Ernestによれば、数学の対話的本性は少なくとも4つの仕方で見いだされる。第一は数学的言語のレベルである。数学を主としてシンボル的活動と見ると、それは読者に語りかけるものであるから、会話的であるはずだとする。書かれた証明にしても、誰かを説得するためのものとすると、それは説得される相手を前提とし、しかもそうした相手からの反論に先んずる形で進められている。また数学のテキストの中では、場面によって表示的な書き方と命令的な書き方が使い分けられている点も指摘される。第二は概念のレベルである。例えば 論法であれば、「あなたがどのような小さな !を持ち出してきたとしても、私は必ずや条件を満たすような "を見つけてみせよう」といった対話として解釈することが可能であり、その意味で極限の概念は対話を内包していると言えるのである。第三は証明の起源や基礎のレベルである。ここでは証明自体を分析するのではなく、Ernestは他の研究者の見解を引用する。一つは古代ギリシアにおける証明の起源に関する研究であり、もう一つは現代的な証明論である。これらより、証明の起源においても、また現代的な定式化においても、証明は対話的なやり取りに根ざしていることを述べる。第四は数学の認識論および方法論のレベルである。ここでは主としてLakatosの「証明と論駁」法がとりあげられるが、Ernestはこれを一般化している。その図式では(i) ある科学的文脈においてテーゼが出される; (ii)受容的反応とともに批判的反応も出されアンチテーゼとなる; (iii) 提案の修正などの局所的再構成とメタ数学的レベルでの大局的再構成によりジンテーゼとなる; (iv) 新たな文脈が生まれる、といったプロセスが数学的発見のサイクルとして提示される。この中に対話的あるいは弁証法的図式は明白に見て取れるとErnestは言う。さらに彼はアカデミックな文脈と学校の文脈を統合した図式を提示し(p.45の図)、会話と弁証法とは教授-学習でも本質的役割をすると述べている。
第四の内容は近年の多くの研究者の関心と重なるが、詳しくは印刷中とされる彼のSocial Constructivism as a Philosophy of Mathematicsを待つことになろう。