PME18参加報告 (その2)


 今回は、筆者が聞いた発表の中から、印象に残っているものをいくつか報告してみたい。とは言え、筆者の英語力の不足のために、発表内容についてはProceedingsの論文に依拠している点をお断りしておきたい。

 筆者は数学的問題解決に興味があるので、まずタイトルにつられてChapman氏の発表 "Teaching Problem Solving: A Teacher's Perspective" を聞きにいった。内容は前回の参加報告 (その1) でも触れたように、問題解決指導そのものについての研究というよりも、教師教育的性格の強いものであった。Chapman氏は黒板の前の机に座り、机の上で両手を組んだ状態で淡々と話をしていく。とは言えProceedingsの論文をそのまま読むというのでもなく、むしろミニ講演会といった雰囲気であろうか。彼女のそうしたスタイルは、日本の学会などでは私自身はあまりなじみがないので、そのこと自体が少し驚きであった。内容的には、一人の教師の授業の観察、インタビューやディスカッションに基づいて、その教師の問題解決の授業のスタイルを明らかにすること、またその授業のスタイルと教師の持つ問題の本性や問題解決に対する信念との関係といったことを論ずるものであった。報告されたスタイルは、全体で話をしながら各自が自分なりに問題を理解する段階、グループで解決に取り組む段階、それぞれの解決を全体の場で発表し議論する段階という3段階からなるものであり、少なくとも日本人にとっては当たり前のようなものである。しかしその結論自体はともかく、優れた特定の教師の教授スタイルを、その教師の授業を長期間観察することで捉えていくという研究は、意外に日本では行われていないのではないだろうか。世界のレベルから考えても優秀な教師を有するわが国であってみれば、そうした研究は実り多いものになりそうに感じられた。

 Mountwitten氏 (イスラエル文部省カリキュラムセンター) の発表は、概念形成についてのものであったが、PMEの中の心理学的色合いを強く全面に出したものであった。彼女の発表は、Proceedingsの方の論文を見るとS.Vinner氏との共著 (Mountwitten氏が第一著者) となっているが、プレゼンテーションは彼女が行った。彼らの研究では、事例を通して概念を学習することと、定義や概念の一般的な性質の記述を通して概念を学習することという、二つの学習の仕方の認知的な効果がテーマとなっている。5年生と8年生において二つの仕方で新しい概念を学習してもらい、事後のテストで習得の様子を調べている。特徴的なのは、そこで学習される概念を"人工的に" に作ってしまったことである。等差数列に加え、Stepnum (連続した数字からなり、それらが大きいものから小さいものへあるいは小さいものから大きいものへ並んでいるような自然数)、Seveny (各桁の数の和が7になる自然数)、Rectagon (直角を持つ多角形) といった概念が学習の対象とされている。こうした方法は、心理学では昔からやられていたように思うが、人工的な概念を "数学っぽく" 作ったところが興味深く思われた。こうした実験から、概念の性質と学習の仕方には関連がみられる、5年生であっても定義や性質の記述にのみ基づく学習が可能である、全般的に8年生の方が高い達成度を示すがその差は定義による学習よりも事例による学習において顕著である、などの結論を導いていく。OHPで一見しただけではデータと結論との関係がわかりにくい部分もあったが、全体的にはてきぱきと発表が進められたような感じを受けた。彼らは自分たちの研究が教育的−実践的であるよりは、基礎的−認知的であると述べている。人工的な概念を作り、先行する学習の影響を制御することで変数の制御をしやすくしており、"心理学的な実験" という雰囲気を醸し出しているのだが、それだけに逆に数学の豊かさは失われている。数学的概念であれば、歴史的背景や数学の体系の中での位置づけなどの数学的文脈を持っているはずである。また子どもの日常生活と既に深い関わりを持った概念もあろう。一方で、我々が概念の学習を論ずるときには、事例による方法と定義による方法とに言及することが確かに多いようでもある。そう考えてくると、文脈や背景を持たないとってつけたような概念の学習と、我々が通常算数・数学の授業で行っている概念の学習とはどこが違うのかを考えてみたくなる。様々な点で考えさせられることの多かった発表であった。

 Paul Ernest氏の発表はこれとは対照的に哲学的−理論的側面を強く出した発表であった。彼の発表はさすがに聴衆が多く満員状態であり、彼が今や売れっ子であることを改めて感じた。きわめて早口という訳ではないが、彼の発表ではとにかく登場する研究者の数が多く、かなりの背景的知識を持っていないとついていけない。8ページの論文に引用・参考文献が31件あり、次のような研究者の名前が現れる; Austin, Bachelard, Bakhtin, Barnes, Bartolini-Bussi, Bauersfeld, Bell, Berger, Bernstein, Bishop, Bloor, Blumer, Bruner, Canguilhem, Cobb, Cole, Collins, Coulter, Davis, Davydov, Driver, Durkheim, Edwards, Enriques, Esland, Feyerabend, Foucault, Fuller, Gal'perin, Garfinkel, Gavelek, Geach, Gergen, Goffman, Goldin, Grice, Hanson, Harre, K.Hart, Hersh, Hesse, Kitcher, Knorr-Cetina, Kuhn, Lakatos, Latour, Lave, Leont'ev, Lerman, Lotman, Luckmann, Luria, Mannheim, Mead, Mercer, Mills, Murray, Piaget, Pollard, Restivo, Richards, Rogoff, Ryle, Saxe, Schutz, Secord, Searle, Shotter, Steiner, Toulmin, Vico, Volosinov, Vygotsky, Walkerdine, Weinberg, Wenger, Wertsch, Wittgenstein, Wood, Yackel, Young。これらの名前がOHPの上に現れては消えていく。そして、それらの理論の関係や特徴、問題点等々が話され、最後にはPiaget理論を基本とした急進的構成主義を社会的側面から補った形での社会的構成主義と、Vygotskyの理論を基本とした社会的構成主義とを区別し、数学教育学研究における後者の枠組みの今後の重要性を主張していく。慣れない英語でしかも上のような多くの名前が乱れ飛ぶので、筆者にはとても内容の細部はわからなかったが、その背景の広さに驚くとともに、正直を言えば微妙な問題は棚上げにされているような感じを受けた。例えば、Vygotsky やBloorの話を心や知識が社会的に作られるとして単純化してとらえ、それに基づいて議論が展開されるので、本当かな?とちょっと思ってしまうのである。紙面的にも時間的にも限られたPMEであればしょうがないことかもしれない。それはともかく、広い背景を元に縦横無尽に話を展開する彼のさっそうとした姿は一種魅力的であり、心理学を中心としたPMEにあってこれだけ哲学的・理論的側面に徹した発表を可能とし、多くの聴衆を集めること自体が見事なことように思われた。

 最後に余談ではあるが、PMEのアト・ホームな雰囲気にも触れておきたい。私は筑波の会からの出席であるが、それでもリスボンで何人かの人から久しぶりと挨拶を受けた。ICMEなどに比べると小さい会であるだけに、3〜4回出れば大抵の人と顔見知りになれそうだと、同行の人と話をしたものであった。出不精の筆者ではあるが、機会があればまた参加してみたいと感じた。


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