研究の経緯 −第2集−
タイトル
国理解のための教材開発研究「米国理解を深める社会科教材の開発」
第2集

事務局長 田部俊充

米日財団からの資金援助を受けた1999年度上越教育大学米国理解プロジェクトは、1998年度の事業を遂行 しながら98年秋に開始した。米日財団の副理事長兼東京事務所長で ある詫磨武雄氏の懇切丁寧なアドバイス受け、99年2月末のプロジェクト素案完成に向 けて大嶽幸彦教官と小生の計画構想は連日にわたった。途中から葛西賢太教官、我妻敏博教官が計画構想に加わった。98年度の報告書、校正、ポスター教材の発注、ホームページの作成等々。98年度の事業をこなしながらの作業であった。素案の完成後99年度のメンバーは総計20名とし、附属小・中学校、新潟県社会科教育研究会での公募を中心にメンバーを選定した。

 本年度は98年度から2000年度までの3年間計画の2年目であったが、本年度の課題はおもに「アメリカ合衆国の農業、工業の把握」、及び「ホームステイの実施」であった。新潟県のメンバーを中心に選定したのは、ホームステイの実施と、現職教員同士の交流の場面が考えられたからである。

 平成10年度12月に告示され、平成14年4月1日から施行される中学校学習指導要領社会科地理的分野においては、従来にもましてアメリカ合衆国の扱いが増大する。「内容(2)地域の規模に応じた調査 ウ 世界の国々」では「世界の国々の中から幾つかの国を 取り上げ、地理的事象を見いだして追究し、地域的特色を とらえさせるとともに、国家規模 の地域的特色をとらえる視点や方法を身に付けさせる。」とあり、内容の取 り扱いには「二つ又は三つの国を事例として選び」と限定してある。つまり、従来行われていた世界の諸地域学習はすっかり姿を消し、世界の国の中から「二つ又は三つの国」を具体的に取り扱うのだ。この改正の是非は別の機会にゆずるとして、日本との関連を考えてもアメリカ合衆国を事例選択するケースはかなりの割合に達すると思われる。小学校での国際理解に関する学習では以前から日本と関連の深い国ということでアメリカ合衆国が中心であったし、高等学校でさえかなりの割合を占める。

 ところが実際の指導場面では適した資料が非常に不足している。内容が農業、工業、商業などの産業から都市、自然、歴史、政治、文化、民族と多岐にわたり、関連する本もたくさん出版されているが、現場ではなかなか手がまわらないし、授業に適した教材はなかなか入手できない。小・中・高の教育現場においては児童・生徒の真の米国理解につながる教材の開発が切に求められているのである。

  特に、マルチ・メディア教材の開発である。小・中・高の教育現場において、ハード面に比べて遅れているソフト面の充実はますます重要性を帯びている。そこでプロジェクト1年次と同様、教育現場における使い勝手の良さを追求するため、汎用性の高い写真教材を中心とした報告書、教室での利用のしやすさを考慮したポスター教材の作成も引き続き行った。

 農業学習の調査に当たっては、今年度新たにプロジェクトに加わった葛西賢太教官と高田 南城高校の五十嵐雅樹教諭の企画により実現した。訪問地(ミネソタ州)と調査の目的、そしてメンバーの希望を調整しながら最終的に絞り込めたのは小生と葛西氏による事前調査の時であった。ミネアポリスのミネ・インターナショナル社にも農家の手配をはじめ大変お世話になった。

 農家の見学や工業学習の訪問地ももっと多くのアイデアがあったが、昨年の経験や今年度の参加者の多岐にわたる希望を調整した結果、多少過密なスケジュールとなった。昨年度はワシントンD.C.、ピッツバーグ、ボストン、ニューヨークの東海岸の4つの都市において現地調査を行ったが、ピッツバーグを除いた3つの都市は公共交通機関が発達していた。このため5つのグループを中心に調査活動を行うことが可能であった。しかし、本年度の農業、工業学習の調査にあたっては、この方法を採用するのには2つの難点があった。訪問地同士が離れているという点と事前に十分なアポイントを取る必要があるという点である。ミネソタ州で専業農家を調査するためにはミネアポリスから2時間は車に乗らないと適当な農家がないし、農家をいきなり訪問しても効果的な調査は期待できなかった。そこで本年度は前述のように全体でバスで行動することが多くなったのである。このことにより昨年に比べて調査におけるロスは非常に少なくなった。(昨年はグループごとにはじめての場所でそれぞれの訪問地を目指したので様々なハプニングも生じた。)しかし今年度は、参加者の希望を生かそうとすると訪問地がどんどん増えていき、問題意識の拡散につながっていった。一方で、様々な課題に取り組むことができる、というメリットも生じた。

 工業の調査はピッツバーグを選んだ。小生と昨年度のメンバーであった志村喬教諭とのメールのやり取りで鉄鋼工場、ガラス工場、新しいテクノロジーセンター等が候補に上がった。その後志村氏が事情によりプロジェクトに参加できなくなったのは非常に残念であった。小生はこれらの候補地はすぐに調査できるとたかを くくっていたが、当てにしていた旅行社からは断られ、調査は暗礁に乗り上げかけた。わらをもつかむ思いでお願いして助けていただいたのは、ペンシルベニア州地域振興・経済開発省の明石美奈氏とピッツバーグ観光局のAsaka Narumi氏であった。特にNarumi氏には事前調査でもお世話になり氏が手配してくださらなかったら工業関連の調査は不可能であった。

 ホームステイの交渉であるが、これは初年度に学校見学などをセッティングしてもらったデ ュケイン大学 (ペンシルべニア州ピッツバーグ)のハトラー先生にお願いした。小生はハトラー先生に94年度の訪米の時からお世話になりっぱなしであるが、申し出を快諾してくださった。以後電子メール、小生の2月の研究調査、 6月の事前調査を通してこちらの希望やメンバーの英語力、興味・関心などを伝え、折衝を続けた。結局8月の本調査直前まで受け入れ家族は決定しなくて、最後まで気をもんだ。小生を含めてホームステイ初体験のものが大半であり、本番を迎えるまでは不安で一杯だった。しかし、そんな心配は無用であったようだ。体当たりの国際交流により得たものは多かった。ピッツバーグでの最終日には受入先の家族を招いてレセプション・パーティーを開催したが、大成功であった。前学長加藤章先生からハトラー先生へと託された和服もこのパーティーで披露させていただいた。ハトラー先生は「びっくりしました」という日本語を連発し、大変喜んでいただいた。

 最終訪問地はニューヨークを選んだ。3年目のテーマに国連を入れてあったが、本年度に実施したほうが適当であると判断したためである。ニューヨークの訪問地はRay S. Koh氏の全面的な協力により実現した。経済に造詣の深いKoh氏にウォール街を案内していただき、アメリカ経済の強さの内幕を存分に知ることができた。

 これらの作業をする過程では大学事務局、財団事務局和田勢津子氏など多くの方にご迷惑をかけた。特に、教務課の高橋輝昭氏とは毎日のように電話や手紙をやり取りしたので、私の研究室の電話番号に間違ってかけてしまうほどご迷惑をおかけした。

 メンバーの中でも庶務の金今義則教諭には昨年度から多くの事務を手伝っていただいた。 また、葛西氏、冨永浩文教諭、小林朋広教諭とワーキンググループを継続したことにより、遅々として進展しなかったプロジェ クトの展望がかなり開けた。また、英語担当の我妻敏博教官、澤田靖教諭、大島薫教諭、姉崎達夫教諭には事前に社会科メンバーの課題を英訳していただいたことが聞き取り調査の能率を上げた。最後にメーリングリストの管理をしていただいた福保雄成教諭、素晴らしい写真を撮影してもらった麻田正明教諭、佐藤洋教諭、忙しい中編集を手伝ってもらった釜田聡教諭をはじめ社会科メンバー全員に感謝する。