記録編 ボストン
ボストン・フリーダム・トレイル
西頸城郡青海町立田沢小学校 秋山正道
オールド ステイト ハウス
 公共建築物としてはボストンで最も古く、1713年に建てられた。1760年には民衆はここでジョージIII世の戴冠式を見学した。翌年、ジェイムズ・オティスが援助命令(密輸物に対するイギリス政府の強制的な捜索令状)に抗議して演説を行った。4時間にわたる演説は、サミュエル・アダムズを中心とする"自由の息子たち"誕生のきっかけとなった。
 1776年7月18日には、2階のバルコニーで独立宣言が読み上げられ、喜びに溢れた民衆がバルコニーを取り囲んだことでも知られる。1780年には最上の赤いビロードのコートと青いサテンのチョッキを着たジョン・ハンコックがバルコニーに立って初代マサチューセッツ州知事に選ばれた場所でもある。この建物は1798年までマサチューセッツ州の議事堂として使われた。
ポール・リビアの家
 ポール・リビアはこの家を1770年に214ポンドで購入した。リビアはヘンリー・ワーズワースが1861年に作った詩の中で、リビアを"真夜中の疾駆"とか"レキシントンの警報"と呼び、その名が知られるようになった。
 1775年4月18日夜10時、イギリスのフランシス・スミス中佐は、軍艦が川を警護している間に、音がしないようにオールに布を巻いて英国兵の貨物をボストン・コモンからケンブリッジまで運んだ。リビアは敵の軍勢が海路でやってくることを知っていた。そこで、他の人たちに警告を発する意味で、秘密の信号であるオールド・ノース教会の尖塔にある2つのカンテラをつるすことを寺男のロバートと打ち合わせた。そして、リビアは英国兵と同じようにオールに布を巻き、軍艦サマセットの後ろを密かに通過して、チャールズタウンに向けて暗い水の中を横切った。川の横断に成功したリビアは、馬を借りて、アーリントン経由でレキシントンとコンコードへ向かった。
 その後、リビアはウオータータウンにある隠れ家に"自由の息子たち"と共に残った。そこで1年以上にわたりマサチューセッツ州の紙幣を発行する作業をしていた。これはイギリス議会の決議を無視したことであった。
 リビアは、独立革命後は金と大砲の鋳造場、銅の製造工場を建設したが、製造業のみにとどまらず、マサチューセッツ相互火災保険会社の設立を支援するなど、企業家としての能力も発揮した。
 この家は、1880年に売りに出され、ようやく1908年に元の状態に復元されて保存が図られるようになった。ボストンのダウンタウンでは最も古い木造建築である。
オールドノース教会
 ボストンで最も古い宗教上の建造物として知られる。植民活動が活発になるに連れて英国国教徒の人数も増え、1723年に建てられた。この教会には、ボストンで最初の、というよりも合衆国で最初の鐘がある。イングランドで鋳造されたものである。
 独立革命後もこの教会は英国国教会の聖堂として愛国者たちは大切にしている。英国軍の襲撃からボストンの町を守ったポール・リビアの疾駆と教会の尖塔に高々と掲げられた2つのランプを記念してのことであろう。1815年には、ジョージ・ワシントンの功績を顕彰する記念碑と胸像が教会内に建てられた。