『学習心理学特論』レポートへのコメント

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<2005年度版>
- Part 2 -
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■ 構造・自律性支援・関与

  次にご紹介するのは,「全くやる気を失ってしまった」ひとりの児童が,学習活動への内発的動機づけを取りもどす過程での,教師のはたらきかけを,構造・自律性支援・関与の3つの側面から分析した事例です。

  そこは,山の上にある小さな小学校でした。全校児童数は24名。その3・4年生の複式学級を担任することになった先生のお話です。穏やかで勉強もまじめに一生懸命がんばり,仲のよい児童たちの中に,ひときわ目立つ,活発でやんちゃ坊主のA君がいました。

彼は3年生であったが体がとても小さく,非常に幼い感じであった。運動が得意で体を動かすことは大好きだったが,勉強は全くと言っていいほど良いところが見られず,漢字は書けない,計算は苦手,作文や絵を描くのも嫌い,授業中はじっとしていられない…と学習場面で活躍させる場を見つけるのが非常に困難な児童であった。たまに宿題をやってきた時は,みんなの前でオーバーに誉めてみたり,A君にだけ特別にポケモンのシールをあげてみたり,時には怖い顔で叱ってみたりと,こちらも手を替え品を替え作戦を練ってみたものの,どの方法もこれといった効果は見られなかった。ただ彼は,とても素直で愛橋があり,おもしろいことを言ってはみんなを笑わせてくれるので,みんなに好かれ,クラスでも人気者であった。

  新学期が始まりました。その年の『総合的な学習の時間』の大テーマは「地域・自然」でした。この大テーマに沿って,児童がそれぞれに自分の好きなテーマを決め,テーマが似ている者どうしでグループを作っていきます。さて,A君もグループの一員として活動に参加しました。彼は大好きな“生き物”について調べることになったものの,なかなか思うように学習は進みませんでした。なぜなら,事典やインターネットで調べるという計画を立てていたのですが,いくら大好きな生き物のことであっても,事典もインターネットもたくさんの文字が書いてあるので,すぐに飽きてしまうのです。実際に出かけて行って現地調査をするフィールドワークは大好きだったのですが,毎時間1人で外出するわけにもいきません。

  このような状態がしばらく続き,A君の生き物に対する興味は,すっかり消え失せてしまったようでした。やがて同じグループの仲間からもあてにされなくなり,ほとんど活動に参加することがなくなったのでした。

  さて次の年。A君は4年生になり,1学年下の子たちが活動に加わってきました。先生は,「彼ももう4年生,1年間の苦い経験から発奮し,今年こそはと力を出してくれるだろう」と甘い期待を寄せていました。事実,スタートはとてもいい調子で,自分のテーマと研究の進め方の計画はすぐに決まり,グループ分けもうまくいきました。あとは,3年生にアドバイスをしながら即調べ学習に入るはずだったのです。しかし…

  2学期にはすでに3年生の時と同じ状態になった。さらに悪いことに,下の学年の子たちにも「A君は何もしないね」と言われるようになり,もはや昨年以上にやる気は消え失せ,手のつけられない状態になってしまったようだった。私が励ましても手伝っても,何もしようとせず,ただ椅子に座ったまま時間を過ごすという,いわば放心状態のような状態が続いた。それはまるで,徹底して何もしないことを心に決め,頑なにそれを実行しているかのようであった。気づいた時にはすでに手遅れ,心も閉ざしきってしまったのだった。

  その次の年は,市のイベントでの発表がこの学校に当たっており,先生方の話し合いの結果,総合の発表をしようということに決まりました。ここから,先生とA君との物語がはじまります。

  A君はすでに5年生になっていた。引き続き担任になった私は,なんとかA君にやる気を出させようとひそかに作戦を立てた。それは,10月に行う総合の発表に焦点を当て,A君を目立たせようということであった。勉強は大の苦手だったが,目立つのは大好き,おしゃべりも大好きな彼は,きっと大勢の人たちの前でも堂々と,物怖じせずに発表することができるだろうと考えたからだ。そんな作戦を練りながら総合の時間が始まり,発表に向けた今年の方針が児童たちに告げられた。

  最初の数時間は,何をどのように発表するかについて話し合いがなされた。いろいろな意見の中から最終的に決まったことは,2部構成で発表し,1部では今までの本校の総合学習の取り組みについて,2部では自分たちで考えた劇を行うということであった。台本もある程度自分たちで考えたいということになり,それぞれにできる者が作り,1ヵ月後にみんなの前で発表するということに決まった。

  A君は劇の台本作りにやや興味を示した。なんとなく作ってみようかなと思っている気配を感じた私は,このチャンスを利用しない手はないと考えた。ダメだったとしても失うものは何もない。よしっと覚悟を決めた。

  まず最初に行ったことは,A君をその気にさせることだった。しかしこれは意外とあっさりうまくいき,毎日放課後30分間,私と一緒に台本作りをすることになった。早速次の日から2人だけの台本作りが始まった。文字を書くのが苦手なA君だったので,アイデアを出すのはA君に任せ,私はひたすらA君の言ったことを書き写す作業に専念した。とは言ってもA君の空想の世界だけでは,せっかく努力して作った台本も採用されないおそれがあったので,主導権はA君に握らせながらも,さり気なく私の意見も取り込んでいった。

  台本はなんとか1ヵ月で完成し,晴れて台本発表会の日となった。大人の手が加わっているのだから,A君の台本は児童全員がこれに決まりと即決定してしまうほど素晴らしい作品となった。

  A君は俄然やる気になった。自分にもできるという自信がついたのか,総合の時間の中で行っていた調べ学習のまとめの方にも積極的に加わるようになっていった。そして,何といっても驚いたのは,劇の練習が始まってからのA君のリーダーシップの発揮ぶりであった。もともと学習発表会などで見せるA君の芸達者ぶりは知っていたが,自分の演技のみならず,発表の仕方や劇の指導まで一手に引き受けたかのように見事にやってのけてしまったのだった。私たち教師の出る幕はなく,ちょっと寂しいような,でもとってもうれしいような複雑な気分だったことを覚えている。本番ももちろん堂々とした発表ぶりで,教育長をはじめ他の学校の先生方や保護者などから,多くのお褒めの言葉をいただいたのだった。

  「主導権はA君に握らせながらも,さり気なく私の意見も取り込んでいった」という部分は,文化祭の事例とも似ていて,「支援」というはたらきかけの特質をよく示しています。つまり,いろいろと手を貸すのだけれど,けっしてそれを表には出さない,いわば“縁の下の力持ち”的な役割といっていいでしょう。こうしたはたらきかけは,最初から自分でどんどん活動を進めていける子ども,独立独歩で人の助けを借りたくない子どもにとっては,「よけいなお世話」とも受けとられる場合もあることを考慮しないといけませんが,そうした自信が安定的に得られていない子どもにとっては,きっと大きな支えとなるにちがいありません。

  さて,A君のその後も見てみましょう。

  それからのA君は全くといっていいほど変わってしまった。今まで切れていたスイッチが何かの拍子で突然入ったかのようだった。あれほど嫌いだった漢字練習の宿題を忘れずにやってくる。したがって漢字テストも好成績,計算ドリルもほとんど満点,授業中も意欲的…。A君のあまりの変貌ぶりに少々心配になってしまうほどだった。しかし,私の心配をよそに,6年生になってからも彼の優等生ぶりは変わらなかった。小学校を卒業するまで彼は学校のリーダーとして活躍してくれた。本当に素晴らしい成長ぶりだったと思う。

  その後,他の先生方からよく聞かれたことは,A君にどういう指導をしたのかということであった。A君に対して指導というものを全くしていなかった私は,そう聞かれるといつも,一緒に台本を書きましたとだけ答えていた。ただそれだけのことだったにも関わらずこんなに変貌してしまうなんてと,私が一番信じられない気持ちだった。もちろん私は,A君を何とかしたいという一心で,一緒に台本作りをすることに決めた。1ヵ月間ほとんど毎日,放課後30分間はA君と私だけの時間を確実に作った。そして,A君の台本が完成した。その一連の活動の中で内発的動機づけが生まれ,徐々に本物になっていったのだと思う。

という,ひじょうに劇的な,そしてまとまりのよいレポートでした。

  さて,ではここで問題です。

「この事例における教師のはたらきかけを,構造・自律性支援・関与の3つの側面に分け,それぞれ説明しなさい。」

少しの間,みなさんご自身で考えてみてください。







 わかりましたか?  では,この点についても,この先生はすぐれた分析を示してくれていますので,ご紹介しましょう。

【構造】
  私たちは,台本を作ることについて話し合いの時間を持った。A君は劇をすることに興味があると言った。しかし私は,「劇の登場人物になるのは誰にでもできる。だったら劇の中心的な役割を果たせるよう台本作りから挑戦してみたら。」とアドバイスした。彼は最初は全く自信がないようであった。しかし,どんな劇にしたい? 登場人物は? A君の役柄は? などとたわいもないおしゃべりをしているうちに,彼なりの構想が膨らんできたようであった。表情が少しずつ明るくなってきた頃に,私が一緒に手伝うからやってみない?と聞くと,「うん」と頷いたのだった。ここで,私たちは,目標と評価の基準を設定した。この段階での第1の目標は劇の部のリーダーになること,評価の基準はA君の台本が採用されることであった。構造がはっきり見えたことでA君の決心が固まったのだと思う。
【自律的支援】
  2人で話し合った結果,最終的に台本を書いてみるということを,A君は自分で決定した。次いで,ではその台本作りをどのようにして進めていくかという話し合いから,A君は自ら,毎日放課後30分間学校に残って私と一緒に書くという選択をした。そしてさらに,物語を創っていくその工程の中で,さまざまなことを選択し,自己決定する経験を重ねていったのだと思う。

  先生はご自身のことを書いていませんが,もちろんこの過程で,いくつもの選択・決定の機会をA君に与え,また先ほど書いたように,あちこちで,その決定がよりよい決定となるよう,さりげなく援助の手をさしのべたのは先生であり,それなしではA君の決定が実りあるものになったかどうか疑わしかったと思います。これこそが,「自律性支援」といえる部分です。

【関与】
  私たちは1ヵ月間ほとんど毎日,放課後30分間は二人だけの時間を確実に持った。この経験は私にとっても非常に大きな意味を持った。人数が少ない小学校で,さらに深い関わりを持ったことで,何か目に見えない絆のようなものが生まれた。それは私だけではなく,おそらくA君も同じようなものを感じていたと思う。

  関与というのは,たんに人間関係が親密になったということではなく,「ある課題に関して」子どもに強い関心を持つことです。この方向性が重要で,いってみれば,子どもをじっと見つめることではなくて,子どもと「同じ方向を向く」という意味での関心の強さです。そのことが,子どもの内発的意欲をしっかりと方向づけることになったと考えられるでしょう。

  こんなふうに書くと,昔言われていた「教育ママ」も同じじゃないかと考える人もいるかも知れません。「一流企業・一流大学に入る」という課題にはっきり目を向けて,子どもに対して強くかかわっているわけですから,関与は高いと考えられます。

  それに対するDeciの見解は次の通りです。上のような場合は,親は,「子どものためだ」と言いながら,じつは<自分自身の欲求>として一流企業・一流大学を目ざしているのであって,子どもの行動はその手段に過ぎません。裏を返せば,親の欲求に沿って行動しなければ,その子を愛さないということにもなりかねず,制御的な態度といえます。子ども自身の欲求を基盤として,それに沿って親がかかわりを示す場合とは,大きく異なっているのです。まあ,現実の場面においては,両者は紙一重の部分もあるのですが,概念的にはきちんと区別できるのです。

  以上,この事例は,教師の3つのはたらきかけを考えてみるのにちょうどよい,興味深い材料をたくさん提供していただきました。

○

■ 自主学習,ふたたび

  最後は,「自主学習」をめぐる子どもの動機づけの変遷を綴ったレポートを紹介しましょう。自主学習は,以前にもとりあげたことがあり,毎年必ずといっていいほど出てくる,定番テーマのひとつです。その内容も,プラスの影響を扱った事例とマイナスの影響を扱った事例が半々といったところで,毎年楽しませてもらっています。

  さて,ここでの主人公は小学校3年生の男の子。新しく担任となったZ先生との出会いから,話ははじまります。

  ベテランの,背丈は低いが明るくパワフルなZ先生は,「ひとりひとりが主人公」という学級スローガンを掲げて,私たちに接してきてくれた。先生は,朝の会から帰りの会までの間ほとんど教務室に戻らず,常に教室にいて私たち児童とともに過ごした。

  彼女の教育スタイルもユニークであった。たとえば,
  1. 日直は毎日日記を書き,教室のどこかに貼り付けていくこと
  2. クラスの係は必要最低限の係の他に,自分たちで好きなものを作れること
    (ちなみに私は,給食係と,一筆書きやなぞなぞなどを書いて発行する「ゲーム新聞係」に所属していた)
  3. 給食の席は自由で,机の形も自由に変えて食べること
  4. 宿題はなく,自主学習を課題としていたこと
  5. 自主学習とは別に「疑問ノート」というものがあり,日常の疑問を書いて提出すると,その疑問の説明と先生のコメントが書かれて返却されること
  6. ノート提出があり,授業に関係するイラストを描いたり,色ペンを使い分けるなどすると評価してもらえること
  7. 帰りの会にはお香を焚いて,音楽をかけて一日を振り返る「瞑想」の時間があること
まだまだ,あげていけばきりがない。そして,これらの教育実践にはどれも,児童の自由が盛り込まれていた。それがZ先生の大きな特徴だ。

  当時の「私」はごく平均的な小学生であり,友だち2人とグループを作って,大半の時間を過ごしていました。 そんな私が,3年生になってはじめて出会ったのが「自主学習」。自主学習のシステムは,どの教科を,どのように勉強してもよく,勉強時間も勉強の量も自由。次の日,学習したノートやテキストを提出し,勉強時間にあわせて(30分で1枚)シールを貼る。そんなシステムでした。

  はじめのうちは,自主学習に戸惑った。宿題と違い,自主学習はどのように勉強すれはよいのか分からなかったし,勉強する量や教科が一人ひとり違うため,自分がやっている勉強がこれでよいのか,自信がもてなかったからである。しかし,1ヵ月ほどたって慣れてくると,私はクラスの中で勉強時間トップ10に入っていることに気づくようになった。私は,自主学習で算数の勉強をした。計算が得意で,自分で計算することに楽しみを感じていたからである。一方,苦手な国語の漢字練習や朗読練習には,ほとんど手をつけなかった。

  友人Bは,私よりもだいぶ学力が高く,クラスでトップを争うほどであった。彼は全ての教科ができる秀才であった。あるとき,Bから社会の問題を出され,私は答えることができなかった。しかし,もうひとりの友人Cは,社会が得意だったということもあり,スラスラと当然のように答えていた。

  私は,Cよりも頭がいいと思っていた。しかし,2人は私の知らない知識を持ち,相談しながら社会の問題を解いていった。そして私は,その中に入っていくことができなかった。このとき,<負けたくない>という感情が生まれた。それまで,自主学習で算数しかしてこなかった私は,これをきっかけに,社会にも手を出すようになった。

とまあ,ここまでは友だちとの社会的比較経験をきっかけとして,「私」の自主学習がうまく広がっていく様子がうかがわれ,自主学習が効果を表していることが推測されるのですが,じつは表に出ないところで,私の学習への動機づけは,少しずつ変質していたのでした。

  そのうち,張り出された自主学習表の形は,しだいに固定化していった。自主学習に取り組む子どもはシールを貼り続け,学習しない子どもの表は,いつになっても変化がなかったのである。2学期になると,これまでの記録はリセットされ,また新しい自主学習表が用意されたのだが,結果は1学期後半の形がより典型的になっただけだった。そしていつの間にか,私は自主学習する児童のトップ3に入っていた。友人B,C,そして私である。私はこの結果に喜ぶよりも,B・Cに負けたくないという一心から,いっそうがんばって勉強するようになった。

 たしかに,先生や親にほめてもらえたのがうれしかったこともある。しかし,それ以上に友人とのシール競争が激化していき,私の楽しみは,シールを貼り,競い合うことへと変化していた。勉強は楽しかったが,それは競争に勝つという目的のための勉強だったのである。

  そして「私」は,もうひとつ重要な指摘をしてくれています。

  問題はその評価の歪み,すなわち努力の方向性である。Z先生は,勉強時間によってシールを貼らせていた。つまり,質ではなく勉強と向き合っている時間が評価されているのだ。これでは,効率よく勉強した子どもは,まるで勉強をしていないような錯覚に陥り,勉強時間が少ないからさらなる努力が必要だ,という方向づけがなされてしまう。ひたすら時間と労力を投入することが,評価に値することなのである。

  私は要領が悪く,同じ課題をするにも人の倍ほど時間がかかる。そんな中で,内容ではなく努力した時間を評価してくれるこのシステムは,私に有能感を感じさせ,うまく自主学習へと動機づけていたのだろう。

市川伸一さんたちが言っている「物量主義」的な学習観の問題ですね。幸い「私」は,このシステムによって救われたと同時に,いっしょうけんめい勉強したかいがあって,毎日の授業でも有能感を感じることができるようになりました。もちろんこちらの有能感は,たくさん勉強したことではなく,問題が解けたという,本来の有能感です。さらには,Z先生の指導方針が「私」の考え方にうまく適合していたこともあったのでしょう。全体としては,自主学習に対してけっして否定的には見ていないのですが,同じはたらきかけを受けながら,自主学習を「しなくなった」クラスメートたちのことを考えて,こんな分析をしてくれたわけです。

  たしかに,こう分析してくれると,好きな教科・先生から認められること・両親からの非期待的なごほうび(ここではカットしてしまいましたが)・友人との社会的比較と競争・努力の質的量的評価などなど,自主学習をめぐるさまざまな要因が,内発・外発両方の影響を複雑に及ぼし合っていることがよくわかります。なるほど。

※  ※  ※

  さて,自主学習です。問題が相当に複雑であることはよくわかりましたので,ここでは,考えられるいくつかの問題を,とりあえず切り出しておきたいと思います。

  自主学習のネガティヴな効果について書いてくれているレポートを読むと,どうもそれらは自主学習そのものの問題というよりは,それに付随して教師が使う(とくに自主学習をなんとかクラスに定着させようとして打つ)「あの手この手」の部分が,子どもたちに妨害的な影響を及ぼしているように見えます。シール貼りだったり,金色認定証だったり,よくできた勉強ノートをみんなに示して,「こんなふうに書いてね」と言ったり…。せっかくの自主学習をクラスのみんなに普及させたい,定着させたいという先生方の思いと苦労はよくわかるのですが,それが,自主学習を変質させてしまっているように見えるのです。

  でも,だからといって自主学習に問題がないというわけではありません。むしろ,もっと問題は根深いのかも知れません。そもそも,自主学習を導入する目的は何なのか,というところに遡るように思われるからです。自主学習の目的は何ですか? 自分から勉強をはじめるような,意欲のある子どもを育てるため? それとも毎日一定時間机に向かう習慣を身につけさせるためですか? これらは同じように見えてけっこうちがうものです。

  自主学習の「自主」にこだわってみましょう。宿題代わりに毎日全員に自主学習を課しているのなら,それはもう「自主」ではありませんね。やってもやらなくてもいいのではなく,やるのは決まっているが,自分でやることを自由に決められるのだから,「選択学習」と名づけるべきでしょう。

  勉強する習慣をつけるのだったら,選択学習の考え方でいいと思います。とにかく全員が毎日やる。嫌いな勉強を続けるのはツライので,やる内容は,自分の好きなものをやればいい。これなら,全員ちゃんとやっているか確認のためのシールも,勉強時間を基準とした評価も,ある程度は理解できます。ただし,時間に応じてシールが増えるというのではなく,30分以上勉強したらそれ以上は一律にシールというような形で,ヘンな競争が始まることは抑えなければいけませんが。

  一方,自主的に勉強する意欲を育てるための「自主学習」だとすると,「やってもやらなくてもいいという自由」を,保障してあげる必要があるでしょう。それぞれの子どもが興味を持って何らかの課題に取り組んできたら,そのときにその内容を評価してあげればいい,というのが基本的な考え方です。全員一律にそんな習慣を身につけさせようというところに,かなり無理がありますし,極端に言えば,そもそも自主的に勉強「させよう」と先生がはたらきかけた時点で,すでに自主的ではなくなっているわけですね。

  そう考えると,毎日継続することにそれほど重点を置かない方がいいとも言えるでしょう。もちろん,毎日何かしら課題を見つけて勉強してくれるにこしたことはありませんが,それは最終目標であって,課題自体に対する動機づけをおろそかにしたままで継続を重視すれば,どうしても内容より「物量主義」に走ってしまうおそれがあります。

  自主学習は本来,かなり個人的な営みです。だから,それに関する教師のはたらきかけも,たとえば,ノートに毎回きちんとコメントを書いてあげる,といった形で個々の児童との間で行われれば,それでいいのだと思います。そしてさらには,その学習内容を授業の中で活かしていくことで,学習の成果を個々の児童が味わえるようにするのが,「王道」なのだと思います。他の人たちを刺激するために,勉強内容をみんなに提示したり,こんなにノートがたまりました,とみんなの前でほめたり,さらには宿題代わりに自主学習を強制することを,絶対ダメとは言うつもりはありません。きっと「たまに」やるぶんには自主学習促進運動の一環として,それなりの効果があるのでしょう。しかしそれは,あくまで「たまに」の範囲内にとどめるべきだと思います。

  まあ,口で言うのは簡単だけど…,というのは私も重々承知していますけどね。さまざまな問題をはらみつつ,自主学習,私も応援しています。


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