カリキュラムの変遷と学習指導活性化の観点

上越教育大学教授 高田 喜久司

1. はじめに −本稿の目的−

教室における授業が成立しにくいなど、学習指導は今日、多くの課題を背負っている実情にある。全国的にみて、生徒指導困難校が授業研究にエネルギーを傾注するようになったという指摘がなされているが、それは授業の充実によって生徒指導の問題を解決しょうとする意図が読み取れるものであり、歓迎したい。もはや、生徒指導の問題は生徒指導では解決しない、むしろ学習指導が重要だという認識がポピュラーになったからと考えられる。ここで、表題のカリキュラムの変遷は、実践形態としては、学習指導論の変遷とも言い換えることが可能であろう。
ともあれ、学習指導における課題解決の手がかりを得るためには、歴史上、どのような方策や考え方が提言され、展開されてきたのかを検討することが有効である。その検討をわが国の戦後から今日に至るまで、カリキュラム論あるいは学習指導論の変遷として概観することが、小論の目的である。
あと数年で21世紀に突入する。カリキュラムや学習指導の考え方は、社会の変化や世界の教育動向に応じ、その内容はもとより、性格や構造までも変わってきたと言えよう。ここで、異論があるかもしれないが、私は結論的に、互いにオーバラップすることを承知のうえで、これらの移り変りを時期的に大きく4つに分けて、考えたい。
第1は、1950年代、戦後の民主主義社会の実現を基底とした経験主義のカリキュラム論である。このカリキュラム論では、子どもの「生活」や「経験」が重視されたと考える。
第2は、1960年代、高度経済成長の進行と情報社会への突入という社会的条件に基づいた科学(教科)主義のカリキュラム論が登場した。授業においては、教科の「系統」や学問の「構造」が、主要テーマとされた。
第3は、1970年代、安定経済成長、人間性尊重の社会傾向から、人間中心主義のカリキュラム論が台頭する。知・情・意・体の調和のとれた「人間性」が、クローズアップされた。
第4は、現在、高度情報化・国際化・価値観の多様化など、今後の変化の激しい社会に主体的に対応する「個性」重視や「新学力観」の学習指導のあり方が、問われているのである。
これらの変遷を全般的にとらえたうえで、現在のカリキュラム論もしくは学習指導の活性化の観点について論究することにしたい。

2.「生活・経験」重視のカリキュラム論

(1) 「生活・経験」重視の理論的基盤
戦後の新教育は、占領軍や文部省の指導もあって、アメリカの経験主義的教育哲学、とりわけデューイ(Dewey,J.)の理論に、その基礎がおかれた。
デューイは、「生活を通し、また生活との関連において学ぶ」や「経験から学ぶ」、「為すことによって学ぶ」というテーゼを強調し、関心を集めるようになった。すなわち、教育の任務は、まず、子どもの生活や経験を中心に、生活に役立つ知識と能力を獲得するようにカリキュラムを組織することが、重点とされたのである。つぎに、教育は生活や経験重視の教育であるから、子ども自身を活動させるものでなければならない。したがって、「行なうことによって学ぶ」(learning by doing)は、学習指導の原則であった。
かくして、学校は、子どもが知識や技能を習得する場所としてよりもむしろ、よりよき生活を営むことを学ぶ場所でなければならないという考え方が支持されることによって、生活や経験そのものが学習活動の中心におかれるようになったのである。
(2) 問題解決能力の育成
これらデューイ理論を背景として、子どもの「生活」や「経験」に密着した教材や活動が選択され、適切な問題解決の経験をもたせることによって、学習指導が展開されるようになる。それは昭和20年代の前半から多種多彩な実践形態をとって登場したが、いずれの実践も「学ぶのは児童だ」とする児童中心主義であり、経験主義的カリキュラム構成であり、問題あるいは生活単元の形態をとった「問題解決学習」であったことにおいて、共通点がみられた。
行為することによって学習する主体としての子どもの意欲、興味、関心を重視する問題解決学習は、民主主義の原理を知識や観念としてではなく、民主的な生活様式として、実践的に学ばせることをねらいとするものであった。
そのため、子どもは現実生活のなかで生ずる問題をとらえて、それをつきつめ解決していくプロセスのなかで、民主主義社会に生きて働く諸能力、すなわち思考力・判断力・行動力を身につけるものと期待されたのである。このような思想性において、人間形成が意図されたことは留意されてよいであろう。なぜならば、教育は問題解決能力を体得することによって、生活をよりよい方向に構成していく営みにほかならないからである。よく生きることは、よく問題解決することでもあろう。
問題解決能力の育成のためには、見学、観察、討議、制作や構成など、子どもの主体的・実践的な活動を中心とした学習形態が不可欠とされたことはいうまでもない。
(3) 系統的な知識の軽視
ところが、問題解決学習は子どもの生活や経験の範囲内にある知識・技能に重点をおくことにおいて、その弱点をもっていたといわざるをえない。 当然のことながら、各教科教育学者からは教科の基本的な知識や法則的認識を重要視していないと反論がだされ、いわゆる「問題解決学習論争」をまきおこしたことは、周知のとおりである。現実の社会生活を深く経験し、かつ新しい問題を解決するためには、まず教科の体系的知識を有しなければならないというのである。
ともあれ、問題解決学習は子どもの生活経験に教科の系統的な知識を従属させたこと、さらに生活や経験的事実の学習によって子どもに何を理解させようとするのか目的が不明確である、と批判が加えられた。単に、子どもの日常生活の経験をたいせつにしているだけでは「はいまわる経験主義」だ、と指摘する声が強まったのである。
(4) 根強い影響力をもつ問題解決的学習論
経験主義のカリキュラムは、生活や経験そのものが皮相的にとらえられることによって、たしかに、子どもの興味や関心に振りまわされた傾向があり、学力低下や道徳力の低下を招いたことは否めない。ただ、その本質を慎重に検討してみると、学習指導に不可欠な視点が含まれていることを否定することはできないのである。
端的に言えば、それは子どもが子どもらしく生活してゆくためのカリキュラム論であるところに、今日的意義をみいだすことができるといってよいであろう。問題解決学習は、学習原理としても、人間の生き方の原理としても、重要な価値をもっていることは否定しえない。
生活遊離性の克服をめざし、経験や生活を通じて主体としての人間とその能力の形成に寄与するものだからである。子どもの思考力を育てるためには、まず子ども自身が問題解決の経験をもつようにしなくてはならない。教育の人間化、人間性豊かな子どもを育成するための授業の活性化は、実質的に問題解決的な学習指導をめざすものでなければならないであろう。
事実、今日の学習指導の考え方は多少のニュアンスの違いはあるものの、基本的なねらいや学習形態には問題解決学習と共通する部分が多く、根強い影響力をあたえていることを銘記しなければならない。
しかし、子どもの生活や経験を過重視するようになった学習指導論は、学力の低下という社会問題へと発展したこともあって、大きな流れとしてはやがて、教科の系統的な知識を重視する方向へときりかえられていくのである。

3.「系統・構造」重視のカリキュラム論


(1) 系統学習論の台頭
技術革新と生産性の向上を眼目とする高度経済成長政策は、「基礎学力の充実」と「科学技術の振興」を課題とするようになった。 かくして1950年代の後半には、生活や経験を重視する学習指導論は、いったん後退し、教科中心カリキュラムによる客観的知識や技能、あるいは教科の体系的な学習の意味が見直され、いわゆる「系統学習論」の台頭をみるに至ったのである。それは子どもの生活からおこる問題よりも教科の系統的知識をあたえることを目的とするものであった。1958年の学習指導要領の全面改訂が、それを決定づけた。
系統学習は、昭和30年代前半では反経験主義、アンチ問題解決学習の性格を色濃く反映させていたのである。体系的な知識を習得させるためには、その体系の順序に即応して教えることがもっとも効率的であることは言うまでもない。しかし、系統学習は教科内容を不変にして固定的に把握する立場であり、ややもすると教科内容の論理性や系統性を先行しがちであった。
すなわち、系統学習は実生活と遊離しがちであり、ともすれば「教科あって子ども不在」の学習指導論へと陥る危険性を宿していたのである。その結果、教師の一方的な詰めこみや注入がおこなわれ、問題解決学習が盛んに実践された時のような活気やはなやいだ教室は、姿を消したという指摘がなされたほどである。
(2) ブルーナーの「学問の構造化」論
1960年代以降は、「教育の現代化」が主流を占めるようになった。教育の現代化は、教育内容の現代化、あるいは教育内容の現代科学化ともいわれており、学問の急速な発達に対して、学校教育の内容が立ち遅れている状態を克服するところにねらいがあった。その基本動向にそって、1968・69年の学習指導要領が改訂されたのである。そして、教育の現代化のなかで、とりわけクローズアップされた概念は「構造」(structure)であった。
つまり、「教科の構造」をメイン・テーマとする現代化運動や学問中心カリキュラム(discipline-centered curriculum)が、世界的に脚光を浴びて展開されたのである。ブルーナー(Bruner,J.S.)の「教育の現代化の バイブル」として称揚された『教育の過程』が広く読まれ、その理論的支柱となってわが国に「ブルーナー旋風」を巻きおこしたのは、この頃である。
彼は知識の構造化と発見学習を提唱し、既知をバネにして未知を切り開いていく学習指導を強調したことで、有名である。
デューイが、わが国の戦後教育の展開に最大の理論的影響を与えたのに対して、戦後教育の克服形態としての教育に示唆深い問題提起をおこなったのは、ブルーナーであろう。彼は、学校は学問を学ぶ場所であって、社会生活をするところではないという思想をもっていた。この点、進歩主義教育の理論的指導者であったデューイへの果敢なチャレンジといえる。そして、学問を学ぶにあたって、その根底にある「構造」を学ぶことの重要性を指摘して、わが国において注目を浴びたのである。
ところが、彼は「構造」とは何かについて、必ずしも明確にしていないのであるが、各教科を構成する「基本的な観念」(basic ideas)と考えてよいであろう。たとえば、代 数学における交換・配分・結合法則や物理学における保存の原理、文学における悲劇性の観念などが、これである。
構造を理解することは、爆発的な知識量の単純化の手段であり、既知を基盤として未知を切り開いていく際の、有力な武器になると考えられる。情報化社会において、表面的で雑多の知識をを与えても意味がない。より深く、より根底にある観念を理解させるようにしなければならない、とブルーナーは主張する。
さらに、彼は「大胆なブルーナー仮説」、すなわち「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができる」というレディネス観をつくりだした。
たしかに、どの発達段階のどんな子どもにも、というのは大胆な仮説といえる。教科の構造を規定する科学の基本的観念は、できるだけ早く理解させなければならない、と解釈できるからである。
こうして彼は、従来の経験主義的カリキュラムを抜本的に改造し、最初の段階から子どもにも理解することのできる教材に基づいて、最高度に発達した現代科学を分析して、その科学を構成している基本的観念や原理を導入した科学の構造化をめざしたのである。
(3) 知的エリート向きの学習指導論
ブルーナーの構造化論は、わが国の教室で全面的かつ広範にとり入れられ、実践に移された。しかし、実際にはこうした考え方や実践は、その本質とは裏腹に主として知的認識の次元にとどまって、子どもの生活、行動、経験における感性的・現実的内容にまで具体化することが少なかったのである。
つまり、子どもの意欲や感情、主体性との関連が軽視されたといわざるをえない。そのうえ、それぞれの教科がとりあげる学問的・科学的な知識内容の水準が高められたことに起因して、子どもの学業不振が顕在化してくる。
同様に、学習指導の結果は、ブルーナーの「教科の構造を強調するよい教授は、才能に恵まれた生徒よりも、あまり有能でない生徒にとってこそ価値があるのではないだろうか」という主張に反し、知的エリート向きであるという指摘がなされたのである。
特に、わが国では、高度で過密な教科内容と急ぎ足の授業展開、これらの要因が競合することによって、授業についていけない「落ちこぼれ」の子どもが増大し、教育荒廃の元凶として厳しく批判されるようになった。
こうした学習指導論の欠陥やいきすぎの反省として1970年以降、人間をそのトータリティとして把握する教育の人間化、人間的なカリキュラムによる教育を志向する学習指導が求められていくのである。

4. 「人間性」重視のカリキュラム論


(1) 学問中心から人間中心へ
人間性重視の学習指導は、これまでの教育がもつ人間離れ、子ども不在となりがちな教育状況に由来するものであった。1970年代以降のアメリカにおいて、学問ないし科学の構造を重視する教育を克服することによって、「学校の人間化」や「人間的な教育」が合い言葉となった。
特に、学問中心から人間中心カリキュラムへの軌道修正は、環境汚染、都市問題、人口増加、世代間のギャップ、貧困問題、非行・暴力・麻薬・犯罪の増加などの社会問題、ドロップ・アウト(中途退学者)の増加、学力の低下などの教育問題が、うずまいていたことを想起しなければならない。
また、1971年には、ブルーナー自身が「教育の過程・再考」という論文で、自己批判をしたことも忘れてはならない。
彼は子どもに興味と主導性の真の意味を回復し、子どもを活動主体とするためには、学問的知識の構造的組織以上に、子どもの本性、興味、要求、関心、動機が尊重されなければならない、と主張したからである。
(2) 情意に基礎をおく学習指導
人間中心の教育でめざされた人間像は、情意と認知、感情と知性の統合をめざした「全体的人格」、「自己実現的人間」の発達ということであった。情意に基礎をおく人間中心カリキュラム(humanistic curriculum)が 唱道され、その視点から学習のとらえ直しをはかろうとするものである。
情意的側面と認知的側面を統合した人格が語られる背景には、系統・構造重視のもとでの感情と知性、情緒と思考の分裂という問題があったからにほかならない。
したがって、自己実現的人格をめざす学習指導には、@人間は思考的存在であるのみならず、同時に感情的な存在であること、A感情から分離された知性は空虚であり、無意味であること、などの考え方が潜在しているのである。
子どもは、活動する場合に思考し、感情をもち、知覚し、判断をくだす全体的な人格になるといえる。
人間中心カリキュラムに基づくの教育は知的能力だけでなく、人間能力の全範囲の発達を目標とするものであった。この目標にしたがって、1970年代のカリキュラムとしてNEA(全米教育協会)は、「並行カリキュラム」(parallel curriculum)を提案していることに注目しなければならない。
提案された並行カリキュラムは、概略つぎのようである。
a カリキュラムT−「学問中心カリキュラ ム」。人間中心カリキュラムは、学問(教 科)中心が追究した知的水準の高さは教育 にとって当然のものとして継承する。しか し、学問的優秀性のみが教育の全体ではな い。そして、この教科の学習にあたっては 、「おもしろく」、かつ「意味深く」教え るように要請されている。
b カリキュラムU−「社会的実験のカリキ ュラム」。戦争と平和、人種差別、経済的 貧困、環境汚染等、子どもの社会生活と密 接に関連した生々しい現実の問題を題材と するカリキュラムである。人間であること の社会的側面を扱うといってもよい。これ らの問題は学習は、子どもに生き生きとし た知的興味を喚起すると考えられる。
c カリキュラムV−「自覚(self-awareness)または自己実現(self-realization) のカリキュラム」。人間の内面的領域にお ける自己実現、自覚、覚醒に関連して、人 間存在への探究をよびさます教育への志向 である。人間であることの個人的側面を扱 う。
(3) 「ゆとりと充実」の学習指導論的観点
アメリカの動向とまさに軌を一にして、わが国の学習指導の問題が大きくクローズアップされた。1977・78年の学習指導要領は、「 豊かな人間性の育成」、「ゆとりのある充実した学校生活」というキャッチフレーズのもとに、落ちこぼれ、受験競争の激化、学力の不振と停滞、非行の増大、心身の健康のゆがみ等、深刻化する教育荒廃への対応姿勢を示したのである。
まず、「人間性豊かな児童生徒の育成」を強調することによって、従来の知識(学問)主義へ傾斜した学校教育を質的に変換し、知育・徳育・体育の調和のとれた人間形成をめざすこととなった。さまざまな問題や矛盾に満ちている教育状況にあって、いま一度、教育の「原点」にたちかえって、「人間中心」による学校の改革を意図しようとしたもの、と解せられよう。子どもの主体性を基礎としつつ、創造的知性、意志力、自律的精神、情操、身体的能力などの人間的資質のトータルな発達が、期待されたのである。
つぎに、「ゆとりのあるしかも充実した学校生活」を実現するために、授業時間の1割削減、教育内容の2〜3割程度の削減によって生ずる学校裁量の自由時間、いわゆる「ゆとりの時間」(週2〜4時間程度)の設置は、学習指導要領改訂の主要な眼目とされた。「ゆとりと充実」も、当然のことながら、「豊かな人間性の育成」という目的に即するものでなければならないであろう。
しかし、その現実はどうであろうか。「ゆとりと充実」と、学習指導との関係はきわめて希薄であり、定型的で形骸化されてとらえられていることはなかったであろうか。結論的に言えば、「ゆとりと充実」をスローガンとして教育活動が展開されたのであるが、いつしか「ゆとり」の側面だけが論議の対象とされ、「充実」の側面はやや軽視されがちになってしまったことである。
すなわち、ゆとりが独走してしまったといえよう。ゆとりは本来、目的ではなく、あくまでも手段であることに留意すべきなのである。「ゆとり」は、量的に考えるものではなく、質が重要である。「ゆとりと充実」のある教育は、なによりも日常の授業の質的改善が大前提であることを確認すべきであろう。
ゆとりある教育即人間性育成の教育である、として短絡的に関連づける風潮のあったことは憂慮されなければならない。

5.「新学力観」時代の学習指導論


1980年代以降は、教育荒廃、とりわけ人間性の喪失にたいして、教育本来のあり方を求めてさまざまな教育改革が提案されている。中央教育審議会(中教審)の審議経過報告(1985)、臨時教育審議会(臨教審)の最終答申(1987)を代表的な提言としてさらに、これらの報告や答申の内容を是認し、踏襲するかのように、教育課程審議会(教課審)の基準の改善について(1987)や学習指導要領の改訂(1989)が公表された。
具体的には、a個性重視の原則、b生涯学習体系の確立、c国際社会に対応する教育、d情報社会に対応する教育、などを見いだすことができる。
(1) 「個性」重視の原則
これらの諸改革で共通しているのは、変化の激しい21世紀に向けて、主体的に対応できる人間の育成という視点であろう。なかでも臨時教育審議会では、「個性重視の原則」は最も重視されなければならない基本的な原則だとして、つぎのように述べている。
「今次教育改革において最も重要なことは、これまでのわが国の根深い病弊である画一性、硬直性、閉鎖性を打破して、個人の尊厳、個性の尊重、自由・自律、自己責任の原則、すなわち<個性重視の原則>を確立することである。この<個性重視の原則>に照らし、教育の内容、方法、制度、政策などの教育の全分野について抜本的に見直していかなければならない」(最終答申)。
こうして、激動する社会の変化に対応するためには、個性的で創造的な人間が求められたと言えるのである。現在のような価値多元化社会にあっては、期待される人間性の育成モデルも多様化しているため、一律に単純化した形で人間性の育成モデルを構想するのは至難である。あえてここで、「個性的な人間」が要請されていると考える論拠は、いま述べた点にある。
個性的な人間の育成は、古くから論じられてきたものでありながらも、新しい解決を迫られている問題である。とくに、人間の非人間化という事実が一般化している今日、新たな観点から見直されなければならない。人間の非人間化は人間の全体性が失われ、個性的なものが消去されることを意味するからである。人間の没個性化の傾向は、今後ますます蔓延化するようにも予想される。ひたひたと押しよせる没個性化の波のなかで、個性的な価値実現や生きがいの創造をめざすためには、個性を尊重しつつ、いかにして個性を変容していくかが問われよう。
(2) 教育の荒廃と「自己教育力」の育成
この問いかけに象徴されているように、「子どもの問題行動」、「過熱した受験競争」、「学校教育の画一性・硬直性」に、歯止めをかけようと1983年、中央教育審議会「教育内容等小委員会」は、21世紀を展望した教育のあり方について「審議経過報告」を行なった。
そのなかで、これからの学校教育で重視しなければならない観点として、a「自己教育力」の育成、b基礎・基本の徹底、c個性と創造性の伸長、d文化と伝統の尊重、をあげている。
そして、「自己教育力」の育成は、他の三つの視点と有機的に関連づけられ、またそれらを統合する概念として使用されているのである。
それでは、「自己教育力」とは何を意味しているのであろうか。この報告では、「自己教育力とは、主体的に学ぶ意志、態度、能力などをいう」として具体的に、つぎの諸項目をあげている。
a 自己教育力とは、まずもって学習への意欲である。
b 自己教育力は、さらに学習の仕方の習得である。
c 自己教育力はこれからの変化の激しい社会における生き方の問題にかかわるものである。
自己教育力の育成は、今後における学習指導の改善の基本的観点を提言したものであり、今日においても教育界のキー概念として重要視されていることを銘記しなければならない。
学習のエネルギー源となる「学習意欲」、さらに「学習の仕方」を習得することによって、絶えずよりよい「生き方」を探究しながら、自らの生き方を問いかえし自己改善をはかっていく能力、これが自己教育力と考えられるからである。
(3) 社会の変化への対応と学習指導
1989年には幼稚園教育要領および小・中・高等学校の学習指導要領が全面的に改訂された。改訂の柱は、「心豊かな人間の育成」、「基礎・基本の重視と個性教育の推進」、「自己教育力の育成」、「文化と伝統の尊重と国際理解教育の推進」である。
今回の改訂で大きく変更のあったのは、小学校低学年の理科・社会科の廃止と「生活科」の新設、高校社会科を解体し、公民科・地歴科の新設、道徳教育の重視、国際社会に生きる日本人としての自覚の強調、国旗・国歌の指導の要求、中学での習熟度別指導の強調などであった。
小・中・高等学校の学習指導要領の総則第1の1において、「学校の教育活動を進める当たっては、自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応する能力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の指導を徹底し、個性を生かす教育の充実に努めなければならない」と述べられている。
このうち、自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応する能力は、「自己教育力」と言い換えることができ、したがって「自己教育力」、「基礎・基本」、「個性」は、現行学習指導要領の三つのキー・ワードを意味しているのである。
このキー・ワードのうち、「自己教育力の育成」については、前項で触れたが、つぎのように考えられよう。
すなわち、高度情報化、国際化、価値多元化など、今日の社会の変化には著しいものがあり、今後はさらに拡大し加速化することが予想される。これからの学校教育においては、このような変化の激しい社会のなかで、生涯を通して学び続け、たくましく生きぬいていくための基盤となる力を育成することが重要である。
そのためには、まず児童生徒一人ひとりが自らのものの見方や考え方をもって主体的に判断し行動できる能力を培うため、思考力・判断力・表現力などの能力、とりわけ、新たな発想を生みだすもとになる論理的な思考力や想像力、直観力などを重視しなければならない。
つぎに、生涯にわたる学習を培うという観点に立って、自ら学ぶ目標を定め、何をどのように学ぶかという主体的な学習の仕方を身につけさせるとともに体験的な学習や問題解決的な学習などを通して、学ぶことの楽しさや成就感を体得させることなどにより、自ら学ぶ意欲を育てるように配慮するのである。
基礎・基本」と「個性」のキー・ワードについては、小・中学校段階は、生涯にわたる人間形成の基礎を培う場であり、人間が一生を通じて成長・発達し、豊かな個性を発揮していくための基礎を培うとともに、国家・社会の一員として必要とされる基礎的な資質を養っていくことが要請される。
このため、学校教育においては、基礎的・基本的な内容の指導を徹底することにより、これを確実に身につけさせ、さらにそのプロセスを通じ、また、それを基盤として一人ひとりの児童生徒の個性を生かすように努めなければならないのである。基礎的・基本的な内容の徹底というのは、これらの内容が一人ひとりの児童生徒に確実に身につき、生きた力となることを意味している。
また、個性を生かす教育の充実は、一人ひとりの児童生徒の個性をかけがえのないものとして積極的にとらえ、それをよりよい方向に生かしていくことである。
ここに述べられた基本理念は、現行学習指導要領がめざす最も重要な視点であると同時に、これからの学習指導論の構築の視座を提供していると言えるのである。
(4) 「新しい学力観」に立つ学習指導の構想
いま、「新しい学力観」時代とも言われている。「新学力観」という言葉自体は、今回の学習指導要領の改訂では使われていなかったのであるが、評価にかかわる指導要録の改訂作業の段階で使用されはじめたように思われる。
指導要録は、学習指導要領で示されている教科等の目標や内容を受けて、主として評価・評定等を取りあつかう。目標、内容、評価の一体化が強調されているように、指導要録で示す観点別学習状況の各教科の観点は、基本的な考え方において、学習指導要領で示された各教科の目標、内容と一貫性をもっていなければならないものであろう。
1991年の指導要録の改訂において、指導要録改善の今日的意義とその基本的な考え方を3項目で示した。その第一項目の改善内容が、「新学力観に立つ評価の重視」であった。ここではじめて、新しい学力観という用語が使われたともいわれているのである。そして、観点別学習状況の各教科の評価の観点として、@「関心・意欲・態度」、A「思考・判断」、B「技能・表現」、C「知識・理解」という4つの観点から構成されることになった。
すなわち、新しい学力観とは、自ら学ぶ意欲や社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を強調したものであり、個性重視の教育であり、「知識・理解・技能」のみならず、「関心・意欲・態度」や「思考力・判断力・表現力」を重視していこうというものと考えられる。
ここで、「自ら学ぶ意欲」とは、新たな課題などを見つけ、それをよりよく解決したり、よりよいもの、より確かなもの、より納得できるものをめざして追究し続ける態度に支えられたものである。
「思考力」は、自分のよりよく生きたいという思いや願いに基づいてその実現のために論理的に考えたり、想像力や直観力を働かせたりして、表現や行動などのよりよい方向や方法などを見いだす資質や能力を意味する。 また、「判断力」は、解決したり、実現したりしたい課題や意図などについて考えたことを統合して、その解決や実現の見通しや方向などを決める資質や能力である。
そして、「表現力」については、自ら考えたり、判断したりしたことなどを自分のよさである技能などを生かしながら、的確にあるいは創造的に表現する資質や能力である、と規定されているのである。
この新しい学力観に立つ学習指導のあり方について、文部省の『新しい学力観に立つ教育課程の創造と展開』(東洋館出版社)では、つぎのように述べられている。 これからの教育においては、これまでの知 識や技能を共通的に身につけさせることを 重視して進められてきた学習指導のあり方 を根本的に見直し、子どもたちが進んで課 題をみつけ、自ら考え、主体的に判断した り、表現したりして、解決したりすること ができる資質や能力を重視する学習指導へ と転換を図る必要がある。
このような新しい学力観に立つ学習指導は 、子どもたちが自分の考え、夢や希望などの思いに基づいて、これまでの学習や生活 の経験、よさや可能性を生かしながら、新 しい課題などをみつけ、自ら考えたり、判 断したり、試みたり、表現したりして解決 することを基軸にして展開しなければなら ない。その過程で、その後の学習や生活に おける新たな課題の解決に生きるような知 識や技能を自ら獲得したり、高めたりする 必要がある。このような資質や能力は、子 ども一人一人が自らのよさを生かして獲得 したものであっておのずと個性的なもので あり、豊かな自己実現に生きて働く力である。
このような学習指導は、子ども一人一人が 人間、自然、社会、文化などのよさに進ん でかかわりながら、自らのよさや可能性を 豊かにしたり高めたりしていく過程である 。それは、自らの生き方や考え方などを創 造していく過程であり、豊かな心をはぐく んでいく過程である。このようにしてはぐ くまれる豊かな心は、子どもたちの実際の 学習や生活のあり方を豊かなものにしてい くことになるのである。
こうした新しい学習指導観を構想するためには、なによりも教師の指導観や子どもの学習観の転換、さらには指導と一体をなす評価観へと改善を図ることが要請されていることに留意すべきであろう。そして、いまや、新学力観を具現することによる学習指導の成果が期待されているのである。
これまで、まったくの素描にすぎないが、カリキュラムや学習指導の考え方がどのような歴史的経過をたどって今日にまで至ったか、を明らかにしてきた。そこで確認されうる学習指導の要諦は、子ども自身の問題意識に即して、絶えず進歩する科学や学問の体系を学ばせ、それがどうしたら実質的に人間形成に資するものとなるか、ということである。 すなわち、知識や技能を態度にまで高め、また態度は知識や技能に支えられるものとして組織され、追究されることによってはじめて人間形成に寄与するものなのである。それは、学力と人間形成との間には密接な関連がなければならないことを意味している。「わかること」と「生きること」が統一されることでなければならないのである。

6.学習指導活性化の基本的観点


(1) ファジー理論と教師の自己変革への期待
今、ちょっとしたファジー・ブームの感がある。ファジー理論のファジー(fuzzy)は 通常、「あいまい」と訳される。あいまいな情報をどう処理・推論し、適切な結論を得るか、そのための論理の組み立て、手法を考えだすのがファジー理論である。
たとえば、「暑い」を厳密に定義することは困難である。気温が25゜C で暑いと感じる 人もいれば、30°Cでも暑くない人もいて境 目がはっきりしないからである。これがあいまい情報である。また、巧打者は投球されるボールの大体のスピードやコースの変化を一瞬のうちに読みとり、ヒットを量産するものであろう。時速何キロの球だから何度の角度でバットを出すなどと考えているヒマはないのである。
あいまい情報は、日常の生活や仕事のなかに無数にある。「少し」「適当に」「早く」「若い」「年ごろ」「中年」「勉強ができる」「考えが古い」「曇り、所によりにわか雨」等々、こうしたあいまいな情報を頼りに、状況を適当に判断し、行動し、コミュニケーションを交わす。それでいて日常生活においてほとんど支障がない。むしろ、あまり厳密に数字で表現されるより、あいまいであったほうが好都合な場合が多いことを私たちは経験的に知っているのである。
ファジー理論は、端的にいって、こうした人間の知識や経験、ノウハウ、カンやコツ、名人芸といったあいまい情報を、いかにコンピュータに組み込むかという方法論である。人間が考えること、つまりコンピュータの人間化を図るには「あいまいさ」を排除してはならないという教訓は、授業において、より一層重視される必要がある。
ファジーが取り込むあいまいな要素は、従来の科学的アプローチでは割り切れないカンやコツを強調するものであり、合法則的なプロセスよりも非合理的な側面、いわば芸術的ともいえる要素を視座に据えていると推断されるからである。
ファジー理論は、人間は個性的な存在であるから画一的に対応するわけにはいかないという前提から、人間らしさを回復する意図、教育の人間化、すなわち「人間性尊重」の風土が、共通にみられることに留意すべきであろう。
授業の科学化・法則化にみられる固定化・機械化に警鐘を鳴らし、芸術的要素による人間化をめざした学習指導を活性化するためには、教師の自己変革が不可欠のポイントである。
このポイントは具体的に、「物事を割り切ることへの抵抗を示す」というテーゼに尽きる。あいまいで不明確な事象を見なおすことである。物事を白か黒かという「二値論理」で割り切ったり、白と黒の間の灰色の部分を切り捨てないことに連なる。授業のプロセスにおいては、一部正解を許容しつつ子どもに存在感を与えてやる配慮が重要なのである。
(2) 「個性重視」の具体的授業像
個性を生かす教育は今後、教育実践に深い関連をもってくることは自明である。しかし、その内実たる個性化・個別化をねらう具体的な授業像は、どの論調をみてもはっきりしない。
その理由は、わが国の教育は共通の価値観に支えられた根強い画一性をその特質としているからである。この画一性への反省なくして個性を生かす教育は、結実をみることはないであろう。画一性への反省を大前提として、次のような伝統的な授業の実態とその克服方策が、教師に課せられた焦眉の基本的課題である。
第1に、「与えられた一つの共通課題を、同じペースで、同じメディアを使って、子どもが教師の顔色をうかがいながら、一つの正答をめざす授業」の実態。子どものこだわり(興味・関心)からの課題づくり、たとえ与えられた共通課題であっても、追究方法を多様化するなど、子どもを発信者としつつ、出番をあたえる教師の方策が肝要である。出番があれば、個性を育てる授業は可能と考えられよう。
第2に、「教師の説明が35分、子どもの活動が10分、できなければ家庭学習に」という実態。教師の教える時間が長すぎるのである。この時間配分を逆転させる配慮が重要であろう。そのためには、教材や発問を吟味し、机間指導をきめ細かくする配慮が必要である。画一性は教師の発問・指示、教材解釈や子どものとらえ方の画一性にあるといったら、言い過ぎであろうか。
(3) 「新学力観」のトライアングル・モデル
新学力観に基づく教育実践が展開されるようになって数年を経た今、新学力観に立脚する教育の利点について多くが語られるようになった。たとえば、子どもを徹底的に中心に据える「活動型授業構成」が盛んになったという。他方、授業そのものは旧態依然たる状態である、という批判があることも事実である。
その批判の最たる点は、「活動型授業構成」のメリットは大きいが、活動させることによって「知識・理解」や「思考力」は確実に体得できるのかという危惧であろう。すなわち、新学力観の提唱によって知識・理解や思考力が軽視されているのではなかろうかという指摘が多いのである。
既述したように、新学力観が求める資質・能力は、a「関心・意欲・態度」b「思考・判断」c「技能・表現」d「知識・理解」の4観点によって構成されている。この4つの観点は、学力の内実から吟味すると、次の3側面に整理することができる。
第1は、学力の「情意的(エネルギー的)側面」としての「関心・意欲・態度」であり、学習指導過程においては「導入」で重視される。
第2は、学力の「機能的側面」としての「思考力・判断力・表現力」であり、主として「展開」で強調される。
第3は、学力の「内容的側面」としての「知識・理解・技能」であり、「終末」で力点がおかれる。
もちろん、「関心・意欲・態度」は、導入段階にとどまらず、展開や終末でも維持・持続することが大切である。同様に、「思考力・判断力・表現力」も「知識・理解・技能」もそれぞれ、すべての段階で重視されなければならない。ただ、重点の置き方に違いがみられるのである。
ところで、この学力の3側面をどのように理解するかが、新学力観を具現できるか否かのポイントとなろう。まずもって、「関心・意欲・態度」と「思考力・判断力・表現力」と「知識・理解・技能」の3側面をバラバラに分断しては新学力観の真髄を理解することにはならないことを知るべきである。
これら3側面が、相対的に独自性を保ちながらも、楽器のトライアングルのように全体に響きわたって統合され、結果として「個性重視」あるいは「自己実現」の学力として定着することでなければならない。新学力観の「トライアングル・モデル」と称するゆえんである。新学力観の論議において、この「統合」や「全体構造的」に把握する観点が、現在やや弱いと考えるからである。
このトライアングル・モデルにしたがえば、「知識・理解・技能」が不十分なところに「思考・判断・表現」は機能しないし、「関心・意欲・態度」も育成されないことを意味する。同様に、「関心・意欲・態度」を軽視するところでは、思考力を保証することはできないし、いわんや知識・理解・技能の定着も至難であろう。
活動型授業によって、「関心・意欲・態度」に訴えつつも、最終的には「知識・理解・技能」が体得される配慮がなされなければならない。新学力観は、学力のエネルギー的側面を過重視して、「知識・理解・技能」や「思考力」を決して軽視するものではないことを、改めて確認しておくべきであろう。
(4) 「支援」は子ども観の転換を前提に
現在、「指導よりも支援へ」をスローガンとした教師の授業観や学習観の意識的変革が実現しつつある。他方、新学力観に基づく支援の在り方を考えるとき、「指導」という用語を「支援」に変えれば新学力観に立っていると皮相的に理解していることはないであろうか、と危惧するものである。
異論のあることを承知で、極端に言えば、「指導」概念は、授業の目標、内容、方法、評価において教師主導であり、子どもは教師の働きかけを全面的に受け入れる姿勢が強いというニュアンスをもつ。子どもはいつも教師の指示待ちとなり、教師に対して受け身となろう。
これに反して「支援」概念は、学習活動の主導権を完全に子どもの立場に委ねることであり、授業の目標、内容、方法、評価のすべてを子どもの立場に立って授業構想することを意味している。その構想を実現するためには、子どもに「授業の進行をまかせる」ことである。学習活動のプロセスを子ども自身の計画で進めるような配慮が望ましい。いつも指示待ちであっては、支援を実質化することは期待できない。授業進行の力は子どもにもある、と信じつつ実践することが重要であろう。
子どもの立場に立って「支援する」という指導観の変換は、本来、はじめに指導内容ありきではなく、「まず子どもありき」という「子ども観の転換」を求めていたはずであった。しかるに、子どもの活動に即した支援という形をとりながらも、実は教師のねらいや学習指導計画の実現の方向で指示や助言を与えている場合が多いように思う。教師が指導内容を教えなければならないという構えから抜けきれない実情がみられるのである。
支援する教育は、子ども観の転換を前提とすべきではなかろうか。子ども観の転換は、授業において重力の中心を子どもに移すことに尽きる。「指導から支援へ」というスローガンを掲げつつも、子どもを徹底的に中心に据える点で、まだまだ不十分のように思われる。
新学力観による学習指導の活性化には、改めて「子ども観の転換」を主軸とした授業や支援の在り方が論議されなければならない。

7.おわりに −「不易と流行」の洞察−


「教育は教師しだいである」といわれる。学校を質的で豊かなものにするためには、教師の姿勢や力量に依存しているのである。 戦後わが国のカリキュラムの変遷、ならびに学習指導活性化の基本的観点を検討してきた結果、教育における「不易」と「流行」について考えざるを得ない。臨教審の最終答申にみられるように、教育は「不易と流行」との両面を統一する営みである。教師は、時代を越えて変わらないもの(不易)と同時に、変わりゆく社会・変わりゆく子どもの実態(流行)に無力であってはならない。この両面を視野に入れつつ、日常の教育実践を展開しなければならないのである。
もちろん、不易と流行を一義的に確定することの危険性も承知している。しかし、統一を欠いて流行に固執すれば軽佻浮薄に堕するであろうし、不易に拘泥すれば独断と硬直に陥るという教育の本質的な難しさがあると指摘されているからである。
ともあれ、教師には不易と流行の両面についての深い洞察が不可欠であり、鋭敏な感覚・センスをもつ人間でなければならない。
深い教育実践を行なうためには、確固とした理論がなければならない。逆に、しっかりした理論なくして、質的で豊かな教育は不可能であろう。不易と流行にしても、不易と流行を識別する尺度が必要である。その尺度は教育理論による、と推断される。したがって、教育理論に精通することが、学習指導を活性化する鍵であると考えたい。 かくして、理論や本質に基づいて、多角的かつ謙虚に教育事象を問い直すことが教師の姿勢変革、さらには学習指導活性化の要諦である、と結論づけることができるのである。
[参考文献]

1 高田喜久司著『学習指導の理論と実践』(樹村房,1966)
2 デューイ著・松野安男訳『民主主義と教育(上)(下)』(岩波文庫,1975)
3 ブルーナー著・佐藤三郎他訳『教育の過程』(岩波書店,1963)
4 稲葉宏雄著『現代教育課程論』(あゆみ出版,1984)
5 全米教育協会著・伊東博解説・訳『人間中心の教育課程』(明治図書,1976)
6 船山謙次著『戦後日本教育論争史』(東洋館出版社,1958)
7 文部省『新しい学力観に立つ教育課程の創造と展開』(東洋館出版社,1993)
8 向殿政男他著『ファジー−「あいまい」の科学』(岩波書店,1990)

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