算数の問題解決と現実場面

自然系教育講座 (数学)  布川 和彦


1. はじめに
 数学は抽象的な学問とされる一方で、それが日常的な推論に起源を持つとする見解 (例えばKitcher, 1984) や、現実的な問題との関連性を示唆する文献 (例えば デブリン, 1995) がある。小学校の算数に関しても、単元の導入やあるいは単元のまとめなどで、現実場面との関わりを考える場面がよく見られる。本稿では、特に小学校での算数の問題解決をとりあげ、それと日常的あるいは現実的場面での思考との関わりを考えていく。

2. これまでの諸見解
 算数の問題解決と現実場面の関連について最も典型的な扱いは、算数のある概念や手続きを学習後に、これらの応用として現実場面を扱うものであろう。例えば、Silver (1992) があげる次のような問題は「割り算」についての応用問題と言えよう;「マリー・カリー小学校の子どもと先生130人がピクニックに行こうと思います。一台のバスには50人が乗ることができます。全部で何台のバスが必要でしょう?」(p. 31)。ここで、130÷50を実行すると「2.6」、「2余り30」といった答えが得られるが、この計算結果をどのように修正したり単位を付けて元の問題の答えを得るかが、一つの眼目となる。そこでは「商や余りをどのように扱うかを決めるために、計算結果を物語の文やそれにより示唆される (現実世界の中の)物語の場面 へ写す」(p. 31) ことが必要とされる。つまり、元々どのようなことが求められていたのかを考慮して、計算結果を変形、解釈することが要求されるのである。

 これとは多少異なる関連の扱いとして、算数自体の学習を現実場面での思考により促進しようとする立場がある。例えばResnick (1988) は、子どもが数式と現実場面とを結びつけることの難しさに言及しているが、彼女の基本的な関心は、「物語と式の関係についての子どもの知識を用いて、『符号の変換』といった記号的な代数の規則の成り立つ理由を、子どもが理解するのを助ける」(p. 37)こと にあった。つまり、算数の知識と現実場面との結びつきを考えることで、算数の知識の理解を支援することを狙っていたのである。同じ傾向は、米国の数学教育の方向を示しているいわゆる「スタンダード」(NCTM, 1989) においても見られる。例えば5〜8年生についての勧告1「問題解決としての数学」では、「数学内外の場面から問題を定式化する」という項目よりも先に、「問題解決アプローチを用いて数学的内容を探求したり理解する」(p. 75) があげられている。

 一方で、むしろ現実場面に密着した形での思考に着目する研究も見られる。これは、「路上の数学」 (大瀧, 1988) 等に示されるように、ものを売るなどの現実場面においてであれば、演算の交換法則、結合法則、分配法則に当たる計算といった、数学的構造を含んだ思考を十分に行えるという現象である。こうした思考では、扱われる概念が場面に結びついているために、それが本来持っている意味が保存されやすく、結果的に知識の使用者の思考を促進していると考えられる。ただし、問題の状況が複雑になり、使用者の知っている場面からはなれてくる (例えば、通常使用しないような数値が用いられる場合) と、思考がうまく進まなくなり、その弱さを露呈することになる (Nunes, 1992)。特に、学校の授業で脱文脈的に提示された場合には、場面の中ではできていたような計算ができなくなってしまう。場面の中で用いられる知識は、算数の知識と本質的には同じ構造を持つと同時に、授業以外の特定の場面で獲得され、その場面の中でのみ働くという意味において、インフォーマルな算数の知識と考えられる (布川, 1993)。その知識を利用して学校での算数を行うことが提唱される (Resnick, 1989) と同時に、「適切な」インフォーマルな知識が子どもの環境に存在することを提唱する立場 (Joramら, 1995) も見られる。

3. 算数の知識の適用と意思決定
 前節の諸見解を見たときにある意味で共通しているのは、現実的場面が算数の知識を支えているということである。第一の見解では、得られた計算結果の解釈は場面により支えられている。2番目の見解では、算数の知識の理解が場面により支えられている。また3番目の見解では、算数と同じ構造を持つ思考が場面に全面的に支えられていると見ることができる。

 ところでFischer (1993) は現実場面を数学を用いて考えることに関連して、次のように述べている;

つまり、数学を利用して得られる情報は、現実の問題への必然的に従うべき最良の答えを提供するものではなく、人々が議論をしたり判断をするときの材料を提供するものとみなすべきなのである。このことは、算数・数学の知識の方が、場面についての人間の思考を支える可能性を示唆するとも解釈できる。

  Fischer (1993) のこうした知見や数学的モデル化についての知見をもとに、Nunokawa (1995) は算数の問題解決も、基本的には、算数の知識からの情報に基づく場面についての意思決定として特徴づけている。算数の問題解決をモデル化として見るということは、当該の場面をどのような算数の知識で意味づけるかに関してのある程度の自由性を意味すると同時に、算数により得られる結果が場面に対してどのような情報を提供するか、に着目することを意味する。このことを、第2節で述べた Silver (1992) の問題を用いて考えてみる。

 彼の問題において130÷50を実行して、2.6という答えが出たとする。このとき、従来の立場では、バスの台数というのは整数値であり小数が答えにはならないこと、答えを2と切り捨てると乗れる人数が少なすぎることから 2.6 を切り上げて3とすること、さらにバスを表す単位は「台」であること、等を考慮して答えを「3台」とすることが考えられる。

 一方 Nunokawa (1995) の立場では、割り算の結果として得られる「 2.6」 を場面についての情報と考える。もともと130÷50という式は、全体の人数を一台に乗れる人数で割ったものであるから、これが必要なバスの台数についての情報を表すことは、その立式の仕方よりわかる。したがって、2.6 という数値はバスの台数に関する情報を表すものであり、これは必要なバスが2台強、あるいは3台弱であることを意味していると考えられる。そこで、この情報を手がかりとして元の場面について調べてみることを次に考える。例えば、2台のバスを用意したとすると100人は乗れるが、30人が余ってしまうことになる。また3台のバスを用意して場面を考えてみると、全員が乗れる代わりに、バスには多少の空席ができることがわかる。このように計算結果として得られた情報を用いると、問題場面を新たに組織化することができる。ここで、組織化された場面を見て、元々の決定すべきことがら (今の場合であれば「何台のバスが必要か」ということ) に対してどのような判断を下すか、ということについては、むしろ現実的場面についての推論に基づくべきであろう。上の問題であれば、2台のバスで30人が余っている状態を見たときに、バスの補助席を用いるとか、当日の欠席者を見込むなどして2台で十分という判断をすることもできるし、30人のための小型バンを用意するという考えもできる1。3台で空席がある場合でも、そのまま余裕を見て3台とすることもできるし、あるいは空席は無駄なので2台に詰めて乗ってもらうという判断も可能である。「3台」という一意的な答えを求めるためには、問題文に書かれていない暗黙の仮定が必要であろう (DeCorte & Verschaffel, 1989)。

 ここで注意すべきことは、従来のタイプの進め方では、計算結果が得られたときに、問題場面を参照しながらこの結果を修正し意味づけていくという活動になっていることである。一方、ここで述べたタイプでは、計算結果が得られた後は、むしろその情報を一つの材料としながら場面自体を探求するという活動になっている。場面は単に参照する対象ではなく、むしろ(立式の際の最初の探求以後二度目の)探求の対象となっているという点である。

4. 思考の道具としての算数の知識
 米国での一つの考え方が場面による数学的知識の理解の援助であり、またインフォーマルな知識の議論では現実場面に埋め込まれた形での算数的思考 (というよりも算数的構造と同型なものを含む思考) を扱っていたのに対し、この Nunokawa (1995) の立場は、むしろ算数・数学の知識という、ある程度「形式的で十分に決定された体系」(Resnick, 1988, p.34) によって、我々人間の現実的場面についての思考を支援あるいは制御しようとするものとも考えられる。これは、数学的知識を知的ツールと見た場合の「道具主義」(Vygotsky, 1981) 的立場とも言えるものである。

 例えば、市川 (1994) では、ものを分けるという場面において、分数を学習する以前の子どもであっても、簡単な場合には分けた結果について判断することができるが、分けたものどうしを合わせるといったより複雑な場面においては、結果の判断ができないことが報告されている。しかし、こうした場面であっても、場面を分数で表し、さらに分数についての手続きを施すことで、場面についての「予測値」を機械的に作り出すことができる。大きな数については、この「予測値」がかなりの現実味を帯び、新たなリアリティとして機能している。例えば1億と2億を加えたものが本当はいくつになるのか、実際に数えた人はおそらくいないであろうにも関わらず、それは1+2が3であるという結果を元にした数学的知識により3億であるとされ、その結果は現実のものとして以降の判断で用いられていく。つまり、具体的には数えることのできないような場面でも、算数の知識により考えていくことが可能になるのである。

 同様のことは、□を用いた式などでも考えられる。例えば「ただしくんはおはじきをいくつか持っていました。お姉さんからおはじきを4つもらったので、今は9つになりました。ただしくんははじめにいくつおはじきを持っていたでしょう」という問題をとりあげた場合、場面の中で主として思考を進めれば、おはじきを4つもらって今9つになっているのだから、もらった分の4つを返せば、はじめの個数になるはずだ」として、9−4と式を立てることが考えられる。つまり、自分の持っている算数の知識に合うように場面の方を変えていく、という考えの進め方である。これに対し、□を用いた場合、場面をすぐに□+4=9と表し、次にこれに機械的操作を施し□=9−4とすることで、はじめの個数は今の個数からもらった個数を引くことで求めることができる、という情報が得られる。これは、算数の知識に依りながら場面についての新しい情報を導いていることになる。

 これは計算に関わることだけではない。例えば、ある二つのものの広さを比べる場面でも、対象物を算数で扱われる図形に表すことができれば、あとは面積を求める手続きを機械的に実行することで、面積を数値に変換することができるし、数値に変換されれば大小は機械的に決めることができる。また、長方形や三角形として表された対象については、その中心や重心の位置を機械的に予測することができる。

 林 (1994) によれば、生徒は一次関数で意味づけ可能な場面について、その学習以前でもある程度問いに答えることができる一方で、数の大小により扱い方を変えたり、傾きと切片という一次関数の重要な要素を同時に意識的に扱うことができない。一次関数の学習により、一次関数を式や表、グラフとして表すこと、そしてそれらの表現に対する操作や、傾きや切片という要素の持つ意味を学ぶことになろう。これを学ぶことにより、当該の問題場面について現在持っているデータによりその場面を一次関数 により表した場合、関数の式やグラフ等における機械的な操作を施すことで、現在持っていない箇所についてのデータを予測することができる 。そのときには、数の大小によらず同じ扱いができ、またその扱いは意識的で自己制御的に行われると考えられる。

 ここで重要なことは、算数により人間の思考が拡張されるためには、算数内部での処理は機械的に行われる必要があるということである。もしもその処理が場面との対応でのみ行われるようであれば、場面について考えるのと同じことになってしまうからである。したがって、算数の知識の導入の段階では場面との対応が必要としても、その後においては算数の自律性が確立される必要があると考えられる。算数を用いて現実の問題場面を処理していくためには、算数と場面との対応が必要なだけではなく、算数が場面から切り離されて自律的に振る舞えるようになっていることが必要だと考えられる。Hソyrup (1994) は、現在直面する問題を解決するためにも数学はより発展させられるべきであり、そのためには歴史的に見て数学が自律的な存在として認められるべきであると述べている (p. 22)。つまり、数学が一時的にせよ現実的場面から離れ、それ自体として発展することが、数学の問題を解決する力を強めることになる。算数の問題解決でも、それを支えているのは算数の知識の自律性であり、またそうであるからこそ、人間が現実的場面の中でのみ考えているときには思いつかなかったり、曖昧にしか考えられなかったことを、考えることが可能になるのであろう。

 しかし、他の道具が場面の要請に基づいて作成されてきたように、算数・数学という道具もまた、その発生においては場面に依存していると考えられ、発生の段階では第2節で述べた2番目の立場のように算数が場面により支えられるものと考えられる。例えば、小さい数 (例えば1桁の数) の範囲では、加法にあたることを場面の中で行うことができ、二つの集合の合併の結果がどうなるかを、実際に数えて確かめることができる。つまり、3+4は7となるべきであり、6ではない方がよいのである。小さい数の範囲で行われたことやその帰結に関する事実、また計算の仕方といった、場面で行った行為の意味 (それらが何であったのか) が抽出されたとしてみる。ここでVygotsky (1978)にならい (行為) / (意味) という分数の分子を分母を入れ替え、 (意味) / (行為) としてみる (p. 100)。つまり、場面における行為が優位であったものが、行為よりもその意味の方が優位となるのであり、意味にしたがって行為を行うようにする。これは、「自分の見ているものとは独立に行為できるようになる」(p. 97)ことであり、この際、行為よりも意味が優位になることにより、単に場面の中でわかっている範囲に留まらず、規則を保存したままで規則の適用範囲の拡張が可能となると思われる。例えば、1桁どうしの計算についてはすでにわかっている事実に従い、また記数法については1桁と2桁との関係 (10の位は1の位の10倍になっている) をそのまま他の桁についても適用する。これに従い繰り上がりの規則などもきまり、大きな数の計算が可能となる。「意味の領域が現れ、そこでの行為はリアリティにおけるのと同様に生じる」(p. 101)ことになる。そして、そこでは「最大限の自己制御が生じ」(p. 99)、「意識的な選択を行う能力」(p. 101) が生ずる。結局、「意味の領域と視覚的領域の間の、つまり思考における場面と現実的場面の間の新しい関係が作られる」(p. 104)のである。算数の知識と現実的場面についてのこうした関係を築くことが、算数の問題解決の指導において求められるのではないだろうか。

5. おわりに
 本稿では、算数の問題解決と現実場面との関係の考え方の一つとして、算数の知識により生み出された情報により、場面についての判断を人間が行うという捉え方を提出した。そして、その背景にある、思考の道具としての算数の知識という面にも言及した。この中では、算数の知識の機械的処理の側面が人間の思考を促進することを述べたが、この主張は一見すると人間的な活動としての数学を重視する、近年の数学教育学の主張に合わないように見える。しかし、本稿での主張は、算数での処理の結果を必然的に従うべきものと考えるよりも、人間が判断を行うときの材料として捉えようとするものであること、またその発生においては場面の中での人間の活動に基づいており、そこでの人間の可能性をできるだけ拡張しようとするものであることを考慮するならば、算数と子どもとの新しい関係を考えることにもつながると思われる。

註および引用・参考文献
1. Silver と Shapiro (1991)および上野 (1995) によれば、こうした反応は実際に子どもから出されたとされる (p. 119)。なお上野 (1995) は問題解決に関わる「場面」を「問題文に整合する場面」と「現実の世界の場面」に分けて考え、こうした反応は前者ではなく後者に依るとしている。

2. 例えば「全て均一なバスのみを考える」、「予算等の要因は考えない」といった仮定。


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