雑食風読書ノート(その9)



佐々木力. (2005). 数学史入門:微分積分学の成立. ちくま学芸文庫.

「要するに、古代ギリシャの幾何学的求積法が近代西欧の微分積分学へと転化するためには、アラビア数学のアルジャブルやキリスト教的無限観といった数学内外の世界観的要素が存在していなければならず、さらに17世紀における新しいアルキメデス的才能の開花がなければならなかった。」(p. 93)

「本書が具体的に示したように、17世紀の微分積分学の成立に関して最も革命的な役割を演じたのはライプニッツであった。しかしライプニッツがいかに革命的であったからといって、彼の先駆者のデカルトがいなければ革命はなされなかっただろうし、そして、ヨーハン・ベルヌイのような後継者に恵まれなければ、さらに解析革命なくして、その革命は普及しなかっただろう。/数学における革命が、一朝一夕になされるのではなく、いかに歴史の悠久な流れを背景としてなされるのかが理解できるのではあるまいか。」(p. 209)

・・・数学の発展において新しい表現方法や思考方法が重要であるかが見える。それにしても、佐々木先生の書き下ろしが文庫で読めるとはありがたい。


草野 厚. (2003). 癒しの楽器パイプオルガンと政治. 文藝春秋社.

「その最大の理由[政治学者がオルガンについて語る理由]を一言で述べれば、あまり身近にはない希少資源であるオルガンという楽器から、日本の政策過程を含めた政治行政の仕組みや社会風土のもつ特徴や問題点が観察できるということにつきる。[中略]全国四十カ所近くの現場を歩く前には、オルガンをこういった視点から眺めることが出来るとは思わなかった。オルガンをめぐる様々なゲームは、まさに日本の政治や社会の縮図である。」(pp. 8-10)

「常々、私は、政治とカネの問題をはじめ、日本の中央の政治は、地方の政治が変わらなければ変わらないと主張し続けてきた。それに加えて、このオルガンという楽器の研究、調査を終えて、日本の政治は、社会を形づくる組織や、その中の個人それぞれがかかわる社会自身が変わらなければ、なにも変わらないという感を深くしている。日本の政治の構造改革の原点は、身近な生活にこそあるといえよう。」(p. 185)

・・・政治の仕組みを見るのに「パイプオルガン」という意外な視点を導入し、しかもその窓からそうしたプロセスや現状を確かに見せてくれることに感心する。


福田誠治. (2005). 競争しなくても世界一:フィンランドの教育. アドバンテージサーバー.

「行政側も、教師の能力を信頼し信用している。教師は、専門性を持った大切な働き手だからである。国家教育委員会評議員のレイヨ・ラウッカネン氏は、『学校を評価する場合に、われわれの目的は、教職員に支援的なものであること、教職員が発達するのを助けることなのです』と言う。『われわれは、案内を提示するだけであって、批判はしません。調査内容を公開したり、よい学校とか悪い学校をしめす一覧表も作りません』とも述べている。これを聞いたイギリスの新聞記者は、『さらし者にしたり恥をかかせることは、フィンランド的なやり方ではない。自由と自治がフィンランド的なやり方なのだ。・・・抑圧よりも、教育学で言う創造性が奨励されている』と説明している。(「楽園とヘルシンキ」『ガーディアン』紙、2003年9月16日)[中略]要するに、社会全体が人間関係を教育的に築いているのだ。では、これだけ支援されてもうまくいかない教師はいないのだろうか。まったく努力しない教師はいないのだろうか。意地悪な筆者はそう考えてしまう。フィンランドでそう質問すると、こんな答が返ってきた。『そんな先生、自分から辞めるでしょう。』自由と権限があるということは、重い責任もあるということらしい。」(pp. 19-20)

「菊川さん[フィンランド在住の通訳、日本語教師・菊川由紀氏]は、高校生に、なぜPISAで好成績だったのか聞いてくれた。『それはきっと、僕たちフィンランド人の性格というか、気質というか物理的な面じゃなく精神的な内面的な気質によると思う』『人口は少ないし、自然は厳しいし、暗いし寒いし、刺激は少ないし、だから、自分のやりたいことややろうと思うことは、自分で克服して、自分自身で取り組んで対応していかないと、この国では、生きていけないし』とのこと。これを聞いて、菊川さんは、『なんとなく漠然と、しかし一生懸命に説明してくれる彼の話を聞いていて、自分が個人として生きていくために勉強して道を決める。そういう生き方の考え方が、ちゃんと親から子へと受け継がれているのだと実感しました。学校での教育ではなくって、親から子へ伝えていく「生き方」の手引きなのだと』と伝えてきた。教育の原点が見えてくるような気がする。」

・・・P.Cobb氏のゼミで、教育改善のあり方として支援の連鎖を提示する論文を読んでいたのを思い出した。


デュ・ソートイ, M. (2005). 素数の音楽(富永星訳). 新潮社. (原書は2003年)

「この地図[複素平面]をテーブルに広げたとして、その上に一つの風景を作り出したい。そうすれば、ゼータ関数の影も目で見えるように なって、谷や頂を調べることができる。[中略]この風景を調べはじめたリーマンは、いくつかの重要な特徴を見つけた。この風景の中に立 って東をみると、風景は平らになっていき、やがて海抜が1単位高さの滑らかな平面になる。次にくるりと逆を向いて西に向かって歩いて いくと、北から南へと波打つように走る丘陵が目に飛び込んでくる。丘の頂きはすべて、東西の軸を1で切る線上にある。この線上の点1 の上には、天までそびえる峰がある。この峰の高さは無限である。[中略]今やこの風景を旅する者は、オイラーの公式で定義された領域と リーマンの公式で作られた新しい風景の境界に気づくこともなく、自由に往き来できるようになった。」(pp. 131-134)

「ついにコンピュータにも十分な力が備わり、いつ何時反証が出てもおかしくないくらい北まで、リーマンの風景を進めるようになったの だ。[数学者]ザギエの補助グラフは、幾度となくリーマンの臨界線を横切りそうになるが、グラフが臨界線と交わるのを妨げる、なにか巨 大な反発力が作用しているのは明らかだった。グラフが交わらないのはなぜかというと?リーマン予想が正しいからだ。」(p. 328)

・・・数学の現象を風景を眺めるように眺め、土地を旅するように旅することができたなら。


堀尾輝久. (2005). 地球時代の教養と学力:学ぶとは、わかるとは. かもがわ出版.

「日本のどんな地方にも、おそらくそれぞれの地域に固有の文化があり、それを支えている一人ひとりの人間とその人生があり、それが発するメッセージが日本という国を貫き、アジアを貫き、世界へ開かれていくような、そういう文化のあり方があるはずです。地域から問題を考えるということは、そういうことなんだろうなと思っています。」(pp. 82-83)

「端的にいえば、『平和・人権・共生の文化』を、21世紀、この地球時代にふさわしい価値観として、中身を豊かにし、拡げていかなければなりません。したがって、現代教育の課題は何なのかといえば、ひと言でいえば、平和・人権・共生の文化を根づかせる仕事がそれにもっともふさわしいことだと考えます。」(p. 86)

・・・目の前のことだけにとらわれず、大きな広がりと流れの中で人の営みと教育を捉えようとする試み。


ヴィゴツキー, L. S. (2003). 「発達の最近接領域」の理論:教授・学習過程における子どもの発達(土井捷三, 神谷栄司訳). 三学出版.(原著は1935年)

「この観点からすると、教授・学習と発達の関係の伝統的な見方は変革されます。伝統的な観点からすると、子どもが何らかの言葉、たとえば、『革命』という語義を習得するか、または、何らかの操作、たとえば足し算や書き方の操作を獲得したとき、その発達過程は基本的に完了しています。新しい観点によれば、その過程は始まったばかりです。算数の四則計算の獲得が、子どもの思考の発達におけるより複雑な一連の内的過程をどのように開始させているのかを示すことが、教育過程の分析における児童学の基本課題となります。/私たちの仮説が確証するのは、教授・学習過程と発達の内的過程の統一性であって、同一性ではありません。それは、前者の後者への移行を前提にしています。外的意識や子どもの外的技能がどのようにして内的なものになるかを示すこと−これは児童学研究の直接的対象をなすものです。」(p. 25)

「どの教科も、子どもの発達過程にたいして独自の具体的関係をもっています。この関係は、子どもがある段階から他の段階へ移行するにつれて変化します。このことは、形式陶冶の問題、すなわち子どもの一般的な知的発達という観点からみた各教科の役割と意義にかんする問題を再検討するように導きます。ここでは、問題は、何かある一つの公式によって解決されるようなことはできません。きわめて広い範囲の、きわめて多様な具体的研究の広場が、そこには開かれるのです。」(pp. 26-27)

・・・内的過程をほとんど捨象したヴィゴツキー派の研究が多くなっていないだろうか。また子どもの発達過程に対する役割や意義を視野に入れ各教科が議論されているだろうか。


仲本正夫. (2005). 新・学力への挑戦:数学で新しい世界と自分が見えてくる. かもがわ出版.

「今、数学嫌いがますます増えているが、それには大きな原因がある。/それは、『なぜ数学を学ぶのか』ということに答えず、いつか役に立つことがあるかもしれないということで、無味乾燥な公式を覚えさせ、数字をあてはめる練習をする操作主義的数学がはびこっているからである。そうではなくて、数学は、自分が生きているこの現実の世界を読み解く新しいメガネになる、だから、生きていくのに役立つし、そういう新しいメガネをみんなで手に入れていく数学は、とても楽しくて、愉快で、面白いということを知ってほしいと思うからである。そうすれば、数学は、誰でも好きになれる。新しい世界を発見し、新しい自分が発見できる。/世間では、自分の学んだ数学をもとにして、『高校数学は実用性がない』とか『四則計算さえできれば生きていくのに困らない』という人も多いが、それは、そもそもの判断のもとになっている自分が学んだ数学に問題があるということに気が付かない議論であり、大変な間違いである。/今日の学力問題は、宿題をふやしたり、時間数をふやしたりするだけでは解決できない。数学をまったく新しい角度からとらえ直すことが必要なのである。」(p. 31)

・・・"数学の本質に触れる授業"を考えるための多くの材料を提供してくれる一冊。算数・数学教育に関わる人には是非読んでほしい。


阿満利麿. (2005). 無宗教からの『歎異抄』読解. ちくま 新書.

「[本願念仏の]第一の特色は、『凡夫』という人間観にある。 『凡夫』とは、仏教の言葉を使えば、『煩悩』に縛られている 存在のことである。『煩悩』といえば普通は食欲や性欲、名誉 欲などの欲望をさすが、もう少し正確にいえば、こうした個々 の欲望をさすだけではなく、自分可愛さのために欲望が総動員 されるさまを『煩悩に縛られた』というのである。欲望の根底 に潜む自己中心性が『煩悩』の正体なのである。[中略]『凡夫 』とは、俗にいえば、アホな人間ということになろうか。欲望 に負けやすく、いつも自己主張から逃れられない。本人は賢く 振る舞っているつもりでも、あるいは自分の発言には間違いが ない、と信じていても、客観的に見ると自己本位の主張や生き 方をくり返している場合が少なくない、というものだ。[中略] 法然は、人間はだれでも『凡夫』にほかならない、と気づいた のである。『聖者』に対比される人間のあり方が『凡夫』なの ではなく、およそ人間とはだれであっても『凡夫』というしか ない、という認識が法然による新しい仏教の発見につながって ゆくのである。」(pp. 28-29)

「人々は無数の因[直接的な原因]、縁[間接的な原因]、果の交 錯のなかで生きているということは、本人に自覚できる直接的 で必然的な因果関係のほかに、縁が全面的に作用する、偶然と いうしかない状況を生きる、ということでもある。後者の状況 を強調するのが『業縁』という言葉であろう。[中略]このよう に、私どもの行為は、一見すると、自分の意志の力によって決 められているように見えるが、それは表面上のことであり、実 際は『業縁』が決めているのだ、と親鸞は指摘する。[中略]親 鸞の指摘は、善・悪が人の自由意志によって行われている、と いう常識を否定する。現代人が誇りとする自由意志は、無数の 因果の網のなかの、一つの要素を形成しているにしかすぎない 。もちろん、きわめて重要な要素ではある。だが、自己の決断 だけですべてが動いているわけではない。」(pp. 72-73)

・・・本書で何度も語られる宗教と道徳との分かれ目という問題が、柄谷行人氏が「倫理21」で展開する議論とどのように関係するのか気になった。


梅原利夫, 小寺隆幸. (編). (2000). 習熟度別授業で学力は育つか. 明石書店.

「職員会議や部会の日などは、6時を過ぎてからようやく[コース別授業担当者の]話し合いが始められることもあった。教材研究をしながらの打ち合わせは、正直、苦しかった。話し合いの時間や授業時間が十分に保証されていれば、もっと教材研究ができるのに。/きびしい状況におかれ、同様の悩みを抱えている教師は少なくはないだろう。もっと積極的に授業にチャレンジしていきたいとは思ってはいても、できない教師がいっぱいいるのではないか。教師が教師らしく授業を行うことができる状況をつくってほしいと強く願う。/最後に、結論としては、習熟度別授業を終えた今でも、私は、授業には異質学力の子どもたちによるいろいろな発想や意見が、真の学力を育てていくためには必要だと強く思っている。」(pp. 40-41)

「これ[習熟度別指導]はたくさんある指導方法のうちの一つのやり方にすぎないのに、この方法で『必ず学力の向上実績をあげる』ことが求められてきた。それは、この方法にとっては本来の任務を超えた過重の要求である。習熟度別指導は、それが必ず学力の向上に直結するというものではない。迷惑なのは、任務以上の成果を出させられる『この方法』の側である。/学力向上の実績を上げることと、習熟度別指導の実施とが、政策の都合からドッキングさせられたところに、今日の混迷と困難の原因がある。習熟度別学習指導という一方法を、学力向上策の重圧から解放して、本来のつつましい役割にもどしてあげること−これが問題解決の第一の道である。」(p. 186)



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