●過去のコメント

『学習心理学特論』の
レポートについて

2003年度版


『学習心理学特論』(修士:前期金4限)の
レポートで気づいたこと


■ 今年のレポート

  ここ何年かの傾向ですが,今年は特に,子どもたちのプロダクトをコピーして添付してくれているレポートがたくさんありました。子どもたちの学習ノート,感想カード,学級通信など,どれも,その授業実践に対する子どもたちの“生の”反応を雄弁に物語っていて,私,けっこう好きです。思い切り縮小コピーかけてあるのに,ついつい真剣に読んでしまいます。子どもたちの表現方法も多彩で,はじけた言葉遣いのものや,ほとんど絵だけのものや,なかなか楽しめます。へんに優等生的な「作文」になってしまっていないのは,きっと先生の<自律性支援的な>学習への価値観が,子どもたちに伝わっているのでしょう。よしよし,いいぞ。

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■ バランスがむずかしい

  反省しています。どうも今年は授業の中で,外的報酬に対して許容的な方向で話をしすぎたらしく,一部のレポートで,具体的な外的報酬が明確に存在している状態での子どもたちの意欲を「内発的」と評している人が,いつになく多く見られました。

  たしかに,内発的動機づけに移行するためのプロセスのひとつとして位置づけることは可能ですが,しかしこの状態そのものを「内発的」と言ってしまっては,やはりおかしいのです。ここはしっかり区別しておかないといけません。大会やコンクールやシール貼りが終わった後の子どもたちの様子に,多少なりとも言及してあれば,「移行期にある」と主張してもいいと思いますが,報酬環境のまっただ中にいて「内発性」を主張されても,あまり説得力はありません。というか,それを「内発的」と解釈して指導されるようになったら,コワいのです。

  外的報酬を絶対使っちゃいけないというのはあまりに狭い考え方で,もっと柔軟に考える必要があるというのが,授業の中で言ったことの主旨でしたが,一方で外的報酬はあくまで過渡的な手段であることを自覚しよう,報酬は劇薬なので,コントロールしないと容易に報酬依存症になってしまうよ,という警告もしたつもりなのですが…。どっちのこともバランスをとって説明するのは,やはりむずかしいですね。とても反省。

  今年,B評価になった人の何人かは,この観点で低い評価になってしまったものです。私も反省しています。残りは,事例と理論がうまく対応していないケースがほとんどでした。たぶん,説明をはじめた頃は「この理論!」と決めてはじめるのでしょうが,途中でどんどん不整合が生じてきて,最後は時間切れ。理論に合わない部分があることに本人も気づきながら,まとめきれずに終わってしまう場合もあるようです。残念ですが,他の授業のレポートもたくさんあるようですし,書き直しているわけにもいかないのでしょう。

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■ 「どれか1つの理論」にこだわるわけ

  課題を発表するときに,毎年のように質問が出るのは,「2つ以上の理論を使ってはいけないか」というものです。私も毎年のように,「強制ではないけれど,いいレポートにならない場合が多いので,あまりおすすめはしない」とお答えしています。結果,今年もまた複数の理論から説明を試みた人がちらほらといて,そのうち何人かは,やはりというか低い評価にとどまってしまいました。さらに,今年はそのほかに,「1つの理論に限定するのはキツイ」と書いてきた人もいました。どうも複数理論への志向性は,根強く残っているようです。

  それで,考えました。来年からは「強制ではない」などとあいまいに説明せずに,はっきり「1つの理論に限定」と言ってしまった方が,結局は悪い評価を受け取らずにすむのではないかと。

  そんなわけで,まずは私が「1つの理論」にこだわる理由を,きちんと書いておきたいと思います。

  複数理論を認めてしまうと,現象の部分部分を別々の理論で説明し,それでその現象がうまく説明できたと錯覚してしまう場合がひじょうに多い。話はこれに尽きます。

  たとえば,具体例をあげておいて,そのうちこの行動は達成動機理論から説明でき,あの態度は原因帰属から説明でき,また別の発言は内発的動機づけ理論と合致しています。はい,すべて理論的に説明できました。めでたし,めでたし…でいいでしょうか。いいえ,待ってください。結局その人は,結果を追求する達成動機から行動していたのですか,それとも活動自体へのかかわりを重視する内発的動機づけから行動していたのですか。それがはっきりしなければ,部分的に説明できても何にもなりません。

  あなたが,急に原因不明の発熱と頭痛と吐き気に襲われて病院に駆け込んだとしましょう。医者が診察し,次々にいろいろな検査を指示します。検査結果が出そろって,ふたたび医者に呼ばれました。検査結果を説明してくれます。

「ああ,この発熱のパターンはインフルエンザの典型的なパターンですね。頭痛は,特に病気というわけでなく,過労気味の人によく見られるような出方ですし,吐き気の方は,胃ガンが疑われます。わかりましたか。」

  わかりません。納得できません。私はいったい何の病気なのでしょうか。それともこの全部なのでしょうか。…これと同じことなのです。

  理論というものは,さまざまな現象をどれだけ統一的に説明できるかで,その価値が決まります。いや,狭い範囲の現象でもかまいません。ともかくこういう状況・こういう条件での現象は,この理論からほぼ100%説明がつく。これが重要なことです。同じ条件なのに,なぜかあるときはA理論からの説明が当てはまり,別のときにはB理論の方が近い,というような場合は,A理論もB理論も理論としての価値が低いのです。

  特に心理的な現象は,対象がけっこう曖昧なので,たいていの場合複数の理論から説明が可能です。A理論が正しければB理論は駆逐される,というように勝ち負けがはっきりしないのです。どちらからでも,ある程度までは説明できてしまいます。だからこそ,できるだけ多くのケースを,できるだけ単一の視点から統一的に説明できるということが,その理論の妥当性を判断するのに重要なのです。

  もちろん,日常の心理現象は,一つの理論にぴったりあてはまるほど単純ではありません。部分的には別の理論の方が説明しやすい,という場合が多いことは,私も十分承知しているつもりです。それはいいのです。この部分だけはA理論ではうまく説明できない,不思議な事例だと問題提起すれば。あるいは,ここだけB理論の方があてはまりがいいのは,まだA理論への移行途中だと解釈できる,というように,強引にでも説明すれば。

  でも,レポートでは多くの場合,つぎはぎ的にでも説明できたということに安心してしまっていて,理論間の矛盾にまったく気がついていないのです。これでは意味がありません。どうぞみなさん,医者になったつもりで考えてみてください。事例を患者さんの示すさまざまな症状に置き換えてみてください。さまざまな症状や検査結果を総合して,いったいどんな診断を下したら,いちばんうまく病気の姿をとらえられるでしょうか。

  こうした見方は,修士論文のときもまったく同じはずです。

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■ 蛇足です…

  今年は,学生による授業評価が全科目実施になりましたが,そのお知らせと調査用紙が各教官に配布されたのが,夏休みも後半。休み前にレポート課題を発表して,休み明けの最後の週は休講と決めていた私にとっては,調査を実施しようがなく,やむなく研究室ドア前に用紙を貼り付けて,レポートを提出しにきた人に,評価をお願いしたのでした。

  しかし…。

  提出が少ない! いちおう中身を見ないで教務課に提出することになっているので,いただいた評価用紙はそのまま提出用の袋に移しただけで(このとき,レポートがいっしょに入っていたのを発見! あやうくそのまま封をして提出するところだった),詳しく枚数を確認していないのですが,残った用紙の数で見ると,書いてくれたのは受講生の1/3をちょっと下回る程度。ありゃ~。いくらなんでも…。悪くても半分くらいの人は何か書いてくれると予想していたんですけどね。

  そうか,少し時間をとって評価を書き込みたいとも思えないくらい(よい評価でも悪い評価でも),どーでもいい授業だったのか…と,すっかりへこんでしまった私でした。何よりキビシイ評価だったりして。

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■ もっと蛇足です…

  「たいていのスポーツは,負け試合から多くを学ぶもんだろ」とかっこよくキメているのは,『タッチ』の上杉達也くんではありません。さて,誰がいつ言ったコトバでしょう?



<事例編に進みます>


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