この本の最初の部分を読んだとき、自分が算数・数学教育の存在意義を考えようとするときにも、こうした混乱を起こしているように感じた。多くの場合、自分は(3)の立場を念頭においているように思う。(3)の今日的な現われとして、教師が権威者としてではなく促進者として振る舞うという立場をEgan氏はあげているが、こうしたことは、多くの数学教育関係者により述べられているところであろう。しかし、数学教育の存在意義を考えているうちに、科学技術の進歩とか国際競争といった単語が頭に浮かんでくる。これは、社会の維持・発展という点からすると、(1)に近いように思われる。論理的思考や合理的思考の育成は(2)に近いかもしれず、子どもの目から見て合理的なものを完全に優先させているのか、という点が問題になりそうである。
もちろん、こうした点をうまく組み合わせるとか、あるいは学年段階でウェイトを変えるということはあろうが、その場合でも、どの立場をどのように配置したのかを意識することは大切であろう。昨年(1999年)、「金融・証券のためのブラック・ショールズ微分方程式」なる本が売れたことは、数学が経済活動において必要とされ、またその故に、個人が社会の中でよいポジションを占めるためにも必要であるという面を見せてくれたような気がする。古くさい言い方になるが、そこでは、個人の立身出世と社会のニーズとか一致している。しかし、その子の "夢" にとって、数学があまり関係しないように見える場合は、どう考えたらいいのだろう?仮に論理的思考を育成するにしても、算数・数学はそのために最適なやり方なのだろうか?そこで育成される論理的思考は、世の中で必要とされる論理的思考と同じものなのか?(関連記事を参照)さらに、門脇厚司「子どもの社会力」(岩波新書, 1999年)に見られるように、人や社会のつながりの回復が緊急の課題として求められていることも事実であり、その動きの中では、これまでやってきたからという理由だけでは数学教育の存続を主張することは難しいであろう。数学教育のコミュニティとしては、外に対しどのような立場をとるのがよいのであろうか。
(文責:布川、ここでの意見は、本教室の他の教官の意見を必ずしも反映したものではありません。)
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