反芻的メモ


ブログのように頻繁にアップする能力がないので、思いついたときに思いついたことを書いています。

2019年1月17日
 実務が実数軸の上での動きとすれば、学問は虚数軸かもしれない。実数軸で動いている分には何も役に立たないが、そこからはみ出る可能性を与えてくれる。 虚数軸ばかりを強調するのも考えものだが、虚数軸を安易に切り捨てることは実数軸からはみ出る可能性を捨てることになろう。

2018年12月22日
 ニュースなどを見ていて、ふと、私たちは皆、大なり小なり芥川の「蜘蛛の糸」に出てくる犍陀多 かんだた のようなものかもしれないと感じた。
 「この既得権は おれ のものだぞ、下りろ」とつい言ったり、「この富は己のものだぞ、下りろ」とつい言ってしまうのではないか。
 だとすると、その結末も「蜘蛛の糸」に描かれたようなものなのかもしれない。
2018年6月21日
 「マツコの知らない世界」で、化石の専門家・宮田真也さんがカナダの『ロイヤル・ティレル古生物学博物館』を訪れた際の様子を紹介していた。その中でエ イの化石を見て宮田さんが興奮するシーンがあった。なんでもエイのような軟骨魚類では歯以外が化石として残ることはほとんどないので、大変珍しいとのこ と。ある事柄に驚くためには、それなりの知識が必要なのだと改めて感じた。
 一緒に紹介されていたボレアロペルタが珍しいであろうことは、化石のことをほとんど知らない自分でも見当がつくが、エイの化石についてはそのすごさが言 われなければわからない。逆に、知識が増えることで、驚いたりワクワクしたりできる可能性が高まるのかもしれない。


2018年6月14日
  誰かのしたことに対し、まだ足りない、本当にわかっているのか、とコメントをするのが「流行っている」ように見える。確かに人のやったことに批判的なコメ ントをすることは、何か世間を代表しているような気持ちになったり、自分を優秀そうに見せたりするのに有効かもしれない。しかしコメントは、基本的には 後出しジャンケンである。後出しジャンケンで勝ち続けて勘違いをしないような注意が必要であろう。自分の仕事で も、授業にコメントすることは後出しジャンケンであることを、自覚してかからねばと思っている。大切なのは建設的な意見を出すこと、あるいはある程度よく 考えた上で実行することと思う。


2018年6月13日
 即戦力って切り花みたいなもの?「梨の馬鹿目が十八年」とまではいかなくても、「桃栗三年」くらいはダメ?


2018年6月6日
 何が起こったかだけを調べて、なぜそのようなことが起こったのかを調べなければ、どうしても対処療法的な対応になってしまうであろう。
 トヨタのカイゼンではないが、本当に良くしたいと思えば、「なぜ」と問うのが自然ではないだろうか?
 医者に行って、痛いとか血が止まらないという起こっている症状だけを見て、その原因を探ろうとしなかったら、普通はその医者に対して「この人は大丈夫 か?」と考えると思うのだが。

2018年5月18日
 すぐに「役に立つもの」は誰にでもアピールしやすい。しかし一見すると役に立たないが、根っこの所で大切だったり、あるいは10年後に役に立つものを見 抜くには、それなりの賢さが必要である。
 何か問題が起こっているときには、もちろんすぐに効果のある対応策を打つ必要もあろう。しかし、その問題が生じないように根本的な部分の再考が必要な場 合もあり、こちらは少し時間がかかるかもしれない。即効性のある対策だけに終始すれば、根本的な解決にはなりにくい。
 一番の問題は、見えにくい「役に立つ」や長期的な対策がなかなかアピールしにくく、採用されにくいことであろう。すぐに「そんなの役に立たない」「そん なの関係ない」「今そんなことを言っても仕方ない」と言う人たちには、見えにくいものはいつまでも見えない。


2018年4月10日
 かなり偉い人たちの、清廉でもなく、姑息であさましい姿が、毎日のように報道されている。
 これで、若い人たちに正しく生きろといっても、あまり説得力はないのではないかな。


2017年11月23日
 近年は、学校の教育と学校の外の社会との関連をもっとつけるべきだとの議論が多い。小学校からの英語やプログラミングも、そうした議論の1つなのであろ う。もしも本当にそう考えるのであれば、道徳などの内容もそうすべきであろう。そして、もしも今世の中でまかりとっている程度のことが正義であり公正さで あるならば、学校の道徳で扱われるものも、その程度のものにしないと大変ことになる。世の中で事実を無視したような発言がまかり通るなら、学校でも事実を 適当に無視する方がよいであろう。
 学校の道徳でよい成績をとった人が、世の中に出たとたんに生きづらくなるのでは意味がない。


2017年9月1日
 著名なジャズ奏者による指導のあり方が話題になっており、著名人のコメントがニュースになったり、またそこに多くの方が意見を寄せたりしている。どれも 一理あるなと思い拝見すると同時に、この人たちは学校や部活の指導で似たようなことが起こったときにも、同じ意見を持つのだろうかと考えていた。例えばそ のジャズ奏者は音楽に対して真剣だからそうしたのだ、という意見があった。その人は学校や部活でも指導者が真剣ならビンタをしてもよいと言うのであろう か。また、今回の件は動画がネットにアップされたこともあり、その経緯を十分考慮した上での判断を求める声も多い。そう求める人は、いわゆる体罰について もそれが起こった経緯を十分に考慮してから判断すべきだと言ってくれるのであろうか。
 その場その場でそれなりの意見をすることは容易であるが、それを類似の場合でも当てはまるように、一貫性を持って議論をすることは意外と難しい。当事者 が有名人のときとそうでないときで意見が異なるのはフェアではない。(あ、でも、「これとそれとは話が違う」と言われてしまうのか)


2017年5月27日
公正さは権力者の道徳であり、福祉は富裕層の道徳である。
そして、私たち一般人の道徳レベルは、これら権力者や富裕層の道徳レベルの指標でもある。


2017年3月27日
「絶対ない」と「『絶対』はない」を明確に使い分けられるようになるだけでも、論理を勉強する価値はあるかも知れない。


2016年12月15日
 テレビで議論の様子などを見ていて、実は議論が成立するというのはとても大変なことだと感じる。どの意見もそれぞれの視点からは一理あるものであろうか ら、議論が噛み合い、その中でよりよい考えが生まれるためには、 互いが相手の考えも一旦は受け入れ、その言わんとすることを理解し、そしてその意義と問題点を吟味する必要があろう。最初から聞く耳持たんでは議論は成立 しないが、テレビを見ていると、この相手の考えを一旦受け入れるということがなかなか難しいようである。
 他方で意見を言う側も、相手に理解してもらえることが必要なので、自分がそのように主張する理由を述べる必要があろう。また多くの意見は何らかの前提に 基づくことが多いであろうから、自分が知らず知らずのうちに置いている前提を意識し、その前提の上で主張していることを自覚する必要がある。
 さらに両者の意見を噛み合わせるには、そこに関わる多くの要素を考慮に入れて検討が必要になる。異なる意見や立場の人間が向き合うとなれば、いっそう多 様な要素や条件が関わるであろうから、それらに目配りしながらの検討は大変である。また得られた結論も無条件で良いものというわけではなく、途中で検討し た条件を考慮した上での結論であることも最後に確認する必要があろう。
 そう考えてくると、相当に賢い人間が集まらなければ議論は成立しないし、生産的なものとはならないと思える。テレビの中でキチンと議論が成り立っていな いように見えることが多いのも、仕方のないことかもしれない。他国で行われている「賛否両論のある文章を書くこと」 などは確かにそのためのトレーニングにはなるのかもしれない。

2016年11月1日
 先日の大川小の判決に関わり、報道ステーションのコメンテーター・後藤謙次氏が、「東北には津波てんでんこという言葉ある。今の学校は指示に従わせてお りその逆のことをやっている」といったことを発言していた。もちろん、こうした考え方もあるだろう。ただし、この発言をしたのであるから、別の時に「学校 が子どもたちに任せて適切な指示をしなかった」といった批判は決してもらいたくない。またそれを認めた朝日放送も同様である。

 全国ネットでした批判なのであるから、今度は発言した方の責任が問われる。「津波てんでんこ」の精神を生かして学校の安全をどう考えるのかを、積極的に 発信する番のはずである。後出しジャンケンのようなことをして、得意になっているのがジャーナリストでは ないはずだと信じたい。

2016年7月21日
 ものごとに関わるのに、「手を出す」「口を出す」「金を出す」の3つの仕方があるように思う。このうち 最もお手軽なのは「口を出す」であろう。もちろんすぐれた人の気の利いたアドバスならとても助かるであろうが、常識的な一般論なら意味がない。
 しかし「手を出す」のように時間と労力もかけることなく、かといって「金を出す」のように自分の懐が痛むわけでもないので、多くの場合「口を出す」が多 くなる。しかも自分は直接関与せず、人ごとのような場合が多いので、常識的な一般論に終始する方が多くなる。テレビのキャスターや解説員の人のコメントに のんきなのが多いのも、しょせんは人ごとだからなんだろうな。


2016年4月6日
 いろいろなことを学校で扱うべきとの話がよく出ると数年前にも書いた。それはもちろん子ども達への期待 であり、学校への期待でもあるだろう。しかしだとすれば、扱うべきと社会が要請したものについては、それらを総合して学校の評価をすべきであろう。「あれ もやれ」「これもやれ」と言いながら、最後は国語や算数の順位だけで「がんばってる」「努力が足りない」と言うのは、少し卑怯と感じる。いじめにも近い構 図ではないだろうか。


2016年2月15日
 育休を高らかに叫んでいた人が実は不倫をしていて辞任となった。いろいろな問題を含んでいるとは思うが、1つの問題点はかっこ良く主張していたことと実 際の振る舞いに大きな食い違いがあったことであろう。しかし、そうした言行不一致ということで言えば、似たような話はたくさんあるのかもしれない。

 予算が厳しいから引き締めると言いながら、自分は多額の無駄遣いをするとか、自分の国は自分で守ると言いながら、自分の近しい人は外に逃がすとか、もし もそんなことをしている人がいたとすれば、辞任の彼と五十歩百歩であろう。さらにそうした人が辞任の彼を「けしからん」と言ったりすると、その「けしから ん」を自分には向けない点で、二重の言行不一致となる。言葉にするというのは、けっこう重いものである。


2016年1月19日
 ばらまきなるものの議論を見ていると、朝三暮四のサルたちを笑えないような気がする。申年だからではないよね。


2016年1月15日
 NHKのアナウンサーが逮捕され、民放のニュースでは大きく取り上げられていたにも関わらず、NHKのニュースでは報道されていなかった(小さく扱った ことがあったかもしれないが)。身内の不祥事を大事(おおごと)にしたくない気持ちはわかるので、仕方ないかとも思う。ただ、そうした態度を取ったのであ るから、今後は他の組織に対して「ちゃんとしろ」とか「早急に事実を解明しろ」「徹底した調査をしろ」とは一切言わないでほしい。他の組織だってNHKと 同じ気持ちである。自分ができなかったことを他者にだけ求めるのはフェアとは言えない。

 発言の撤回がまたあった。もちろん、間違ってたなとか、勘違いでしたとして撤回することは潔い態度である。でもどのような意味で撤回なのかが明らかでな いことも多い。自分のした発言が誤りであったと気づいたのか。誤りとは思わないけど、口に出したことが誤りであったと感じているのか。口に出したことも誤 りとは思わないが、周りがうるさくて面倒だから撤回するのか。これがわからないと、潔い態度なのかどうかもわからない。

 適切な態度をとり続けるのは、本当に大変である。


2015年12月23日
 大学入試でもっと思考プロセスをみるようにしようという話になっている。そのこと自体はよいことと思うが、そのとき「思考プロセス」というものが適切に 把握されていて、問題を作る人がそこを目指して作っているのか、は重要なポイントである。

 例えば、スマートフォンは優れた発明であろうが、その開発に関わる思考プロセスとはどのようなものか。専門家でない人がこの問いをするときには、スマー トフォンの技術的な詳細を説明してもらおうとは期待していないであろう。むしろ、そうした仕組みを思いつくに至った契機、またそれを実現するまでの経緯、 困難に直面したときの対処の仕方、それらを支える 発想、そうしたものをおおよそ時間軸にそって追うことが、スマートフォン開発の思考プロセスに近いと思われる。だからこそ、われわれの多くはiPhone のメカニズムは理解できなくても、スティーブ・ジョブズの発想を知りたいと考える。

 数学の問題でも同じことである。最後の定理の証明は思考の産物であり、むしろそれを思いつくまでの過程が思考プロセスである。決定的に重要な補助線をど うやって見つけたのかが思考プロセスの一部であり、結果的に最後の証明には直接関係なかったことでも、そのために行ったことは思考プロセスの一部である。 試行錯誤のような効率の悪い試みが行われることもあるだろうし、攻め方を変更することもあるだろう。

 思考プロセスを重視すると言いながら、実はていねいに書かれた証明や解答だけを期待するのは、少なくとも常識的な考え方からはズレている。プロセス=過 程が紙で評価できるのかも含めて、丁寧に検討頂きたいものである。下手をすると、「思考プロセス」という格好いい言葉でラッピングされながらも、内実は今 までの2次試験と同じになってしまうかもしれない。


2015年11月19日
 数値目標を設定することは、目標を明確化し、事後の評価をしやすくするという点で意味があるのであろう。
 しかし、数値の達成自体が目標となり、よいものを作りその結果として数値が上がるというメカニズムが働きにくいようにも思われる。特にトップの気が小さ い場合は、そうなりがちに見える。数値の達成が自己目的となれば、ともすると質の問題は置き去りにされ、長期的にはさらなる弱体化を招く。
 真の意味での数値目標の達成は、長期的なビジョンを持ち胆力の備わったリーダーにしかなしえない。

【2016年1月5日付記】
 新年の番組で、体操の内村選手が「理想の体操をすれば結果は必ずついてくる」と話していた。一流の人が言うとやはり説得力が違う。


2015年10月22日
 自分の言いたいことを主張するよりも、相手の言うことを聞いて理解する方が大変かもしれない。自分とは異なる意見だけでなく、その背景にある条件や前提 を含めて理解することが必要だからであり、また一時的にしろ自分の意見を棚上げする度量も必要だからである。場合よっては、全く逆の視点を持つことも必要 とすれば、かなり賢くないとできないことかもしれない。

 相手の言うことを受け付けない、単に否定するだけの方が、自分の視点から見るだけでよいので、ずっと楽であろう。聖徳太子は何人もの人の言うことを理解 したというが、この意味でもよほど賢い人であったのだろう。


2015年9月18日
 一人では守り切れないから仲間とスクラムを組む。だとすると、仲間から外されること自体が自分の存立危機になるのではないか。そして、仲間はずれにされ ないことを、まずは考えることにならないだろうか。


2015年9月3日
 オリンピックのエンブレムについてはいろいろな論点があるのだろうが、見ていて個人的に感じたのは「クライアント」の設定の難しさであった。デザイナー の皆さんはきっと、いつもの仕事と同様、依頼主である組織委員会とか、その組織委員会のスポンサーなどがクライアントであると、どこかで思いながら選考を したのではないだろうか。だとすれば、まずはそうした人たちからのOKをもらう、あるいはそうした人たちが使いやすいものを作ることが、主眼となったはず である。

 一方で、オリンピックをみんなで盛り上げようという機運もあり、エンブレムをまさにその象徴として使うという雰囲気も感じられた。この場合は、クライア ントの中には私たち国民みんなが入ってくる。都や国の税金が投入されるとなれば、そうした考え方も成り立つであろうし、また運営サイドもみんなのオリン ピックという機運を高めようとしていたとも感じられる。

 こうした中で、デザイナーの人たちが当初のエンブレムについて、「一般人にはわからないかもしれないが・・・」といった言い方で擁護をしたことは、見よ うによっては、一部のクライアントに対して「おまえなんかにわかるか、プロに任せておけ」と言い放ったのと同様である。通常の広告の仕事であれば、おそら く絶対にしないであろうことを、してしまったことになる。またクライアントの不明瞭さは、結果としてエンブレムの位置づけも曖昧にする。スポンサー企業の ために作るのであれば、エンブレムで直接国民を引きつけるのはあきらめて、スポンサーの商品やCMを媒介にして国民を引きつけると考えるべきであろう。逆 に国民をまとめあげる象徴として使いたいのであれば、営業的な展開のしやすさとか、スポンサー企業の特権的な利用は一旦脇に置いておくべきであろう。この 曖昧さを抱えたままで作業を進めていくことで、結局、どこかで無理が出てしまうように思われる。

 実は、クライアントの設定という問題は、多くの組織で起こることではないだろうか。そして、建て前的なクラインとの設定と本音の部分でのクライアントの 設定がずれていて、しかもそのズレがあまり意識されずに進んでしまえば、どの組織でもやはり無理が出てくるのは当然の結果と思われる。


2015年8月26日
朝日新聞朝刊の1面に載っている鷲 田清一さんの「折々のことば」。 今朝は「暮 らしの手帳」前編集長の松 浦弥太郎さんによる次のような言葉であった。
「そ れらしいものほど、無責任なものはない」

確かに、なるほどという感じである。一応何かをやっているのに、思ったほど効果がないような場合には、実は「それらしいもの」で代用してしまっていないか を検討した方がよいのかもしれない。


2015年8月8日
相手の気持ちも考えずに、自分を愛せと強要するのでは野暮である。
誰が金を出してやってるんだと言わんばかりに、札びらで頬をたたくようなまねは無粋である。


2015年7月14日
 実態の解明、全容の解明を求める声をよく聞く。もちろん、それらを解明することは、出来事の背景を知り対策を立てるために重要なことであろう。しかし、 それを求める人は「実態」や「全容」の意味を真剣に考えて口にしているのだろうか。

 出来事に関わりのある全ての要因をきちんと見なければ「実態」「全容」にならない。「そこはちょっとまずいから触れないでおこう」となれば、それは「実 態」でも 「全容」でもない。しかも同じものを見ていても、立場により見え方も変わるだろうし、記憶の中で修正されることもある。一部の情報しか出さない人もいるだ ろうし、意図的にある面しか見せない人もいるだろう。そう考えると「実態」「全容」に迫るのはなかなか難しい。

 事実をろくに調べずに、勝手な思い込みに基づいてコメントする人も多いことを考えれば、実態や全容の解明を訴える人は良心的とも言える。しかし、その解 明を求めるだけで終わりにせずに、どうしたら解明できるのかを提案したり、また似たような事例で解明に迫ったものを紹介するなどしてほしい。


2015年7月1日
飽本一裕「今日から使える複素関数」にこんなエピソードが紹介されていた:「筆者の大学でも、『高校時代の数学の先生から、虚数はむなしい数だし、役に立 たない数なので勉強しなくてもいいと言われた』と述べた学生が過去にいたほどです」(p. 6)。

 本当にその先生がこう言ったのかは定かではないが、一つだけ言えることは、何かを安易に「役に立たない」と決めつけることは、自らの不勉強や見る目のな さ、センスのなさをさらけ出すことになりかねない、ということである。仮に今の技術力では「役に立たない」としても、コンピュータの性能が上がるなど、置 かれた条件が変われば役に立つものに変わる可能性もある。そう考えると、「役に立たない」と切って捨てるには相当な覚悟がいるはずである。


2015年6月5日
PRばやりの今日、パンフレットやホームページにはすてきな言葉がならぶ。
でも、その組織が本当は何を大切にしているのかは、評価の基準を見た方が分かるだろう。
そして、もしも評価の基準とPR用の言葉に齟齬があるならば、それは評価の基準の方が
本音に違いない。


2015年6月5日
「自分の国は自分で守る」。2番目の「自分」にあなたも入ってますね?1番目の「自分」にわたしも入ってますか?


2015年4月26日
 夜中に創造性を育てる教育についての討論番組をやっていた。
 これからの人材に創造性を求める気持ちはよくわかる。しかし、いくら創造性をもった人材がいても、経営の方針を決めたり、スタッフを評価する側の人間に それを見抜く力がなければ、結局は無駄に終わるであろう。今の日本で創造性を持った人間が本当に少ないのか、それともそうした人を見抜けるだけの能力を上 が持っていないのか、一度検討した方がよいのではないか。種がそのままでは発芽しないのは当たり前の話である。


2015年4月22日
全国学力・学習状況調査が子どもたちの学力調査なら、
その調査結果をどう使うかは、大人の学力調査である。


2015年4月21日
 今朝の朝日新聞に、デジタル教科書の利用について来年度にも結論を出すとの話が出ていた。例えば、デジタル化するか否かのデジタル的な結論ではなく、マ ルチメ ディア的な決着にはならないのだろうか。紙の教科書も使いながら、動画や補足資料がはいったタブレットも参照する。必要ならインターネットにつないで調べ 物をする。そうすれば、紙の教科書の解説を見ながら、動画を見たり、ネットで調べたり、あるいはタブレットに入ったソフトでデータを分析したりもできる。

 そもそも、教科書を「デジタル化」というと、いまある教科書をタブレット上で使うように修正したように見える。実際、今のデジタル教科書は、紙 の教科書 のいちぶに動画を埋め込んだり、クリックをすると文章が少しずつ現れたりといった感じで、紙の教科書をバージョンアップするかのように考えているのではな いだろうか。タブレットなどを使うなら、それにより新たな学習の様式や思考の様式が生まれると考えた方がよい。どうせなら今の社会でITをどのように利用 しているか、逆に今の学習内容でITの普及により重要性の低下したものはないか、などの検討がされてもよいはずである。その上で、カリキュラムからすべて 考え直すくらいの発 想があってもいいと思うのだが、そうした動きが出てくるのだろうか。

 以前にコンピュータが入り始めの頃に、米国でコンピュータを使った授業プロジェクトを見せて頂いたことがある。最初は生徒たちも喜んでコンピュータに向 かっていたが、何時間も繰り替えると徐々に飽きてきて、コンピュータの利用だけでは喜ばない。結局は目先が変わるだけの話である。タブレットが生活スタイ ルを変えたように、学習のスタイルが変わるようでないと意味がないし、また世間も学習に対するイメージを変えないと長続きしない。


2015年4月11日
 アクティブラーニングのように児童・生徒が主体的に学ぶこと、その経験を通して思考力を高めるといった話がますます盛んになっている。そのことは歓迎す べきことであるが、他方で、似たような風潮が少し前に、総合的な学習の時間が導入された頃にあった気がする。そしてその時は、学力の低下が問題となり、結 局す ぐに修正がなされたように記憶している。もしそうなら、同じ失敗を繰り返さないことが重要ではないか。
 
 そのために、一つには知識と思考を二分するかのような発想は止めることが大事と思われる。もう一つには、効果的であることと効率的であることの双方を意 識して考えることが必要と思う。主体的な学習を行う場合、効果的ではあっても、効率的には見えないかもしれない。そのことを世間が受け止める覚悟があるか ということでもある。言っては見たものの、効率が悪そうに見えるから朝令暮改では肝心の効果も望めない。短期的に無難な成果を着実に上げる人を社会として 求めるのか、一見無駄に見えることもやり、失敗もするけれども、それでも画期的なことをやろうとする人を社会が求めるのかの違いでもある。社会がしなやか さを有しているかの問題とも言える。

 アクティブラーニングのような手法が広まるのかは、社会の覚悟にかかっている。それだけの度量があるかなあ・・・


2015年4月7日
 自分と異なる意見に対して、それも認め、耳を貸すことは意外と難しいようで、すぐに反論に走ったり、ナンセンスと切って捨てる場合も多いように思われ る。まして、多様な意見を統合してより良い考えにしていくには、かなり優秀な調整役が必要であろう。

 世間の偉い人たちが、多様な意見をもとに生産的に話し合っている姿を見せないと、学校で21世紀型学力とか言ってみても、仕方ない。そうした人たちにこ そ、利害が相反する中での協同的解決の姿を見せてもらいたいものである。


2015年3月5日
 書籍の情報が正確かと考えると、最近はそれも怪しいのではと思うことがある。
 例えば2008年に書かれたある書籍に次のような一節があった:「先年、日本において、小学生の教科書で円周率を『約3』と教える、という暴挙がまかり 通ってしまい、衝撃を受けた数学関係者は多かった」。しかし、おそらくこのときを指すであろう平成10年の「小学校学習指導要領解説・算数編」を見ると、 円周率については次のように書かれている:「円周率として3.14を用いるが、円周や面積に見積もりをするなど目的によっては3として処理していくことを 取り扱うことにも配慮する必要がある」(p. 143)。つまり、円周率を3として教えるとは書かれていない。
 実際、そのときの教科書を見ても、まずは次のように説明がされている:「円周率は、3.14159・・・・とかぎりなく続く数ですが、ふつう3.14と して使います」(学校図書平成13年1月検定済教科書小学校5年下巻p. 36)。またその直後に直径から円周を求める問題が載っているが、そこでも「円周=直径×3.14」となっているし、次のセクションで円の面積を公式をま とめるときも「円の面積=半径×半径×3.14」となっている。教科書を見ても、上の「暴挙」が事実としてあったようには見えない。
 ちなみに当時の遠山文部科学大臣から「学びのすすめ」が出されたのが平成14年1月、学習指導要領の一部改正がなされたのが平成15年12月である。
 結局、上の「暴挙」がどこにあったのかは、資料の上からはよくわからない。ひょっとしたら、自ら1次資料に当たることをせず、マスコミやネットからの一 方的な情報のみを信じて、それを事実であるかのように書いてしまうという「暴挙がまかり通って」しまったのではないだろうか。そして、もしもこんなことで 本当に「衝撃を受けた数学関係者は多かった」のだとしたら、数学を学んでも、世間一般で役立つ批判的思考の育成には役立たないことの証左になってしまう。
2015年2月25日
 道徳教育についてはいろいろな意見があるようであるが、それをするなら、やはり道徳が社会で生きていく上で必要である、あるいはせめて、あったほうがよ いという雰囲気がないと、教育効果はないのではないだろうか。なくてもよさそうということになれば、子どもたちだって机上の空論としか見ないだろうから (自分が子どものときのことを思い出すと、そう思う)。
 偉い人たちが道徳的に見て「あれっ?」と思うようなことをしていたり、公正なのか疑わしい態度をとったり、あるいはあまり品のよろしくない言動をしたり しているのをテレビで見ていたら、「道徳で習ったようなことはしない方が偉くなれるのかな」と思ってしまう。是非とも、偉い人たち、また子どもたちの目に とまりやすいメディア露出度の高い人たちは、自身が道徳の教科書になって頂きたいものである。もちろん、道徳教育が必要と主張する場合ですよ。


2014年12月19日
 裸の王様はロバの耳。


2014年8月28日
 争いの多くは、「正しい」か「正しくないか」、「正義かどうか」の問題ではなく、自分の考えを全く疑わないことに依るのであろう。どちらも「正義」を主 張するのが普通なのだから。けんか両成敗とはよく言ったものである。


2014年7月5日
 立花隆氏の講演の記事が朝日新聞にあり、その見出しに、「電子書籍普及のカギは義務教育」とあった。記事を読んでも、氏がこうした発言をしたのかはよく わからないが、もしもしたのだとしたら、ずるい話だと思う。電子書籍を普及させたいのであれば、話は簡単で、人気作家が新刊をすべて電子書籍のみで発売す ればいいだけのことである。ところが、氏の新刊もやはり紙媒体で出てるようであり、ご自身が電子書籍普及をきちんと加速させることをしないでおいて、義務 教 育にその役を担わせるのは、奇妙な話である。
 何かを広めたいとか、あることを社会的に認めてほしいといったときに、結局、手っ取り早い手段として学校が利用される。全国的に整備された学校組織を利 用するのは、何かの普及としてはお手軽な手段である。しかし、限られた時間しかないなかで、あれもこれもと、いろんな役割をだけを担わせるのは、少々ずる いと感じる。話はむしろ逆で、社会で電子書籍が普通になれば、当然、学校でも普通になる。まずは、自身が全力で社会にそうした仕組みを作ってみせればいい だけのことである。地位も名誉もある人なんだから。

2014年6月7日
 山脇由貴子さんの「教室の悪魔」を読むと、今日のいじめの状況が単純なものではないことがわかる。おしなべて、教育のことは多くの要因が関わるが故に、 これと同様に、単純には言えないことが多い。しかし、教育に外部から意見をおっしゃる方の中には、この入り組んだ状況を十分に考慮していないような方も見 受けられる。逆説的に言えば、状況を単純化して考えているからこそ、いろいろと簡単に言い切れるとも言える。
 もちろん、状況が複雑であろうと、日々の教育活動が動いている以上、何らかの意思決定をし、行動していかなければいけない。ただそのときに、入り組んだ 状況を踏まえた上で、「しかしとりあえず手を打たねばならないので」と考えるのと、そうした状況をろくに知らずに脳天気な意見を声高に述べるのとでは雲泥 の差がある。そして、特に後者のものがうまくいくはずはないのである。


2014年5月18日
 「一を聞いて十を知る」のは顔回ほどの優秀な人間の話であろうが、これを複素平面で考えたらどうであろう。例えば、「1を聞いて1+2iを知る」のであ る。ここで、iの成分を表す虚軸は実軸とは全く異なる発想をイメージしている。聞いたことを契機としながらも、それとは全く異なるアイデアを組み合わせ て、新しい発想を生み出すことになろうか。
 では、「1を聞いて2を知る」のと、「1を聞いて1+2iを知る」のはどちらが優秀なのか?前者は前からの考えを2倍先まで推し進めたものであり、大変 な進展である。後者は実軸だけで考えれば1だけであり、あまり進展はない。しかし平面で考えれば√5の進展であり、むしろ2の進展より大きくなる。つま り、1+2iは旧来の基準で見れば何の進展もないが、平面というより広い世界で見れば、より大きな進展となる。新たな発想は旧来の基準では高くは評価され ず、その評価には新たな視点が必要なのであろう。


2014年3月18日
  われわれ一般国民 の道徳は、確かに公序良俗を保つためには必要なのであろう。しかし、偉い人達の道徳は、国家や社会の維持そのもののために必要である。もしも一般国民にそ れなりの道徳心を求めるのであれば、しかるべき立場の人達は自らにさらに高いレベルの道徳心を課してほしい。それをするかどうかで、本気で道徳を考えてい るかがわかるような気がする。
2014年2月21日
  教育に関わり「責任の所在を明確にする」ということが話題になっている。確かに責任の所在は大事なことではあろう。しかし、それ が保証されるかは、単に表面的な組織構造の問題だけでは済まない。何か起こったときにトップが「私は適切な指示は出していた」とか「そうした情報は私のと ころまで上がってきてなかった」と言い訳を始めれば、結局責任はうやむやになるからである。さらに、トラブルについて現実的かつ具体的な手立てが打ち出せ なければ、責任を果たしたことにもならない。単に辞めるだけでは、残された人間が責任を背負わされるだけである。

  何かが起こったときにトップが何も言い訳をせず責任を引き受けること、その上で解決に向けて効果的な処置がとれることが大 切だとすれば、責任は肩書きにあるのではなく、トップに立つ人間の品性と資質の中にこそあるのではないだろうか。


2014年2月7日
  報道を見ていると、どうしても身内や同業者には甘くなる。TV番組の問題については関係者は「仕方なかった」となり、内部の経営 委員のトラブルにはフタをする。芸能人のトラブルに対する芸能人のコメントは往々にして優しい。でも、それが普通なのではないだろうか。他人には厳しくな り、正論を振りかざしたとしても、身内にはつい同情的になる。他人への要求は限りなく高くなるのに、自分たちのしたことには「まあこれくらいは」となる。

  なれあいがいいわけではないし、そうしたことをわかっていても立場上言わなければならないこともあろう。そのときに、 「じゃあ自分はどうか」と自ら問えるかが、人の器というものなのかもしれない。器、大きくなれるといいなあ・・・


2014年1月20日
  表があれば裏はある。
2013年12月30日
  まだ若かったときに年上の人に愚痴ると、「辛抱しろ、見ている人は見ているから」というよく言われた。確かに層なのかもしれな い。ただ、もう若くもなくなって振り返ってみて確実に言えるのは、「見ている人は見ているかもしれないが、きちんと見ることができるほど有能な人はそれほ ど多くない」と言うことである。年をとっているからといっても、見る目を持った人はあまりいないのが実情であろう。そうした多くの人が裁量権だけを持って いれば、何が起こるかはご覧の通りである。
2013年11月26日
  いろいろな「改革」なるものを見ていて面白いなあと思うのは、新しい皮袋に古いワインを注ぐようなことばかりしていることであ る。それで新しいワインができるとは思えないのだが。


2013年11月6日
  テレビの解説員やら新聞の記事を見ていると、何か問題が起きるとすぐに「教育で」、それも「学校で」という解決策が提案される。 昨晩のNHKの解説員は、飲酒運転取り締まりまで「学校で」と言っていた。1ヶ月ほど前の解説員はSNSの問題について、企業の責任は一切触れず、家庭と 「学校で」だけを主張していた。もちろんやらないよりはやった方がマシかもしれないが、何でもかんでも「学校で」と提案するのは安易ではないか。

  いろいろな問題について、「学校で」と安易な提案をしてきたことで、根本的な問題や発生のメカニズムに目を向けることに至 らず、 結果として、的確な改善がされてこなかったようにも感じる。また学校に多くを求めることで、虻蜂取らずになりかかっているようにも感じる。安易な提案のツ ケは、いずれ自分たちに戻ってくるであろう。


2013年10月21日
  学校にあれもやれ、これもやれといろいろと求めておきながら、最後は学力だけで評価しようというのは、少々ひどいのではないか。 もしもいろいろ求めるのであれば、その総合的な結果で評価すべきであろうし、学力を最重要視するのであれば、先生方が授業に集中できる環境を整えてあげる べきである。求めるものと評価の視点とがずれていては、正直ものがバカを見るだけである。本当の意味で「合理的」な発想をしてもらいたい。
2013年9月10日
  全国学力・学習状況調査の結果がでると、各県の順位が問題になる。子どもたちの将来につながる力をつけることができているのか、 を考えることは重要なことであろう。そして、それがうまくいっていないと判断されたときに、どのような手を打つかについては、効果があがるような手を考え ることが必要であろう。できるだけ効果がある手を真剣に考えるならば、うまくいっていない要因・原因を特定し、そこに合わせた手を打つと考えるのが普通で はないか。見せしめ的な措置を思いつきでとっても、実質的な効果が期待される可能性は低いであろう。

  少し調べただけでも、新潟大の北條先生や一橋大の小塩先生による経済学からのアプローチなどもあるようで、そこでは家庭の 影響が 大きく、学校に過度の期待をすべきではないと結論されている。こうした結果があるにもかかわらず、学校だけに責任を負わせるような方策を採るならば、その 根拠を明確にすべきであろう。見立ての下手な医者のようなまねをしていたら、直るものも直らない。意思決定をする立場にある人は、元々優秀だからそのポジ ションにいるのであろうから、ピンチのときほどその優秀さを発揮し、最も効果のある方途を考え実施してもらいたいものである。


2013年6月20日
  授業の評価という話で「ユーザー」という視点が使われる。確かに授業を受け る人から見て、興味ある内容であるとか、わかりやすい提示であるといったことは重要である。しかし学校の「ユーザー」とは誰のことなのか?少なくとも子ど もたちばかりではないだろう。子どもたちの親はもちろん含まれるであろうし、学校に将来を担う人材の育成を託す社会全体も「ユーザー」と言えるのではない か。

  そう考えたときに、その「ユーザー」全体の満足度はどう測るのか?そもそもその「ユーザー」にある程度同じ方向のニーズが あるの か?通常のビジネスであれば、あるターゲットとなる顧客層をしぼった上で、そのニーズに合わせて満足度をあげることが考えられるであろうが、学校でもそれ をしていいのか?「ユーザー」という考え方が持ち出されるわりには、そうした点の吟味はおざなりになっているように見える。


2013年6月13日
  「私の不徳のいたすところで・・・」と言いながら、居座る人も多いようだ が、上の方にそんなに不徳の人がたくさんいる中で、一般人にだけ「徳」を求められてもなあ、という気がする。道徳の教科化を進める前に、偉い人達の「徳」 の涵養をされてはいかが?
2013年5月28日
  歴史に関わる諸外国との応酬の中で、「事実」を明確にし、「事実」に基づくべきとの意見が出されることがある。まったくもって もっともなことである。ただし、歴史に関わって、「事実」を確定することはそれほど容易なことではないような気もする。同じ場に居合わせても、見る人に よって別の見方になるであろうし、また時間が経つほど当事者の解釈が入る。記録される歴史が勝者による歴史であるとはしばしば言われることである。

  「事実」をもとに彼我の論争を収束させようと主張する人は、芥川の「藪の中」のような状況は想定しないのであろうか?(そ ういえば、活断層に関わる「事実」の確定も難しそう・・・)


2013年5月2日
  いわゆる「ニュース番組」を見ていても、結構、芸能ネタが多い。スポーツ関連のニュースも多く、スポーツコーナー以外でもしばし ば扱われる。もちろん、視聴者のニーズもあるのだろうが、なんとなく「内向き」な気がする。若者が内向きだと言われるが、案外、そうした傾向はテレビが 作っているのではないか。あるいはもっと広く、社会一般が作っているのかもしれない。足元を見るように仕向けられておいて、突然「足元ばかり見るな」と言 われたのでは、若者も大変である。
2013年1月15日
  さらに発展・改善しないといけないからアクセルを踏む。これは一理ある。しかし、そ のときにハンドルが間違った方向に向いていれば、アクセルを踏むことでさらに状況は悪化する。少なくとも改善はしない。アクセルを踏もうという話は多い が、ハンドルの向きを確認しようという話は少ないように思う。また「変だな」と思ったときに、今のハンドルの向きがおかしいのではとチェックをすることも 少ない。これでは正しい方向に進むはずがない。
2012年12月5日
  ある雑誌の広告で、エコノミストの人が数学の授業をしたという記事が載るというのを 見て、図書館でその記事を読んでみた。確かに高校生にとっては興味ある授業であっただろうし、こうした授業が増えることには大賛成である。また実際に日々 数学を使って世の中を動かしているプロから直接話を聞くことは、高校生には大きな刺激になったに違いない。

  ただそれが非常に斬新かと言えば、必ずしもそうではない。そこに出ていた実践は、数学教育の世界ではすでにきいたことのあ るもの ばかりで、そのうちの1つは、10年ほど前に本学の大学院生が高校で実践したことがある。また、教科書であっても世の中と数学の接点を感じさせるような題 材は、結構豊富に掲載されている。つまり、この実践を取りあげ、今の数学教育に一石を投じたつもりなのであれば、もう少し慎重に考えてみる必要がある。   数学教育の改善という点から言えば、問題はこうした授業が行われてこなかったことではなく、こうした授業が広まらなかったことで ある。周知という点から言えば、少なくとも2つの問題があろう。1つはこうした記事は1時間だけの飛び込み授業を取りあげることが多いことである。しかし 学校の授業は1年間を通して行われ、しかもそれが何年も続く。またその1年間は基本的に同じ先生が教える。1時間だけ目新しい先生が来たときと話は一緒に ならない。もう1つは、授業や改善の工夫への現状把握の甘さである。教科書を少し調べただけでも、学校の数学の必ずしも世の中と全く隔絶したように扱われ ていないことはわかるはずである。またインターネットを少し調べれば、同様の実践があることにも気づくであろう。そうした吟味もせずにさも「斬新」である かのように伝えているとすれば、現状をさらによくするための視点が見えにくくなる。学校を必要以上におとしめた議論をするのではなく、現状を的確に把握し た上で、さらに改善するための方途を考えるような伝え方をしてもらいたい。


2012年11月24日
  テレビである人が自分の改善案を正当化するのに「これは歴史的に証明され ているんです」と強調していた。確かに我々は歴史から学ぶ必要はあるだろう。ただ特定の改善案が同様に有効か判断するには、その当時と重要な諸要因が同じ である、あるいは状況のもつ基本的な構造やメカニズムが同じであることを確認しないと、適切な判断は下せないと思われる。これをせずに後で「想定外」と言 い訳をするのであれば、それは想定外なのではなく、単に想定が甘いのである。

  そう思って考えてみると、テレビでの勢いのいい発言には、多くの前提が隠されており、しかもその前提が必ずしも自明なもの ではな いように思える。したがって、その前提が妥当なのかを吟味した上でないと、その発言の妥当性も判断できないのだが、そうした丁寧な議論がテレビでなされた のを見たことがない。こんな発言の積み重ねでは、あまり有効な結論に至らないのではと少し背筋が寒くなる。

  前提の吟味はなされないものの、「もしも」への対応に慎重になる様子であればテレビでも見かけることがある。それは自分の 責任に 関わる部分である。「もしもそれができなかったときはどうするのか?」との質問には、それまでは多くの前提を振り回して勢いよく発言していた人も、「そん な『もしも』の話には答えられない」と即答を避ける。このときだけは、「もしも」の帰結を考えることに慎重になる。他の場面でも、さりげなく忍び込んでい る「もしも」とその帰結に、同じように慎重になってもらえるとありがたいのですが。


2012年9月13日
  問題のある側面について、それらしい意見を述べることはそれほど難しく ない。しかし、問題の全貌について一貫した見識を持つことは、それほど容易なことではない。矛盾した考えや両立しない考えを持った人が多くなり、実際には 動かなくなったり、無理に動かして歪みが出るのであろう。

  全体を通じて一貫した見識を持てれば一番よいのだが、さらに問題なのは、全貌を捉えられる人が少ないことかもしれない。


2012年8月31日
  いくら現場ががんばっても、意思決定レベルで間違っていれば上手くいくはずがない。誤った方向にハンドルを切った状態でアクセル を踏み込むようなものである。意思決定をしている人が、もっと真剣にやれば変わるんじゃないだろうか。なんかあったら辞めれば済むと思っているようじゃ、 真剣にもやらないか。その人が辞めても現場の苦労は残ると言うのに・・・
2012年5月30日
  疑問を持ってもらえるように工夫することは、授業をする上で重要なポイントである。これに関して、「探偵ナイトスクープ」という 番組は、貴重な情報を提供してくれているように思う。

  この番組は様々な謎や疑問を追求することをうたっている。謎や疑問の中にはある意味、ばかばかしいものも多いが、言われて みると「そういえばどうなんだろう?」とつい思ってしまい、またそれをまじめに追求するので、見ていてとても面白い。

  ところが、数年前から、この番組で謎や疑問が出てこないパターンが増えている。そして、こうした回のときは、自分にとって はとて もつまらない(タイトルを見て、それらしいときは最初から見ないことも増えてしまった)。しかしよく考えるとこれはすごいことなのかもしれない。最初に述 べた、疑問を持ってもらうことの大事さを、番組全体で証明しているのかもしれないからだ。となると、番組の全てをかけて「疑問は面白さにとって本当に大切 か?」を検証するという、壮大な追求なのかもしれない。


2012年4月7日
  どうも、他人のやることに対しては、自分のやることの何倍もの厳しい評価をしてしまう傾向があるのではないだろうか。

   自分のすることであれば絶対にミスがないとはなかなか言い切れないのに、他人のやることには絶対を求めてしまっているように見える。愛国心を 育てるということにはいろいろな立場がありうるであろうが、その人が若い人に求めているようなことを、その人自身はやって見せてくれているであろうか。テ レビでいろいろなごたごたを見ると、あまりお手本になっていないのではないかと思われる。

  もっともこのあたりの自己評価も、冒頭の話の故にやはり難しい。つまり、他人がやったら許し難いことも、自分がやっている 分には 「これくらいいいじゃない」として認めてしまうからである。ある立場を他人に本気で求めているのかどうかは、他人から見てもその立場に適った振る舞いをし ていると見てもらえるほどに、自分にも厳しく向き合っているかでわかるのだと思う。だからこそなかなかできることではないし、まして、人に問われて「それ をきくのは野暮だよ」とやってしまったら、本気には見えないだろうな。


2011年9月12日
  大臣の“失言”による辞任があった。“失言”は大きく2つあったようである が、そのうちの1つはカメラの前でのインタビュー時のものであり、ご本人がどう発言したかがきちんと記録として残っている。もちろん、この発言をどう評価 するかは意見も分かれているようであるが、ともかく本人がどのように発言したかの事実は明らかになっている。しかし、もう一方の発言についてはその記録も なく、またそのような発言や行動を受けたとする記者の存在すら明らかにされていない。要するに、大臣の辞任につながるような発言なのに、実際にどのような 発言であったのか、またそれを証言する人は誰なのかが、全く明らかにされていない。

  一連の出来事の中で最も恐ろしかったのは、こうした状況であるにも関わらず、テレビでも新聞でもその事実を明確にする必要 性に触 れたものが見られなかったことである。一部のコメンテーターが、報道のあり方を問うような発言をしていたが、そうすると司会はそのことには触れないように して、別のコメンテーターに振ったり、次のコーナーに行ったりする。この国のマスコミは、事実を明らかにしなければならないという感性すら失っているので あろうか?


2011年9月4日
  いつもはテレビで厳しい意見を述べたり、人の責任を追及しているコメンテーターやタレントが、自分の会社のことや親しい人のこと になると、とたんにトーンダウンするということが結構多い。報道も早朝や深夜遅い時間だけにやるとか、一言だけ謝って、あとはにこにこ顔に戻るとか、いつ もの切れ味はどこへやら。いつもなら自分が言っている「きちんと対応しろ」「徹底的に検証しろ」とはほど遠い対応で、情報も余り出てこない。見ていて「な 〜んだ」と思うと同時に、「結局、誰だって同じなんだ、普通はそうなんだ」とも思ってしまう。
  逆に、テレビ業界以外の人が報道されたときだって、その家族や友人は「彼は本当はすごくいい人なんです、がんばって来たんです、 わかってあげて下さい」「こんなことになり本当に信じられないし、残念」と言いたかったこともあるのではないだろうか。でも、業界以外の人にはそうした機 会は与えられない。そう考えると、テレビでコメントしている人は、両手を縛った人にパンチを繰り出しているようなものとも言える。そういう一方的な攻撃を しているという点だけは自覚をしてしゃべってもらいたいなあ。
2011年8月27日
  春先にメガネの汚れが気になったことがあり、そのときに、春になってホコリがひどいなあと思ってしまった。しかしメガネを外して よく見ると、外側より内側の方が汚れがひどい。自分の汗や老廃物による汚れの方が外の汚れよりも余程ひどかったのであろう。
  周りが原因と思っていたら、自分に原因があった。こんなことって、普段から結構あるんだろうな。
2011年8月25日
  投げといて 後で口出す あさましさ
2011年2月14日
  少し古めの非力なコンピュータにとって、最大の迷惑プログラムは自動アップデートである。
2010年12月15日
  ヴァイオリニストの樫本大進さんがベルリン・フィルハーモニーのコンサートマスター就任というニュースが数日前に流れた。その際 に夜10時からの番組のキャスターが、この就任を民の努力の成果とするような発言をしていた。しかし樫本さんの経歴は民の努力と表現することが相応しいも のなのだろうか?少なくともネットで見る限りでは、ほとんどの時期を外国で過ごされ、ドイツや米国の学校で学ばれているようであり、日本の民の努力という 感じは持ちにくい。そうした発言を全国ネットでするのであれば、きちんとした情報を調べた上で経歴との関係を明確にした上で発言をしてもらいたい。
2010年11月27日
  なにごとも、やったことを批判するよりも実際にやることの方が難しい。仕事がら授業を見せて頂きコメントする機会も多いが、その あたりをわきまえないと、自分のコメントの仕方が必要以上に厳しいものになるだろう。世の中のことは不確定な部分も多く、後からいろいろと言うのは簡単だ が、それを見越して計画をしたり、実際の遂行中に的確な意思決定をするのはそれほど簡単ではないはずである。

  しかし世の中は、批判や批評する者が必要以上に威張っているようにも見える。予算の使い方の効果を示すことは大事ではある が容易 ではない。人の示し方を批判した者は、どうやったら示せるのかの代案を自分が効果示すときに実演して見せるべきである。不祥事が起きたときに対応が生ぬる いと批判するのも同様である。そう批判したマスコミは自分の不祥事のときに見本を示すべきである。人のモラルの低下を嘆く者は自分がモラルの手本を見せれ ばよい。

  自分で示せないのに(示す気もないのに)他者を批判する者は、結局は相手の批判により相対的に自分を高く見せようとするに すぎず、一種のいじめと同じ構図である。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ福音書8:7)


2010年9月27日
  戦略なき戦術は方向性を誤り、時には無駄が増えるだけであろう。戦術なき戦略は絵に描いた餅であり、実効性に乏しい。どちらもす ぐに行き詰まり、現場は大混乱。困らないのは無責任な指揮官だけである。
2010年9月4日
  2010年7月23日付けで書いたことにも関わるが、教育については多くの人がある意味で当事者である。学校に通う子どもたちと その親御さん、先生方はもちろん、それ以外の人も、以前は学校に通っていたので、学校についてはある意味で詳しい。また学校以外でも職場や趣味の集まりな どで教えたり教えられたりという経験を含めれば、教育に関わる経験を有する人はかなり多くなる。だから、そうした人びとの経験は教育についての一面をたぶ ん捉えているであろう。と同時に、たぶん学校教育の多くの部分を捉えていないであろう。学校教育という営みの複雑を考えれば、教育学者だってその多くを捉 えていないであろう。それらの人びとの意見や考えが一面を捉えているとともに全部は捉え切れていないが故に、そうした考えや意見でうまくいく部分もあろう が、うまくいかない部分もかなり出てくることが予想される。手に持ったボールを放したらほぼ確実に下に落ちるのと同じようにある試みが確実にうまくいく、 ということはあまり考えにくいように思う。

  となると、1つはそうした意見を互いにつきあわせ、いろいろな可能性を探ることが大切であろうが、もう1つには、ある試み を行っ た際に、少ししてから明らかになったうまくいかない部分についてきちんと把握し、それを踏まえてその試みの改善を行い、調整をしていくことではないだろう か。仮に、大きな方向性を打ち出した人が、その後は知らん顔を決め、別の分野にうつってしまうようなことがあれば、こうした流れはできず、試みはうまくい かないのではないか。つまり、意思決定に関わるメンバーは、その意思決定に伴って生ずる問題点について現場と一緒に考え、その解決策を模索すべきであろ う。逆にそれをする気がないのなら、そうした意思決定に加わるべきではない。その気がない人が意思決定を続ける限り、少なくとも教育はよくならないと考え る。

  現場に対してはいわゆるPDCAサイクルなどの実施が求められることが多い。もしこのサイクルが改善を実現するよいやり方 であると信じるのであれば、それを求める意思決定レベルの人たちも、意思決定に関わりPDCAサイクルを実行すべきである。


2010年8月12日
  あるえらーい工学者が一般向けに書いた数学の本を見ていたら、「数学では、論理的に考えれば答えが見つかったり、新しいものが創 造できるようなことをよく言う。その『論理的思考』なるものを、まるでご託宣のごとく信じている人がとても多いが、そういう人は、いますぐにその考えを改 めた方がいい」と書いてあった。その考えを改めた方がいいという部分は賛成であるが、一方で、前半のようなこと言っている数学の専門家に会ったこともない し、そんな本を読んだことがない。きっとこの人も自分の専門の本であれば、そういう主張をする本を引用したりして書くのであろうが、専門外の本ということ で結構いい加減に書いているんじゃないだろうか。

  専門外の人が数学について書いたものは、ある意味で柔軟な発想で書かれていて参考になることも多い。しかし一方で、その人 の思い こみが強い部分もあり、またその延長で話がでかくなる部分もある。思いこみが強い分だけ小気味いいこともあり、読者にはとても魅力的かもしれない。でもそ れを鵜呑みにするのはやはり危ないような気もする。その意味では、酔っぱらいの話に似ているのかな。酔ってるからこそ本音に近く、酔ってるからこそ小気味 よく、酔ってるからこそ少し大言壮語で、でも酔ってるから鵜呑みは危険。「しらふの方がまとも、という考えを改めた方がいい」と言われてしまうか?


2010年8月11日
  昨日出張した帰路、大宮駅での乗り継ぎが悪かったので、そこで夕食を食べる ことに。駅ビルをうろうろしたあげく、結局は改札近くのハンバーガーショップに入りました。サラダとアイスティーを先に受け取り、残りのバーガーとポテト を受け取りカウンターで取ろうとしたそのとき、手元不如意でアイスティーをひっくり返してしまいました。トレーの中はアイスティーと氷でぐしょぐしょ。ど うしようと思っていると、若い女性の店員さんが、「服は大丈夫ですか、[こぼしたものは]そのままで結構ですから」と言ってくれ、本当にありがたかった。

  さらに、そのまま残り少なくなったアイスティーのグラスの載ったぐしょぐしょのトレーにバーガーを入れてテーブルに行こう かと 思っていたら、アイスティーとサラダを載せた新しいトレイを出してくれて、さらにさらにありがたかった。お店でそういう教育をされているのかもしれない が、自分の年齢の半分くらいのお嬢さんのこうした場面での落ち着いた対応を見て、感心をするやら自分が情けないやら、そんな気持ちで戻ってきました。あの ときの店員さん本当にありがとうございました。


2010年7月23日
  無駄を省くことに反対の人は少ないかもしれないが、ある具体的なことが無駄 かどうかの判断は、人によって異なるであろう。だから、大切なのはその判断について互いの考えをすりあわせながら合意を形成する過程なのではないか。世の 中のことは普通、いろいろな意見があろうから、やはり合意形成をどう図るのかがポイントのように思う。いろいろな人が自分の意見のみが正しいとしてそれを 押し通そうとするばかりでは、現場は困るだけである。何かを主張する人は、それに対する反対意見に応える義務があろうし、反対意見に耳を傾けつつどうした らよいかを一緒に考える義務もあろう。

  7月18日の朝日新聞の教育欄で、ある記者と思われる人が、学校での遅刻や服装の指導が必要なのかの疑問を呈していた。そ こまで はわかる。しかし社会や保護者からの学校へのプレッシャーもそうした指導をせざるを得ない一因であるという専門家の意見を紹介しながら、結局は「それでも 私は問い続ける」と最初に戻ってしまうのはどうであろうか。そうした意見があるなら、それも踏まえつつ現実の理解を深め、自分の問いを深めることが必要な のではないか。またあえてそれを無視するならその理由を述べるべきではないか。少なくともジャーナリストであるならば。これじゃブログと変わらんだ ろ・・・


2010年4月4日
  中国の人の書いた論文を見ていたら論語の次の箇所が引用してあった。「子日わ く、憤せずんば啓せず、非せずんば発せず。一隅を挙げて三隅を以て反らざれば、則ち復たせざるなり。」昔の人は、学ぶということについて厳しい見方をして いたのだと感じる。今はどうであろうか?
2010年1月24日
  2ヶ月半ほど前に町内会のゴミ捨て場への不法投棄の車を見かけた件を書いたが、今日 のお昼過ぎに今度は、大学の学生宿舎のゴミ捨て場にペットボトルを不法投棄にきた車を見かけた。運転者は白髪がらみの50台と思われる男性。職場ではそれ なりのポジションにあるのだろうに。日曜のお昼を選んだのは人目を避けるという浅知恵なのか。モラル云々という以前に、そのせこさに同じ中年として情けな くなる。こんな人でも「今の若い者は・・・」とか言うんだろうな。まあ自分も知らず知らずのうちにせこいことをしてるのかもしれんが。
2009年11月18日
  ある教育学の論文を読んでいたら次のような一節があった:「どのように行為するか の選択は、そのリスクを冒し、その条件をよく知っている人によってなされるべきである」。全てにおいてそうだな、という気がする。リスクを背負わず、条件 もよく知らない人が意思決定をしている場合が多いのではないだろうか。
2009年10月8日(台風接近中)
  朝の通勤の際に、うちの町内会のゴミ捨て場まで来たら、赤い軽自動車 が1台ゴミ捨て場に停まっていた。町内会で見たことのない車なので何だろうと思って見ていたら、いきなりバックして走り去ってしまった。ゴミ捨て場を見る と、市の指定袋に入っていないゴミが1〜2個。これが回収されないとうちの町内会が困ることに、その人は思いが至らなかったのだろうか。

  モラルの問題ということがよく言われ、それは「心」の問題と考えられているのかもしれない(自分も上で「思いが至らない」 と書い てしまっている)。確かに「心」の問題なのであろうが、個人的には知性に関わる問題でもあると考える。上のことであれば、1つにはゴミ捨て場には町内会外 からの持ち込みを禁ずる札が貼ってあるものの、それに従って動けないということである。計算の規則に従って計算ができないのと同じことである。第2に、自 分がそうすることで次に何が起こるかを想像できないのであり、イマジネーション力の不足である。自分に近い人(特に自分自身)のことには過剰に反応して も、自分からの距離の遠い人(知らない町内会の人)のことはイメージできないのかもしれない。遠くが見通せないと いう意味で知性の問題のように思う。算数・数学が苦手ということもより、こうした知性の方がもっと問題ではないだろうか。


2009年7月15日
偉ぶるも 画竜点睛 欠くまずさ まさに仏の 魂入れず

魂と 言われて なんか分からんね 見ざる聞かざる 感性のにぶさ

見ざれども オレがオレがで 口は出し


2009年7月13日
  算数・数学教育で問題解決などをやっていると、「世の中の問題は算数・数学のように答えが1つになんか決まらないことも多いで しょう」とご批判を受ける。これは全くもってその通りであろう。確かにとりあえず今の時点での選択をしなければならない場合も多く、そのときには当面の答 えを1つ決める必要が出てくる。しかし当面の答えを出したことと、それでその問題が片づいたのとは話が別である。「答えが1つになんか決まらない」のが世 の常であるならば、その問題の複雑さを複雑なままに引き受けることが必要である。

  しかし時として、問題を単純化してそれで終わりにしてしまったり、あるいは単純な答えを示す議論に飛びついたりするような 風潮も 見られるように思う。「これに決まってるじゃないか」と言い切る人が有能に見えるのかもしれない。それでも、複雑な問題を複雑なままに引き受けることが必 要なのではないか。それは、その問題を考え続けること、議論し続ける覚悟を持つことでもある。


2009年7月1日
義も理もなく 欲が先立つ さもしさよ
2009年某月某日
嘘ついて 途中で投げても 美(うま)し国

人を責め 自分は棚上げ 美し国

実質より アリバイ作りだ 美し国


2008年9月17日
  「私の責任で」として決断をするのは、トップとして素晴らしい態度だと思う。同時に、そうやって決断をした場合、最後まで「責 任」をとってもらいたいと思う。

  そのように言いながら何か起こると「それは私が考えていたのと違う」とか「そのことが直接の原因とは言えない」「現場が私 の意図 を理解していなかった」「現場の努力が足りなかったのが原因」などの発言をする人がたまにいる。これは無責任である。現象が複雑なシステムで起こるとすれ ば、起こることや途中の因果関係を全て事前に予想することは難しいであろうから、その複雑さを視野に入れずに「私の責任で」と言ったとすれば、そのこと自 体がまず無責任である。また多くの人の手を介するものだとすれば、誤解があったり十分な協力が得られない部分があることは逆に予想されることであろうか ら、そのための手を含めて考えなければ無責任であろうし、また実現の途中でそうした部分をモニターし常に手を打っていかなければこれまた無責任である。

  「私の責任で」が最後の決断のための言葉ではなく、これから未来に続く出来事への出発点として用いられてもらいたい。


2008年6月9日
  先日テレビを見ていたら、テレビ局職員の不祥事のニュースが流れていた。これはきっとキャスターが日頃から提唱している「きちん と」「ちゃんと」「早急に」について具体的にコメントがなされるのかと期待をしていたら、何のコメントもなし。な〜んだ!
2008年5月17日
  ある新聞に中村万里雄さんという高校生の記事が載っていた。彼は日本人のお父様とイ ギリス人のお母様を持ち、小学校までは日本で、中学校からは英国で教育を受けられている。その記事では日本と英国の授業の違いが書かれていたが、その中で 興味深かったのは、英国では小論文を書く機会が多く、しかも賛否両論のある文章を書くこと(writing controversially)もあるという点である。彼はこうした学習が、一つの正解を書くことよりも多くの思考を要求するとし、また、誤っているか もしれない答えを探求することは、それがなぜ間違いなのか、一般的に受け入れられている考えがなぜ正しいのかについての理解を深めるとしている。

  日本でもディベイートを取り入れた授業をされている先生は、賛否両論を考える機会を子どもたちに与えられている。しかし、 日本の 社会全般をみると、賛否両論を考え、その両者のメリット、デメリットをきちんと分析し、その上でしかるべき判断を下す、あるいは自分と異なる意見の人を説 得するということが、案外行われていないのではないかとも思う。自分の意見を一方的に述べ、それ以外の意見は最初から“変な考え”とばかりに顧みないとい うことはないだろうか。テレビで議論をされる方々には特に、子どもたちや一般国民のお手本になるような議論の仕方、説得の仕方を示してもらいたいものであ る。


2007年12月9日
  PISA2006の結果発表を受けて、12月6日付け朝日新聞朝刊に「フィ ンランドの子、なぜ賢い」という記事が載った。その最後に次のような段落がある:「フィンランドの有力紙ヘルシンギン・サノマットは5日付1面でPISA の結果を報じた。『調査はアングロサクソン中心主義だ』『競争意識を鼓舞させてしまうのでは』という批判的な談話が、調査結果と同じくらいの面積を占めて いた。」表面的な結果だけに飛びつくのではなく、その背後にある問題点や可能性にも冷静に目を向けているように 見える。ひょっとすると、まさにこの点がフィンランドの強みなのかもしれない。子どもだけでなく大人のリテラシーが問われているのではないだろうか。
2007年9月3日
  最近テレビを見ていると、アナウンサーが常に絶叫気味なのが気になる。朝の番組で大し て重要でもないニュースの時も、アナウンサーは興奮気味である。つまらないギャグで朝から飲み会のノリのアナウンサーも多い。絶叫しなくていいから、ギャ グも挟まなくていいから、もう少し上手にわかりやすくニュースを読んでくれ、とつい思ってしまう。

  朝刊を開くと週刊誌の広告が大きく載っている。個人的には結構喜んで見ているが、ただ年頃のお子さんを持つ親が自信をもっ て朝刊 を読ませることができるのか首を傾げたくなる見出しも多い。まあ、その広告収入のおかげで、ネットの新聞を無料で読むことができるのかもしれないのが。

  マスコミに限らず、様々な業界が人々の欲望をあおる。それはそれで大切なことだが、その欲望から生まれたトラブルになる と、その 責任や後始末だけを学校に押し付けるのは卑怯であろう。また何かあったときに、教師や子どもが加害者でもない事件のときも、手っ取り早く学校だけに会見を 求めるのは、一人だけをすぐにつるし上げるいじめの構図に見えてしまう。しかも記者の質問は匿名的であり、ネット掲示板の炎上状態の発言を見るような無責 任さである。

  先日、バレーボールの国際試合の際に、会場のDJのような人が「ニッポン」のかけ声をリードし、日本が得点すると会場のイ ルミ ネーションが点灯していたが、自分の仲間とそうでない者を二分化するようで、根っこの部分で上のことにつながっているように見える。マスコミはもともと物 事の本質を追究しようという姿勢の強い方々だと思うので、盛り上げ方の適切さ、またそこから派生する事柄にも併せて目を配ってほしいと思う。


2007年8月3日
  規則に従っているので問題ないという主張の仕方がある。確かにきまりを守るこ とは大事だし、それを守っている以上人にとやかく言われる筋合いはないというのも一つの立場であろう。しかしその論理行けば、(特に条例が定められていな い場合には)電車の中で化粧をすることも年配の方に敬語を使わないことも、規則を破っていない以上とやかく言われる筋合いはないことになる。「規則に従っ ているので」という論理を過剰に振り回すなら、いわゆるモラルのようなものを求めるべきではないのかもしれない。

  しかし他方で、「規則になくてもそれくらいしてくれていいじゃない」という要求も度が過ぎると「ちょっとなあ・・・」とい う感じに思える(自分がそういう要求をしているときは感じないんだろうけど)。


2007年7月29日
  被災地に支援を申し出たあるNPOが行政サイドから許可が出ず活動できないでいるという記事が昨日のネットの新聞に出ていた。 せっかくの専門的な組織の力が生かせないことはもったいないことであろう。しかし記事によるとNPOは震災2日目にメールを出して申し出を行ったように書 いてあった。もしそうだとしたときに、震災2日目に行政サイドはメールを読める状況にあったのだろうか、あるいはそれ以降どれくらいのメールがそのアドレ スに送られてきたのだろうか、メールをチェックする人手の余裕があっただろうか。仮に直後は停電やサーバの不調などでメールも読めず、しばらくしてコン ピュータを立ち上げたら何千通ものメールが届いていたとしたら、ある組織への返事が忘れられたとしても担当者を責めるのも酷な気がする。少なくとも報道に はそうした出来事の背景とか文脈も併せて調査をしてもらいたい。そうした状況下にある人に「日常的な」感覚での対応を求めるべきではないのではないか。

2007年6月25日
  43×47を計算するには、十の位同士をかけて、それに4を足した20と、一の位同士を足した21を並べて2021とすればよ い。58×52なら同じようにして3016。今はやりのインド式計算のようだが、私が今見ているのは、20年以上の前に出版された手島勝朗先生(当時・筑 波大学附属小学校、現・聖徳大学教授)の「算数科・問題解決の授業」という本である。手島先生がこの計算を小学校4年生の授業で取り上げた際には、十の位 同士をかけてからどうしてもう一度足すのか、一の位の和が10ではなく11になったらどうするか、といったことも子どもたちの間で話し合われている。

  インド式計算が話題になると、「だからインドは発展しているのだ」「日本の算数は教え込みで創造力を育てていない」などと 言う方 もあるかもしれないが、上のようなよい実践は心ある教師により、折に触れ日本でも実践されてきたものである。そうした努力が意外と評価されてこなかっただ けである。地道な努力に目を向けず、何か流行ると雲霞のごとく群がり、そしてしばらく経つと忘れ去ってしまう、そんな底の浅い知的好奇心こそが、本当は問 題なのではないだろうか。便利な計算法を覚えて満足している大人は、手島先生のクラスの子たちの原因を突き止めたり、1つのことを発展させようとする態度 にもっと学んだ方がよいであろう。


2007年4月28日
  「民の手法を取り入れる」ということが官の改善の合い言葉のようになっている。しかし民の手法を取り入れれば官のかなりの程度で 民の性格を持つであろう。一泊5,000円のビジネスホテルと一泊20万円のスイートが一緒にならないように、よいサービスにはコストがかかるということ なども含め、民的性格を官が帯びることを覚悟しなければならない。学校が全てのニーズに対応するためにも、やはりかなりのコストが必要となるだろう。また 利益が上がらなければ撤退といった性格も帯びるだろう。
  さらに毎日のニュースを見ていると、新たな商品の開発あるいは経営の合理化で企業が努力している様子が見えると同時に、企業の不 祥事などもかなりあり、民の手法が無条件でよいものとは限らないようにも見えてくる。大切なのは、民の手法を取り入れるかどうかではなく、民の手法のどの ような部分が参考になるのか、民的性格を帯びてでも導入した方がよい部分はどこかということであろう。
2007年3月30日
  夜ニュースを見ていると、キャスターがニュースの最後に何かコメントを付けることが多い。その時によく言われることが「もっと ちゃんとしてもらいたいですね」「きちんとやっていれば問題なかったはずです」といったフレーズである。

   これは全くその通りなのだが、しかしそのときの状況で何が「ちゃんと」することであり、何が「きちんと」することなのかがそれほど明確だろう か?何か問題が起こった後であれば、「そうした問題が生じないようにすることがきちんとであり、ちゃんとである」とは言えるだろうが、問題が生じる前にそ れを明確に考えることはそれほど容易なことではないのではないか。さらにその状況の様々な制約を考えた上で実行可能性の高い「きちんと」や「ちゃんと」を 考えねばならないとすれば、なおさら難しい。

  コメントするならせめてそうした難しさがあることをイメージした上でしてもらいたいし、「それは現場にいる人が考えろ」と 言うな ら、余りにも無責任な態度である。BBC Worldのキャスターを見ていると、彼らは紛争地帯などにも自分から出向いているようだが、かといってニュースを読むときに余計なコメントはしてないよ うに見える。別に中途半端なコメントをしてもらう必要はないのだが、もしもどうしてもコメントしたいなら「ちゃんと」考えて「きちんと」コメントしてもら いたいものである。


2006年12月25日
  昔々あるところに、親方とその弟子がおりました。

  ある日親方が、もっと新しいことをしなければと言い、弟子に水の上を歩くように命じました。弟子がそんなことができるのか と尋ね ると、親方は「右足が沈む前に左足を前に出せば大丈夫だ」と言います。弟子もそうかと思い、近くの池で試してみることになりました。

  しかし湖で試してみると、やはり沈んでしまいます。すると親方は「足の動かし方が遅いのだ、もっと早く動かせ」と言いま す。弟子 はできるだけ早く足を動かしてみますが、それでも沈んでしまいます。それでも親方は足をもっと早く動かすのだの一点張りです。

  弟子は「水ぐもをはけば歩けるのに」と思いましたが、親方があまりにも真剣なので言い出せずにいました。そして、二人は池 の水際で歩いては沈みということを日の沈むまで繰り返しておりましたとさ。

  とってんぱらりのぷぅ


2006年11月27日
  教育に関わり「実態の把握」ということが多く言われる。ある種の評価もそれに近いかもしれない。「実態の把握」を口にする者は、 少なくとも芥川の「藪の中」の問題を自覚し、それについての対応を視野に入れるべきであろう。さらにその対応が"教育"という営みを阻害しないものである ことも保証すべきである。

  評価については、その結果をどう生かすのかについて明確なシステムを示す必要があるだろうし、評価が適切なのかを適宜検証 するシステムも必要であろう。せっかくの評価や実態の把握が、次に生きる形で行われることを祈りたい。


2006年10月15日
  今朝の新聞にある科学財団が科学者の講演などをおさめたDVDを高校に配布しているという記事が出ていた。その3回目から送料を 高校負担の申込み制にしたら1%の高校からしか申込みがなかったとのこと。財団の代表は高校の先生方の意識の低さを指摘していた。財団の関係者から見れば そのように考えるのが自然かもしれない。

  しかし第三者的に見ると、財団の発想も安易に見える。第一に、DVDを送りそれを授業で見せろというが、もしも本当に科学 の普及 に努めたいのなら、なぜ自分たちで週末にでも高校生を集めて試聴会をしないのか?一番大変な部分を学校に一方的におっかぶせてしまうのはどうであろう。第 二に、DVDの内容が高校の授業、あるいは高校生のニーズに合っているかを検討しただろうか。科学者を目指す一部の高校生には偉い科学者の話が刺激となる だろうが、どちらかと言えば理科は嫌いという高校生にはDVDの講演よりも、米村でんじろう先生のような目の前でのパフォーマンスが効果的かもしれない。

  授業をやって生徒がのらなかったときに「生徒の意識が低い」ですませることは簡単だが、それでは根本的な解決にはならない ような 気がする。同様に、自分たちの提案や施策が功を奏さなかったときに「相手の意識が低い」で片づけるとすれば、“教育”というものに対する感覚が甘いのでは ないだろうか。相手に妥協する必要もないだろうが、しかし相手に受け止めてもらえるような方策を考え、相手をサポートするという感覚が大切なように思われ る。


2006年10月9日
  公教育の質を上げるためにいろいろな形での競争の導入が提唱されている。そ の賛成派の意見にも反対派の意見にもそれぞれ一理があるように見え、単純な結論にはならないのかもしれない。そうした議論に際し、大前提になる部分につい ての(国民的な)合意が必要であるにも思う。

  基本的な合意事項としては、全国のどこにいても一定水準以上の教育が受けられることを保証するのかどうか、ということであ ろう。 あるいはさらにその一歩手前に遡り、社会における公教育の役割をどう捉えるかということもあるかもしれない。個人的には、公教育では地域による差がないこ とが大切と考えるので、となると各種提案においてそのことがどのように保証されるのかが知りたいところである。

  学校間の競争により質を上げるという提案においても、特定の学校の質だけが向上するのではなく、全体の水準が向上するとい う仕組 みを併せて提案してもらえると、議論の仕方が変わるのではないだろうか。田舎に生まれ田舎に住んでいると、全国展開のフランチャイズ店がなかなかできない とか大手スーパーがいきなり撤退することはよく経験する。学校においてはそうはならないための方途を組み込んだ形での提案を期待したい。また、そうした方 途がもしもあるのなら、それを医療に適用してはどうなのか。田舎の医師不足も解決するかもしれない。

  もちろん地域による格差を認めるという考えもありえよう。となるとやはり、大前提の合意を踏まえ、どうしてもはずせない要 因を考 慮した上で、それらの要因を何らかの形で満たすような解決策が検討されるべきであろう。一部の要因だけを満たすような解を見出すことなら容易である。


2006年9月2日
  今朝の各紙は「総合初等教育研究所」による小中学生に対する調査結果を報じていた。計算技能は獲得されている一方で、計算の意味 の理解や文章題への応用に問題がある、といった結果のようである。

  こうした傾向は、算数教育の世界では以前からも指摘されていたし、また過去の学力調査の考察においても指摘されてきたよう に思 う。したがって、もちろん現在の子どもたちのこうした現状を知ることには大いに意義はあるが、同時に、以前から指摘され、またその改善の努力も多くなされ てきたにも関わらず、こうした傾向があまり改善されないのはなぜかについても考えていく必要があるのではないだろうか。

  計算が「できる」ことと異なり、その意味が分かること、あるいはそれが応用できることは、成果がすぐには目に見えにくい。 場合によっては1〜2年経ってからその影響が出てくる。それだけに、長期的な視点に立った継続的な取り組みが求められよう。


2006年8月10日
  テレビや新聞などで著名人が飛び込みで授業をするという企画が結構ある。一流の人に直接触れることは子どもたちにとっても貴重な 経験と思われるし、中には大きな影響を受ける子もいるであろう。ただ、学校ももっとそうした授業に見習うべきという意見には注意が必要である。自分の経験 でも、子どもたちは目先を変えた授業には熱心に取り組んでくれるし、「いつもより楽しかった」と答えてくれる。しかし、それが何時間も続けば徐々にだれて こないとは言えない。

  問題は、ある程度決まった内容をカバーしながら、なおかつそれなりに子どもたちが入り込める授業を1年なり数年なり継続す ること であろう。しかも参加する子どもたちは、予備校のように同一の目標を持っているわけでもない。小中高の先生方はそうした難しい問題に直面している。両者の 違いを見ずに飛び込み授業を賞賛しすぎると、問題の本質を見誤るおそれがある。


2006年6月25日
  日頃、モラルの低下などを公言している人たちが、自分の近しい人の不祥事には法に触れてないから問題ないと発言する。世の中、そ んなものなのだろうか。
2006年6月11日
  「すべき」ことを言うのは易しいが、自分がその「べき」を守っているかを意識 したり自己管理することは難しい。もちろん他の人から指摘をしてもらえば少しは意識できそうなものだが、そうした場合でも「この程度はまあいいんじゃない の」「これとそれとは話しが別だよ」などと、自分と「べき」とを切り離してしまいがちである。自分のことは切り離せるので、結果として他人に要求する「べ き」のハードルは高くなる。

  「べき」を語るとき自分がちょっと格好いいと勘違いしてしまうことがあるが、実際のところは、当人も実行していないような 「べ き」を要求されると聞いている方が感ずるのはその人に対する侮蔑の気持ちではないだろうか。わが身を振り返ることで、適当なレベルの「べき」に収まるかも しれない。「教員の給与を低くした方が本当にやる気のある人が集まる」と発言した人がいたが、その人が本気でそう思っているのかどうかは、ご自身の職種に も同じ原則を適用するかどうかを見ればわかるであろう。


2006年6月7日
  今朝の新聞に、日本の教科書が他国に比べて薄いという記事が出ていた。米国のものが比較に出されていたと思うが、少なくとも自分 の知っている算数・数学の教科書に限っても、確かに米国のものと比べると日本の教科書は薄い。

  しかし当然のことであるが、ページ数のみで判断することも危険であろう。国際調査TIMSSに関わる米国の研究センターの セン ター長であるウィリアム・シュミットらが書いた「一貫したカリキュラム:数学の場合」という論文を見ると、日本を含むTIMSSの上位グループのカリキュ ラムと米国を比較し、いくつかの相違が述べられている。そのいくつかを見てみると、(1)前者では各学年で扱われる内容が絞られているのに対し、後者では 焦点が定まっておらず扱われる項目が多い;(2)前者は複数の学年に渡り構造化されているが、後者は繰り返しが多く構造化されていない;(3)前者では、 小学校高学年あたりで基本的な計算から、文字式や図形などのレベルの高い内容へ注意を移行している。シュミットらは他の論文で、カリキュラムのあり方は一 つの方法に限られるものではないとも述べているので、上位グループのものが無条件によいというものではないであろうが、少なくとも米国に比べて上述のよう なよい点を持っていることに注意を払っていることは確かであろう。

  これは15年以上前に聞いた話なので今は事情が違うかもしれないが、米国の教科書は厚くてすべてを扱いきれないので、教師 がその 中から適宜内容を選択して使っているということであった。教えてくれた米国の教授は、夏に教師向けのワークショップを行う際に、そうした内容の選び方など も取り上げていると言っていた。また、子どもたちは教科書を学校において帰るという話しも聞いたことがあるが、確かにあれだけの厚さだと全教科分を持って 歩くことは難しいであろう。

  一方で、数年前に国際会議で見たルーマニアの教科書は厚さは日本と同じ程度だったが、内容は小中学校とは思えないほど高度 なもの であった。ただ関係者によると、その教科書は普通の学校で用いられているが、授業をしてついていけるのは一握りの生徒だとのこと。しかも、その理解できた 一握りの人の中から教師が生まれるため、なかなか授業は変わらないということであった。

  教科書を考えるには、結局は、教科書を一つの手段として用いたときに、どのような学習を子どもたちに経験してもらえるのか が大切 なのではないか。単にページ数を増やすといった議論にはならないではあろうが、ある単元で子どもたちの世界がどのように広がるかという横の広がりと、学年 の展開に伴い子どもたちの経験がどのように発展していくのかという縦の広がりとを視野に入れた議論が行われることを期待したい。


2006年3月2日
  以前週刊誌の連載にこのようなエピソードが紹介されていた。ある会社のあるセ クションでは1台のコピー機を皆で共用している。だから、コピーをしようとスタートボタンを押すと、前の人の設定が残っていて妙な拡大がされたり、別の大 きさの用紙が出てきたりする。そこで、「次の人のために最後に設定をクリアしましょう」という貼り紙が出された。しかし、状況はあまり改善されなかった。 ここである人が考え、貼り紙を次のように変えた:「コピーを始める前に設定をクリアしましょう」。トラブルはいっきに減ったとのことであった。

  第2の貼り紙は作業の流れを基本的に変えるという点でシステムの変更になっているように思われる。しかも、作業のステップ は増え ていないばかりか、人の自然な発想に沿っているという意味で理に適ってもいる。こうした変化こそが合理化なのであろう。ただし、こうした変化を起こすこと は、今までの流れを強化しようとすることよりも、知恵が必要である。


2005年12月19日
  フィンランドの教育について書いた本を読んでいて、こんなことを感じた。世の中には「管理と評価に基づく社会」と「信頼と相互支 援に基づく社会」があるのではないか。
2005年11月17日
  批判され ケンシュウ、ヒョウカで やり過ごす
2005年10月25日
  中村雄二郎「臨床の知とは何か」では「臨床の知」を「フィールドワークの知」と名付けてもいいとするとともに、「パトスの知」 「南型の知」とも言い換えている。「パトスの知」「南型の知」ということの意味は「フィールドワークの知」に比べイメージしにくいように思うが、例えば以 下のような記述はこれに当たるのではないか:「[相互作用が成立するのは]人間が身体性を帯びて行為し、行動するからであり、そのときひとは、おのずと、 わが身に相手や自己を取り巻く環境からの働きかけを受けつつ、つまり自己のうちにパトス的(受動的、受苦的)な在り様を含みつつ、行為し、行動することに なるからである」(p. 135)。そして、「行為は、それに反対するものを顕在化させるので、受苦を被ることになり、それを通して行為者は、ここに高次の認識に達する、というこ とである」(p. 137)。

  教育学の研究においても「臨床」という名のつく領域が生まれつつある。そうしたときに、それらの領域が本当に意味を持つた めに は、単に教育現場でデータをとることに腐心するのではなく、上のようなパトス的側面をきちんと備えることが大切であると思われる。


2005年10月21日
  今朝のテレビで教員の給与水準が世界的に見て高いというニュースが扱われ た。その際にコメンテータのお一人が、「給与が日本より低いとされるスウェーデンでは、20人のクラスに先生が2人いるような状態。日本ではもっと多くの 子を1人で受け持ち、就業後も仕事を家に持って帰っている。総合的に判断しないといけない。」と話していた。本当にその通りだと思う。

  また今朝の朝刊では、米国で財政面から教育の効果を研究されている日本人研究者の文章が載っていた。米国では州の学力調査 の結果 が公表されるが、その際に学校の教育環境や子どもたちの社会的経済的背景についての情報も載るという。単に点数の比較ではなく、各学校がそれぞれの置かれ た環境の中で教育の質を高める努力をしているかを評価するものになっていると論じていた。

  少し前の新聞には、学校よりも塾の方が授業が上手であるといった調査が報じられていたが、こうした調査では学校の先生と塾 の先生 の仕事の範囲や対応しなければならない事柄なども含めて考察されていたであろうか。大切な問題ほど、本来ならばそこに関わる多くの要因を考慮し、それらを 視野に入れた上で判断を下すべきであろう。ある一面だけを取り出し切り捨てることは、そもそも問題の大切さ、複雑さを理解していない証拠である。

  算数・数学の問題解決研究では、問題をよく探求せずに、表面的な情報に反応して式や答えを書くことは、解決に失敗する可能 性を高 めることとして知られている。世の中の多くの面でも似た傾向があるとするならば、一部の情報に反応し対処療法的に解決しようとする行為こそ、本当の学力低 下のあらわれである。


2005年4月14日
  「世界」5月号の岩川先生の記事を読んで、いわゆるPISA の報告書を 見直してみた。PISAが測ろうとする数学的リテラシーは次のように定義されている:「[数学的リテラシーは]次のような個人の力量である;世界における 数学の役割を認め理解すること;きちんと根拠を持った判断をすること;建設的で、関わりを持とうとし、熟考できるような市民として、自分の生活の必要性に 合うような仕方で数学を利用し、数学に関与すること。」(p. 37)その上で、どの程度数学的知識を持ち理解しているかと同時に、生活の中で出会う問題を解決するために自分の数学的能力をどの程度活性化できるかが重 要だとし、PISA評価の目的は、この活性化がどの程度できるかを測ることだとしている。

  報告書を見るといくつかの問題例と解答例に対する評価が載っている。図形領域では(新聞でも紹介されていたが)、4つの図 形が示 され32mの木でそれらの形の柵を作ることができるかを判断することが求められている。長さの情報は一部しか与えられていないので、階段状の形を長方形に 直すことなどが必要となる。また平行四辺形は高さが与えられていて斜辺の長さは与えられていないので、計算で長さを求めることができない。

  確率統計分野では、'98年と'99年の強盗の件数を示す棒グラフの先端部分だけが示され、次のような問題が出される。 「テレビ のレポーターがこのグラフを示し次のように話しました;『グラフによれば、1998年から1999年に強盗の件数が大きく増加しています』。レポーターの 発言はグラフの妥当な解釈になっていると思いますか。自分の答えを正当化する説明も書きなさい。」

  また、数量関係分野の問題として次のようなものが例として載っている。(1分間あたりの歩数)/(歩幅)=140という式 が与え られた後で、「ベルナルドは自分の歩幅が0.80メートルであることを知っています。ベルナルドの歩行に公式を使ってみましょう。ベルナルドの歩く速さを 分速〜メートルと時速〜キロメートルで求めなさい。途中の考え方も書きなさい。」

  上のようなリテラシーの考え方が、岩川先生の書かれているようにある種の教え方を直接支持するものかどうかは疑問が残る。 また上 のような問題が現実世界の問題かという点も賛否はあろう。しかし少なくともPISAを根拠に教育の改善をするのであれば、PISAにより測られたものが何 かを十分考慮する必要があるという岩川先生の論旨には賛成である。子どもたちがどのような問題に困難を感じたのか、あるいはどのような反応が多かったのか を考察した上で、次に打つべき手を考えた方が、現状を本当に改善する方針が得られるであろう。また、自分の数学的能力を活性化するという発想は、故・島田 茂先生がその著書「算数・数学科のオープンエンドアプローチ」において「高次の目標」1)と 呼んでいたものと近いにように感じる。30年以上も前にこうしたアイデアが出されていたにも関わらず、数学的リテラシーが十分育成されてこなかったという 事実にも目を向ける必要があるのではないだろうか。先生が示された例えば「おはじきの散らばり方」の課題は、数学的リテラシーに密接に関わるものと思われ るのだが。

1)島田先生は「高次の目標」に関わり次のように書かれている:「算数・数学科では、数学に関するいろいろな知識・技能、ないし概念・原理・法則等 が、次 から次へと教えられていく。それは、その一つ一つがそれ自身重要であるからというのでなく、それらがよく消化され、子どもの中で一つの知的な組織になっ て、子どもの人間としての能力や態度の一側面となることを期待してのことである。個々の知識・技能は重要な成分ではあるが、本来の目標は、それらが一つの 人格に統合されたところにある。/したがって、算数・数学科の教育が本来のねらいをどの程度に到達しているかを知るには、具体的な場面において、その子ど もが、どんな風に既習の知識・技能を活用し、また既習のもので事がすまぬ場合に、その困難にどう対処していくかをみなくてはならない。」


2005年2月2日(大寒波)
  教育の中でやはり「頭のよい」人を育てることが 必要なのではないか。もちろんその「頭のよさ」はテストの点数がいいとか有名大に入るということを意味するものではない(だからといって排反するものでも ない)。ここで考えている「頭のよさ」は「遠くが見えること」である。

  物理的な遠くと考えると、例えば遠くの国ことを考えられる、宇宙の遠くのことを理解する、あるいは遠くの過去や遠くの未来 のこと に思いを馳せることができる、ということになろうか。目に見えにくい物質や生物の極微の世界を探ることも入るだろう。心理的な遠くを考えると、自分自身や 身近な人のことから離れ、あまり親しくない人、あるいは会ったこともない人たちの気持ちを想像し、その視点から身の回りを見直すことが考えられる。目の前 の場面にそのまま反応するだけでなくそこに含まれる多くの可能性を見ること、行為の直接的な結果だけでなくその先にある影響を考えること、一見すると似て いないようなものの間に類似性を認め理解を深めること、これらもある意味での「遠い」ところを見ている。抽象的と言われる数学にしても、人間の思考の及ぶ 限りの遠くを見ようとすることかもしれない。数学を用いた現象のシミュレーションは、その現象の将来や可能性の限界を見ることであろう。

  遠くを見るためには、やはり知識も必要である。一方で、知識は遠くを見るために用いる素材であり、それを獲得することは遠 くを見 るための第一歩に過ぎない。上であげた例には、知識をベースにしながらイマジネーションを目一杯働かせることが含まれている。学びて思わざれば則ち罔(く ら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。


2005年1月27日
寒風に 空突く枯れ木 いさぎよし
2004年12月20日
  12月19日付けの朝日新聞に、日銀の不祥事に関わり「『現場力』が危うい」という 社説が載った。その中で、「指導的な地位にある人々を見れば、大局的な判断や戦略性で日本が欧米に見劣りする例は多い」一方で、「地味な仕事でも誠実にこ なす人たち」による「現場力」の果たしてきた役割の大切さが述べられ、それが最近衰えていると指摘している。こうした「現場力」の重要性はその通りだが、 逆にそうした地味で誠実な仕事がきちんと評価されてきたのかも問われるべきであろう。派手な動きだけがもてはやされ、現場の人は問題が起きたときだけ攻め られるようなことがあれば、現場力が育ちようがない。そうした日常的な努力が尊ばれ、それに携わる人もその努力にプライドを持てるようになることを期待し たい。

  同じ日の新聞には、PISA調査で高い成績をおさめたフィンランドの教育相の談話が載っていた。教職を魅力あるものとする ことがもっとも大切との話を読み、「現場力」を高めるための長期的な展望があるように感じた。


2004年12月8日
  11月28日夜のNHK教育TVで、指揮者のサー・サイモン・ラトル氏のインタビューをしていた。氏が率いるベルリン・ファイル ハモニーが、個々のメンバーに創造性の備わったオーケストラであることを述べた後、その理由の一つとして、メンバー一人一人が指揮者の指示に対して「なぜ そうするのか」を理解したがるといったことを指摘していた。芸術での創造性も「なぜ」が関係するのかと興味深く聞いた。

  だとすると、科学や技術に限らず、新たなものを作り出すには「なぜ」を考えることが必要なのかもしれない。あることがわ かっても 「なぜ」を問えばその先に進める可能性があるし、また失敗しても「なぜ失敗したのか」を問えば見えてくることもあろう。個人的には、総合的な学習でもこの 「なぜ」を問うことがある場合には、単なる体験で終わらないようになっているのではないかと思う。

  一方で、「なぜ」を次々と問うてくる人を相手にするのは、結構しんどいであろう。「なぜ」を連発する小さい子どもに、「も う勘弁 して」と思った大人は少なくないのではないか。創造性を養うことは大切であるが、そのためには周りもこの「なぜ」に対応する覚悟が必要なのかもしれない。


2004年11月10日
  清流を好む魚は濁った水では生きていけないかもしれない。しかし、だからといってその魚が劣っていることになるだろうか。
2004年11月9日
  ちまたではテレビ、雑誌、書籍などを通じて様々な意見が飛び交っている。私などはこっちの意見を読むとそれに納得し、その反論を 読むとそれにまた納得してしまう。そうした主張のいくつかには、何となく共通した特徴があるように思われる。それは一つには、自分が問題にする状況や論敵 の意見を必要以上に低めているような印象である。もう一つの特徴は、ご自身の主張は大変明確であり、その方も自信も大変力強い点である。

  明確で、しかも主張者が大変自信を持って示す主張は他の人にもアピールしやすいであろう。しかしそこには現状や相手の意見 につい ての理解の仕方、あるいは自分の論の構成にある種の割り切った部分があるようにも感じられる。確かに意識的に割り切り、その方向性を推し進めてみることは 大切な思考であろう。また緊急の事態に対処するには必要なことでもある。これに対し、割り切らない主張はどこか曖昧になり、また主張者の自信も今ひとつ弱 々しいように見える。しかし状況が多くの側面を持つ場合には割り切らないからこそ見えてくる部分もあると思いたい。

  昔「ちびくろサンボ絶版を考える」という本を読んだときに、事情をよく知っている人ほど言い切らない書き方をしていたよう な記憶がある。そんな記憶があるから、上のようなことを考えるのかもしれない。


2004年10月12日
  城繁幸氏の「内側から見た富士通」を見ると、良さそうな制度を導入しても、その実施のプロセスにおいて、導入した目的や理念に合 うかどうかのチェックが常になされないと悲惨な状況になるということを実感する。各方面で改革ばやりであるが、そこで導入される制度について、当初の目的 や理念に沿った形で具体化されているのか、見えにくいものも多いのではないだろうか。導入自体で完結してしまえば、いわば制度の「はこもの」になってしま う。

  途中のチェックはコミュニティによるメタ認知と言えよう。メタ認知が機能することが問題解決のキーポイントであることは、 私ども の業界では常識である。目的や理念を参照したメタ認知が適切に行われることで、多くの試みが「はこもの」で終わらないことを祈りたい。日本サッカー協会の 川淵キャプテンは「理念はすべての原点。あるかな いかの差は大きい」と言われたそうだが、この言葉の意義は大きいように思われる。


2004年9月21日
  今朝の新聞で、小学生の4〜6年生の4割以上が太陽が地球の周りを回ってい る」と答えたと報じていた。こうした結果を読み、驚きを感じてしまうことは否めない。こうした報道がなされると、学校でもっとこうしたことをしっかり教え ようとの声があがる。これにも共感を覚える部分があることも確かである。

  世の中のそれぞれの分野の専門家が、自分の分野の内容をもっと子どもに知ってもらいたいと思う気持ちは自然だと思う。ただ その結 果として、あれもこれも学校で採り入れなければならないとなると大変である。天文の知識も増やそう、算数ももっとやろう、食育もしよう、株の仕組みも小学 生から教えよう、日本の古典にも触れよう、環境のことも、情報のことも、命の大切さもやろう。そして、心も育てよう。時間的にも、人的にも、物理的にも限 られた資源しかない状態で、これらをどう組みあわせるのか。そのコーディネートを誰が責任持ってやるのかが、実は一番大切なのかもしれない。


2004年9月13日
  柄谷行人氏の「倫理21」を読んで自分なりに理解したところをまとめると次 のような感じになる。人のすることについては論理的に分析してもその責任は明確にすることはできないし、また実際にいろいろな要因が絡んでくる。だからこ そ、そうした要因に流されたのではなく自分の自由な意志があるのだと言うためには、分析とは関係なく自らの責任を引き受けることが必要である。この意味で 責任は道徳の領域に属する。

  こうした解釈が正しいとすると、道徳は責任を引き受ける者のみが語りうるものであろう。


2004年8月23日
  21日付けの新聞で、大学生の数学の学力の低下が続いており、特に教員養成系でその傾向が顕著であるとの調査が掲載された。大学 の数学があまりできず、小中の教科書の内容がぎりぎりわかる程度だと、子どもたちの素朴な疑問の価値がわからなかったり、彼らの標準的でない思考を理解す ることがむずかしいことが出てくるように思われる。例えば、√2は小数にすると1.4142…と無限に続くわけだが、だとすると√2×√2は無限に続く数 をかけることになる。「これってどういうこと?」と違和感を感じる生徒もいるかもしれないが、大学の数学を知らない人はこれにうまく対処できないのではな いか。

  しかしだからといって数学の講義の量だけを増やすことも疑問であろう。小中学校の教員になりたいと真剣に考えている学生た ちに、 「どうして」今この数学を教えるのか、またその「どうして」が最も経験してもらいやすくするためにはどのように扱うべきかを併せて検討すべきであろう。小 中学校の教員でもない人の「この程度は知っていて当然」「知っているにこしたことはない」といった意見は理由とはならない。こうした検討が併せてなされる ことを期待したい。


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