「癒しとしての学び」の本質に関する基礎的研究
 
 
学校教育専攻
教育方法コース
古田島真樹
 
 
1.研究の目的
 教師にとって問題行動を起こさない「普通の子」は、目立たない存在である。この「普通の子」が突然取り返しのつかない事件を引き起こすことが報告される。ストレス社会の中、多くの「普通の子」は心に「闇」を持ち、救われたいと願っている。
 このような状況にある子どもを救うには、学校において一番多くの時間を過ごす授業にその役割を求めなくてはいけない。学習指導と生徒指導とを別々に考えるのではなく、両指導過程の統一が重要である。
 「授業」において学習指導上の問題と生徒指導上の問題を結びつける役割を、「学び」の中に存在する「癒し」に求められる。「『教育』を『ティーチング=文化を伝承すること』としてのみでなく、『ケアリング=心を砕き世話をすること』を含み、さらには、その過程に内在する『ヒーリング=癒し』をもふくみ込んだ概念として再定義してみると、学校を再生する筋道がみえてくる。」とする佐藤学のとらえにその論拠を見い出せよう。
 本研究では、分断されている「学び」と「癒し」を結びつけ、「学ぶ」ことによって癒される「癒しとしての学び」の本質を明らかにし、「癒しとしての学び」を基底とした授業構想の提言を目的とする。 
2.論文の構成
〈序〉 研究の目的・先行研究
第1章 「癒しとしての学び」の必要性
第2章 「癒し」の本質
第3章 「癒しとしての学び」の本質
第4章 「癒しとしての学び」と授業構想
〈結語〉研究のまとめと今後の課題
 
3.論文の概要
 物質社会、学校化社会、情報化社会等の要因が結びつき、子どもの生活空間を変質させた。このことにより、子どもは、生活空間の変化、それに伴う体調の変化により知らず知らず心に「闇」を持つようになったのである。子どもは「透明な存在」となり「普通の子」として我慢を強いられながら、学校での時間を過ごしている。子どもにとって、安心でき、癒しのある学校でなければならない。
 学校での主目的である授業において癒されることが、「普通の子」にとって肝要である。「学び」の中に含まれていた「癒し」の機能が、現在の授業には発見しがたい。学校において子どもたちは「癒し」を求めているのである。
 学びの中に重要な「癒し」とはどのようなものであろうか。医療現場における「癒し」の実体と教育現場での「癒し」の実体から「癒し」の本質を抽出する試みを行った。
 医療現場では、看護する人とされる人という関係ではなく、積極的に同じ経験をする同等の人格として振る舞い「癒し癒される関係」の成立を大切にしている。
 教育現場では、エンカウンターや特殊教育を中心に自分を知ることや、個性の伸張を重視する。自分自身を知るとは、嫌だと思っていた自分を好きになることであり、「自己治癒力」の開花と考えられる。
 以上の例から「癒し」の本質を「癒し癒される関係」と「自己治癒力」そして、「個性の伸長」にあると考えている。
「癒し」とは、「癒される」という到達点があるのではなく、「癒しの過程」というプロセスではないだろうか。「癒し癒される関係」、 「自己治癒力」、「個性の伸長」のそれぞれは分離しているのではなく、連続した機能、あるいは共に存在する機能ではないだろうか。「癒し」は、ひとりでは実現できない。 共感しあえる共同体において、「ケアリング」を発揮しながら共にあろうとする時、癒し癒される関係が成立する。この過程を「学び」に位置づけるものが、「癒しとしての学び」である。
 一人ひとりの差異を認めるために、「共感」しながら友達や環境と関わりを持つことが肝要であろう。「ケアリング」に満ちた共同体、すなわち「学びの共同体」において、子どもたちは学びながら癒され始める。学級が、「学びの共同体」になることが必要と言えよう。
 学びの過程において、友達や自分自身の価値観と対立し傷つくこともあろう。そのときに共同体の構成員からケアをしてもらいながら、学びを続けていくことにより新たな自分を発見することができる。学びの過程は、自分自身との出会いと対話であり、自己の内的世界の編み直し(倫理的・実存的実践)となる。
 「癒しとしての学び」を基底とした授業は、
認知的実践を行いながら、社会的実践を通して倫理的実践にまで進まなければならない。その実現のため、授業システムの変革が要請される。授業システムの変革の方向を、教科交流の授業と、築地久子教諭の実践に求められる。
 まず、教科交流である。教科交流は従来の授業スタイルでは成立しない。教科交流において障害児が参加しやすいように、教材を工夫したり、TT、グループ学習、個別学習などのスタイルも時には取り入れる等で活動を工夫することにより、子ども一人ひとりの個性を伸ばす援助をする必要がある。このことにより、学習面の遅れや困難を感じている子など、どの子も楽しくに学べるように授業が変わる。
 次に築地実践は、授業に子どもを位置づけ、その子のための授業を組織している。築地学級の子どもは、関わりがふつうの授業に比べて極端に多い。板書をしたり、資料提示をしたり、互いに指名したり、自分たちで授業を作っている。学級が、「学びの共同体」になっているといってよい。
 授業で位置づけた子を中心に少しずつ成長する。子どもが成長するとは、自分の考えを見直したり深めることにより、新たな自分を発見することを意味している。認知的実践のみを行う授業では、自分自身のことを深く見つめることは少ない。
 結局、「癒しとしての学び」の授業とは、学級がケアリングに満ちた「学びの共同体」となって、授業を子どもが作り、時間をかけ「自己治癒力」を開花させ、自分さがしの旅を教師と共にすることであると結論できよう。
 
指導  高田喜久司