Two Metaphors for Learning and the Dangers of Choosing Just One

by Anna Sfard
(Educational Researcher 27(2),pp. 4-13)


   本論文は、Educaional Researcher誌上で続いている学習に関する論争に関わって書かれ ている(本紙4-5, 5-3参照)。まず、彼女はその論争を詳しく見ていくために、学習の捉 え方として「獲得の比喩」(Acquisition Metaphor)と「参加の比喩」(Participation Metaphor)とを区別する。「獲得の比喩」(以下ではAMと呼ぶ)によると、人間の学習は何 かの獲得であると考えられ、また、概念を基礎的な知識単位とみてその発達や意味の構成 が探求されていく。例えば、「小学生の科学的知識の発達」「数学的概念の獲得」「科学 における概念変化の促進」などの論文タイトルにこの比喩を見ることができる。ただし、 数学的概念が学習者のプライベートな性質となるメカニズムについては同じAMの中でも異 なる提案があるという。ここで、Sfardによると、構成主義も社会文化主義もAMに含まれ るとされる。一方、「参加の比喩」(以下ではPMと呼ぶ)では、学習が正統的周辺参加( legitimate peripheral participation)あるいは思考の徒弟制度(apprenticeship of thinking)と考えられ、教科の学習はある共同体の一員になる過程であるとみなされる。 例えば、「民主的な能力と反省的思考」「共同体における学習」「数学の共同学習」など のタイトルにこの比喩を見ることができる。PMでは「概念」「知識」という名詞は使わず に、「知ること」(Knowing)という行為が強調される。

 2つの比喩の紹介後、議論は「AMでは何が拙いのかPMはどんな手助けができるのか」へ と移る。ここで、AMの弱点として2つが指摘される。1つは、プラトン以降人々を悩ませ てきた学習のパラドックス(知らないものを知ることができるのか)の存在である。このパ ラドックスは数十年前に急進的な構成主義の台頭によって解決されたかに見えたが、他の 人と同じ知識をどうやって自分自身で作り上げることができるのかというジレンマに陥る ことになった。PMでは、知識を客観視することをやめるので、AMが陥っていた弱点を回避 することができるようになった。2つめは、AMでは、知識の所有者がハイランクに位置付 き、人を類別することへとつながっていく点である。「協働」よりも「敵対」が強調され るのである。これに対し、PMは、参加や共有された活動についてのディスコースを問題と するので、「一緒であること」「連帯」「協働」が強調されることになり、より民主主義 的な性格を持つという。

 では、AMを排斥されるべきなのか。Sfardの答は否である。彼女は、次の節で、AMだか らこそ選られる大切な知見があることを主張する。1つは、転移の議論についてである。 PMによると転移の考えが排除されてしまう。しかし、転移や抽象化を議論しない学習論が 果たして健全と言えるのか。LaveとWengerが述べるように、「理解へ至る他のルートを我 々は知らない」のである。他の1つは、教育上の問題についてである。PMの言う学習の文 脈依存性は、しばしば、数学の知識はリアルライフな文脈でのみ有意味に学べるという主 張を引き出す。しかし、そのような「仕事場」を見つけるのは容易なことではない。また 、生徒は実践共同体の一員にならなければならないというPMの主張は不明瞭であり、さら には、これまで重視されてきている数学の本質が弱められる危険性を有している。PMの一 番の役目は、AM以外の学習の比喩の存在を示したことであり、それゆえ両者は相互に依存 しあっている。コンフリクト的な関係にある2つだからこそ、バランスがとれ、研究にお いても実践においても力の源になるのである。

 最後の節では、我々は、いかに2つの比喩とともに生きることができるのかについて述 べられる。実際、このようなジレンマは現代科学の至るところで見られる。Sfardは、困 難は少なくとも2つの仕方で乗り越えられると言う。1つは、PMとAMを互いに対立する意 見と考えるのではなく、異なる視点を提供してくれると考えることである。化学と物理が 物質についての異なる説明を与えているように、あるいは、生理学と心理学が人間につい ての相互に補完しあう見方を提供しているように、PMとAMも、学習についての相互に補完 しあうディスコースなのだと考える必要があるという。また、実際にどちらの比喩によっ て学習をみるのかは、我々の選択によることになる。選択に際しては、個々の研究者が何 を成し遂げたいかに主として依存する。例えば、行動のシミュレーションをしたいのであ れば、AMが選択されるであろうし、社会的な要因も考慮した教育の問題について考えたい のであれば、PMが選択されるであろう。ここで、比喩の選択にあたっては、研究者の個人 的な好みや専門家としてのアイデンティティも大きく影響する。どちらの比喩を選んだと しても、その結果出てくる理論は、十分説得力を持ち、また、一貫性を保っているべきで あり、さらには、学習についての新しい洞察を有効に生み出すものでなくてはならない。

 困難を乗り越えるもう1つの仕方は、互いにコンフリクトな関係にありうる比喩を、1 つの理論上の枠組みの中に合併することである。そのためには、それぞれの比喩を存在論 上の規定と考えるのをやめて、"as if"のメッセージをもたらすものと解釈する必要があ る。但し、複数の比喩を1つの枠組みに取り込むといっても、なんでも取り込んでいいわ けではない。やはり結果として生み出される理論は、実験的に検証が可能であるべきだし 、データと合致していなくてはならない。しかし、そうして生まれた理論では、これまで 以上に、その有効性や生産性が重要視されることになる。データをどのように見るのかと いう「理論的なレンズ」の有益さが問題となるであろう。

 研究者として、我々は様々な比喩から構成されている現実の中に生きている。理論化す るために我々が使う比喩は、小さな領域に適合すればそれで十分なのであって、領域すべ てをカバーするような比喩など存在しないのである。我々はこのことを認めるべきであろ う。換言するなら、ローカルなセンスメイキングで満足することを我々は学ばなくてはな らないのである。我々の仕事は、統合された1つの学習理論の構成ではなく、ローカルな 領域をカバーするような比喩のパッチワークづくりであることを認める方が、我々の仕事 の影響力が強くなるのではないだろうか。

感想:教室において子どもの学習のプロセスを捉える場合など、AMとPMの異なる比 喩を知っているときに自分は一体どのような立場に立つのかが問題になる。なかなかどち らかに絞ることができない。本論文はそういうジレンマに対する1つの心のありようを示 唆してくれているようだ。


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