雑食風読書ノート(その3)



矢野智司. (2000). 自己変容という物語:生成・贈与・教育. 金子書房.

「『最初の否定』、つまり動物性を否定することによって人間化するプロセスへの企てを、『発達としての教育』と呼ぶことにしよう。それにたいして、『否定の否定』、つまり有用な生の在り方を否定して、至高性を回復する体験を、『生成としての教育』と名付けることにしよう。[中略]生成としての教育は、日々の生活のなかで主観的にはもっともリアルなものとして体験されているにもかかわらず、教育学にとってはそれほど自明ではない。それどころか、生成としての教育がかかわる事象は、教育学において主題化されることはまずなく、文学や美学、あるいは宗教学や文化人類学といった教育学以外のジャンルで語られてきたトピックである。」(pp. 40-42)

「普通に生きている人は、ノンセンスが子どもの生においても大切なスパイスであることをよく知っている。生命が充溢し、意味が生成するエロス的体験だけでなく、無に触れて自己の意味秩序がひび割れてしまう目眩のタナトス的体験をすることもまた、子どもには必要なのだ。ノンセンスは、子どもが安全に無に触れ、無と戯れることのできるメディアである。キャロルとリアのノンセンス詩が、英国の子ども文化であるマザーグースといった童謡に負っているとはよく知られている。子どもの文化には、どのような子どもの要求を満たすさまざまなメディアが組み込まれていたのである。」(p. 142)

ノンセンス文学や他者としての動物についての議論を通して、今までとは違う「教育」の方向性を示してくれる。


小森陽一. (1995). 漱石を読みなおす. ちくま新書.

「ここまで見てきたところから、[漱石の著作]『文学論』の議論の立て方の原理がわかってくるように思えます。意識という一つの場を、『印象』と『観念』二極に引き裂き、その間の運動を問題化する。逆に『印象』と『観念』という通常の認識では全くかけ離れた二つの領域を、意識という一つの場でつないでいく。そして一つの言葉を、『印象』と『観念』の力関係が交錯する場としてとらえていく。これと同じような形で、具体と抽象、認識と情緒、微分と積分、差異と反復といった、位相を異にする、多様な二項対立的布置を一つにしつつ、一つのものを二極に引き裂いて運動化・プロセス化する、という認識方法が、『文学論』を貫いていることがわかります。」(p. 107)

「[漱石はその講演録] 『私の個人主義』の中でもこう述べています。

個人主義は人を目標として向背を決する前に、まづ理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたつた一人ぼつちになつて、淋しい心持ちがするのです。
[中略] 既存のあらゆる『人』(他者)の考え方を懐疑しつくし、徹底してその『理非を明らめ』たうえで、自らが主張すべきことがあれば、たとえ『たつた一人ぼつちになつ』たとしても、それをあえて実践するという、単独性を生きぬこうとする覚悟なのです。/そうした単独性は、常識とシステムの枠内にいる他者から見れば、狂気となります。事実、この『自己本位』という言葉をあらためて思いおこしながら書かれた『文学論』の『序』の末尾には、自分は留学中イギリス人から『神経衰弱』と言われ、日本人からも『狂気』と言われた、しかし、自分はそれを背負って生きていくと宣言したことは、前にもふれました。漱石は『神経衰弱』と『狂気』をあえて生きぬこうとしたのです。」(pp. 250-251)

文豪・漱石というよりも、夏目金之助の内面を垣間見せてくれる。


梶田正巳. (1998). 勉強力をつける:認識心理学からの発想. ちくま新書.

「子どもの話に耳を傾けた先生は、まさしく正しい論理をたどっていることに感動したのである。子どもの考え方は決して間違ってはいない。仲間集めという言葉の使い勝手が、自分とは異なっただけである。一年生の算数で使う『仲間』の意味は『集合』のことであり、算数に特異な用法であるのに対して、この子どもは日常的な意味で用いていた。教科書的用法と日常生活的用法の間に意味のスレ違いがあったにすぎない。/先生は述懐している。/『[中略] われわれ教師や大人は、青少年からすれば、経験豊かで、知識や権威があると思われている。すると、知らず知らずのうちに、間違った応答を直すつもりでも、彼らに特定の意味を押しつけて、逆に認識を破壊していることもある。四〇人もの子どもがクラスにいると、教師の指導が、ある子どもたちの認識を壊していることも頻繁に起きるのではないか。意味や認識のズレ、衝突が明らかに起きている教育は、新しい認識の形成とともに、しばしば破壊にも結びつく行為であることがわかってきた』」(pp. 23-24)

「どれだけ創意をこらしてみても、結局、体験できない言葉、概念、命題を正確に理解することはむずかしいのである。誤解を避けることはできるものではない。また、熱帯雨林気候を扱う教師も、本当の意味で分かっているかあやしいかもしれない。となると、体験をこえた命題の学習には間違いが起きる、ズレの可能性もあるという感覚こそが最も大切になる。第一章で述べたように、そもそも学習や勉強、理解、コミュニケーションにはズレがつきものであり、『疑いの感覚』が備わっていないといけないのだろう。ここまでにつめると、教育の究極の目標は、勉強をしながら疑い感覚を育てることであり、その背後には、青少年や初学者が自らの力で間違いやズレを正し、正確な理解へと近づいていくことを信頼していることがあるのである。」(p. 136)

ノウハウ本ではなく、「理解」「学習」ということを丁寧かつ平明に考察している。


井上章一. (2002). パンツが見える:羞恥心の現代史. 朝日新聞社.

「だが、この感情は、それほど普遍的でもないのである。パンツが見えることをよろこぶ。見られてはずかしがる。われわれは、それをごくあたりまえの感情だと思っている。しかし、いつどこででもおこりうる心の動きでは、けっしてない。じじつ、八〇年代末の中国に、こういう心理はめばえていなかった。/それは、ある文化的な環境のなかでしか、成立しない。なんらかの背景がなければ作動しない、ごく特殊な機微なのだ。[中略] 歴史家である私は、その起源に興味をもちだした。いったい、パンチラをはやす文化は、いつごろどうやって形成されたのか。その経緯を、歴史的につきとめたいと考えた。」(p. 377)

「多くの研究者は、学術的な粉飾をこころみる。興味本位に見えそうなところを、極力隠蔽する。そして、自分の仕事には、かくかくの意義があると、とりつくろう。それが、学者渡世の一般的な流儀になっている。/ひどいのになると、せっかく自分がほりおこしたおもしろい事象を、かくすこともある。あきらかにして、学会のひんしゅうくをかうのが、こわいからである。『興味本位だと言われたら、おしまいですからね』。そんな文句を、この世界ではよく耳にする。[中略] 事実の探求より、学会での世渡りを優先する。そんな小心翼々とした姿勢が、はたして学問的だと言えるのか。好奇心につきうごかされてすすむことこそが、ほんらいの学問だったのではないか。」(pp. 379-380)

以前の「美人論」同様、自らの関心ある事柄を、歴史的に丹念に掘り起こしてしまう姿はすごい。


伊藤勇, 徳川直人 (編著). (2002). 相互行為の社会心理学. 北樹出版.

「私たちは、たとえば『家族』というものについて血縁や法律の観点から定義をくだしてフィールドを確定しようとしてきた。その定義もたしかに『家族とは何か』という問いに対する1つの回答ではある。けれども、それは私たちが生活のなかで抱く『家族って何?』という問いへの回答と、必ずしも同じではない。[中略] 家族とは、私たちがそれをなんと言い表し、それをめぐってどのような相互行為を営んでいるかということのなかに存しているのではないか、ということである。エスノメソドロジーの視点を組み込んだ『構築主義』の立場からは、家族のこのような確かさや危うさが浮き彫りになる。相互行為論においては、このように自明に存在していると考えられてきたものも実は不断の相互行為によって達成されるものと考える。安定しているように見えるのは、そのように作られ続けているからだ」(pp. 18-19)

相互行為を視点とした研究の全体像を知るのに役立つ1冊。


黒崎政男. (2002). デジタルを哲学する:時代のテンポに翻弄される<私>. PHP新書.

「私の個人的体験かもしれないが、自分との対話をじっくりと重ねながら学び味わったものは、いわば<体得>されたものとして、私に染みついているが、早分かり方式で仕入れた情報は、私になんの痕跡も残さず、あっという間に消え去ってしまう。[中略] 現代の情報、消費、社会システム全体が、便利さと速さを<豊かさ>と称して邁進せざるを得ない以上、<私>は常に情報反応マシン、消費マシンに変形されつつある存在である。だとすれば、時熟 [時間の本質を今の継起としてではなく、時間性の成熟と捉えたハイデガーの考え] や成熟の契機は、外から与えられることを求めるのではなく、<私>自身の内側に自覚的に求めていくほかはないのかもしれない。」(pp. 84-86)

「テクノロジーは、臓器移植など、人間の身体を<同じ>ものですげ替えるという可能性を開きつつある。そしてこの姿勢は、すげ替えが不可能であるはずの対人関係をも浸食しようとしている。現代人の欲望は、<私>を中心に、(他者をも含む)あらゆるものが<私>のために整備されていることを望むまでに深まったのかもしれない。[中略] すべての存在は、補填可能だという思いの定着。このような流れのなかで、人々は<喪失>を受け入れることができなくなってゆく。だが喪失の痛みこそ<かけがえのなさ>と表裏一体のものであり、それに耐えられないということは、なにか現代人の根本的な衰弱を示しているのかもしれない。」(pp. 130-131)

哲学の伝統と現代の電脳空間の間を行き来する思考。そこに哲学と現実社会との接点を見いだそうとしている。


読書ノート目次
布川ホームページ