コブ氏らのプロジェクトについて(その2)

(1998年4月13日)

 コブ氏らのプロジェクトについて新たな原稿を頂き、これにより前回の報告を若干補っておきたい。項目の羅列のようになるが、前回の報告の理解を多少なりとも助けるものとなれば幸いである。原稿はまだ草稿段階のようなので、原稿自体の紹介は避け、いくつかのアイデアについて述べるにとどめる。そのため項目の羅列のようになるが、前回の報告の理解を多少なりとも助けるものとなれば幸いである。なお、この草稿を短くしたバージョンは今年 (1998年) の PME で発表されるそうである。

ミニツールについて
 これはスケッチパッドのような一般的な目的のためのソフトではなく、かなり特定の目的のためのソフトであること、また JAVA により開発され、普及や開発の容易さを考慮に入れていることについては、前回述べた。彼らの既に行った7年生の教授実験では2つのツールが使われているが、それは以下のようなものだそうである。
 第一のものは、棒グラフの縦軸を横軸を入れ替えたようなもので、イメージとしては
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0 10  20  30  40  50  60

といった感じである。彼らの事例では、2社の乾電池各10個ずつの寿命がデータとして扱われているが、数値を入力するとグラフができるようになっており、会社ごとに棒の色を別にすることができる。また、特定の数値のところに

      80.1
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0      80

のように垂線を立てて、その左右を区切るツール (value tool) や、適当な幅を

        Count:8
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のように区切り、その中に入るデータの個数を数えるツール (range tool) などが備えられており、データについての探求を進めることができるようになっている。もちろんこれらの区切りや幅はマウスにより移動することができる。
 第二のツールは、日本の小学校の教科書の最初に出てくる分布のグラフのようなもので、

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 45  50  55  60  65  70  75

といった感じである (ページの作成技術上、正確ではないことはご容赦頂きたい)。こちらについては、(i) それぞれのグループが指定した個数のデータを持つように区切る、(ii) 指定した幅を持つグループに区切る、(iii) 等しい個数を持つ二つのグループに区切る、(iv) 等しい個数を持つ四つのグループに区切る、といったツールが備えられている。これらはグループをいくつかに分ける、といった素朴な操作を反映している一方で、例えば (iv) の四つのグループに等分することは、その第二グループや第三グループが狭いということが散らばりの狭さを示すことになり、結果的に全体の「分布」というアイデアにつながるように計画されているのではないかと考えられる。
 7年生での教授実験は34時間からなるが、そのうちの27時間 (最初の導入は5時間目から) でこれらのミニツールが使われる。また、プロジェクトのプロモーションビデオを見ると、全体での議論の際にもコンピュータ画面をプロジェクタで写すことにより、ミニツールが使われているようである。

統計における加法的推論と乗法的推論
 データについての加法的推論は、考えている問いに適切と思われる仕方でデータ・セットを区切り、それらいくつかの部分にある点としてのデータの個数について、部分−全体の観点 (部分と部分をあわせて全体になるといった、加法に関わる基本的量関係;引用者) で推論していくこととされる。これに対し、データについての乗法的推論は、データ・セットの各部分について、データ・セット全体の割合 (proportion) として推論していくこととされる。学習の目標は、データの分布について乗法的に推論していくことに向けられている。
 2社の電池各10個ずつの寿命を調べた授業では、長くもった上位10個の中に、それぞれの会社のものがいくつ入っているか、あるいは80時間以上もったものがそれぞれいくつあるか、といったことが議論された。これらはデータ点の集まりに目がむけられており、しかも相対的量とか分布ということに注意が向けられておらず、加法的であるとされている。
 第二のツールを用いた後半の授業では、データの大部分 (majority) がどこにあるか、データ・セットを四等分したときの第二および第三部分の状態、データの中の「丘状」の部分への着目などが見られた。こうしたデータが分布している大局的なパタンへの着目は、データが乗法的に構造化されたことを示すものとされている。さらに議論が進むと、百分率を計算することが出てくるが、これは大局的差異を量的に記述することと意味付けられている。
 電池の例では、各社の電池の個数が同じであるので、乗法的推論は出難いし、また加法的推論との区別もつきにくいのではないかとも思われる。しかし一方で、これらの推論の違いで述べられている、データの大局的な特徴への着目に関わる差異は、確かにありそうでもある。今回の原稿は (以下で説明するような) 研究や分析の枠組みに重点があり、教授実験の分析自体には重きが置かれていないように見える。今後、教授実験の分析自体が主となる論文が出たときに、これらの違いも一層明確になるものと期待される。

開発的研究について
 今回の原稿の最初に述べられているのが、彼の研究の基本的態度としての開発的研究 (developmental research) ということである。これは指導の開発と教室ベースの分析との二つのフェーズを行ったりきたりしながら行われる研究を指すようである。前者は領域固有の指導デザイン理論 (例えば Realistic Mathematics Education) により導かれ、後者は研究者の解釈の枠組みにより導かれるとされる。

分析の枠組み
 教室で生じていることを分析するに当たり、社会的規範 (social norm)、社会−数学的規範 (sociomathematical norm;例えば、何が数学的な説明や正当化として受容されるかに関して、教師と生徒が相互作用の中で確立した基準) とともに、今回の原稿では教室での数学的実践 (classroom mathematical practice) が重視されている。指導デザインにおいて考慮される学習軌道 (learning trajectory) を教室コミュニティの集団的 (collective) 数学発達についての推測と考えるならば、この集団的発達について語るための理論的構成物が必要となるが、それが教室での数学実践であるとされる。ここでの数学的実践とは、特定の数学的アイデアを議論している間に確立される、推論、議論、シンボル化に関しての taken-as-shared された仕方である。数学的実践を分析することは、従来数学的内容と呼ばれていたものを、共同プロセスの連続的再組織化の言葉で説明することともされる。
 例えば位取りについての教授実験であれば、教師と生徒が明らかとし、それ以上の正当化を必要としないような、量についての議論や推論の仕方に焦点を当てることは、数学的実践の分析であるとしている。と同時に、こうした実践は以前の実践の再組織化として発生してくるので、そのプロセスにも注意が向けられる。
 第一のミニツールを用いた電池の授業での様子は、「この数学的実践は、データ点の集まりの質的特徴を探求する実践として記述される」と述べられる。また第二のミニツールを用い、データについての乗法的推論が出てきた個所は、「この教室での数学的実践は、分布の質的特徴を探求する実践として記述される」と述べられいている。
 この原稿では、教室の集団的実践が進化するにつれ (学習で目指されるような) 数学的アイデアが発生してくると考えられているが、こうした捉え方は、数学を社会的、文化的に状況づけられた活動とする見方と一貫性があるとしている。
 なお、これらより一段大きな枠組みとしては、社会文化的 (sociocultural) 視点というものにも、原稿の最後で触れられている。これは社会的政策や社会的実践を浮き彫りにするような分析のものである。

Warrant と Backing
 議論の進め方については、Toulmin の The Uses of Argument" という本を引きながら、結論、データ、warrant、backing という枠組みが参照されている。ここで warrant は、データからある結論を出すに当たり、データをどのように構造化し、解釈したかを説明することであり、backing はそのデータの構造化の仕方が、今考えている問いに関してなぜ適切なのかを説明するである。
 例えば、電池の問いで、20本のうち上位10本をとり、その中に7本が含まれているからA社の方が良いとするのは warrant であり、どうして上位10社をとるのかを説明することが backing にあたる。もっともこの考えを説明した生徒は自分からは backing を与えておらず、また問われた際に答えた「20本の半分だから10本にした」という説明は他の生徒から受け入れられていないので、backing として機能したとは言えないのかもしれない。一方で80時間以上という基準で説明したときは他の生徒にも受け入れられている。このあたりは、実用性の点からデータの組織化の仕方を正当化すべきという義務 (これは社会−数学的規範?数学的実践?) が徐々に taken-as-shared されたとして述べられている。
 一方で、どこで受け入れられるのかはそのコミュニティに依存すると考えられ、下手をすれば (極端に懐疑的なメンバーのコミュニティでは) 無限後退に陥りかねない。このあたりは、数学的実践の分析では何が言われないか、何がなされないかに注目することが重要とする、コブ氏の見解とも関わるのかもしれない。

個人と集団との関わり
 この原稿のタイトルは "Individual and Collective Mathematical Development" であり、この両者の関係が一つの主題となっている。この原稿では、生徒の数学的推論は、教室コミュニティにより確立される数学的実践への参加の行為 (acts) とされる。このように捉える際には、自律性や創造性ということも、自分の判断による効果的な参加とか、数学的実践の進化への貢献などと捉え直されることになる。
 しかし一方で個人の心理的な問題がコミュニティの問題に完全に帰着されるとは、コブ氏は考えていない。個人の推論と、その個人が参加する実践とは再帰的 (reflexive) であるとし、一方がなしに他方は成り立たない。これらは明確に区別されるものというよりも、教室で行っていることを見たり、make-sense にする二つの異なる方法にすぎないのである。また教授実験においても、すべての生徒が実践に参加できるよう、参加構造やディスコース、学習活動を調整する一方で、生徒の多様な参加の仕方を教師が利用し、それらの比較対照などを通し、教師のガイドにより重要な数学的事柄が発生してくるように、注意を向けている。生徒の学習の成功・不成功は生徒の認知的特性や彼らの受けた指導に帰着されずに、生徒と教師が共同で作り上げる数学的実践と、個々の生徒との関係の問題として捉えられている。
 生徒は教室での実践という文脈の中で思考すると考える一方、同じ文脈であっても生徒の推論の仕方には多様性が残る、という見方になるであろうか。このあたり、興味ある点であるとともに、かなり微妙な問題を提起しているように思われる。

原稿に見られる印刷中の書籍
 余談ながら、この原稿の引用文献を見ると、次のような書籍が現在印刷中のようである。


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