『学習心理学特論』の
レポートについて

2003年度版

<事例編>



※今年は,コメントよりも,じっくりレポートを読んでみたいと思います。

to_HOME

■ 「なあんだ,じゃあいいや」

  技術の木材加工の授業でのことです。「かんながけ」の技能練習の中で,先生はこんな問題を生徒に突きつけます。

 4種類の板材があります。横150mm,厚さ10mmはいっしょですが,縦がA.150mm,B.300mm,C.450mm,D.600mmと順に長くなっていきます。この板材の「こば」を削って垂直に立てなさい。

 Aができた者はBへ,Bができた者はCへ,Cができた者はDへ挑戦しなさい。時間の終わりに「技能テスト」をします。

  この課題は,「こば」面を他の面に対して直角に加工する精度が大切で,実際に立てるためには,「こば」の左右の差が,Aで0.3mm以下,Bで0.15mm以下,Cで0.08mm以下,Dで0.04mm以下にする必要があるそうです。したがって,成功率もAはすぐにできますが,Bで70%,Cで20%,Dになると5%以下だそうです。

  さて,そのときの生徒の様子をレポートから見てみましょう。

 生徒は課題に取り組みました。作業後に板材が立つか立たないか簡単に確認できるため,生徒は「立った!」「立たない!」と大声を上げながら,喜々として実習に取り組みます。そんな中で,ある生徒が私のところにきてこう質問しました。

 「先生,この技能テストは通知表に関係するのですか?」

 ちょっととまどいました。正直この技能テストは評定用に使う予定はありませんでした。生徒の実習意欲があがるようにと考えたわけです。ただ「使いません」と答えるのも何か変な気がして,私は次のように答えました。

 「直接通知表には関係ないですが,これがうまくできると,自分の作品がしっかりとするから,当然作品の完成度の評定があがります。」

 そのとき返ってきた言葉が,これです。

「なあんだ,じゃあいいや」

  この課題は,これまで毎年,生徒を熱心にかんながけの練習に取り組ませてきました。先生もこの課題が,自己の技能を高めたいという生徒の内発的動機づけを喚起する,とてもよい課題だと自負していました。しかし,どうも話はそんなに単純なものではなかったようです。無意識のうちに付け加えていた「技能テストの予告」が,生徒たちの取り組みに大きな影を落としていることに,先生は思い当たったわけです。

  質問してきた生徒は,成績のよい生徒でした。授業への取り組みも申し分なく,「関心・意欲・態度」の評価は◎をつけてきました。生徒たちの意欲的な取り組みから,先生はつい彼らの内発的動機づけを引き出すことができたと思いこんでいたのですが,生徒たちから,そうした教師の意図や課題のねらいが見えるはずはなく,彼らはまったく別の目標をもって課題に取り組んでいたのかもしれないのです。すなわち「通知表に関係あるから」

  授業でもお話ししたように,外発的動機づけが内発的動機づけより,効果において劣るということは必ずしもありません。外発的動機づけも同じように,あるいはそれ以上に効果的に作用する場合が,現実には数多く見られます。それで動機づけが「うまくいった」と見誤ってしまいがちなのですが,そこには,活動そのものにではなく,活動に随伴する外的事象に引き寄せられている人たちも,少なからずいるのです。で,こういう質問が出たり,テストが終わったとたんに作業が雑になったりすると,そうした人たちの存在にはじめて気づかされることになるわけです。

  レポートの締めの言葉が,また泣かせます。

 評価を気にしながら授業を受けるといった生徒の姿勢にムッとしながら,一方では評価をちらつかせながら生徒を外発的動機づけでしばっていこうとしていた自分の矛盾が,露呈してしまいました。

  さて,このレポートは事例から分析,結論まで一貫していて,とくに補足もコメントも必要ないのですが,せっかくですので少し関連して考えてみましょう。

  たしかに,技能テストの予告はよけいだったかもしれません。「立った!」「立たない!」と結果が明確に確認できるため,生徒が喜々として実習に取り組んでいることや,技能テストが終わったあとも,作品加工前に自主的に練習する生徒が見られたこと,質問した彼も,そのあと作業意欲が極端に落ちることもなかったこと,などから考えると,テストがなくても,この課題はじゅうぶんに生徒たちを引きつけると予想されるからです。

  さらに言えば,「作品の完成度の評定をあげる」という説明も,もしかすると少しズレているかもしれません。実際にこれが評価の観点になるわけですので,きちんと観点を示すことはいいことだと思いますし,これは評価予告の有害性とは区別して考える必要があると思いますが,これを最後にもってくるのは,ちょっと生徒たちの目標をズレさせることになるのではないかと思うのです。

  前半部分はOKです。「これがうまくできると,自分の作品がしっかりとするから」,これは,課題そのものへの動機づけです。ですから,こっちのほうを中心に据えてみてはどうでしょうか。たとえば,「しっかりしていない」実例を示す。0.3mmのズレのある板材で作った作品だと,接地面が一様でないのでガタガタ安定しないとか,接合部に隙間ができるとか,微妙に一部が飛び出ているといったことを実例で見せたらどうでしょうか。こば面がいくら滑らかに美しく処理されていたとしても,不正確なかんながけでは使いものにならない,ということを示すわけです。ついでに0.15mmのズレだとどうなるか,0.04mmだとどうかも見せましょう。そこから,自分がどのレベルをめざすかを選ばせればいいのです。

  そしてまた,「立たせる」ことそのものだけでなく,どうやったら正確に削れるかというワザの発見・開発に焦点を当ててみてはどうでしょうか。工夫した点をノートにまとめさせて,他の生徒にもわかるようにプレゼンさせるのです。どうでしょうか。

  こういった側面を先生が強調していけば,それは自然に「先生はこんな観点で評価するぞ」ということを示すことができるのではないでしょうか。わざわざ「評定」というコトバを用いなくても。

  ちなみに,かんながけは,見た目は華やかですが,精度の高い作業はむずかしいものです(今は男女共修だから,みなさんご存じかも知れませんが)。慣れない人は,うまくいかなくてすぐに投げ出してしまうことも考えられます。ですので,技能練習の段階では,多くの生徒たちにかんながけ練習に取り組ませるという意味で,テスト予告などの外発的動機づけを割り切って利用することも,間違いとはいえないと思います。その代わりに,本番の作品加工の際にじゅうぶんに内発的に動機づければいいのです。練習段階で身につけたかんながけの基礎技術に支えられて,しっかりとした作品ができるなら,それは内発的動機づけをさらに高めることができると考えられるからです。

  内発的動機づけと外発的動機づけを混同してしまうのは困りますが,それぞれの役割をきちんと理解したうえで,役割分担を図ることはじゅうぶん可能です。賢く利用しましょう。

to_HOME

○

■ あなたの脂肪買います

  こんなキャンペーンがあるんですね。なかなか気の利いたコピーです。意味するところもわかりやすい。つまりはダイエットして減った体重の分だけお金をキャッシュバックするという,スポーツクラブのキャンペーンなのです。お客さんからみれば,体重は減るしお金ももらえるし,一石二鳥です。とびつく人が多いのもわかります。がんばってダイエットするためにスポーツクラブに足しげく通ってくれれば,クラブとしても元は取れるのでしょう。

  しかし,もちろんそんなに甘い話はないのでして…。まずは事例を見てみましょう。

  彼女は30代半ば,バリバリのキャリア・ウーマンで独身,両親と同居しています。仕事に追われる彼女のストレス発散方法が,休日のショッピングとスポーツクラブ通いです。母親といっしょに気ままに水泳をしたり,ジャグジーに入ったりしながら,他の人たちとのおしゃべりを楽しんでいました。もちろん,そればかりではなく,彼女の仕事はエステティシャンですので,体型をキープするというのも大切な目標であり,エアロビクスもやっていました。しかしまあ,それほどカリカリと通いつめたわけではなく,自分のペースで通っていました。

  そんなある日,彼女の目に入ったのがタイトルに書いたキャンペーンポスターだったのです。彼女はさっそくチャレンジしてみることにしました。

  翌日から,彼女のアフターファイブは激変します。では,その様子をレポートから見てみましょう。

 仕事が終わるとすぐにスポーツクラブへ。気ままにやっていた水泳に,マシンを使ったランニングや筋トレが加わる。エアロビクスも2本に増え,ハードなメニューとなる。週に2,3回だったスポーツクラブ通いは毎日休みなしとなり,週に1日の休日まで出かけるようになる。もちろん,体重計の針にも気を配る。汗の一滴がお金に見え,汗がしたたるまで走り,ダメ押しにサウナに入ってたっぷり汗をかく。

 1ヵ月たったその日は,体重計測の日。彼女は朝から計測に備える。朝食はヨーグルトにコーヒー。仕事に出かける前に,夕方お風呂を沸かしておくよう母親にお願いしておく。昼食も軽めに。帰宅するとすぐにお風呂に入り,いざ計測へ。

 ところが。

 「計測は明日ですよ」とスタッフ。

 「そんな…」

 「まあ,どうしても明日来られないのでしたら,今日計測しますよ」

 「はい,明日は来られないんです」

とっさの嘘が口をついて出る。

 「じゃあ,帰りに体重測定しましょう」

 (今でもいいのに…)

 「どうぞ,体を動かして汗をかいてきてください」

 (そんなあ…)と思いつつ,マシンに乗り走る。朝からほとんど食べていないのに,走る,汗を流す,1gでも減らすぞ! さすがに1時間でギブアップ。計測へ。

 「明日来れたら,また明日はかりましょう。今日は仮に,ということで。」

 「いいえ,今日でいいんです。今日はかってください。」

必死だった。結果は,-3,250g。3,250円のキャッシュバックとなった。彼女はそれでスポーツウェアを買った。

 「でもね」と彼女。あれから3週間たったが,1回しかスポーツクラブに行っていないそうだ。

 「燃え尽きたの」

  なんと劇的な外発的動機づけの顛末。これもとくにコメントはいらないでしょう。もともとは「マイペースで=内発的に」行っていたスポーツクラブ通いが,キャンペーンをきっかけにお金をめざしたノルマに変わります。スポーツクラブに対する取り組みが,そのとたんにがらりと変わっているのもおもしろいところです。

  しかしそうした行動は,外的な理由づけがなくなった瞬間に,目標を失ってしまいます。けっして以前のようにまた「マイペース」にもどるわけではないのです。ダイエットのような持続的な取り組みが必要な行動に関しては,外的な手段を強調すればするほど,かえって有害になりうることをこの事例は示しています。無理せずマイペースがいちばん…といっても,それでちっともダイエットに成功していない私が言っても,何の説得力もないのですが。

  ちなみに,せっかくの名案キャンペーンでしたが,クラブにとっても,これは失敗だったといえるでしょう。トレーニングに引きつけた1ヵ月間はたしかに営業成績を上げましたが,そのあとは顧客を失ってしまいました。休日返上で毎日通ってきても,1ヵ月で燃え尽きてしまう客と,週2,3回ずつでも楽しみながら長く通い続けてくれる客と,どちらのほうがクラブに利益をもたらすか。クラブは営業戦略を見直す必要があると思います。

to_HOME

○

■ 作る意欲が生まれない

  今年のレポートでいちばんの異色作は,似たような境遇に育ちながら対照的な性格を持つ夫と妻とをみごとに対比させたレポートでした。これがまた詳細をきわめており,2人の生い立ちはもちろん,2代前までさかのぼった来歴から比較が始まっています。さすが○○分野(秘密です)の学生さんというか,ご本人も認める凝り性のゆえか,とにかく力作ではあります。

  しかし,いくらレポート課題を提示した時に「公表するかも」と予告していたとはいえ,そのプライベートな詳細をここに暴露してしまうのは,さすがにはばかられましたので,ここではその一部,料理に対する取り組みの差について,見ていきたいと思います。夫が率先して料理を作るという,みんながうらやむこの家庭ですが,その裏側には,いろいろとあるようです。

  まずは夫の料理に対する態度から。

 私はものを作ることが好きである。仕事でも家庭でも,凝り性なほど凝ってものを作る。役に立つからというより,そこに完結した世界を作りたいという芸術家的な欲求からである。

  さて,結婚して私は,自分の創作欲求を満たすある家事を喜々として行っている。それは料理である。

 子どものころから料理をしたかった。たまに焼きそばやカレーを半日がかりで作った。人に食べさせるのが楽しいのだが,それにもまして私は,どんな味になるのかにもっとも興味がある。

 結婚して私たちは共働きをはじめた。私の学校は車で20分ほどだが,妻の学校はバスと電車で1時間以上かかる。自然に,夕食は私のつとめになった。帰りにショッピングセンターによって食材を買い,毎日料理を作った。妻は料理ができあがるころ帰宅し,ともに夕食をとる。その後数年間,私は妻の弁当まで作ってやっていた。

  ところが,です。「ご主人が料理を作ってくれるなんて,奥さんはなんて幸せ」というのが一般的な反応でしょうが,どうもそうではなさそうです。「妻は楽をしているという思いとともに,つねに劣等感に苛まれているのである」,とレポートは続きます。つまり,なにごとにつけ創作的な興味にもとづいて,気楽に,またある時は凝りに凝ってやってしまうマスタリー志向な夫に対して,妻の方は典型的なパフォーマンス志向であり,自尊心を維持するためにさまざまな活動を行っているようなのです。言いかえれば,できる・できない,あるいは勝った・負けたの世界に生きているようなのです。そんな彼女にとって,夫が料理を作るという事態は,「妻なのに料理ができない」ということを意味し,劣等感を生み出すものでしかないのです。

  「自己評価維持モデル」という理論があります。ここには,自分と自分にとって重要な活動と自分にとって重要な他者という3つのものが登場します。簡単に言えば,自分にとって重要な領域の活動に関しては,自分が友人(重要な他者)よりすぐれていると考えることによって自己評価が維持される,とこのモデルでは考えます。

  この三者関係のバランスが崩れると,自己評価は低下してしまいます。たとえば,重要な活動において自分が友人より劣っていると感じるとき。どうでもいい活動で劣っているのはかまいません。関心のない人がいくら優秀でも平気です。自分にとって大事な活動において,自分にとって大事な友だちに「負けている」というのが,大きな問題なのです。

  こんな場合には,活動や友人への認知を変えることによって,バランスを回復しようとします。つまり,「あの人は友人ではないのだ」と離れていくことで,その友人との比較をしない。または,その活動は「重要ではないのだ」と手を引くことで,その活動での比較をしない,という方法です。それによってその人は,肯定的な自己評価を取りもどすことができるわけです。こうした機構は,まさに妻に起こっていることそのもののように見えます。

  「料理は妻のつとめ」(重要な活動)と考える彼女ですが,もともと妻の方には料理にそれほどの内発的な入れ込みはないようです。ここで料理は,彼女にとって自己評価維持<のために>重要な行動と位置づけられます。一方夫(重要な他者)にとっては,料理は好きなものを自由に作れる場であり,自己表現の場ですから,どんどん自発的・創造的に料理をこなしてしまいます。これは,妻にとっては明らかに劣っていることになり,困った問題です。それで,自己評価維持のために料理という活動から遠ざかる,という選択になるわけです。その選択に自分自身納得できる理由をつけて。

 よく妻は言う。「私は人から頼られないとやらないの」

 私は妻に料理してもらわなくても,自分でやってしまうから料理を覚えられないのだ,というのが妻の言い分である。また,「おいしいと言ってくれないと作る意欲が生まれない」とも言う。私が妻の作ったみそ汁に三つ葉を散らそうものなら,もう意欲を減退させた。

  さて私はといえば,じつは妻の立場にかなり同情的なのです。ある個人が内発的に,つまり自分の思うがままに行動することが,他者の内発的動機づけを阻害することはないのか,という問いかけに対して,Deciは「成熟した内発的動機づけは,相手を同じように尊敬するから問題はない」と述べているのですが,私はこれ,いささかご都合主義的な理想論だと思います。そりゃあ何十年も連れ添った老夫婦であれば,成熟できるのかもしれませんが,この事例の妻のように,動機づけの芽を摘んでしまっているケースは案外多いのではないでしょうか。

  動機づけの内在化プロセスの初期段階でよく見られるのが,対人的な動機づけです。人に頼られた,人からほめられたという経験が行動の基盤になり,いやな行動でもその人のためなら,とがんばるようになるのです。そういうプロセスを考えると,せっかく作ったみそ汁に「三つ葉を散ら」されたら,いやになるのは当たり前。それは無言のうちに妻の活動意欲を否定しています。もともと自分が好きで行動しているわけではなく,家族のために作っているのでしょうから,作ってあげる相手から否定されれば,行動を起こす理由がなくなってしまいます。

  この問題は,夫婦間だけでなく内発的な子,外発的な子が混在する学級の中でも,同様に起こりうる問題ですよね。

  さて,自己評価維持モデルで,バランスが崩れた時の選択肢は,重要な行動から遠ざかるだけではありません。重要な他者から遠ざかるという選択もあることを,頭に入れておいた方がいいと思いますよ。




to HOME