<論説1> 特集 今 学校はどう変わるのか

「活力ある学校の創造」と教師の自己変革

上越教育大学教授 高田 喜久司

はじめに

「いつもお子様やる気がない。手をかけすぎて自立がない。すぐさま飽きて続 かない。物に毒され心育たない。エンジンあってブレーキない。ハンドルあっ て目標ない。漫画育ちで考えない。刺激多くて感動しない。責任もつことした がらない。親孝行なんて考えない。注意されても聞く耳ない。教えてもらう謙 虚さない。点にならねば関心ない」(次山信男『「生きる力」を育てる100の課題徹底理解』所収、教育開発 研究所p.216)。
現代の子どもは、ものおじしない、明るい、知識が豊富、メカに強いなどプラス面がある一方、冒頭のような「ないないづくしの子ども」というマイナス要因の指摘も顕著である。ここに、学校・家庭・地域社会が連携して、子どもに「生きる力」を育む今日的意義があろう。今、教師は一丸となって、まずもって「活力ある学校」を推進しなければならない。生きる力を育む教育は活力ある学校によって実現される。その大前提として、教師の自己変革が要請される。教師が変われば学校も子どもも変わると考えるからである。

1 今、求められる「活力ある学校の創造」


(1) 「生きる力」を育む活力ある学校
「新学力観!校門に入らず」と揶揄されながらも、新学力観論議に次いで今度は、「生きる力」がクローズアップされるようになった。教育界は多くのスローガンにとりかこまれて、きわめて多忙である。
正直言って、生きる力なんて考えずに一生を送ることができたらいいナ、と思う。また、「生きる意欲」と「思いやり」の二つがあれば、生涯楽しく生きることも可能であると考えられる。
さらにこれまでの学校教育への要請も、頭の中の知識にとどまることなく、子どもが人生を切り開いていくために必要な「知恵」であった。その意味では、教師が学校で教えてきたことはすべて「生きる力」に関連していたのである。
ともあれ、昨夏の中教審答申によって、いかにして子どもに生きる力を育むかが教育実践の焦眉の課題となった。生きる力を育む学校を活力ある学校と措定したいゆえんである。
(2) 学校の閉塞的状況
活力ある学校を推進しなければならない背景には、学校の閉塞的状況がある。周知のように、既存の体制や権威がつぎつぎと崩壊している。現代社会はまさしく、急激な変動社会である。こうした変動社会のなかにあって、学校は相変わらず、古い絶対的な体質を保持しているかのように思われる。
なによりも学校の閉鎖性、教育内容・方法・組織形態の画一性や硬直性が指摘され、過熱した受験体制とあいまって、学校は子どもにとって、温もりのある活力に満ちた存在ではなくなった。むしろ、息苦しく閉塞感が強いといえよう。 息苦しく閉鎖的な学校のためか、子どもは心理的重圧感、あるいは絶望感・無意味感を抱き、ひいては非行・暴力、いじめ・不登校に象徴される学校離れの現象をひき起こしているのである。
また、日頃、教師による教育的努力が積み重ねられているにもかかわらず、学校や教師への信頼も低下した。もはや、学校は聖域ではなくなった現われといえる。こうした学校教育の否定的状況を踏まえて、ゆとりのなかで生きる力を育成する活力ある学校が強く求められているのである。
そのために学校は、画一性・閉鎖性から脱却し、知識を教え込む教育から自ら学び自ら考える教育への転換を図り、家庭・地域社会と十分に連携し、バランスよく教育にあたることが重要である。
(3) 「活力ある学校」のイメージ
本来、子どものために学校があり、子どもが学校の主役であったはずである。これからの学校は、徹底して子どもの側に立ち、一人ひとりの子どもに居場所や存在価値を認めてやり、自己実現を図りつつ生きる力を体得させるものでなければならない。「学ぶのは子どもだ」という当たり前ともいえる教育の原点を再確認し、有効な教育活動を展開することが必要である。
このように考えてくると「活力ある学校の創造」は、ことさら新しい試みを志向することではなかろう。それは、学ぶ主体である子どもの「個性尊重」を基盤として、「問題解決能力」、「自己教育力」や「新学力観」の具現、「生きる力」を育む等、これまで強調されてきた学校改革のキーワードを、日常的に、実質化できることにほかならない。そして、教師も子どもも夢や希望を語り、誇りや自信に満ちあふれ、明るく笑い顔の絶えない、何ごとにもチャレンジする意欲的な学校がイメージできよう。
ところで、活力ある学校の推進は、発想の転換を図る教師の自己変革がアルファでありオメガである。

2 「活力ある学校の創造」と教師の自己変革


なぜ、活力ある学校の創造に教師の自己変革が大切なのであろうか。それは15年ほど前、わが国の学校改革の現状について次のような手厳しい指摘を行なった梶田叡一氏の文言が、筆者の脳裏を離れないからである。
彼は「今日のわが国における学校改革の状況をみるとき、数多くの改革の試みや主張が積み重ねられてきたにもかかわらず、平均的な普通の学校での教育活動のあり方は、70年前あるいは50年前に比べてそれほど大きな進歩を示しているとはとてもいえない。やはり、多くの学校における現実の教育活動が、教科書中心、知識注入中心、教師中心等々であることは否定しえない事実である」(『授業改革事典@』第一法規、9頁)と断じたのである。
この文言は時間と社会的状況を越えてストレートに結びつくものではないが、おおむね首肯し得る。たとえば、「基礎・基本」は40年前、「ゆとりと充実」は20年前、「自己教育力」の育成は15年前に提言されたにもかかわらず、教育現場には徹底していないという指摘もあるからである。
もちろん、変わりゆく子どもや社会の現実を直視しつつ教室からの教育改革や有効な教育実践の試みをおこなっている学校や教師が多いことも承知している。
他方、学校が急激な変動期にあると叫んでみても教師の多くは、旧態依然たる形でルーチン化された教育活動の消化に汲々としているのが実情ではなかろうかと危惧するものである。活力ある学校の創造は「教育は教師しだいである」という古きテーゼを再確認することがスタートになろう。

3 「普通列車」の旅に学ぶ教師の姿勢


もうずい分前になるが、樹木希林が子どもたちを包み込むような温かい雰囲気を醸し出すテレビドラマ、「鬼ユリ校長、走る!」をみた。そのなかで、「教育は各駅停車の列車のようなもの。決して特急であってはならない」というニュアンスのセリフにハッとさせられた。
「男はつらいよ」の虎さんもなぜか新幹線に乗ることはなかったように思われる。虎さんの旅は主に、ローカル色豊かな普通列車のなかで、しかも対面できる座席が舞台であった。対面した座席のなかで見知らぬ人々との出会いから思わぬコミュニケーションが生まれドラマが展開する。新幹線の一方向の座席では想像できない光景である。こうした舞台から虎さんのもつ人間的なやさしさや温かさ、心の豊かさが多くのファンを魅了したのではなかろうか。
確かに、特急電車や新幹線では見えない景色や人生ドラマが普通列車なら可能かもしれない。樹木希林のセリフは活力ある学校を推進するうえで示唆深いものがある。
活力ある学校の創造は「ゆとり」をもって普通列車で旅する教師の構えが不可欠である。生きる実感を奪うような効率を追求するゆとりのない特急電車だとしたら、活力ある学校とは無縁となろう。子どもたちの自分探しの旅を支援する営みも同様である。普通列車の旅に学んで、これまで等閑に付されたムダやムラの効用を探らなければならない。急いではいけないのである。
今後の社会はハイテクが高度に進行していくとともに、他方では素朴な手作りが求められる時代のようにも思われる。たとえば学校のスリム化にしても、発想の転換を図って、「前例はないが、思い切ってやってみよう」という教師の姿勢変革が肝要である。教師はこの点に弱腰であり、難点がみられる。
生きる力を構成する子どもの豊かな人間性、生命や感性、問題解決的アプローチへの着目も、十分な目配りや気配りを行なう手作り教育によって可能である。スピーディでインスタントな教育であっては期待が薄い。ハイテクへの対応は素朴な手作りによって実質化するものであって、決してその逆ではなかろう。手作り教育による活力ある学校の創造が、今、求められているのである。
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