ピッツバーグ
上越教育大学・院 社会系 M1
(東京都中野区立北中野中学校) 佐藤 洋

1 ピッツバーグの概要
 アメリカ合衆国北東部、ペンシルベニア州の南西部に位置する。人口は、約36万人(1994年)。アレゲニー川とモノガンヒラ川が合流しオハイオ川となって流れる地点に位置し水陸交通の要地であり、現在も重要な河港がある。
 オハイオ川は、南下することでミシシッピ川に合流しメキシコ湾に到達するため早くからピッツバーグからは川を通じて海までの交通路が開けていた。第二次世界大戦中には、潜水艦の修理のためのドックがピッツバーグに設けられていたほどで内陸部にありながら海との結びつきには強いものがある。
 ペンシルベニア炭田の中心にあり、この石炭とメサビ鉄山の鉄鉱石を結びつけて古くから川沿いに鉄鋼業が発達した。モノガンヒラ川上流のアレゲニー山地は石炭層に恵まれており、産出された石炭は船で容易に運ぶことができた。スペリオル湖西岸のメサビ鉄山の鉄鉱石は水運や鉄道を使って入手が可能であった。
 このような背景からモノガンヒラ川河岸には多数の製鉄所が立地しアメリカ合衆国最初の工業地帯になった。第二次世界大戦中に鉄鋼生産量の最盛期をむかえ、ドイツと日本の鉄鋼生産量を合わせた以上の鉄鋼を生産していたと言われている。金属、機械、化学工業もさかんである。鉄鋼業の最盛期には、工場から出される煤煙が全市をおおい、ダウンタウンでは昼間でも点灯しなければならないことから「煙の町」と呼ばれた。アメリカ合衆国の公害問題は、ピッツバーグ市の煙害から始まったと言われている。
 かつては、鉄鋼業の町として煤煙問題のイメージから産業都市のイメージがあったが、現在では、1950年代の「ルネッサンスT」と称された再開発、1980年代の「ルネッサンスU」と称された再開発が行われた。その結果、大学など文化、医療施設などが整っていること、良質の飲料水があること、自然環境に恵まれていること、住宅が安価なこと、などの条件から1985年にランド・マクナリー社が発表した全米329都市のランキングにおいて「最も住みやすい都市」として一位にランキングされた。ピッツバーグ市の主要産業は、かつての鉄鋼とガラスを中心にした工業からバイオテクノロジー、医学、ソフトウエア産業などのハイテク産業に変化している。現在の大きな企業としてUSX、アルコア、ウエスティンハウス・エレクトリック・コーポレーション、ハインツ、PPGインダストリー、ナショナルガラスなどがある。
 文化的には、アメリカ合衆国で最初の音楽家として知られるスティーブン・フォスターの出身地である。「おおスザンナ」などの彼の作品の多くは、ピッツバーグでつくられた。市内にあるピッツバーグ大学では医学部の研究が知られ、ビタミンCの発見、ポリオワクチンの開発、世界で最初の試験管ベビーなどで医学界をリードしている。

2 ピッツバーグの行程
8月5日(木)
10:30ピッツバーグ国際空港 着
12:10ピッツバーグ国際空港 発
マウントワシントン経由
13:30ピッツバーグ浄水場  到着
スタンレー氏より説明を聞く。  1820年から周囲に工場などが少なく水質が良いことからアルゲニー川の水を使っているが、人口の増加に従って給水量を多くするため施設を拡大していった。1969年地下浄水施設を完成させた。アルゲニー川から取り入れた水は、化学物質を混合させ化学的な処理をして不純物やにおいを取り除き、泥やゴミなどを取り除くために3つのろ過施設を通す。ろ過施設では、様々な化学薬品を水に混ぜることでゴミなどを付着させて沈殿させる。
 ろ過施設のフィルターは、5日間に1回水を逆流させることで清掃している。最終段階で地下のろ過層で水の中の微小なバクテリアなどの不純物を塩素などで殺菌消毒することで取り除き、虫歯予防のためにフッ素を入れて供給している。取水から供給までは、全部の行程で3日間かかる。
 この浄水場で処理された水は、市内にある5カ所の貯水施設を経由してピッツバーグ市内と近隣の地区の50万人に供給されている。
 水道水の水質は高く行政で指示された基準より高い水質を維持している。水質のコンテストで入賞したこともある。多くの市民は、水道水をそのまま飲用にしている。
 浄水施設の見学の後、水に含まれる金属や微生物の分析のための実験室を見学し、バスで移動して貯水施設を見学した。
18:30船上よりピッツバーグ市を視察
 遊覧船にてモノガンヒラ川の船上よりピッツバーグ市を視察、その後かつて工場労働者の通勤用に使用されたデュケイン・インクラインを利用してマウントワシントンに登り、夜のピッツバーグ市を視察。
8月6日(金)
8:00ホテル 発
8:15ステーションスクエア 製鉄所関連の調査 スティールツアーに参加
 ツアーガイドからの聞き取り
 製鉄が立地した条件としては、3本の川の水運、周辺地域で産出する石炭、五大湖の水運を利用してミネソタのメサビ鉄山の鉄鉱石を利用できることがある。最盛期には川ぞい100マイルに大小多くの製鉄所が並んでいた。
 ステーションスクエアにて1960年代まで使用していた溶鉱炉の見学をした。1960年代という最近まで使用していたことで製鉄の歴史が古いことと先進ゆえに技術的には遅れていたことが分かる。パナマ運河、ゴールデンゲイトブリッジ、エンパイアステートビルディングなどがピッツバーグで生産された鉄鋼を使っている。
 川ぞいの製鉄所跡地はきれいに整地され再開発を待つ状態であった。車中から見る市内は、人影も少なく、にぎわいはない。店や住宅も古びている。
 ホームステッド労働争議についての説明を聞く。1892年、会社側は組合つぶしを計画したことから労働者が反発しストライキに突入。会社側は400人のピンカートンと呼ばれた私兵をシカゴから導入して労働者に対抗。死者がでる衝突に発展。
 労働者には、スロバキア、ロシア、ハンガリー、アイルランドなどの様々な国の出身者がいたので、英語が通じにくい労働者に番号をつけて仕事を指示したなごりで、お互いを名前ではなく番号で呼び合う習慣があったという。
 かつての製鉄所労働者が住んでいた住宅を見学。工場に隣接した地域に長屋のようなアパート群が残されていた。家族の人数が多いと生活する上でも苦労が多かったとのこと。住宅単身で働いた後に家族を呼び寄せたことが多くあった。きびしい住宅事情ではあったが地域のコミュニティーで力を合わせて生活を支えていた。労働者の精神的支えは、努力すれば良い生活ができるというアメリカンドリームであった。経済的には苦しい生活であったが、教会は皆で寄付を集めて立派なものをつくったという。
 1960年代以降に他の鉄鋼業地域との厳しい競争にさらされることになる。国内では輸入鉄鉱石や石炭を利用する臨海型の鉄鋼生産地との競合、国際的には日本、大韓民国、ブラジルなどの国々の鉄鋼業の発達である。古くから鉄鋼業が発達したことで、小規模で古い施設が多く、近代化が遅れていたために日本などに対して競争力を失っていった。ピッツバーグの選択は、新しい製鉄所をつくるか、製鉄所をやめるかであったが安い労働力のブラジルの鉄鋼業の進展などからソフトウエア産業などへの新たな道を模索することになった。
13:30ピッツバーグ・ブリューワリー・ビール工場の見学
 1950年代にピッツバーグでは3つの地元のビール会社が安定した営業していたが、そのうちのひとつがピッツバーグ・ブリューワリー・ビール工場である。全米の47%をバドワイザーという大手のビール会社がシェアをもつ中で地元と密着したビール会社を目指している。一部はニューヨークなどへも出荷されているが、大部分が、アイアンシティビールと称してピッツバーグで消費されている。ビールの製造、缶への注入などの工程を見学したが、オートメーション化が進んでおり、工場で働く人は、機械の保守管理要員であり、人数は少ない。ビールの温度などについては、厳密な管理はないようで工場内に外気を入れるなど厳密な気温などの工場管理は為されていないようであった。
 ピッツバーグ市内では、スーパーマーケットでは酒類は売られておらず市内にはビールの自動販売機もない。このためアイアンシティビールを入手できるのは、酒屋かレストランのみになる。このような状況で大手ビール会社に対抗していくには大きな販売努力が必要とのことであった。
15:30USX本社ビルを訪問
 USXの歴史について氏より説明を聞く。前身のUSSの創業時には、アンドリュー・カーネギーが中心的な存在である。カーネギーは1835年スコットランドに生まれる。1848年に親戚を頼ってピッツバーグに移住してきた。カーネギーは電信会社で働き、トーマス・スコットの鉄道会社で働くうちに会社経営や資金の運用についても学んだ。
 1860年の南北戦争の後に鉄の需要が増え製鉄所を拡張していった。1872年エドガー・トムソン製鉄所が作られた。ウイリアム・ジョウンズやヘンリー・フィップスらをパートナーとして事業を拡大していった。1883年に2つめの製鉄所をホームステッドに購入した。その後、ヘンリー・フリックをパートナーとしたが彼とは意見が合わなかった。
 1892年には、工場労働者の労働組合のストライキに対してはピンカートンという私兵を雇って対抗した。10人の死者が出た。
 ストライキの後、ロックフェラー、チャールズ・シュワブとも手を組み鉄鋼、鉄道、鉄鉱石、石炭、船舶などのに事業を拡大した。
 1901年にアンドリュー・カーネギー、J.P.モーガン、チャールズ・シュワブによってUSSが起業された。民間企業では当時最大で最初の14億ドルの資本金をもち、16800人を雇用し213の製鉄所をもち、当時のアメリカの鉄鋼の3分の2がUSSによって生産された。USSの初代会長であるエルバート・H・ガリーによってUSS初期の業績は造られた。
 アメリカ政府は、巨大化したUSSを分割しようと計画したが、第一次世界大戦の勃発によって頓挫した。1920年の最高裁判所によりUSSは独占企業ではないことが判断された。
 1919年にカーネギーは死去したが、死去する前に3億3千3百万ドルを大学や教会、病院などのために寄付したことで利益を社会に還元した。
 このUSSの傘下にはアメリカン・スティール&ワイア社、ナショナルチューブ社、アメリカンティンプレート社、アメリカンスティールフープ社、アメリカンシートスティール社があった。USXは、マラソンオイル(1887年発足)とUSSの2つの企業が対等合併して1986年に成立した企業である。2000年には起業100周年を迎える。
17:00ホテル着  各自で夕食


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