■質問への回答(1)

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質 問

図のような場合,子どもの学習への意欲は内発的なものから外発的なものへと変化したのでしょうか?

  もし,そうだとするのなら…学校現場では非常に多くの場面でこのような状況が起こっている気がするのですが。

  もしくは,このケースの場合は,一定の制約(「B」というテーマ)のもとで,子どもが変化していくことで,内在化ということになるのでしょうか?

たぶん,どちらも“当たり”です

  これは,どちらも当たっていると思います。

  最初の段階で,子どもたちは総合の時間で調べたいことを各自で考えなさい,と促されます。総合の時間への内発的興味を高めようとする働きかけです。

  しかし,じつは先生の頭の中では,すでに授業の進め方について一定の方針なり枠組みが決まっています。そこで,子どもたちの意見をいろいろと聞きつつも,しだいに先生の意図した方向に近い子どもの意見にスポットライトを当てていき,うまくそれが「多数派」になるように誘導していきます。最後はちゃんと先生が想定したとおりの展開になるというわけです。

  この過程で,「テーマAについて調べてみたい」として総合への内発的意欲が高まっていた子どもは,その希望が採用されなかったことで,総合への取り組みが一気に外発的なものへと変わってしまいます。もっとも,上手な先生は,テーマBへの興味を盛り上げたり,テーマBを調べることでテーマAにもつながるのだなどと理由をつけながら,「希望が無視された」と子どもに思わせないよう,ふんわりとテーマBへと誘導していくわけですが,基本的には,「自分で決めた」テーマから「与えられた」テーマに変わるわけですから,いったん外発に変わってしまうと考えていいでしょう。

  そのうえで,今度はテーマBに対する子どもたちの取り組みに対して,先生がさまざまな働きかけをしていくことで,テーマBへの興味を引き上げ,ひいては総合の時間への興味の内在化を促していると考えられます。

かえって逆効果かも

  これは,総合学習だけでなく,一般の授業でも単元の導入時などでよく見られる風景です。最初は子どもたちに自由に考えさせますが,当然全員の考えに沿って授業を進めるわけにはいかないので,先生の中ではあらかじめシナリオが決まっている,というような状況です。

  最初の2,3回は,子どもたちも先生の想定したシナリオに乗っかってくるかもしれませんが,こうしたやり方が何度も続けば,やがては「自由に考えなさい」という指示そのものが,魅力を失っていくでしょう。毎回毎回,誰の考えが採用されるか予測できないようなスリリングな展開ならいいのですが,多くの場合,意見が採用される人は固定しがち。先生もそれを見越して,そういう人たちの発表は最後にとっておいたりします。となると,ほかの発言者たちが,「どうせあれこれ考えたって…」となってしまうのは予想がつきますよね。

  これでは,導入時の興味づけどころか,かえって毎回,わざわざ単元への興味を減じた状態を作り出したうえで,授業を開始しているのかもしれないのです。

自由にさせたいなら制約条件を明示しよう

  何の制約条件もなく完全に子どもたちに自由に考えさせたいのなら,どんな子どもの発想にも,先生がしっかりとついていけるよう心の準備をしておく必要があるでしょう。子どもが納得したうえでであれば,先ほど書いたような,テーマBへとうまく誘導する戦略も,この中に含めていいと思います。「自由に考えさせたからそれでいいでしょ」ではなく,せっかく出てきた自由な発想に対してきちんとフォローしてあげなければ,自主性・自律性の芽なんてすぐにしぼんでしまいます。

  でも実際には,授業の運営上いろいろと制約条件はあるわけで,それならば,その制約条件をきちんと明示したうえで,活動させた方がいいと思います。細かな点までいちいち示せとはいいませんが,大きく逸脱しては先生が困るというような条件は,前もって示しておくべきです。その方が,結果的に,子どもたちは自由に発想しやすいのではないでしょうか。

  たとえば,

「先生としては,今年度の総合をこんな方向にもっていきたいと考えているので,みんなもできるだけその方向で考えてみてほしい。」とか,

「自由に考えてよいが,グループで取り組むので,必ずしも全員の希望通りになるわけではない。できるだけ,ほかの人たちにも賛同してもらえそうなテーマを考えよう。」

とか,提示のしかたはいろいろと工夫できると思います。

  と,ここまで書いてきてヘンなことが気になり出しました。勘ぐりすぎだとは思いますが,もしかすると,「自由」とか「自律」とか響きのいいスローガンのもと,そういうときには,先生は一切制約条件を設けてはイカン!みたいな価値観があったりしないでしょうか。それによって先生自身が,当然あるはずの制約条件を自覚していない,なんてことはないでしょうか。だとしたら,まずはそこから,ということになるのですが。

知識獲得後の自由な活動

  総合の話はちょっと特殊なので,ふだんの授業での導入時の自由な活動についても,少し書いておきます。何の予備知識も手がかりもない導入段階で,子どもたちに自由に活動させても,活動内容が拡散しすぎて教師の手に負えない,子どもたちも何をやっていいかわからず,活動が停滞することもしばしば見られる,など,導入時の自由な活動に対しては,けっこう懐疑的な指摘を耳にします。

  私自身も,研究授業などを見ていると,同じような感想を持つことがあります。自由に考えろといわれても,先生が回ってくるまでまったく動き出せない子どもがいることもそうですし,いろいろと斬新なアイディアが出てきたのに,そちらは板書に残しただけであっさりと流し,本命のアイディアが出てきたとたん,わかりやすく態度が一変する先生も,ときどきお見かけします。(あくまでときどきですけどね。)あるときなどは,グループの話し合いの中で,A君の意見はきっと「正解」だからあとにとっておいて,最初はこっちをグループの意見として発表しよう,なんてことを話し合っていた中学生がいました。生徒に気を遣わせてしまう授業って…。

  これに対して,授業の最初ではなく,授業のあとに,授業で学んだ知識やルールを使って,それが他の場面でも当てはまるか試したり,似たような事例がもっと見つからないか自由に探索させるような活動だと,一定の知識・ルールが全員にとっての基盤となるので,活動内容を,教師も生徒もコントロールしやすい,として奨励している人たちがいます。私もこれには賛成です。こちらであれば,先生が一定方向に誘導していく必要はありませんから,子どもたちも自分の好きな事例に,思う存分取り組むことができるのではないでしょうか。

  導入時の活動を否定するわけではけっしてありませんが,一辺倒である必要もないだろうと思います。展開のバリエーションのひとつとしては,授業後の自由な活動という選択肢も,もっていていいかもしれません。

 最近流行のアクティブ・ラーニングの事例として紹介されている実践の中にも,まず教員が学習内容をざっと説明し,あとは課題を提示して,不明なところは生徒間で教え合いながら課題解決に向かわせるというようなやり方があるようです。これなども,思考ツールとしての知識を先に生徒に提示し,それを使いながら自分たちで考えさせ,課題解決とともに知識の深化もめざしているという意味では,共通性がありそうです。

【知識獲得後の活動に関する参考文献】