『学習心理学特論』レポートへのコメント

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<2006年度版>
【事例編】 Part 2
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■ とことんがんばれ

  今回,ひとつハッと気づかされたことがあります。それは,「努力」というものの扱い方です。大学院の授業では,原因帰属理論を中心に,努力の重要性をさんざん強調したわけですが,もしかすると,「がんばり」という名のもとに,ただただ長い時間をかけてひたすら反復練習に励む,といった修行のような勉強法や練習法を「努力」だと思って,それが重要だと受けとめてしまった人がいるかも知れない,と思ったのです。

  学部で勉強方法について取りあげるときは,これとはまったくちがう進め方です。こちらは学習理論とのかかわりで説明していますので,反復練習は基本だが,無駄に時間をかけて量をこなすことが勉強ではない,工夫しながら短い単位時間でまとめる方が,けっきょくは効果が高いのだ,と言っています。

  考えてみると,動機づけ研究の中での「努力」は,意味内容がけっこう曖昧です。測定項目をみるかぎり,“hard work”が基本ですので,いわゆる「がんばり」の程度を指しているともいえそうですが,研究者のイメージは,もっといろんな意味を含んでいるようです。すなわち,方略の使用とか注意集中とか,学習方法に関するさまざまな工夫を含め,積極的な学習行動すべてを「努力」というコトバで代表させているようなところがあります。もしかして,もともと“effort”というコトバ自体に,そんなニュアンスがあるのでしょうか。(同じように測定項目の中で使われる単語に“struggle”がありますが,こっちは「刻苦」のニュアンスが強そうです。) で,そうした努力の具体的な中身についてきちんと定義しないまま,曖昧に「がんばり」を強調することで,この概念は,日本的な価値観である根性と忍耐の世界と容易に結びついてしまう,そんな危険性があるように思います。

  前置きが長くなりましたが,私がこの努力概念の曖昧さに気づいて,すっかり悩んでしまうきっかけとなったのが,次のレポートです。努力重視か結果重視か,子どもの家庭学習をどのように評価すべきかについて,先生のこころは揺れているのですが,ここでの努力の意味と,それに対する先生の対応を考えてみると,とてもおもしろいのです。

  レポートに登場するのは小学校の先生。この先生自身は,「中途半端は嫌い,やるならとことん,集中してやる」という性格で,「努力することが一番で,結果はその後についてくるものだ」という信念の持ち主です。といっても,この先生の努力観にはちょっと“クセ”があり,自己分析によれば,子どものころ「1位になること」(しかも圧倒的な差で!)へのこだわりをひじょうに強くもっていて,学習塾と家庭での自主学習の両立がむずかしいとわかると,「どちらも1位を続けていたかもしれないが」,あっさり自主学習をやめてしまったりしています。ですから,この努力重視も,他者の目を強く意識したものである可能性が,ないとは言えません。このことは,またあとでふれます。

  ともあれ,先生は,「努力さえすれば,成績が悪くても悪い評価は与えない」というポリシーのもとで,子どもたちを評価していたのですが,そんな考え方は,2人の女子の出現によって大きく崩れていきます。教職8年め,小3の担任をした時のことでした。

  先生は,漢字は「たくさん練習することで覚えられる」と考えていましたので,漢字練習を宿題にしていました。「宿題:漢字ドリル20の漢字を3回ずつ練習する」といった具合です。通知表でも,国語の関心・意欲・態度の欄には,たくさん練習した子に◎をつけていました。

  さて,この2人の女子だが,共通するのは文字がていねいだということだった。ていねいに書くのでたくさんは練習してこないが,漢字テストの点数はいつもほぼ100点だった。むしろ,たくさん練習してくる子より正確に書くことができた。

  私には,その原因が分からなかった。しかし,この状態はその後も続く。そこで私は,さりげなく2人に様子を聞いてみた。すると,

「字が汚くなるのは嫌だから,テスト前に先生が,たくさん練習するようにノルマを多くするととても辛い。結局,夜遅くになっても終わらない。最後までできないこともあるが,たくさん練習するのではなく,1字ずつ最後まで書く。それをできるところまで繰り返し書くようにしている。」

ということだった。つまり,覚えるために1字ずつ集中して,ていねいに書けば,少ない量・少ない時間できちんと漢字を覚えることができるのだ。3年生くらいだと,まちがった字を平気で1ページも書いてくる子がいることを考えると,私の価値観は揺らいだ。

  とどめをさしたのは,片方の子の母親の言葉でした。「自分でやるべきことはやろうと決めて学習しているようです。でも,塾には行きたがらないし,私も行く必要はないかなと思っています。お手伝いをしたり,自分の時間を楽しんでいます。ゲームも少しはしますが,やっても30分くらいです。」

  先生には,2人の女子の時間の使い方が,とても上手に思えてきました。そこで先生は,宿題の出し方を変えます。「宿題:漢字テストで80点以上は取れるように練習する」 これで,書く量は個人に任せられます。ただし,80点以下の人は再テスト。またまちがった漢字は,テストの日の宿題として5回ずつ練習してくることにしました。つまり,完全に「結果重視」に変わったわけです。

  ところが,さらに先生の評価を結果重視から努力重視に変える児童があらわれます。

  その児童,C子さんは以前から不登校傾向があったのですが,前年度からの引き継ぎ事項が嘘のように,この先生が担任してから,彼女は7月前半まで,欠席がまったくありませんでした。

  努力家でくそまじめ,やるからにはとことんやらないと気がすまない。ただし,中途半端になってしまったことなどは最後までやる気がしない。やるからには一番を目指し,その成果を周りの人に認めてもらいたいという気持ちが強い。認められるように努力する。C子さんの性格は,自分の性格とよく似ている,と先生は感じます。だから,きっと相性がよかったのでしょう。

  そんなC子さんが,こんなことを言ってきました。「先生,もうすぐ1学期が終わるけど,このまま欠席しなかったら皆勤賞の賞状はもらえる?」 先生はその場で,「わかった。用意しておくよ。」と約束しました。そして彼女は,そのまま無欠席で終業式を迎え,先生は約束通り,彼女に皆勤賞の賞状を作ってわたしたのです。

  2学期に入り,C子さんは家庭での自主学習に積極性を見せ始めました。たとえば漢字練習。たとえば作文。先生はその日のうちにノートを見て,必ずコメントを書くようにしました。コメントは,どういった部分がよいのか具体的に書いてほめ,そのうえで課題を一つだけ付け加えました。もともと工夫して書く能力があった彼女の作文は,ほめることと課題を指摘することでますます良くなり,3年生でも5年生レベルかなと思えるような内容になりました。

  もうひとつ,C子さんはたくさん練習するわりには漢字テストの点数が良くありませんでした。それは,急いでたくさん練習するため,まちがったまま覚えることが多かったからです。しかし,これも先生は,ペンを2色使って,どこがまちがっているのか知らせるようにしました。C子さんはその指摘を見て,翌日には正しい字を練習してきましたので,こんなことを繰り返すうちに,徐々にまちがいが減っていきました。

  こうした過程で,私がC子にしたアドバイスは,今までの担任とはかなりちがったものだった。今までの担任は,「辛かったらやめてもいいよ」「そんなに頑張ることはないから,もう少し楽にやりなさい」「ここまでで十分だよ」などと声を掛けていた。簡単に言うと,疲れて欠席や遅刻をするくらいなら手を抜けということだ。しかし,C子にとってそのアドバイスは,かえって逆効果だと私は思った。なぜなら彼女は,中途半端が嫌い,どこで手を抜いていいか分からない,それよりとにかく周りの人に認めてほしい,やると決めたからにはとことん最後までやりたい,という気持ちが強かったからだ。それは,同じ性格を持つ私にもよくわかる。そこで私のしたアドバイスは,「とにかく,やれるところまでやれ」だった。それがC子の性分であり,私の性分でもあったのだ。

  3学期になりました。C子さんは学級委員に立候補し,みごとに代表に選ばれました。2学期のがんばりは,彼女に対する周りの子の印象を,「たくさん休む子」から「何でもがんばる子」へと変えていたのです。3学期末,先生が用意した賞状を,C子さんはほとんど1位で持って帰りました。とくに,C子さんは結局1年間無欠席を通しましたので,特別大きな賞状をわたしました。先生は,自信を持ってC子さんを次の担任に引き継ぐことができる,と安心しました。

  という事例です。最後に,先生の感想を載せておきましょう。

  こんなC子から感じたのは,努力が大切ということだった。C子は,先の女子2人とは明らかに違うタイプだった。私と同じで字はきれいではなかったが,たくさん書くということに関しては抜群だった。ちなみに,マラソン大会の作文は400字詰めの原稿用紙で7枚も書いた。それも長いだけでなく,読んでいて気持ちの変化や様子が分かる,ワクワクする内容だった。こんなC子さんに,「努力は重視しない。結果だけを見る。」というようなことを言っていたら,C子は育たなかったと思う。

  みなさん,どのように読まれたでしょうか?

ポイント

  簡単に復習しましょう。先生は,ご自身の評価の観点を,「努力重視」と「結果重視」とに分けて,その移り変わりを説明しています。

・第1期:努力重視
  “圧倒的な力の差で1位になるという高い目標を持ち,やるならとことんやる”という自身の性格をもとに,「努力さえすれば悪い評価は与えない」という方針で評価。

・第2期:結果重視
  量は少なくてもていねいに書くことによって,効率的に勉強している子どもに出会って,量より質へと転換。

・第3期:努力重視
  賞状ねらいで「やるならとことん」型の勉強で伸びていく子どもを見て,やはり中途半端でなく徹底的にがんばる態度を評価するよう,再転換。

こんなふうになるでしょうか。なるほど,教師が児童の何を見て評価しているか,という観点から見れば,第1期・第3期は,たとえ成績に表れなくても,がんばっている姿勢はきちんと評価すべきだという意味で「努力重視」です。そして,目に見えてがんばっている児童というのは,やはり学習時間と学習量が多い児童ということになるでしょうから,ここで重視されているのは,いわば「物量主義的努力」と言えるでしょう。(この命名については異論があるでしょうが,またあとで説明します。)一方,第2期は,一定の成績さえとれていれば,学習方法の細かいところには口を出さないという点で,「結果重視」と言ってもよさそうです。物量主義的努力でがんばっても,80点とれなければ評価されません。

  しかし,これを児童の動機づけという視点から見てみると,ちょっとおかしなところが出てくるのです。たとえば,第1期・第3期に共通する特徴をあげてみましょう。どちらも,「一番になる」「賞状をもらう」といった外的報酬を強く意識した動機づけが,根底にあることがわかります。つまり,これらの段階での児童は,ある意味ひじょうに「結果志向的」なのです。そのための努力なのです。

  一方,第2期の2人は,教師から課された家庭学習の条件よりも,自分が信じる効率的な学習方法を優先する姿勢を貫き通しました。問題数が多くて夜遅くまでかかっても終わらないようなときでも,「一字ずつていねいに」というやり方を曲げなかったのです。ですからこちらの方は,「結果志向的」とはいえなくなります。教師が課した条件に従う(その結果,教師から認められる)という結果よりも,「一字ずつていねいに」という勉強の内容を重視したのです。この場合,「漢字を覚えるため」という目標も「結果」にはちがいないのですが,結果と行動とがどれだけ不可分に結びついているかという鹿毛さんの基準で考えると,「教師に認められたい」に比べて,こちらの目標はずっと内発的,「内容志向的」であることがわかると思います。

  さて,こう考えてくると,第1期から第3期までの変遷が,まったく逆の意味合いになってきます。そればかりか,原因帰属や目標理論での「努力」の位置づけは,内発性の高い動機づけと結びつく行動なのですが,第1期と第3期は,むしろ外発的動機づけの色彩が強いようです。だとしたら,ほんとうにこうした学習法を高く評価していいのでしょうか。せっかくの努力も,一番になれないとわかったら,あるいは担任が代わって賞状がもらえなくなったら報われず,その結果,学習意欲はすぐに崩れてしまう…ということはないのでしょうか。

  東大の市川さんたちがやっている「認知カウンセリング」では,課題解決と同時に,児童の学習観の変容も意図しているのですが,そこで指摘されている「誤った学習観」に「物量主義」(時間と手間をかけるほど成績はあがるのだ)と「結果主義」(問題を解くプロセスは重要ではない,正解にたどり着くかどうかだ)があります。認知カウンセリングを通じて,答えを導き出すプロセスに目を向けさせ,そこでのさまざまな工夫が有効であることを理解させることで,次は児童自身の手で問題解決プロセスをマネジメントできるようになる,というのが基本的な考え方といえるでしょう。いっぱいやったから,たくさん時間をかけたからといって勉強したつもりになってはダメで,勉強の内容にもっと目を向けなさいということです。やっぱりここでも,物量主義は旗色が悪そうです。

  ところで,市川さんたちは毎年,学会でシンポジウムを主催して,その成果を発表していて,私もよく聴きに行くのですが,昨年のシンポで,発表を聴いていたある県の指導主事の方から,こんな質問が出ました。

「物量主義・結果主義が誤った学習観であるのは理解できるが,そのことを納得できるのはある程度頭のいい子ではないか。現実には,物量主義・結果主義が唯一使える方略で,それに頼らざるを得ない子どもたちがおおぜいいる。そうした現実をどう見ているのか。」

  なかなか手厳しい,しかし的確な指摘だと思います。市川さんは,「経験上,そういう子どもたちも正しい学習観を理解できるし,彼らにとっても学習観の転換は必要だと思う」と答えていましたが…,う~ん,どうでしょう。私も,基本的には市川さんたちの立場に賛同しつつも,この指導主事の先生と同じ心配をしていました。というのも,私自身,こんな経験があったからです。

  私が学生のころ家庭教師をしていた中学生は,二次方程式の単元ですっかりつまずいてしまいました。因数分解とか,完全平方の形にするとか,プラスマイナスの形にするとか,いろいろ習うわけですが,いつどれを使ったらいいかさっぱりひらめかない。そこで彼女は,すべての問題を解の公式にあてはめて解く,という方法をひねり出しました。どんなに簡単に解ける(ようにはた目には見える)問題でも,彼女は解の公式にこだわり続けました。そのやり方では,式を作るというような問題では点数がとれないだろうと言うと,「それでもいい」と彼女は答えました。もともと100点は望んでいない。落第点をとらない程度の点数がとれればいいのだと。どのやり方を使うか悩んで時間切れになるよりは,何も考えず公式にあてはめて答えを出した方が,そこそこの点は取れる,というのです。つまずきのショックはよほど強かったのでしょう。彼女はその単元が終わるまで,かたくなにそのやり方に固執し続けました。

  つまり,彼女にとって解の公式は,つまずいている状況から救ってくれる唯一の手段なのであり,それを使うことは彼女にとって一種の「適応方略」なのです。まちがっていることはわかっていても,それによってかろうじて状況に適応できている限りは,その手段を手放すことはできないでしょう。

  物量主義的な勉強も,場合によっては,これと同じような機能を持っているのではないでしょうか。「工夫しろ」と言われてもどのようにやったらいいかわからない児童にとって,何時間やる,何ページやるという目標は,ずっと扱いやすい目標です。「80点以上とれるように」と言われて,じゃあ自分ならこうしようと計画できる人なら,それでいいのでしょうが,「80点以上とれるように」と言われても,どうやったらいいかわからない人もいるわけです。そうした人たちでも,「ドリルの漢字を3回ずつ」ならすぐに取り組めますし,それで少しでも成績が上がったとしたら,ますますがんばって勉強に取り組むようになるでしょう。こういう適応方略としての「物量主義的努力」の存在を,認めておく必要があるのではないでしょうか。

  物量主義的な勉強は,長期的に見ればやはり限界があります。C子さんが当初,漢字テストで思うように点数がとれなかったことが示すように,この方法では当面そこそこの成果は見込まれても,いずれは伸び悩み,あるいは挫折するのは目に見えています。挫折したとき,自らそのことに気づいて,内容主義的な勉強に転換してくれればいいのですが,そのまま無気力の闇へと沈んでいくことだって,十分ありえます。

  しかし,だからといってこうした勉強法を全否定するのは,いかにももったいない。この勉強法を唯一の支えとして,なんとか状況に適応してきた人たちなのです。これがなければ最初から勉強をあきらめていたかも知れません。それと比べれば雲泥の差。それをうまく利用しない手はありません。

  さて,こうしたことをわかったうえで,先ほどの先生の指導をもう一回見てみましょう。先生はC子さんに対して,「やれるところまでやれ」とアドバイスしたと言っていますが,実際の先生のはたらきかけは,じつはそれだけではありません。書いてきた作文のおもしろさをほめ,漢字の間違いを2色のペンできちんと指摘しているのです。言い換えれば,たくさん書いてきたこと,長い時間をかけたことをほめているのではなく,その内容に目を向けさせているのです。おそらく,ここが大きなポイントなのでしょう。C子さんの物量主義的努力を認め,奨励しているように見えて,実際はその努力を内容志向的な努力へと,うまく方向づけているわけです。

  C子さんの場合は,やり方がわからないからひたすら書くというのではなく,性格的なもののようですが,一般的にみて,このあたりは,物量主義的努力を適応方略としている人に対する対応のヒントを,私たちに与えてくれているように思います。

ポイント
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■ 授業評価に関して

  事例はこれくらいにして,最後に少しだけ,授業評価について書いておきたいと思います。

  全授業科目で授業評価が導入されて,もう3・4年たつでしょうか。数値評価の方は毎年変わり映えがしないので(改善していないともいえる),だんだん真剣に見なくなってきているのですが,自由記述の方は,毎年気をつけて見ており,次年度の改善の参考にしています。また同時に,行き違いというか,こちらの考え方をきちんと説明しておかないといけないようなコメントも,とくに昨年あたりから増えていますので,ここでそのことについてふれておこう,ということです。

1.授業の内容がむずかしい

  数値評価5段階で,「むずかしい」側の「2」を選択した人が,回答者48人中6人と,この授業へのマイナス評価の中では最大の項目がこれでした。自由記述では,2人が「むずかしい」と回答していました。このうち,お1人は,参考文献を読んだりメールで質問したりして,むずかしかったが「やりがいがあった」と,肯定的に受けとめてくれたようですが,もう1人は,

難しいです。板書に工夫を要すると思います。

と,バッサリ。

  しかし,むずかしいのは承知でやっています。これは大学院の専門科目の授業ですので,申し訳ありませんが,だれでもわかる入門的な授業というのは,最初から考えていません。(じつは,毎年オリエンテーションのいちばんはじめに,そのことを必ず言っているはずなのですが,これはまあ最初の授業ですので,気づかなくてもしかたありません。) 念頭においているのは,修論で動機づけを扱おうとしている人たちに,知っておいてほしいレベルの知識を,ひととおり扱うということです。

  それに,授業ですべて理解できるものだとも考えていません。むしろ,授業で学んだ知識や疑問をきっかけとして,いろいろな専門書や研究論文に当たって知識を深めてほしい,というのがねらいです。ですから,先ほどの最初の方のような受けとめ方は,私にとっては,ある意味「理想」です。

  もちろん,現職教員の人たちがたくさん聴きに来られるので,教育実践をなるべく意識した内容にしてはいるつもりですが,だからといってレベルは落としたくないと考えています。その代わり,共通科目で1時間を担当している「解析法」と「援助法」については,ずっと“入門編・実践編”的な構成にして使い分けているつもりなのですが,いかがでしょうか。

  逆に,私の方から見ると院生からの質問がここ数年ですっかり来なくなってしまったのが,とても不思議です。以前は,授業のあとにたいてい2,3人は質問しに来てくれていましたし,メールでも毎週のように質問が届いていたのですが,なぜかここのところ,ぱったりと質問が来なくなりました。先ほどの方などは,かなり例外的だと思います。

  質問に来ていただければ,こちらもどういう説明がわかりにくかったのか察しがつくのですが,それが全然ないとなると,こちらとしては改善のしようがありません。それで,最後になって「むずかしかった,板書に工夫を要する」と言われては,何も言えません。

  ちなみに板書ですが,私自身けっして板書がうまいなどと思ってはいませんし,今年は昨年度の評価コメントを受けて,例年より細部にわたって板書するよう,ちょっと挑戦してみたところもあったので,きっとご指摘のとおりではあったでしょうけれども,それにしても,何がどうマズいのかひとことも書かずに,ただ「工夫を要する」ではねえ。言わせていただければ,こういうのは相手を落ち込ませるだけで,ちっとも建設的じゃない評価だと思いますよ。

  ついこっちも,「授業評価の文章に工夫を要すると思います」とか言ってみたくなります。いやいや,それではいけません。「どこがどのように改善を要するのか,もっと具体的に記述してください」と言っておきましょう。

2.マイクを使ってください

声が小さくて聞こえないことがあったので,マイクをきちんと使ってほしい。

  これはよくわかります。いちおう,小さい声でしゃべっているのはたいていどうでも良い内容なのですけどね。あの部屋は,マイクを使うべきかどうか微妙な広さで,私も悩むところなのですが,率直に言って,スタンドマイクは苦手です。

  だいぶ以前,301での200人授業を担当していたことがあって,そのときはもちろんマイクを使って話していたのですが,黒板に板書してはマイクに戻って説明し,図を指し示すためにまた黒板に移動してはマイクに戻って続きを話す,という作業がどうにもなじめなかったのです。

  今はわかりませんが,当時は301設置のワイヤレスマイクは性能が悪くて,体の向きを少し変えるとアンテナが拾えなくなって,声がとぎれとぎれにしか聞こえなかったので,それも使えず。

  それで,今までできるだけマイクを使わずにしゃべってきました。ワイヤレスマイクが使える部屋なら,迷わず使うのですが…。あるいはまた,一気にプレゼン形式の授業にして,黒板に移動せずPCの前にドンと座ったまま,という形式に変えるのなら,スタンドマイクでも大丈夫なのですけれど…。

  とりあえず,教室の真ん中の前列は,いつも広く空いていますので,聞こえにくいと思ったら,どうぞ遠慮なく前でお聴きください。とくに指名したりはしませんので。

3.シラバスを詳しくしてほしい

私はシラバスを確認したことがあるが,もう少し内容を詳しくしてもらいたい。評価方法や,試験の期日,日にち別に講義内容などを詳しく書いてもらいたい。これはどの講義でも同じようにしてもらえるとありがたい。

  う~む,これは正直よくわかりません。「評価方法や,試験の期日」って,ちゃんとシラバスには「レポート」って書いてありますし,最初のオリエンテーションでもふれています。それとも,レポート何字以内とか,提出日何日というような情報で,受講を決めるというのでしょうか,大学院の授業なのに。そもそもレポートの説明をした当日に書いてもらった授業評価で,「試験の期日」を明示しろ,というのはどういうことなのでしょうか。

  授業を受けてみればおわかりだと思いますが,この授業は1話完結型の形式をとっていません。ひとつの概念についてかなり詳しく説明していますので,短いものでも1時間,たいていは3,4時間連続で同じ概念を扱います。基礎知識ではなく,専門的な内容について扱おうとすればするほど,1話完結型にするのはむずかしく,また毎年,流れによって多少多くしゃべったり省略したり,新しく勉強した部分を追加したりして,微妙に時間配分を動かしています。ですから,講義が始まる1ヵ月も前から,毎時間ごとに話す内容をガッシリ固定してシラバスに書け,といわれるのはけっこうしんどいです。

  それで,その代わりに,その時間にだいたいどんな流れでしゃべるのかについては,配布資料の中に毎回書き込んでいるはずなのですが,あれでは不都合でしょうか。

  シラバスを<毎時間ごとに>詳しく書くことの積極的な意味が,正直言ってよくわかりません。料理のメニューのように,その中から好きな時間だけ聴講する,とかいうのならわかりますけれど。 毎回出席している人には,話の流れはだいたいわかってもらえるのではないかと,私自身は思っているのですが,甘いでしょうか。あるいは,アメリカ式に,次の講義までにこの本を読んできて討論,というような課題を出しているのであれば,予習の都合上,詳しく書かないといけないのだろうと思いますが,そんなものも課していませんしね。どなたか,もっと詳しく要望してください。

ポイント

  自由記述では,おほめの言葉もいただいているのですが,そちらについては,もちろんここではふれません。ひとりでニヤニヤしながら読ませていただきました。ありがとうございました。

  なんか,こんなふうに書くと批判的な評価が書きにくくなるかも知れないと思って,書くかどうか迷っていたのですが,結局書いてしまいました。批判的であれ肯定的であれ,自由記述で具体的にいろいろと指摘してくれるのは大歓迎ですし,できることは次年度になるべく取り入れていますので,次年度もまたたくさん書いてくださるようお願いします。


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