『学習心理学特論』の
レポートについて

2001年度版


『学習心理学特論』(修士:前期金4限)のレポートで気づいたこと


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■ 気合い,入ってました

  レポートの説明をしたときに,「最近,現職教員でも自分の授業での動機づけを題材にしない人が増えてきたのはさびしい」などと言ったせいか,今年はいつになく現職教員の人たちに気合いの入ったレポートが目立ちました。関係する資料,たとえば指導案やら学習カードやら,授業の写真やら,子どもたちの作文やらを添付してくれたレポートがたいへん多く,おもしろく読ませてもらいました。子どもたちの作文も,思わず隅から隅まで読んでしまいました。現職教員じゃない人にも,高校時代の模試でとった自分の成績一覧を,回を追って比較できるよう並べて貼りつけてくれた人がいました(あまりにプライベートな資料で,ドキドキしながら見てました)。みなさん,夏休みに実家にもどって資料をいっしょうけんめい探し出してくれたのではないでしょうか。とても読み応えがありました。

  念のために言っておきますが,昨年までのレポートがいいかげんだったわけではけっしてありません。じゅうぶん理解できる,興味深いレポートが多かったのはたしかです。しかし,今年はさらにそれがグレードアップされていたということで,もしかすると来年,このコメントを読んでからレポートを書く人には,大きなプレッシャーになるかも。

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■ Bと評価するワケ

  結果的に,今年は全員AとBの評価に収まりました。CもDも,けっこうつけるときは悩むのですが,幸い今年はそれほど悩まずにすんだわけです。私もだんだん年齢とともに性格も体型も丸くなってきまして(?),あまり「減点法」的な評価をしなくなっています。「大会での優勝をめざして内発的動機づけが高まり」などというあやしい記述も,けっこうあるにはあるのですが,一部がヘンでも全体としてスジが通っていればオッケーという評価になっています。

  ではB評価をつけたのはどういうレポートかというと,今年の場合は,

  1. 事例に対するその理論からの説明の説得力がイマイチなケース

  2. ひとつの事例を,いろいろな理論を持ち出して説明していて,結果的に一貫性がなくなってしまったケース

の2つに分けられます。ただし,ほとんどは1.のタイプです。

  1.のタイプの場合,やはりそれぞれの理論のキーポイントが押さえられているかどうかが重要になります。どうしてその理論から説明できるのか,どういう特徴からそう言えるのか,それをなるべくがんばって記述してほしいと思います。特に内発的動機づけや自己効力は,教育現場でも使われている用語だけに,わりあい曖昧な概念理解のまま事例に適用しようとしているケースが見受けられます。なんとなく「内発的に動機づけられ」たり,なんとなく「効力感を味わ」ったりしているので,読んでいてすっきり落ちてきません。

  もちろん,研究論文のようにきっちり書いてくれ,などとは言いません。しかし,今までのレポートを見ていると,理論をよく理解している人は,事例を記述している段階で,すでにその理論に沿った形で記述内容を整理したり強調したりしていて,だから後の分析を見る前から「うんうん」とうなずきながら見ることができるのです。一方,イマイチなケースの場合はたいてい,事例の記述がどっちにもとれるような表現で,そのうえ理論的分析に具体性がないので,読んでいてつい頭を抱えてしまいます。1.はそういうケースです。

  なかには,こういう意図なんだろうなあとだいたい推測がつくレポートもあるのですが,やはりちゃんと文章として記述されていないものを,こちらで勝手に推測するわけにはいきませんので,厳しい評価にしました。

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■ 説明できりゃいいってものではない

  2.のタイプとは,たとえば事例の一部は達成動機から説明され,別の一部は内発的動機づけから説明されていて,結局のところこの主人公が,結果をめざして行動していたのか活動自体に魅せられて行動していたのか,さっぱりわからない,というようなケースです。キツい言い方をすれば,事例のさまざまな側面が,それぞれ何であれ理論的に説明できたということで満足してしまい,理論間の矛盾にまで目が届いていない,ということができるでしょうか。その事例が全体としてどの理論から説明し得るのか,言いかえれば事例の登場人物が全体としてどのような動機づけのタイプにもとづいて行動していたのかを,一貫して説明する必要があります。一部あてはまらないことがあってもいいんです。あてはまらない部分があると認識することがだいじなんです。そこから理論が発展していくわけですから。

  あてはまりそうな理論を,とにかくいろいろあてはめてみよう,みたいなのは,整理しきれない荷物をとりあえず押し入れに押し込んでしまうのと同じで,すぐに崩れてしまいますよ。

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■ ホンモノか?

  さて今回,BかCかでひじょうに迷ったケースが一つだけあります。それは,事例がホンモノなのか作り話なのか区別できなかったものです。事例の主人公には名前がついていて,それはレポーターの名前とは別のものです。その人がレポーターとどういう関係にあるのか,何の説明もありません。事例の記述もちっとも具体的でないので,正直なところけっこうあやしんでいます。レポートの課題は「あなたの経験」を分析してくれというものなので,作り話は困るのです。しかし,悩み出すと疑いはどんどん広がっていきます。(そういえば他の人の事例だって,作り話じゃないという保証はないよなあ…)ととんでもない猜疑心が頭をもたげてきたところで,あわててB評価を決断。人間不信に強制終了をかけました。

  あとになって考えてみると,気合いの入ったレポートたちに気圧されて,全体的に評価が甘くなってしまったかも。ううむ,私もまだまだ修行が足りませぬ。

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■ バレーボールを続ける意義

  いつもは,動機づけ理論がそのままあてはまるような典型的な事例はなるべく避け,適用可能な場面を拡大できるような事例を中心に紹介しているのですが,今回はまず典型的な事例から。

  この事例は文章としてもおもしろいので,なるべく原文のまま紹介しましょう。どうぞ読んでみてください。(多少,まとめて短くしたり,盛り上げるために表現を加えたりしています。原著者の方,ごめんなさい。)

1.楽しむバレーボール

  私は小学校からずっとバレーボールを続けていた。県下でも強豪チームであったため練習は厳しく,毎日夜遅くまで練習していた。しかし,私自身はずっと補欠であったため練習が苦痛でならなかった。それが中学校に入学してからはなぜか,自分でも日々の上達が感じられ,苦しい練習であるにもかかわらず毎日張り切って練習していた。自分自身で「これができるようになりたい」と思いながら夢中になっていたので,一番下手だったのがいつのまにか学年では一番上手になり,先輩よりも優先してレギュラーメンバーに入れられることがあった。

  このころは他人の評価は気にならなかった。ねらった所にスパイクができるか,コーチがねらって落としたボールが拾えるかが私にとっての問題であり,コーチに褒められようが,納得いかないときは不満足であった。自分にとって大事なことは自己の向上であり,イメージ通りに動けたときの達成感だけが,私に満足感を与えてくれた。

  もちろんチームとして勝つことも大事で,県予選を突破して上の大会に出場できたことはうれしかった。しかしここでは,楽しんでバレーをしているうちに,結果として上の大会にまで行けたのであった。

2.個人賞の楯

  先輩たちが引退し,私たちの世代になった。私は,キャプテン兼エースであり,やりがいもあって相変わらずバレーボールを楽しんでいた。一番上の立場であったので,好きなように人を動かし,やりたいことをやっていた。先生方も,私はできて当たり前という感じであったから特別に褒められたりすることもなかった。

  ところがある大会でのことである。上位入賞した結果,私が個人で優秀選手賞をいただいたのである。大きな楯を手にしたのだが,そのことで,あまりバレーを知らない人たちからも褒められるようになった。また親の期待も大きくなり,「次の大会でも頑張ってね」と言われるようになったので,私は以前よりも熱心に練習をするようになった。

  問題なのは,それからである。練習の時には,常に自分が一番にならないと気がすまない。親が見に来たり,先生がいる前では張り切って練習する。そして見ている人がいないときには,だらけたりするようになってしまった。

  大会のときは,ステージの上に個人賞のトロフィーが飾ってあるので,そればかりに目がいってしまう。試合に勝つことはさておいて,役員や審判員に自分をいかによく見せるかが大事で,気持ちのなかではチーム内のメンバーと争っているのである。自分をよく見せるために頑張っているので,チームに頁献し,試合には勝つ。しかし私の目的は,自分自身が個人賞をもらうことなのである。

  とにかく他人の目や評価が気になり,最終的には楯や賞状などの客観的に見てわかる物を欲するようになった。私のバレーは,「楽しむバレー」から「見せるバレー」になっていたのである。

3.お前が選べ

  次の大会の時,私のチームはやはり個人賞がいただけることになった。しかしその大会では主催者側が決定するのではなく,チームの監督が選ぶことになっていた。そこで監督は私にこう言った。

   「キャプテンのお前が選べ」

私はショックだった。自分自身がほしかった賞を,別の人にあげるために誰かを選べと言われたのである。これはとても悔しかった。そしてその次の大会の時,またもや私が選ぶことになった。監督はうまいへたにかかわらず多くの人に賞をあげたかったので,今度も別の人にトロフィーが渡された。

  それからというもの,頑張っても私は賞がもらえないということがわかり,チームメイトに対する競争心はなくなった。また,楽しんでプレーすることもなく,目的がなくなって練習が苦痛になっていった。

  しかし,私はそこで練習をやめたりしなかった。自分がチームメイトに対して持っていた競争心を,チームとして他の学校に対して持つ競争心に考え方を変えたのである。それは,個人として賞はもらえなくとも,チームとして大きなカップがもらえるからである。壇上で受けとるのはキャプテンの私であり,チームを引っ張ってきたご褒美のようでとりあえずは満足であった。

  楽しむことはなくなったが,競争心は最後まで継続したのであった。

  くどくど説明するまでもないとは思いますが,この事例は,すでに高い内的興味を持って取り組んでいる活動に対して,外的報酬を与えることが,その後どのような影響を及ぼすかを,とてもよく説明しています。ここで語られているのは,外的報酬の導入による活動の目的の変化です。「楽しむバレー」から「見せるバレー」へ。つまり,個々のプレー・スキルの上達を楽しむ活動が,優秀選手賞をもらうために役員にアピールする活動へと変貌したのです。そしてそれにより,もう賞をもらえないとわかったとき(しかも,自分のプレーの質が低下したというわけではなく,監督の方針という「理不尽な」理由で),活動の意義が内発的・外発的のいずれも見えなくなってしまった,という悲劇です。

  この目的のちがいは,それぞれの段階での「有能感」のちがいでもあります。最初のうちは,ねらったコースにスパイクを決める,むずかしいボールをレシーブする,といったスキルが上達するということが,彼女にとっての有能感でした。そこで,中学に入ってメキメキ力をつけると同時に,自然に練習にも力が入るようになります。いわゆるマスタリー目標ですね。

  3年生になり,キャプテン兼エースとして「できて当たり前」という雰囲気になってきていたことが,もしかしたらその後の伏線になっていたのかもしれません。つまり,それまでのような「上達を基準とした有能感」が味わいにくく,そのぶん内発的な興味が薄らぎつつあったのかもしれません。

  そこに忍び寄ってきたのが優秀選手賞という「目に見える報酬」です。大きな楯はたしかに強烈です。しかも,大会中ステージに飾ってあるというのですから,授業でちょっと言った「顕現的な報酬」であったわけですね。かくして彼女の有能感は,賞をとること,そのために他の人たちに自分を評価してもらうこと,という「外的評価を基準とした有能感」へと変容してしまったわけです。パフォーマンス目標といってもいいでしょう。しかも,そのことによって彼女はますます熱心に練習するようになりました(少なくとも人前では)ので,表面的にはこの重要な変化は他人にわかりません。もしかしたら,本人もそれとは気づいていなかったかもしれません。ねらっていた賞がなくなったとき,はじめて「自分は何をやっていたんだろう」と気づくことができたのではないでしょうか。

  それにしても,この監督の一言はスゴイですね。もしこれが,彼女の「賞狙い」という不純な動機を見抜いたうえでの一言だとしたら,じつに深い一言だったと言えるでしょう。そんな意図はなかったとしても,結果的に“名采配”だったことには変わりありません。尊敬します。

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■ 「日本の響き」を自分で作る

  先にも書いたように,今年は気合いの入った授業実践のレポートが多かったのですが,これはその一つ。音楽の授業実践です。音楽は,毎年のレポートでもわりあいポピュラーな領域なのですが,ひとつの単元を丸ごと詳しく紹介しているレポートは,そうはありません。

  さてこの授業は,「日本の伝統的音楽の特徴を感じとり,それを活かした音楽を作り演奏する」ことを目標とした小学6年生での実践です。まず導入として,子どもたちが生活の中で耳にした音楽をどんどんカードに書いていく,という活動を行います。これを「すごろく」ふうに作った自分たちの市の地図上に記入していき,「市内一周マラソン」をするのです。子どもたちは,友だちの進み具合をたしかめながら,ゴールをめざして活発に音楽とふれあうようになります。全員がゴールに着いた時点で,みんなが収集した音楽の中に「日本の曲」がどれだけあるかを調べてみると,それらのほとんどは西洋音楽であり,「日本人でありながら日本の音楽に接する機会は驚くほど少ない」ことに気づきます。

  著者も書いているように,この活動は外発的動機づけです。しかし,これはあくまで導入のための活動であり,たくさん早く集めることが目標ではなく,たくさんの音楽に接することで音楽に注意を向け,また収集したたくさんの音楽の中から日本の音楽の割合を調べる,というのが主なねらいです。つまり,この場合の報酬は活動のねらいとズレている「課題非随伴性報酬」になると思われます。また,ゴールに向けて競争させてもいません(全員ゴールすることが目標)ので,救われていますね。

  この活動をきっかけに,教師(著者)は子どもたちを連れて,雅楽や尺八演奏を聴きに出かけます。そしてさらに,「自分だけの美しい日本のふしを作ろう」という活動に入ります。

音の散歩カード  この活動に使われたツールが,たぶんこの実践のキーポイントだろうと思います。それは,日本音階の要素であるレ・ミ・ソ・ラ・シの5音を4列並べただけという,いたってシンプルなカードです。そのシンプルさが大きな威力を発揮しています。つまり,「ふしづくり」というのは,それらの音符を自由に線でつないでいくことなのです。名づけて“音のさんぽカード”。実際,適当に線を引っぱって音を出してみると,それなりに日本らしいふしができてしまいます。たしかにおもしろいです。

  シンプルで自由度の高いカードであることによって,子どもたちも曲を作るという「課題」を強く意識しなくても,いわば遊び感覚で自由に(自己決定的に)線をつないでいくことができます。まさに「音のさんぽ」ですね。適当に引っぱった線が,リコーダーでやってみると美しいメロディに変わっていく,というのもおもしろい発見でしょうし,線を引いているときには予想もしなかったようなメロディが現われてくるという楽しさも,子どもたちの興味をくすぐります。実際,子どもたちは「ふしづくりの過程でもふしが出来上がってからも実に意欲的にリコーダーに親しんだ。リコーダーが得意でない子どもも一生懸命に自分のふしの練習に取り組んだ」のだそうですが,それもうなずけます。

  著者は,完全に外から与えられた楽譜の演奏ではなく,「音をたしかめ,選択し,試行錯誤しながら自分のふしを作っていくという自己決定的な活動であり,創造的な活動」として,このふしづくりを意義づけていますが,自己決定的で創造的な活動というのは,往々にして苦しいものです。課題に沿って実行するだけなら心理的にはずっと楽です。こうした心理的な負担を低減させるのに大きな役目を果たしたのが,このカードと言えるのではないでしょうか。

  授業では次に,それらを持ち寄って,グループで曲として仕上げます。ところがそこで一波乱。教師は,曲づくりで大切な「音楽的要素」を子どもたちに意識させるために,リズム・音色・音の重なりなどの音楽的要素を具体的に打ち出し,それらを曲の中に工夫して取り入れた場合にはボーナス点を与える,という制度を作ったのです。さあ,どうなったか。


  しかし,この音楽的要素を使ったポイント制には落とし穴があった。実際にできた曲を聴いてみると,ポイントを稼ごうとたくさんの音楽的要素を取り入れたグループは,かえって曲としてのまとまりがなく,がちゃがちゃとして,日本の音楽の美しさから遠のいてしまったのである。「シンプル イズ ビューティフル」である。ポイントの少ない曲の方がどちらかというとしっとりとしていて,いかにも「日本の曲」という感じだった。音楽的要素を意識してほしいと願ってポイント制にしたのだが,出来上がった曲を聴いてとても複雑な思いだった。子どもたちも,あまりポイントの高くないグループの方が素敵な曲であることに気づいたようであった。教科の本質,音楽としての美しさやよさとこのポイント制とがずれていたと感じ,とても反省した。

  私も授業の中では,「構造」のひとつとしての評価基準の明確化の大切さをお話ししましたけれど,おとなからのはたらきかけというのはいつも紙一重で,どちらの方向にも影響を与えます。構造は一歩まちがえると外発的動機づけや制御的はたらきかけに,自律性支援は放任に,そして関与は支配に豹変してしまうのですね。私もこういう実践を読んでいると,勉強になります。ま,最後は教師も子どもたちも,そのことに気づいたようですから,それだけでもやってみたかいがあったのではないでしょうか。

  …と,フォローを入れておこう。

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■ チャレンジしてもいいかな

  先生の一言といえば,次のレポートもおもしろいです。「校内でいつも問題を起こしている生徒」3人がいる中学3年生の国語での実践。かなり内容を要約して紹介します。


  私は毎年『奥の細道』の冒頭部分「月日は百代の過客にして…」の内容学習後に,その部分を暗記するという課題を出している。生徒たちは暗記と聞いただけで「え~!」と声をあげるが,何とか最後まで取り組む。しかしその3人は,まったく暗記にとりかかろうとしない。教科書は,暗記と聞いたとたんに閉じてしまい,頑張っている生徒にちょっかいを出そうとしているのであった。

  このままでは,他の生徒のじゃまをして迷惑をかけることになるだろう,と私は考えた。かといって廊下に出すわけにもいかない。そこで,

  「先生のそばに来てさあ,チャレンジにきた人たちに間違いがないか一緒にチェックしてくれないか。」

と言葉をかけてみた。すると3人は,「しかたがない,やることないからやるか」といった調子で教卓の周りに教科書を持って集まってきた。やがて,暗唱にチャレンジする生徒がどんどんやって来る。3人も,チェックがおもしろいのか,真剣に間違いを指摘していた。

  半分くらいの生徒のチェックを終えた頃,3人のうちの1人が「先生,俺半分は何となく覚えたような気がするぞ。」と言い出した。そこで私は,みんなと同様にチャレンジさせてみた。すると,多少つっかえながらも暗唱できたのである。周りの生徒も聞いていて,「やったね」と声をかけてきた。本人も本当にうれしそうな顔をしていた。

  それに刺激されたのか,別の1人もチャレンジして合格。しかしもう1人は,あと一歩というところで間違えてしまい,その日は合格に至らなかった。1日日のチャレンジが終了した段階で,3人には「チェック手伝ってくれてありがとうね。助かったよ。次も頼むぞ。」といったようなことを話して終わった。

  さて次の時間。例の3人は開始と同時に教卓の所に来て,「先生,今日もやるからね。」と言ってチェックを始めた。15分ほど経過して,待っている生徒が途絶えた頃,3人が「次にチャレンジしてもいいかな。」と言ってきた。2人は前の時間に半分合格していたので,後半と「全部一気」のチャレンジとなったが,みごと合格した。

  残るひとりは,前時合格していなかったので,「前半からでいいのかな。」と聞くと「いや,全部一気にいく。」と言う。私は驚いたが,「よし,それでは頑張ってみよう。」と声をかけてチャレンジさせた。結果,前時はつっかえていた部分がきちんと言えるようになっていたし,後半部分も間違えずに暗唱できたのである。これには,正直とても驚いた。3人はその後も,暗唱のチェック係をきちんと行った。それも,今までは教科書とにらめっこ状態でチェックしていたのが,あまり教科書を見ないでチェックを行っている姿には感心してしまった。

  どうですか,なんか「ちょっといい話」系の実践でしょ? ほんとうに教師(著者)は,ねらったわけではなく,他の人のじゃまをしないように,また少しは教科書に目を通してほしいとの思いからの発言だったそうですが,結果的に「チェック係」の仕事は彼らに大きな変化をもたらしたのです。

  著者はこの実践を,内発的動機づけから説明していますが,私はむしろ自己効力とモデリング(観察学習)から,うまく説明できるように思いました。(もちろん,だからといって彼らの行動の内発性を否定したいわけではありません)

  暗記なんかバカバカしくてやってられないけど,先生から頼まれた仕事ならしょうがない。チェック係という仕事は,「マジになるなんてカッコ悪い」という,子どもたち固有の価値観を壊さずに,うまく暗記活動に彼らを引き入れることに,結果的に成功しています。また他人のまちがいを堂々と指摘できるわけですから,その点でも彼らの存在価値を高めています。もちろん,きちんとまちがいを指摘するためには,それだけしっかりと暗唱を聴き,教科書を見ていなければなりません。何回も他の人たちがチャレンジするのを繰り返し聴き,教科書を真剣に読み返しているうちに,いつのまにか少しずつ文章が頭に入っていったのでしょう。と同時に,彼らの目の前でまちがえてしまう生徒もいたでしょうから,「ああ,これくらいだったら自分にもできる」という効力感が高まったとしても不思議ではありません。

  ともあれ,2日目にはすっかり自己決定的にチェックにも暗唱にもかかわるようになったことは,驚きです。最初は暗記にまったく関心を持っていなかった彼らが,2回目のチャレンジに向けてひそかに家で練習に励む様子を想像すると,なんだかとても微笑ましい光景に思われます。

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■ 不安という魔物

  今回のレポートの中で,非常に切実で読んでいて苦しかったのは,大学受験に伴う不安の問題を採り上げたレポートでした。相当に深刻な問題なので詳しくは紹介しませんが,この事例の高校生は,大学受験に向けた受験勉強の中で,「いくら勉強してもしても足りない気がする」と訴え,しだいに情緒不安定になっていきます。実際には校内での成績もよく,模試の結果もじゅうぶん合格圏内にいるのですが,それでは満足できません。「確実に合格できる」という保証を求めて人一倍勉強し,しかし勉強すればするほどよけいに不安を募らせていきます。結局,入試本番では日ごろの実力を半分しか発揮できずに終わってしまいました。レポートはその生徒の指導過程を振り返り,「だれにでも多かれ少なかれある不安」と軽く考えていたことへの後悔を綴ったものです。

  私の授業では,テスト不安=失敗回避動機のしくみとはたらきについて扱いましたが,こうした極端に高い不安症状に対して実際どのように対処したらいいかについては,残念ながら私にもわかりません。おそらく,学習指導という面からのアプローチよりも,もっと臨床的な,不安の自己コントロールを主眼においたアプローチを必要とするケースなのではないかと思います。

  最近読んだ学業的ペシミスト(将来のできごとに対して,最悪の結果を予想して行動するタイプ)の研究では,失敗を数多く経験している人たちは,プラスのフィードバックを行うとかえって「次はきっとこれより悪くなるだろう」「自分はこの成功を維持できないのではないか」と考えるので,逆効果になりやすい,と述べられていました。このことから考えると,このタイプの人たちに「大丈夫だよ」「よくできているよ」といってもあまり効果がなく,むしろ「ここは弱点だからしっかり勉強したほうがいい」と具体的な弱点に方向づけてあげたほうが(あくまで具体的であることがだいじ。焦点を絞ってあげないと,不安をあおるだけだろう),心の安定を保て,合理的な対処行動を起こせるのかもしれません。実験室的研究からの類推…拡大解釈ですので,ホントかどうかは保証できませんが…。



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