝えていくことである。音楽の場合さまざまな音楽的技術や体験、知識がその内容に当たるが、指導者が指導の判断の拠り所とするのは自分自身の頭の中にある響きのイメージである。優れた指導者は自分の演奏する音、他の優れた演奏者の演奏する音をよく知っている。そしてどうすればそのような音になるのかも知っている。音楽の指導とは児童・生徒の発する響きと、教師の頭の中にある理想とする響きのずれを把握し、いかにそのずれを埋めていくか、教師のよしとする響きに近づけていくかという行為に他ならないのである。
もし教師の持っている音楽の響きのイメージが実際児童・生徒が演奏する音と同じである場合、教師はそのずれを感じることはできず、指導する言葉を失う。もはやそれ以上の指導をすることはできない。さらに教師の持っている響きのイメージ以上に児童・生徒が演奏した場合、児童・生徒のほうが音楽的に優れていると言えるかもしれない。  指導しようとする意欲は、教師の持っている理想の響きと、児童・生徒の発する響きのギャップをはっきりと把握し、それを埋めるための方法が明らかになったとき、生まれるものであろう。その把握したギャッブが大きければ大きいほどより的確に、より魅力的に指導を行なうことができるだろう。
↑このページのトップ
  2.3.2 指導における根本原則
 音楽の指導は誰もが同じようにできるものではない。教師の持つ実カによってその指導の成果ははっきりと違ってくる。実力があればあるほど優れた指導になるのは当然である。音楽指導を行なう教師はつねに実力を蓄えるように努力しなけれぱならないが、必ずしも十分な実カをつけずに音楽指導を余儀なくされることも少なくはない。また、これぐらいが十分な実力であるという基準もあるわけではない。教師がその時点の実力で成果を挙げて、少なくとも破綻なく指導をするためにはどうしても次にあげる二つの根本原則を頭にいれておく必要があるだろう。
 1.教師は自分の響きのイメージ以上の響きをだすための適切な指導はできない。
 「指導意欲の源泉」でも述べた通り、指導者のもつ音の響きのイメージよりも実際の児章・生徒の発する音の響きが優れている場合には、教師は指導する資格はない。指導しても、より響きを美しくするための目標と具体的手立てを持たないために混乱をきたすだけである。教師は目分の実力を越えて指導することはまずできないことをしっかりと知っておく必要がある。そして自分の力はどれだけかを知り、その範囲の中で指導を行なわなければならない自身の実力の及ぶ範囲であれば、余裕を持つて指導に臨めるし、児童・生徒の音楽的欲求をそれなりに満たすことができる。
 2.教師は本当に教えたいと思わなければ教えることができない。
 いくら実力があっても、目の前の児童・生徒を善くしようと本当に思わない指導は真に効果があるとは思えない。まして自分の力にあまり自信のない教師が、意欲を持たず指導をして成果が上がるはずがない。教師は児童・生徒に対して情熱を持って指導しようとする意欲を持たなければならない。この教えようとする意欲は、自分の力を客観的に把握し、児童・生徒の力をはっきり認識し、かつ自身の力でどのようにして伸ばせるかというはっきりとしたイメージがあってこそ沸いてくるのである。
↑このページのトップ
  2.3.3 指導の方法
 ここでは実際の音楽の指導をどういった手順で行なうのか、そのアウトラインを述べる。
 1.どのような音楽にするのか、どういう響きにするのかイメージを描く。
 まず最初のステップは児童・生徒を指導する前に行なうべき準備である。これから指導を行なおうとする音楽について十分予習をしなければならないが、何よりも音楽の響きのイメージを頭に描かなければならない。望ましいのは、頭の中で声・ピアノ・その他の楽器などの音色で、メロデイーやハーモニが、クリアーに鳴らせることである。音楽を最初から最後まで理想の響きで頭の中で演奏できれば申し分ない。
 2.児童・生徒との間に音楽によって共鳴、共感を呼び起こす。
 指導のまず最初は児童・生徒と教師の間に音楽による共鳴、共感を呼び起こすことである。教師の持つ音楽の世界と児童・生徒の持つそれとの接点をいちはやく見つけ、そこから指導を展開しなければならない。共鳴、共感を呼び起こす服も効果的な方法は教帥が演奏をすることである。どんなに稚拙な演奏であると思ってもしないよりはしたほうが良い。教わろうとしている教師がどのような音楽を与えてくれるのか、児童・生徒は最も興昧を持っているからだ。教師は自分の演奏によって、音楽を児童・生徒と共有できたことを実感することができる。共鳴、共感によってお互いが理解し合うことができ、より高い段階の音楽指導の準備が整ってくるのである。
 3.児童・生徒の音楽をより美しく、より豊かに、より深くする。
 第三段階において初めて教師は児童・生徒の音楽がより美しく、より豊かに、より深くなるよう指導する。すなわち児童・生徒の音楽能力を徐々に高めていくことである。彼らの知らない音楽の世界、いわば未体験ゾーンヘ教師は導き、つねに新しい音楽体験をさせ、音楽の世界をワイドにしていくのである。この段階の指導では行き着くべきゴールは無い。逃めば進むほどさらに進み、高まれば高まるほどさらに高まる。一応の区切りはある。その一つは演奏発表である。発表において彼らのそれまでの努力が凝縮され、新たな成長のステップとなる。教師はそのような機会をできるだけ設け、児童・生徒にいつも意欲を起こさせておく必要があろう。
 なお、これらのステップは大まかな段階を提示しているにすぎない。具体的な指導方法はこれらの考えに基づいて教帥目身によってヴァリェーション豊かに考えられるべきである。

↑このページのトップ

 2.3.4 何をしなければならないのか
 指導のステップは以上の通りであるが、これらはあくまで大きな骨組みにすぎない。実際に指導を行なうためには欠かすことのできないさまざまな留意点がある。それらのなかでとりわけ重要なものをいくつか述べることにしよう。
 (一)教師はつねに、自分が音楽とどう関わっているのかを児童・生徒の前に明らかにしておかなければならない。
 音楽指導の成否はいかに児童・生徒と教師との間に音楽的な共感、共鳴を呼び起こすかにかかっているといえるだろう。前述のように教師は自身の音楽の世界と児童・生徒の音楽の世界との接点をいちはやく見出し、そこから指導をはじめなければならないが、そのためにはつねに自身の音楽の世界を児童・生徒にさらけ出しておく必要がある。児童・生徒が教師の音楽の世界を理解することなく互いに信頼しあって音楽の指導が成り立っことはないからである。教師による生演奏は、教師と音楽との関わりを明らかにする最も優れた方法である。児童・生徒は教師の演奏を聴くことによって、容易にそして的確に教師の音楽の世界を知ることができる。そして自ら教師との接点を求めていこうとするのではないだろうか。
 ある曲を指導するときにも教師は必ず、その曲をどう捉えているかをはっきりと表明する必要がある。教師が何もせずに児童・生徒に歌うことを要求しても彼らはなかなか歌おうとはしない。教師が黙っているときは児童・生徒はそめ曲に対する教師の考えが分からず、不安になって心を開くことができない。教師がその曲に対する態度をはっきりと表明することで彼らは安心して心を開き歌うようになるのである。
 (二) 教える曲に教師自身が本当に感動し、共感しなければならない。
 教師は児童・生徒を音楽の世界に導き、音楽の素晴らしさ味わわせなければならないが、そのためには当然音楽の素晴らしさを体験していなければならない。音楽の素晴らしさ、尊さを知っている人のみがそれを教えることができるのである。教師は自分自身が感動したり、共感した曲以外を教材として選択してはならない。もし自身が感動・共感しない曲を指導することを余儀なくされた場合、その曲を感動、共感するまでさらに深く研究しなければならない。教師の感動、共感した曲こそが教室のなかで真に生きた、本物の音楽となり得るのである。
 (三) 音楽が生まれる前に心が充実していなければならない。
 音楽は人間の心が高まって生まれた一つの音から始まり、一つの声から始まる。教師はこの、音楽が生まれいずる瞬間、音になるまでの心の高まりを十分に知らずに音楽を教えることはできない。そしてそのような心の高まりは、外から与えられるものではなく、自分自身の内から発するものでなければならない。自身の中で発酵、熱成しなければならないのである。
 (四) 教師は個人指導を行なっているという意識で指導すべきである。
 音楽の一つの特微は個人個人の個性が尊重され、個人の発想や表現が尊重されるところにある。クラス授業は何十人かの集団で行なわれるが、音楽の授業においては当然個人個人が尊重されなければならない。教師は指導にあたって、決して集団を指導しているという意識を持ってはいけない。集団として生徒を一律に見ると、そのように枠を与えられた生徒はその中から動くことができず、音楽の中で自由に個性が発揮できなくなってしまうおそれがある。あくまでも一人ひとりに指導を行なつているという意識が必要である。そうすることによって生徒はそれぞれの個性を生かして、真の意味で音楽することができるだろう。
 (五) 教師は能力の範囲でできるだけ高度の内容で指導すべきである。
 学校の一般の音楽教育はもちろん専門家養成教育ではない。だが決して専門的内容、高度な内容の指導を行なわないという意味ではない。音楽の本質に根ざした指導を学校の音楽教育が目指すかぎり、奥の深い、高度の音楽指導が行なわれなけれぱならない。  しかしこれは決して専門用語を駆使した指導を行なうことを意味しない。また児童・生徒にとって不可能なことを無理にさせることをも意味しない。できる範囲で最も質の高い指導を行なうことを主張しているのである。

↑このページのトップ

 結 び

 わが国の学校の音楽教育は戦前から「唱歌校門を出ず」といわれ、学校での音楽が必ずしも児童・生徒に大きな影響を与えてきたとはいえなかった。そして現在も「はじめに」で述べたような光景がいたるところで見られ、音楽の授業が児童・生徒にとって十分有意義なものになっているとはいい難い。むしろ多くの問題を抱えている。このような問題の原因は、現在のわが国の激しい受験戦争の中にあって、音楽が受験科目でないがゆえに軽視されていることもあるが、それにもまして音楽の本質、音楽の素晴らしさが十分に全ての児童・生徒に伝えられていないことにあると思われる。また何よりも問題なのは音楽教育で真に何を目指し、何を行なうのかという、基本的な共通の認識がわが国においてはほとんど定着していないことである。実践のための学問としての音楽教育学はまだわが国では始まったばかりであるし、これまでの成果が実践に結びついているとはいい難いのである。
 本論はこのような問題意識に基づき、実りある音楽教育の実現を願って、音楽の本質に根ざした音楽教育を提唱し、その具体的な実践への指針、一つの普遍的な指導のあり方を提示することを試みた。
 音楽の本質に根ざした指導とは、結局いかに音楽の魅力を伝えるか、その一言に尽きよう。音楽の魅力の世界は果てしなく、終りがない。教師はつねに音楽の魅力を探求し、いかにそれを児童・生徒に与えていくか取り組んで行かねばならない。そのためには教師一人ひとりが自らの能力を高めていく努力を怠ってはならないが、特に、「内なる耳」「心の響き」の充実を図らねばならない。音楽の源は全てここにあるからである。さまざまな音楽に触れ、音楽体験を重ねる、これこそが教師自身が高まっていく唯一の方法なのである。教師自身を高めること、これが教育を、真に「人間を高める」教育たらしめる大前提なのである。(小川昌文)

 参考文献

マリー・シェイファー、高橋悠治訳『教室の犀』全音楽譜出版杜、1980年
ツェヴェク・エルナ、中川弘一郎訳・解説『音楽と子ども』全音楽譜出版社、1985年
ロナルド・カヴァイエ、西山志風著『日本人の音楽教育』新潮社、1987年
コダーイ、中用弘一郎編訳『コダーイ・ゾルタンの教育思想と実践』全音楽譜出版社、1980年
門馬直美編『音楽教育大諭争』サントリー音楽財団、1984年

『教育実践の原理と展開 若い教師のための入門』川島書店 p.115〜136

↑このページのトップ