「興味」を視座とした授業改善の基礎的研究
学校教育専攻
教育方法コース
寺 分 典 彦
1.研究の目的
教育における「興味」の重要性は,これまでも多くの視点から述べられ,学習活動への導入が図られてきた。しかし奔放に過ぎる活動が批判されたり,実際に,収束不能に陥った活動も多いといえよう。
今日,受験競争を背景とする教師中心の知識注入型教育が批判され,かつ後を絶たない教育の病理現象の一要因ともみなされる中,「興味」は再評価される傾向にある。だが,「興味」の再登場にあたっては,かつての批判は乗り越えられるべきものである。
本研究では,批判点の要因を「興味」の目的視に求め,「興味」を唯一の原理に収束させることなく,「手段−目的」の連続関係に捉え直すことを試みる。具体的には,先哲の研究や実践に学び,今日に通じる興味の意義と構造を解明し,「興味」は,子どもを円滑な人格形成へと導く目的追究活動を支えるものであり,それはまた,興味が複合されていく過程である」という視座のもと,授業改善の方策を論究することを目的とする。
2.論文の構成
〈序〉
第1章 「興味」の意義
第2章 「興味」の構造
第3章 「興味の複合」
第4章 「興味」と授業改善の視座
〈結語〉 研究のまとめと今後の課題
3.論文の概要
過去の論証のもと,興味の意義として「学習を動機づける要因」,「主体と客体とを結びつける原動力」,「活動・成長の推進力」の三つの側面を見いだすことができた。
受験競争を背景とした教師中心の知識注入型教育は,興味によって動機づけられることのない,無味乾燥の学習状況を生みだした。そして利便性を増す社会情勢は,子ども(主体)と他者や周囲の事物(客体)との「かかわり」を遠ざける結果を招いてきたといえよう。またこうした事実は,円滑な人格形成としての子どもの成長を歪曲化させ,多くの病理現象表出の一要因を成してきたと解せるのである。従って今日「動機づけ」とあわせ「主体と客体の相互作用」,「成長の推進力」としてはたらく「興味」は,きわめて重要な意味を持つといえるのである。
まず,「興味」の意義を今日的文脈の中に位置づけることはそれほど難しいことではない。なぜなら,コメニウス以降「学習への動機づけの側面のみが強調された興味論も,後には,三つのはたらきに補完されてきたのである。さらに,「興味」を中核とした授業実践の立場からは,「興味の複合」という視点も提示されるに至っている。つまり,各種興味論の遺産から,時代のちがいを念頭に置きつつ,その不易とも呼べるものを慎重に読みとることで,今日的文脈のうえに再構築をはかることは可能であり,重要といえよう。
次に,「興味」は円滑な「人格形成」に資するものであるということからは,教育と生活とを乖離させないものとしての,「興味の構造」を示した。即ち,「興味」に動機づけられた活動を,単なる個別でバラバラな学習に収束させない要素は,客体との相互作用(「かかわり」)であり,それに支えられた目的追究活動は,希望に満ちた「努力」をも発現させるのである。「教育それ自体が生活である」という,先哲から語り継がれてきた視点は,抽象的な将来,あるいは人間像を追い求めることに終始し,子どもの「現在の生活」を見失うことへの戒めが込められていると推断できよう。
また,「相互作用」によって引き起こされる「興味の複合」は,知識の「注入」を是正するものではあるが,「知識」そのものを否定するものではない。いわば子ども自身の生活に根ざす「複合」であり,「胸中の温気」や「実感」を伴った「知識創造の過程」として定義づけられる。加えて,知識創造に集約される学習は,「個人」に「主体的学習」を成立させるものなのである。しかし,「個人」に成立する学習は同時に,「個別学習」の形態のみに偏向するのではなく,「環境との相互作用」によって,「共同学習」へも発展可能となる。こうした作用こそが「興味の複合」に見いだされる教育的意義といえよう。
「個別学習」が「相互作用」を経て「共同学習」へと発展し,さらに「個別学習」へと還流される。あるいは「個別学習と共同学習の同時進行」をも可能にさせる作用が,「興味の複合」によって得られることが示された。
こうした作用を維持継続するための,具体的授業の様相は,徹底した資料の準備と,環境の整備に支えられている。それが,教師の努力を要求することは必然であるが,学習を子どもの生活に根ざしたものにするという視点は,むしろ子ども自身の視線と言葉によってつくられた資料を強く必要とする。従って,毎日の授業の積み重ねとその記録が,有効な資料として蓄積可能と捉えられるのである。
一方,資料と同様に環境の整備もまた,子どもの多様な「興味」にでき得る限り対応可能であることが望まれよう。しかしながら,資料,環境の不備を理由に問題の山積する教育方法にとどまることは,性急な改革と同様に危険である。フレネは「わたしたちは総てか一切なしかのどちらかを選択するものではない」という。この言葉の示すものは,できることから着実な歩みをすすめ,確実に環境を整えていくという道を用意しよう。
また,豊富な資料や豊かな環境に支えられた授業は,子どもたち自身の計画と実行による学習を可能にする。そこには指示的なものや強制を必要としない「規律」が存在するという。つまり,子ども自身の責任によるより厳しい「規律」である。
強制や統制では解決しない病理現象を抱えるわが国の教育にとって,きわめて価値ある提言が,ここに示されたといえよう。また「生活科」の導入や,「総合学習」導入の決定は,こうした授業構築への道を切り開くとも解せよう。
結局、授業改善の視座としての「興味」は,それがありさえすればよいのではなく、「如何に生かしきれるか」,という意味において重要な要素であったと結論づけることができるのである。
指導 高田喜久司