学校教育の3つの目標

Egan "Educated Mind" に関わって


 Kieran Egan氏の著書 The Educated Mind: How Cognitive Tools Shape Our Understanding (The University of Chicago Press, 1997年) の最初の部分では、近代の学校教育に見られる3つのタイプの目標が検討されている。すなわち、(1) 社会の成人に共有される知識や技能、価値観を次の世代に伝える社会化、(2) 世界を現実的、合理的に見るための知識の教授、(3) それぞれの子どもの潜勢力の展開である。そしてEgan氏は、これら3つの目標が両立しないものと考え、こうした目標の混乱が米国での教育上の諸問題を引き起こしていると考えている。例えば、(2)は知識が発達を導くという立場につながる一方、(3)は発達が知識を導くという立場につながったり、あるいは(3)のように考えるなら、大人の考え方や価値観に触れるよりは、そこから離れているほうがよいことになる、といった齟齬が生じてくる。氏はこうした問題に対して、5つの種類の理解−身体的(somatic)、神話的(mythic)、ロマン的(romantic)、哲学的(philosophic)、アイロニー的(ironic)−を区別し、これらの理解のそれぞれを、歴史的な系列に沿って、個人が可能な限り十全に獲得することとして、教育を捉え直すことを提案している。数学教育におけるロマン的理解などを考えることは興味ある問題であるが、氏の提案を十分に理解していないので、ここでの紹介は控えさせて頂く。なお、この本(あるいは氏の他のいくつかの本)については、ホームページが用意されており、書評に加えて、出版時に削除された章の原稿や、読者からの質問とそれに対する議論などが載せられているので、興味のある方はご覧頂きたい。

 この本の最初の部分を読んだとき、自分が算数・数学教育の存在意義を考えようとするときにも、こうした混乱を起こしているように感じた。多くの場合、自分は(3)の立場を念頭においているように思う。(3)の今日的な現われとして、教師が権威者としてではなく促進者として振る舞うという立場をEgan氏はあげているが、こうしたことは、多くの数学教育関係者により述べられているところであろう。しかし、数学教育の存在意義を考えているうちに、科学技術の進歩とか国際競争といった単語が頭に浮かんでくる。これは、社会の維持・発展という点からすると、(1)に近いように思われる。論理的思考や合理的思考の育成は(2)に近いかもしれず、子どもの目から見て合理的なものを完全に優先させているのか、という点が問題になりそうである。

 もちろん、こうした点をうまく組み合わせるとか、あるいは学年段階でウェイトを変えるということはあろうが、その場合でも、どの立場をどのように配置したのかを意識することは大切であろう。昨年(1999年)、「金融・証券のためのブラック・ショールズ微分方程式」なる本が売れたことは、数学が経済活動において必要とされ、またその故に、個人が社会の中でよいポジションを占めるためにも必要であるという面を見せてくれたような気がする。古くさい言い方になるが、そこでは、個人の立身出世と社会のニーズとか一致している。しかし、その子の "夢" にとって、数学があまり関係しないように見える場合は、どう考えたらいいのだろう?仮に論理的思考を育成するにしても、算数・数学はそのために最適なやり方なのだろうか?そこで育成される論理的思考は、世の中で必要とされる論理的思考と同じものなのか?(関連記事を参照)さらに、門脇厚司「子どもの社会力」(岩波新書, 1999年)に見られるように、人や社会のつながりの回復が緊急の課題として求められていることも事実であり、その動きの中では、これまでやってきたからという理由だけでは数学教育の存続を主張することは難しいであろう。数学教育のコミュニティとしては、外に対しどのような立場をとるのがよいのであろうか。

(文責:布川、ここでの意見は、本教室の他の教官の意見を必ずしも反映したものではありません。)

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