『学習心理学特論』の
レポートについて

2000年度版


『学習心理学特論』(修士:前期金4限)のレポートで気づいたこと


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■ いろいろ集まりました

  またまた遅くなってしまったレポートの講評,今年はもううだうだ言い訳するのはやめて,さっそくはじめることにします。(なお,99年度の講評はまだ終わったわけではありません…たぶん)

  今年もまた,たくさんの事例が集まりました。例年定番になっている合唱コンクールや校内マラソン大会,ごほうびシールの事例(べつにこれらが質が低いという意味ではありません)はもちろん,スノボ・書道から宗教にいたるまで,じつに多彩な内容でした。

  珍しい事例は,「クロスカントリー・スキー」と「ウェイトリフティング」。クロスカントリーは,本人のスキルのほかに当日の雪面状態にあわせたワックス技術が大きな要因となっているのだそうで,そのことと原因帰属との関係の分析は,なるほどと思わされました。雪面を「読んで」ワックスを選び,入念に板を整備して送り出す先生と,それを信じて走る選手。それでも不本意な成績に終わったとき,それを選手が,自分の実力のせいにするのか,先生のワックス選びのせいにするのか。またそれは,選手にとって外的要因なのか内的要因なのか…。これはなかなかおもしろい領域です。

  一方,ウェイト・リフティングも,競技上の駆け引きがひじょうに重要で,それが選手の心理状態と密接に関係しているようです。ただ,レポートはそちらの問題ではなく,けっしてメジャーではないウェイト・リフティング部に新入生を勧誘するための,涙ぐましい(?)外発的動機づけ策の数々と,その達成動機への発展のお話でした。ま,これはこれでとても楽しませてもらいました。

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■ 予想通り?

  なぜか今年は,授業でお話ししたことに比較的沿った事例が多く,なぁるほどこんな事例にも適用できるのかとか,これは授業で扱った動機づけ理論では解釈できない,といった意外性のある事例は,少なかったように思います。

  だから質が低いとか,がっかりしているというわけではありません。たとえば,自主学習のチェックのためにシールを使っていたら,自主学習をしてもいないのにインチキをしてシールを貼ってしまう子が出てきて,それまでまじめに自主学習を続けてきた子がすっかりノートを提出しなくなったという事例や,歌唱の不得意な子どもは,「私の好きなこの一曲」として自分で選曲して歌唱発表するやり方を選択する傾向が強く,その中で,ふだんは尻込みする独唱を進んで希望し,授業時間外も自主的に練習しているという事例などは,来年の授業でさっそく紹介できそうです。プリントをちゃんとやれば算数の成績があがるのがわかったから,ごほうびシールなんかいらない,と言った5年生の事例も,おもしろい事例でした。

  でも,この「講評」では,なるべくお話ししたこと以外での理論の広がりを紹介したいので,その点ではおもしろいレポートでも紹介しづらいということもあります。

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■ 受験への不安

  切実さがひしひしと伝わってきたのが,本学受験間際の不安と焦りを分析したレポート。「現職派遣教員には有利」という噂と,取り寄せた「過去問」にまったく歯が立たないという現実を前に,途方に暮れながらプール当番をする姿から,レポートは始まります(絵になるね)。だいいち,教採以来十数年ぶりの受験。専門的な学問分野からすっかり遠ざかっているという現実。受験が決まってから試験日までの準備期間の短さ。これがプレッシャーにならないわけがありません。

  受験勉強を始めなきゃ,と焦りはするが,いざ取りかかると勉強した内容がなかなか頭に入ってこない。やり出すたびに,「こんな勉強でほんとうに問題が解けるのか?」,「本を読んでもぜんぜんわからないけれど,自分はバカじゃないか」という考えが頭いっぱいに広がり,ますます勉強をじゃまする。いやあ,これはみごとな認知的干渉ですね。ここまでくれば本格的なテスト不安症状といえるでしょう。

  せめて周りに同じ境遇の人がいればちがうのでしょうが,周りはみんな夏休みでのんびりムード。そこへ校長から「勉強ははかどっているかい?」などと声をかけられようものなら,ますます不安が募ってしまうのです。

  しかし,著者は立ち直ります。「短い時間の中で,何ならできそうか」 著者は,そこに焦点を当てていきます。まず第2志望の勉強を捨て,さらに第1志望の複数の分野のうち,どこから手をつけるかを絞っていきました。こうして,「受験」という漠然とした目標が,「ここを勉強しよう」という達成可能な具体的目標となると事態は好転していきます。著者は「3日間でこの本1冊読むぞ」「学習指導要領はおさえておこう」というように,行動方略を計画していきます。こうなれば,少しは落ち着いて勉強に取り組めます。ときおり不安が顔を出しても,

  「テストを受けるのは不安だが,勉強しないでいるのはもっと不安だ。」

と考えます。この考えは一見ネガティブな選択のようにみえますが,むしろ開き直りといっていいでしょう。合理化したり他の原因に転嫁したりせず,自分の力でなんとか対処しようとしている点で,この考え方は合理的なものであり,一種の自己信頼感が芽生えてきているといえるかもしれません。ここまでくれば「達成志向的」な勉強が可能になります。

  結果は…,もちろんこのレポートを書いているくらいですから,無事合格されたわけで,めでたしめでたし。

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■ 教師のはたらきかけはすべて外発的

  今まで「内発的」だと思って自信をもって実践してきた内容が,授業を聞いて外発的だったとわかり,恥ずかしく思っています。

  毎年,何人かの人が,レポートにこう書いて来てくれます。「内発的」とはなにか,「外発的」とはなにかをきちんと理解し,それぞれの実践をもう一度見直してくれることは,授業の目標の一つでもあり,喜ばしいことなのですが,一方で多少の後ろめたさを感じるのは,内発的動機づけを強調しすぎたあまり,外発的なはたらきかけを,必要以上に「悪者扱い」してしまったのではないかということです。

  授業では,内発的動機づけの定義をかなり狭い範囲に限定して,外発的動機づけと対比させました。あの定義からいえば,教師を含めた他者からのはたらきかけは,すべて「外発的」なはたらきかけということになります。他者からの内発的なはたらきかけなんて,もともとないのです。どんなはたらきかけも,子どもたちが自分自身で納得し,自分なりの価値づけを行って内在化したときにはじめて内発的になるのです。

  だから,教師のはたらきかけが外発的だからといって,それ自体でがっかりする必要は少しもありません。

  さらに,すぐれた外発的動機づけは,子どもたちの行動をコントロールするのではなく,子どもたちに自律的な達成動機あるいはパフォーマンス目標を開発することができます。たとえば今年は,漢字テストの事例がありましたが,漢字の学習などは,内発的に学習しているという状態がなかなかイメージしにくい対象です。自分で文章を書くときになるべく漢字を使うとか,この単語は必ず漢字・この単語はひらがなというようにこだわっている…というような場合が,「内発的」といえるでしょうか。学校では,そうした境地に至るために必要な基礎として,多くの漢字を覚え,また覚えるためにきちんと練習する,という習慣を培うことになるでしょう。こうした領域では,内発性だけを問題にしたはたらきかけはどうしても無理があります。

  さて,先ほどのレポートですが,漢字テストの成績をポイント化して,事前の練習・まちがった問題の直しを含めてポイント換算するという評価システムの報告でした。テストで90点の人も,練習と直しをきちんと実施してあれば,100点の人とそう変わらないポイントを獲得できます。それに対して,100点をとっても練習を提出しない場合はポイントがだいぶ低くなります。また,100点を連続してとるほど,事前の練習回数を減らしていい,というごほうびも用意してあります。

  これは,きわめて明快な評価システムです。また,テスト成績だけでなく,練習や直しを重視した評価により,「どのように練習したらいいか」という学習方略を明確に提示しているわけですし,練習や直しへの取り組みが正当に評価されることで,漢字が苦手な子どもでもとっつきやすいものとなっていると思います。テストの内容も,40%くらいが100点とれる程度のものだそうですから,だれもがじゅうぶんに意欲をもって取り組めそうです。また,100点とれば練習回数が少なくなるというごほうびも,物質的報酬のように課題とかけ離れたものではなく,課題に沿ったものです。100点とり続けているということは,練習しなくても漢字を知っているとも考えられるわけですから,覚えているのに練習を反復しなくてはいけないという不満を抑える意味でも,このシステムは有効なのかもしれません。

  レポートでは,一時学習意欲も成績も落としていた生徒が,このシステムで漢字テストを繰り返す中で,自信を回復していった過程が述べられています。それは,このシステムが,具体的な学習目標と学習方略を明快に提示できたことによるのではないかと,私には思えます。つまり「構造化」の影響ですね。外的報酬そのものが悪いのではなく,それをどのように提示するかが重要だと,授業でも強調しました。教師ができることは,内在化へとつながる可能性のある「内発的動機づけの芽」を,できるだけたくさん発芽させてあげること。そしてそのために,外発的なはたらきかけをできるだけ自律性支援的なやり方で実践していくこと。教師の役割はここまででいいのではないでしょうか。こうして獲得された漢字への自信が,漢字の利用や国語学習全体への「内発的」意欲へと発展するかどうかは,生徒自身のこれからの心の動きの問題なのでしょう。

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■ そのほかに

  もうひとつ紹介したかったレポートは,「努力型」で実質的なリーダーとして部活を引っぱった生徒と「天才型」で能力を過信する生徒との,進学問題と親とのかかわりを書いたレポートですが,これはそうとう登場人物のプライバシーに踏み込んだ内容でしたので,ここで紹介するのは遠慮したいと思います。いろいろな面から分析できて,おもしろいのですけどね。

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■ 残念だったこと

  その1。今年,1人だけDをつけるかどうかひじょうに迷った人がいます。ほとんどが,おそらくは本で調べたのであろう理論のまとめで,最後にほんの少し事例が書いてあるもの。理論と事例との関連も,もちろんじゅうぶんとれていませんし,いかにもとってつけたような事例だったので,ほんとに迷いましたが,今年はCで通しました。来年からは,課題を出すときに説明したうえで,これはDとして扱いたいと思います。

  その2。授業でも言いましたが,今年は直接にもメールでも,質問がまったくなかったのが,とても残念でした。質問にお答えすることは基本的に好きですし,それによって授業の内容を補い,発展させていけると考えていますので,質問はしてくれたほうがうれしいのです。なんか質問しにくいような雰囲気があったでしょうか? 共通科目の情報処理演習がなくなったせいもあるのでしょうか…。  来年は少し考えなくてはいけないと思っています。かといって,授業中に質問の時間をとってもねえ。

  その3。一度,修論研究に使いたいからある論文の詳しい出典を教えてくれというメールが入りました。で,私は調べてその出典をまたメールで返信したのですが,その後相手からの音信はまったくありません。教えてほしいことを教えてもらったら,ひとこと「ありがとう」というのがフツーじゃないの? ありがとうじゃなくてもいいけど,せめてちゃんとメールが届いたか,教えてあげた内容でよかったのか,ほんとはもっと別の情報が欲しかったのか,ひとこと結果を知らせるのが,手間を取らせた相手に対する礼儀じゃないのかなあ?

  私はこういう人を,基本的に信用しません。


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