テーマ別編 高等学校 3/6
ピッツバーグの産業構造変化と都市再開発
新潟県立新潟西高等学校 志村 喬
(2) 鉄鋼業を支えた人々
 工業化の過程では、多数の製鉄工場を支配し鉄鋼王として知られるカーネギー(A.Carnegie、スコットランド移民)や、メロン財閥の創始者メロン(T.Mellon、アイルランド移民)をはじめとした起業家達が当地に登場した。彼らがピッツバーグで設立した企業には、鉄鋼業のUSスチール(1986年にUSXと社名変更)、アルミニウム工業のアルコア(Aluminum Co. of America)、総合電機メーカーのウェスティングハウス・エレクトリックなど今日のアメリカ合衆国を代表する大企業がある。
モノガンヒラ川沿いの工場
写真3 モノガンヒラ川沿いの
工場と背後の住宅

表1 ホームステッド工場に
おける 労働者の民族構成
(1919年)
民族 労働者人数
(人)
構成比
(%)
アメリカ
(黒人)
7,533
(1,734)
51
(12)
スロヴァキア 2,373 16
ロシア 628 4
ハンガリー 574 4
アイルランド 443 3
ポーランド 432 3
イングランド 424 3
クロアチア 299 2
ギリシア 267 2
イタリア 264 2
リトアニア 238 2
スコットランド 226 2
ドイツ 219 1
その他36民族
(日本人)
767
(1)
5
(0.01)
合計 14,687人 100%
資料:Curtis Miner(1989)
 これら工業が栄えると同時に、大量の移民が工場労働者として流入し、ピッツバーグの人口も急増した。例えば、USスチールの大製鉄所であったホームステッド工場(この工場は第二次世界大戦直後においては世界最大を誇った)の、1919年当時の労働者の民族構成は表1の通りである。この表からは、労働者の約半数が移民であり総計49民族が働いていたこと、スロヴァキアをはじめ東ヨーロッパからの移民が多かったことが読みとれる。彼ら労働者の居住地域は、河畔の工場の背後にあたる高台の地区であった。この結果、ホームステッド地区やダウンタウン東側のヒル・ディストリクトをはじめ、各労働者住宅地区では、それぞれ地区特有の民族構成がみられることとなった。
(3) 鉄鋼業の衰退
 1948年まで続いたピッツバーグを中心にした鉄鋼の立値制度(ピッツバーグでの鉄鋼価格とピッツバーグからの距離で鉄鋼の販売価格を決定する制度)に支えられたピッツバーグの鉄鋼業は、1960年代以降、他の鉄鋼業地域との厳しい競争にさらされることとなった。国内的には輸入鉄鉱石や石炭を利用する臨海型の鉄鋼生産地との競合、国際的には日本、韓国、ブラジルといった国々の鉄鋼業の発達である。ピッツバーグの製鉄所は、小規模で古い労働集約的な型式のものが多く、他の鉄鋼業地域に比べて近代化が遅れていたため競争力を失っていた。アメリカ合衆国の鉄鋼生産は1973年をピークに急減したが、ピッツバーグが位置するペンシルバニア州の落ち込みは他の生産地に比べて大きく、その後の回復も顕著ではない。これは、ピッツバーグの鉄鋼業がかつてのような勢いを失ったことを意味している。ピッツバーグを含むアレゲニー郡における金属産業労働者は、1950年の107000人から1990年には18000人にまで減っている。この基幹産業の衰退に伴い、ピッツバーグ市の人口も同期間内に約半分に減少した。