論文はまず、生徒が自分の考えを明示的にする機会を大切にし、説明や議論、証明を重視する傾向が近年見られることが述べられた後、いくつかの疑問をあげている。教師として、我々はどのようなことに基づいて、生徒・学生の説明を受け入れたり受け入れなかったりしているのか?どのような状況の下でどのような議論が我々には受け入れ可能か?どのようなものがそうでないか?それはなぜか?どのような基準を我々は用いており、その基準は何に基づいているか?正当化を求めるときには証明を期待しているのか?「どうしてかを説明する」ことを生徒・学生に求めるときには証明を期待しているのか?説明はどの程度確信させる必要があるのか?説明は、数学者を確信させる必要があるのか?教師をか?仲間の生徒をか?本論文の第一の目標は、こうした疑問を分析するための適切な背景を与えることだとされている。一方で、受け入れ可能な説明についての生徒・学生の基準が教師のものと違ったものであることも、知られてきている。したがって次のような疑問も生ずる。生徒・学生は何を満足にいく説明と考えているのか?満足のいく説明についての生徒・学生の捉え方は何に基づいているか?生徒・学生と教師の捉え方の違いの起源は何か?論文の第二の目標は、説明や証明についての生徒・学生の制限された捉え方の原因のいくつかを考えることだとされている。
第2節ではいくつかの証明の例が考察されている。ここで取り上げられた事例は、主に大学初年級の線形代数や微積分からのものとなっている。例えば、
第4節ではこうしたことがなぜ起こるのかを考えるため、大学の導入コース・レベルの教科書からいくつかの例が挙げられている。Dreyfus氏によると、そうした教科書ではフォーマルな議論と、視覚的・直観的正当化、genericな事例、帰納などが一緒に使われているが、数学がこれらのものを区別するのかとか、これら全てが同じように受け入れられるのか、といった点についての説明はない。また、直観的に導入されたものが、後ではフォーマルな議論の形で利用されるにも関わらず、それらの移行は明確にはなされていない。さらに、実数の完備性などは証明で用いられながら、明示的に仮定されたり議論されることがないといったことが指摘されている。学ぶことが論理的・直線的に進むとは限らず、むしろ網の目を作り上げるようなものだということから、あるジレンマが生ずるという面もある。例えば、極限を微係数の前に導入するか後に導入するか、といったジレンマである。実験的・直観的な扱いと厳密な推論との緊張関係も、こうしたジレンマの現われとも考えられる。このジレンマの影響で、教科書の大きな流れで見ると、循環論法に陥っているものがあると、氏は指摘する。つまり、ある命題を示すのに使われる事実が、実は当の命題を使わないと厳密に証明できない、という場合である。
Dreyfus氏は、教科書で起こっているようなことは、授業でも起きているだろうと考え、氏自身の講義の例をあげている。回転体の体積を円柱の体積の和で近似し積分にもっていく講義で、同じ立体の表面積や弧長が同じ方法で求められないのか、という疑問に対し、氏自身の説明は曖昧なものであり、質問した生徒がそれに満足したのかも、また氏自身もそれで本当に満足していたのかもわからなかったとのことである。一方で高校時代のルベーグは類似の説明について、うまくいく場合といかない場合の違いに注意を払い、そのことが彼の研究で大切な役割を果たしたことを、ルベーグの論文から引用している。そしてDreyfus氏は自分のような説明が、ある数学の議論がなぜ妥当なのか、あるいはなぜ妥当でないのか、を問う能力をかえって失わせているのではないかと反省している。さらに彼は次のようなことを自らに問うている。自分の説明は生徒たちにとってどのような位置づけなのか?彼らはなぜそれを受け入れたのか?自分の示す数学的議論に関し批判的であろうとする彼らの気持ちにとって、このことはどのような意味を持つか?自分が示したのと似たような議論を受け入れないような権利が自分にあるだろうか?
第5節では「理論的アプローチ」と題して、説明、論拠 (argument)、証明の関係などについて考えている。これに関わる先行研究として Hanna (1995, FLM, vol. 15)、Moore (1994, ESM, vol. 27)、 Sierpinska (1994, "Understanding in Mathematics")、Duvalらを取り上げ、それらをまとめる中で、 数学教育者にとっては、説明から論拠、正当化を経て証明に至る連続体が存在するように見え、これらの 区別は鮮明ではないとしている。また数学者の間でも何が証明を構成するかについての議論があること、さらに Ernest (1999, ESM, vol. 38)に依りながら、証明の受容ということが根本的には社会的な行為である とも述べている。Lakatosの示す連続関数列の極限に関するCauchy の証明の話に触れながら、理論的な分析から生ずる二つの課題を あげている。
最後の第6節ではまず、数学的な正当化の教授=学習という課題は、数学的な関係、概念、手続きを 柔軟な仕方で教授=学習することに抵触する、という点が指摘される。つまり、後者のためには実験、 帰納、視覚的な推論など多様な形態で知識を獲得することが有用とされるのに対し、数学的知識を 確立する異なる方法が知識に与える地位(ステータス)の違いが、生徒には感得されにくいだろう からである。何が証明を構成するのかが数学者の間ですら議論になるとすれば、数学的な論拠の 妥当性を判断することを生徒が難しいと感じても、驚くにはあたらない。
一方で、教師の側は生徒が作り出したものを判断する基準を持っていないのではないか、とDreyfus氏は 考えているようである。視覚的な推論というと曖昧そうであるが、実際には厳密な証明のアイデアを 示すようなものもあるであろう。となると、どのような条件で、あるいはどのような基準に従って 視覚に基づいた説明は受容されるのか、を考えねばならないが、こうした点はあまり注意が払われて きておらず、個々の教師にまかされている。実験に基づく推論も同様である。
論文の最後には、数学観の問題に言及している。自分の推論を説明したり正当化するよう求めること は、「結果は何か?」を問う計算的な数学観から、「〜は本当か?」を問う数学を関連づけられた構造と見る数学観への移行を要求する。こうした変化に対しどのように生徒を敏感にさせるか、その達成をどのように支援するかは、これから考えねばならない問題だとDreyfus氏は述べている。
この論文を読んでまず感ずるのは、生徒がどの程度証明を書くことができるか、あるいは証明の意義を どの程度理解しているか、といった生徒の不備を示すのではなく、そうした状況を作っているかもしれない 自らの実践を反省する教師の姿が見えるということである。ここでの事例は大学初年級からとられているが、 しかし同様のことは我が国の初等・中等教育でも言えるのではないだろうか。証明が中学校で扱われるもの だとしても、算数やそれ以前(あるいはそれ以後)の数学でも、何らかの形での手続きや命題の正当化や、 自分の考えの説明などは行われるはずである。こうした経験の全てを通して、生徒たちがどのような 説明や証明についてのイメージを作り上げていくのかについて、私たち教師は注意をする必要はないだ ろうか。また、初等・中等教育の大きな流れの中で、どのような数学観の変化をどのように促そうとして いるのかについても、考えていく必要があるように感じた。