雑食風読書ノート(その1)



滝川一廣, 佐藤幹夫. (2001). 「こころ」はどこで壊れるか:精神医療の虚像と実像. 洋泉社.

「診断は治療のためのもので、診断という行為がすでに治療行為でなければなりません。この患者さんはいまどういう問題にぶつかっていて、その問題はどういう構造をもっていて、だからどんな援助が有用かを考えるのが診断ですね。[中略] その人のいまの状態にはどの薬のどんな量や組み合わせが最良か、どんなメンタルな配慮が必要かなどの答えは、疾病分類の抽斗には入っていません。この場合は、いったん抽斗から出して、その患者さんの個別的な病態や心理的、社会的な諸状況をひとつの立体的な構造としてとらえねばなりません。臨床医学における真の診断とはそういうものだと思います。」(pp. 64-65)

「とにかく『こころ』とは不自由なもので、それが本質だと思うのですね。そうすると折り合いの問題になります。不自由なわが『こころ』と、いかに折り合いながら付き合ってゆくか。[中略] しかも難しいことに、『こころ』は自分の内なる世界であるばかりでなく外との関係の世界でありますから、内だけで折り合ってもうまくいかないわけで内外二重の折り合いが求められます。[中略] 『こころ』とは不自由なもので、人間は悩む存在であるけれども、それに対して折り合ってゆければよいわけです。『こころ』自体の持つ不自由さや悩みに『こころ』が共存できていること、それがわたしたちの常態で、精神的健康というのはそのことを指しているわけでしょう。それが不可能になった状態が精神の失調です。」(pp. 129-139)

様々な言説に対して、深くかつ慎重に考えることの大切さを教えてくれる本。


木村俊一. (2001). 天才数学者はこう解いた、こう生きた:方程式四千年の歴史. 講談社.

「というわけで複素数を平面上に視覚的にあらわした男が十九世紀の初めにあらわれた。数学を趣味でやっていたフランスの会計士、アルガンである。/これまでどこか胡散臭い、わけがわからない、と思われてきた複素数がなぜか絵に描けるようになっただけでわかったような気になり、フランスでは一気に市民権を得るのである。数学のわかった、わからないという違いは案外こういう些細なところにあるのかもしれない。」(p. 146)

「『論理的に説明すれば、必ず人を説得することができる』。数学者はいいかげん、この迷妄から足を洗ってはどうか。講義を論理的にすればするほど、ばたばたと音を立てて学生たちが落ちこぼれていく、そういう経験のない大学の数学教員はほとんどいまい。論理は人の反論を封じ込める術としては優れたものであるが、人を納得させる力は乏しい。数学者ですら(あるいは数学者だからこそ)数学を論理だけで追っているわけではない。数学者はあらゆる不合理な手を尽くして数学現象を理解し、それを論理的に表現する技法を身につけているのだ。数学が論理で表現できるというなら、論理を離れて数学現象そのものを直接言葉で表現できないものだろうか?」(p. 223)

「不合理な手を尽くして数学現象を理解」とは、専門の数学者でなければ言えない言葉ではないか。


高木光太郎. (2001). ヴィゴツキーの方法:崩れと振動の心理学. 金子書房.

「外的要因による説明は、『地下振動があった』そして『建物が崩壊した』という具合に、振動、崩壊といった動的な複雑な過程を過去形で記述することによって、それをあたかも静的で明確に定義可能な『要因』であるかのように規定し、そのうえで『要因』間の関係について決定論的に語るという疑似因果論的構成になっている。これに対してヴィゴツキーがここで提案しているのは、建物の『内的論理』から叙述をたちあげていく方法である。その建物の構造(柱や壁の構成の全体)についての十全な理解、つまり壁や柱の間に成立している相互の関係性の把握から出発し、そうした内的論理が地震の震動という外的で偶発的な出来事と出会うことをきっかけとして、どのように変形していくのかということを記述していくことが必要であるといっているのである。」(p. 38)

「外言によって明確な輪郭を与えられたかのように見える個人のその輪郭に崩れを読み取ること。崩れつつある不可解さとして個人をとらえることしかない。外言を重ねれば重ねるほど、そこから漏れ出てしまう残余としての内言。われわれはこの残余の不可視の中心点に唯一性としての個人を『予感』するのだ。『思考と言葉』最終章でヴィゴツキーが内言と外言とを往復する振動体として単位ネットワークを展開したのは、第6章までに展開された外言に不可視な『向こう側』の予感を付与するためであった。」(pp. 163-164)

「不透明な他者への接触可能性を探り、ぎこちなく接触し、そこで生じた揺らぎによって相互に個性化(不可視の内面を形成)していく。この過程こそ振動する理論の言葉によって十全に叙述されるべきものだ。」(p. 176)

刺激的なヴィゴツキー論。


新井紀子, ムギ畑. (2002). 数学にときめく:あの日の授業に戻れたら. 講談社ブルーバックス.

「職業として今やっている数学に一番近いものが何だったろうか、と自分の少女時代を振り返るに、それは編み物や、ぼーっと部屋で空想をすること。長くてちょっと難しい小説を頑張って読むことや、先生に反発してふりまわした幼い正義感だったような気がします。どう考えても、計算ドリルでは、ないんです。/数学は『孤高』とか『天才』とか『美』なんていう言葉といつもセットで世間に登場しますが、私にとっての数学は、『素朴』、『めんどう』、『他愛のないおしゃべり』、『凝り性』あたりの言葉と連れだってやってきます。小学校の算数で私をつまずかせた小さな石が、実は数学の本質的な問題であることを知ることもしばしばです。つまり、私はこう本気で思っているのです。数学にはケモノ道というのが存在するのではないか、と。算数のドリルで落ちこぼれ、好きなのは編み物をすることと絵を描くこと、夫婦喧嘩では常に理屈をこねて相手を言い負かす、という人が突然大学院の数学に向いている、ということもあり得るのではないか。」(pp. 6-7)

数学の新しい楽しみ方を教えてくれる一冊。恐るべし日本のお母さん!


中山 元. (1996). フーコー入門. ちくま新書.

「自分をホモセクシャルであると考えて、『わたしとはだれか、わたしの秘密の欲望は何か』という問いに巻き込まれるのではなく、『ホモセクシャルであるということによって、どのような新しい関係が確立でき、発明できるか。それを多様化し、調整するにはどうしたらよいか』と考えるのである。[中略] ゲイに<なる>こと、それは現在の社会で公認されていない新しい生き方を模索すること、他者との間で友愛に満ちた新しい関係を模索することである。」(pp. 200-201)

「<最後のフーコー>は、パレーシアと真理のゲームという概念が、社会と人々の関係を作り替えていく可能性を秘めたツールになると考えていた。[中略] フーコーにとってのパレーシアとは、真理を語ることをみずからの生活のスタイルとする実存の美学の行為そのものを意味していた−−形而上学的な真理を語るのではなく、真理のゲームの中で、『別の真理』を語ること。そのことによって普遍的なものと信じられている真理の自明性を揺るがし、真理の歴史性を暴露すること。/フーコーはこれが、人々が社会における支配の関係を少しでも望ましい方向に変えていく可能性を確保する道だと信じていた。」(p. 232)


藤原正彦. (2002). 天才の栄光と挫折:数学者列伝. 新潮社.

「調べていくうちに、天才の人間性ばかりか数学までが、そういったもの[生まれ育った風土]の産物であることが分かった。その天才がその時そこに生まれたのが、まったくの偶然でなく、当然あるいは必然とさえ思えるようになった。[中略]これら天才を追う中でもっとも胸打たれたのは、天才の峰が高ければ高いほど、谷底も深いということだった。栄光が輝かしくあればあるほど、底知れぬ孤独や挫折や失意にみまわれている、ということである。/人間は誰も、栄光や挫折、成功や失敗、得意や失意、優越感や劣等感、につきまとわれる。そしてそれは自らの才能のなさのため、と思いがちである。否。天才こそがこのような両極を痛々しいほどに体験する人々である。凡人の数十倍もの振幅の荒波に翻弄され、苦悩し、苦悶している。/天才がこのようなものと知ってから、天才は私にとって神ではなくなった。自ら進んで創造の苦しみを肉体にそして骨にくいこむほどに背負って歩いた人、たまたま運良く、あるいは運悪く選ばれたため、この世にいて天国と地獄を見た人といってもよい。」(pp. 251-252)


柴田正良. (2001). ロボットの心:7つの哲学物語. 講談社.

「もしも生存のためのさまざまな認知能力がそれぞれのモジュールとして働いているとすれば、それらの認知モジュール相互の優先順序の決定、その決定の一時停止や変更、変更後の決定の維持、といったいわゆる意志決定にかかわる機能を、感情が果たしているのではないだろうか。[中略] 感情とは身体内から発する欲求の増幅/抑制であり、特定の行動を導く動機であり、環境の変化や行動プランに対する評価であり、複数の競合する目標やプランの調整であり、他の感情的システム(他人)との協調である。[中略] 帰宅した夏の夕方の一杯のビールの魅惑、すぐさま冷蔵庫へとはやる気持ち、しかし冷蔵庫が昼から故障していたことを知ったときの落胆、あきらめるかそれとも近くのコンビニに買いに行くかの迷い、あらためてドクターストップを破ることのうしろめたさ、しかし父の日のサービスに(?)コンビニ行ってくれる娘との無言のやりとり、といった心の状態から感情を取り除いたら何が残るかを、われわれはうまく想像できないのではないか、と。」(pp. 185-186)

数学者の藤原正彦氏が2002年6月15日付け朝日新聞朝刊で、選択は論理よりもむしろ情緒によりなされると述べていたのも興味深い。


山本美芽. (2002). りんごは赤じゃない:正しいプライドの育て方. 新潮社.

「草を描き、野菜や果物のレプリカを作りながら大自然の造形を学ぶことは、固定観念を取り去る訓練にもなる。
 赤だと思っていたりんごが赤ではないことが見えてくると、思いこみでものを見ない視覚が身についてくる。すると、ものの見え方が違ってきて、うまいかヘタか、点数が高いか低いかといった一面的な尺度だけでものを見なくなってくる。
 りんごは赤ではないという見方は、やがて、ものの本質を見抜く感覚に育っていく。人やものがそれぞれ『違う』ことを感じ取れるようになると、それらを表面の色や形、数などで単純にカテゴライズすることに対して、違和感を覚えるようになるのだ。
 ものの本質を見抜く感覚は、子どもの自尊心を正しく育てるために必要不可欠だ。」(pp. 51-52)

太田恵美子先生の授業の秘密に迫る一冊。


藤原和博. (2001). 世界でいちばん受けたい授業:足立十一中[よのなか]科. 小学館.

「相手と深く結びつくためには、自分の弱みも出さなければならないし、なにより"相手に問いかけること"が大切だ。問いかけ続けることが、相手とのコミュニケーションを深めることも、『ディベート』をやっているとだんだん分かってくる。/"正解らしきものを主張すること"よりも実は、"相手に新しい視点を提供して問いかけること"こそが最高の武器になることも知るだろう。[中略] 実際の[よのなか]で彼らが遭遇するあらゆる状況の中では、唯一の正解などあるはずがない。45分経ったところで、おもむろに正解を言ってくれる先生も登場しない。/だから『ディベート』のような、異質な意見を持った他人とのコミュニケーションを通じて、"問いかけるチカラ"を磨いた人間が強い。/つまり、教室でつくる擬似的な『パブリック』空間(自分とは異質な他人とのコミュニケーション空間)と自分との干渉作用が、生徒たちの中に眠る『己(おのれ)』を鍛える貴重な機会になるのだ。」(pp. 234-235)

藤原氏は、21世紀の情報社会を生き抜くために必要な生きるチカラとして「ロジック」「コミュニケーション」「シミュレーション」「ロールプレイング」「プレゼンテーション」を掲げている。


山鳥 重. (2002). 「わかる」とはどういうことか:認識の脳科学. つくま新書.

「言葉がどんどん増えだすと、記号だけが覚えこまれ、その記号が立ち上がるきっかけとなったはずの心像の方は曖昧なまま、という事態が発生します。[中略]このような言葉の使われ方は心にとってたいへん危険なことです。心の整理に役立つはずの言葉が、むしろ心を混乱させます。心の構造がいいかげんになってしまいます。/外来文化が大量に入ってくるときは、異なる概念を表す記号(言葉)が大量に入ってきます。これを自分の国の言葉に消化するのに時間がかかります。その時間が取れないと、消化不良の言葉が社会にあふれることになります。」(pp. 51-52)

「わからないとは、何か新しい問題に直面したとき、これは自分の頭にはおさまらないぞ、という感情です。心の異物感です。[中略] 知識の網の目があると、その網の目を通してものごとは整理されます。わからないことがあると、この網の目に引っかかってしまうのです。心がこれ何?と信号を発します。わからん!と声を上げるのです。疑問として立ち上がります。そしてこの疑問が解決すると、知識の網の目がひとつ増えます。網の目は一段と細かくなります。網の目が作り上げられていないところは、ひっかけようもありません。そもそも網が準備されていないのです。」(pp. 191-192)


加藤陽子. (2002). 戦争の日本近現代史. 講談社現代新書.

「[この本を、研究書を水割りしたような概説にしたくないと述べた後で] では、研究書を水割りしたような概説書や、逆に教科書を水増ししたような概説書がなぜ問題なのでしょうか。たしかにそれらの書物は、歴史の『出来事=事件』については詳細に説明しています。しかし、そのような書物は、歴史には『出来事=事件』のほかに、『問題=問い』があるはずだということに気づかせてくれないからです。その『問題=問い』は書かれることはなく、その存在すら読み手に気づかせてくれないまま、説明が続いていきます。」(pp. 9-10)


サイモン・シン. (1999). 暗号解読 (青木薫訳). 新潮社.

「[公開鍵方式の理論的開発者の一人である]ヘルマンは語る。

ラルフ[・マークル]もわれわれ同様、愚か者になる覚悟はできていました。オリジナルな研究をやるということは、愚か者になることなのです。諦めずにやり続けるのは愚か者だけですからね。第一のアイディアが湧いて大喜びするが、そのアイディアはコケる。第二のアイディアが湧いて大喜びするが、そのアイディアもコケる。九十九番目のアイディアが湧いて大喜びするが、そのアイディアもコケる。百番目のアイディアが湧いて大喜びするのは愚か者だけです。しかし、実りを得るためには、百のアイディアが必要かもしれないでしょう?コケてもコケても大喜びできるぐらい馬鹿でなければ、動機だってもてやしないし、やり遂げるエネルギーも湧いてきません。神は愚か者に報いたまうのです。」
(pp. 341-342)

上野千鶴子. (2002). サヨナラ、学校化社会. 太郎次郎社.

「情報というものは、すでにあるものとの違い、既存のものとの『距離』の中に生まれます。これを『オリジナリティ』と呼びます。私は『いけんがありませんか』というときには、かならず『異見』と書くようにしています。異なる見解というわけです。ご『異見』というのは、その人のオリジナリティのことです。『異見』というのは、あなたと私はここが違う、という距離のことだからです。[中略]現にあるものとあなたとがどのように違うか、どう距離があるかということを許容する教育カリキュラムをつくればいいのです。そういうカリキュラムを、日本の学校制度はもってきたでしょうか。『人と違っていてもよい』と言ってきたでしょうか。/その前提になるのは、大人どうしが違っていてもよい、一枚岩でなくてもよいということです。教師・父母・行政が一体となって連携して・・・そういうことを聞くと、私はゾッとします。子どもたちはどこへ行っても、おなじ顔をした大人に向き合わされるのでしょうか。大人の言い分はおたがいに違っていていい。そのような異質性を抱え込まないシステムでは、情報生産性が逓減し、やがてグローバル・マーケットで淘汰されるに至るでしょう。」(pp. 93-97)

「偏差値の呪縛から自分を解放し、自分が気持ちいいと思えることを自分で探りあてながら、将来のためではなく現在をせいいっぱい楽しく生きる。私からのメッセージはこれにつきるでしょう。」(p. 168)「大事なことは、いま、自分にとってなにがキモチいいかという感覚を鈍らせないことです。それこそが『生きる力』なのですから。」(p. 194)


授業を考える教育心理学者の会. (1999). いじめられた知識からのメッセージ:ホントは知識が「興味・関心・意欲」を生み出す. 北大路書房.

「ところがこれ[「学ぶ」ことを頭の中に「百科事典」を作ると捉えること]とは別の捉え方がある。学ぶというのは頭の中に『日記』を作ることだという考え方である。[中略]子どもの中には授業のエピソードが感情をともなって蓄積されているはずである。一般的なルールは、そのような個人的体験に支えられている。だから、学習内容だけが独立して(切り離されて)頭の中にコピーされたのではないのである。これは『日記』の成立にほかならないではないか。[中略]『自分にとってこんな世界が広がってきた』『これまでの経験とこうからんできた』『自分の考えがこう変わってきた』これらはすべて学習者の中に『日記』が成立していることになる。つまり、学習内容が自分の世界に入り込んでいるのである。当事者として学習内容にかかわっているのである。だから、さまざまな感情も同時に引き起こされるのである。知識が成立するのはこのようなときなのである。/これらの例に見るように、当事者として知識に出合い、学習内容が自分の世界に入り込んでくるからこそ、子どもたちはその知識に興味や関心をもち、学ぶ意欲が喚起されるのである。また、そのような知識との出合いがもとになって、さまざまな疑問が生まれてくる。疑問の成立は子どもたちの示す関心・意欲の現われであり、それは認識の発展の契機にもなる。」(pp. 185-186)


市川伸一. (2001). 学ぶ意欲の心理学. PHP新書.

「私は、学校は何を教えるべきかという時に、一言で言ってしまえば、もっと 実用志向を重視するということだと思っているんです。つまり、今やっている 学習そのものが自分の将来の仕事にも役立つし、社会で生活していく上にも役 立つし、少なくとも何か自分の可能性を広げるものになるはずだと。単にどこ かの大学に受かるとか、あるいはお小遣いが増えるとか、親に誉めてもらえる とか、そういう意味での報酬ではなくて、その学習内容自体が大切なことなん だという実感を、子ども自身が持てるようなことを取り上げていく必要がある のではないか。」(p. 98)

「人の中には、いろんな可能性をもった何か種のようなものがあると。水をかけなければ絶対伸びてこないけれども、水をかけることによって、すうっと伸びてくるものがあるかもしれない。何か新しいことを学んでみると、そういうものが思いがけなく出てくるかもしれない。」(pp. 228-229)


竹内敏晴. (1988). ことばが劈(ひら)かれるとき. ちくま文庫. (初版は1975年)

「演技とは、芝居をうまくやるための技術、ととるのが通常の理解だろうが、そのような配慮はまったく私の頭から消えていた。『レッスンによって人間の何が変わりうるか、どのような可能性が劈かれるか』、ひいては『人間にとって演技レッスンとは何か』、これしか私の関心はなかった。
 稽古場は(最上の場合)るつぼのようなものだ。そこに立つのはもはや日常の自分ではない。そこは何をやってもかまわぬ場である。日常の次元では抑圧されているもの、意識的に制止してあるもの、それらすべてをとり払って、一つの見知らぬ自分に出会うこと。これが演技のレッスンの意味であろう。」(p. 123)

他にも参考になることが多く、pp. 261-290のカリキュラム構成もその一つである。


橋本治. (2001). 「わからない」という方法. 集英社.

「『入れる』ということは、『その情報を入れてもいい』と身体が納得することだから、入ったものには入っただけの必然があるのである。『"わかる"は納得であり、納得するためには時間がかかる』とは第二章で言ったことだが、入ったものは、『忘れた』という形で身体にキープされるのである。『忘れた』と言うのは、身体という膨大なる広さを持つ倉庫の管理人である脳のセリフであって、管理人は忘れても、『入ったもの』は倉庫の中でちゃんと眠っている。私はそのように思って、身体という倉庫をフルに活用しているのである。『今がチャンスだから、この記憶を活用せよ』と、私の身体は脳に働きかけるのである。」(p. 238)

「身体とは知性するものである。脳は、『わからない』という不快を排除するが、身体という鈍感な知性の基盤は、『わかんないもんはわかんないでしょうがないじゃん』と、平気でこれを許容してしまう。であればこそ、身体は知性を可能にするのである。[中略]『わからない』は身体に宿る。これを宿らせたままだと、『無能』とか『不器用』としか言われない。それはサナギの状態だから仕方がない。脳の役割があるのだとしたら、そのサナギになってしまった身体を羽化させることだけである。/サナギを羽化させるために脳がするべきことを、私は一つだけ知っている。『自分の無能を認めて許せよ』−ただこればかりである。」(p. 251)

「わからないからやってみる」という著者の"方法論"はおもしろい。


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