米国数学カリキュラム改革への二名の数学者の主張


 先日,数学担当の或る教官から二,三の文献を紹介していただいた。それらの文献は NCTM による Kー12 カリキュラム改革および微積分のカリキュラム改革を巡る,二名の異なる立場にある数学者が各々の主張を示したものであった。一方の数学者は California 大学の Wu, H. 先生,もう一方は Brown 大学の Mumford, D. 先生である。この欄では,この二名の数学者の主張の骨子を述べることにする。参考とする文献は,Wu, H. (1996). The mathematician and the mathematics education reform. Notices of the American Mathematical Society, 43, 12, 1531-1537. ,および Mumford, D. (1997). Calculus reform−For the millions. Notices of the American Mathematical Society, 44, 5, 559-563. である。
 Wu 先生とMumford 先生とによる各々の主張は,Wu 先生への Mumford 先生のリアクションという展開をとっている。先に Wu 先生の述べる骨子を紹介する。

 改革以前の伝統的なカリキュラムでは数学のどのようにして (how) という側面を専ら扱っており,なぜ (why) という側面を扱ってこなかったことが問題点であるが,改革されたカリキュラムでは,これら二つの何れを扱うことにおいても成功していない。
 伝統的なカリキュラムでは主に説明なしのアルゴリズム,すなわち,どのようにして (how) のみが扱われていた。一方,改革されたカリキュラムでは動機と発見へ導く議論,コンピュータを用いて公式を数値によって確認することもこれに含まれる,のみに力点が置かれており,記号による計算や正確な定義,整然とした公式,および正確な答えを軽視し,しかも証明を扱っていない。伝統的なカリキュラムの欠陥であった理論と応用,および抽象と具体の関連性のなさを補うために,改革されたカリキュラムでは現実場面の問題を用いることを中心に据えているけれども,現実場面の問題がかえって論理的演繹を覆い隠し,数学的技能を学習することを妨げ,mathematical closure さえもたらすことになる可能性がある。
 厳密さや正確さが数学の本質的なところであり,数学学習においては論理的演繹からなる証明が基礎になる。すべての高校生が証明とは何かを学ぶべきであり,証明をもってこそ生徒や学生が本当に真であることを確認し得る。初等数学におけるすべての記述に証明が付されることは間違いであり,平均的な学力の生徒や学生に数学者になるための訓練を課す理由はないが,しかし,生徒や学生に論理的演繹を行うための適切な訓練を与えることが重要である。

 次に,Mumford 先生による主張の骨子を紹介することにする。
 私を含めて多くの人々が教科書とした Hogen L. 先生の Mathematics for the Million は厳密さや正確さに力点を置いたものではなく,極限にしてもε−δ論法ではなくΔ記号を用いて定義している。厳密さや正確さが数学学習においてそれほど重要でないことを,定義を記述する際に用いられる英語の構文に曖昧さがあることからも示せる。ε−δ論法を用いた場合は,ギリシャ文字と複雑な構文のために,生徒や学生は過度の複雑さを感じ,そのことが後になって影響してしまうことにもなる。
 ほとんどの生徒や学生の微積分の学習では Hogen 先生の教科書の場合のように視覚的でしかも生徒にとって親しみのある多くの例を使用すべきである。記憶とドリルによる学習や数学者が行うような論理を追究する学習,例えば "new math" のときのように学校教育の早い時期に 1/(1/x)=x の説明のような論理的な内容を扱うことは,行うべきでない。
 Wu 先生は,厳密さが優等ではない生徒や学生には不適切であることを認めるとしても,彼らが論理的演繹を行えるよう訓練することをねらいとすべき,と言うが,それはなぜか。物理学や物理数学は論理に縛られずに真理を得ているし,他の諸科学においても論理は本質的な意味を持たない。応用数学においては厳密な証明ではなくシュミレーションによって数学モデルをテストしている。ほとんどの生徒や学生には論理的演繹の訓練を課す必要はないのではないか。

 さて,大学生の数学学力を実感し,大学での数学教育を実践している数学者からの数学カリキュラムへの意見は,無視できないものである。我が国の大学の,特に教員養成系における数学教育は,教員養成課程のカリキュラム改革が進行していることもあって,数学教員に必要な数学学力とは何か,数学教員養成のために何をなすべきか,を真剣に考える時にある。この欄で取り上げた二名の数学者の各々の主張は,米国の数学カリキュラム改革を巡るものであり,我が国の場合に直接にはあてはまらないのかも知れないが,注目すべき主張と考えている。
 ところで,「数学教育研究情報交換」誌 No.6-2 の磯田先生による欄のなかに Kahane 先生の講演内容として,「最近,物理数学では数学的には定義されていない議論をどんどんやっている。数学では定義は最後にできるという見方があるが,最近の数学ではブルバキの時代にはとても認められないような定義で,予想を提示しながら暫定的に新しい数学を構築しようとする動向ができあがっている。」という記述があった。 Kahane 先生のこの言及は Mumford 先生の述べるところと同様のものであろう。Wu 先生と Mumford 先生との何れの立場がもっともであるかは早急に判断することはできないけれども,数学それ自体の発展の方向から見ても,Mumford 先生のような立場からの主張はますます台頭してくるのではなかろうか。


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