An Integrated Research on Children's Construction of Meaningful, Symbolic, Partitioning-related Conceptions, and the Teacher's Role in Fostering That Learning

by Ron Tzur
(Journal of Mathematical Behavior, 18 (2), 123-147, 2000年)


 本論文は、分数の知識についての子どもの構成に焦点を当てた研究を、子どもの分数のスキーマにおける 特定の変形を促す際の教師の役割を調べることで、発展させようとするものである (p. 124)。概要の中では、分数の知識についての子どもの構成と教授との共発生 (co-emergence) という言い方がされている。

 第1節は「概念的枠組み」と題して、本研究を支える理論的立場が表明されている。学習については Piaget のスキーマの同化・調節や von Glasersfeld流の構成主義があげられており、環境における 相互作用をスキーマに同化する結果として個人がスキーマを再組織するという点に触れている。シンボル化 (symbolization) については、言葉の使用が心的威力を増進すること、シンボル自身が思考の対象となることに触れている。また予期 (anticipation) という概念に着目し、有意味なシンボル化を「記号と同格にされた予期的な活動−効果の関係を内面化する心的過程」(p. 125) と考えている。この意味において、シンボルは活動とその効果についてのその予期を指し示す心的対象となる。また数学的知識を進める際のシンボルの 役割についても触れている:(1) シンボル的な雛形が数学的な意味や活動を同化したり生み出したりするのに役立つ、(2) シンボルを操作することで活動−効果の予期的関係を他の操作の入力として利用することができる、(3) 両立しうる予期を持った人の間のコミュニケーションや共有された理解の生成を促す。

 教授に関しては、M. Simonの仮説的学習軌道 (hypothetical learning trajectory) を基にしており、 そこで基本となるものとして、学習者の捉え方 (conceptions)、進められるべき特定の数学的アイデア、 捉え方の変容を促す場面についての教授学的考察、以上3つについての教師の相互関連的な理解だとしている。Tzur氏 (1999; JRME, vol. 30) 自身はSimonのモデルを拡張し、三つのタイプの課題(初期的、反省的、予期的)を見出している。こうした課題を作る際に、学習者がどのように振る舞い考えるかについて 仮説を立てておかねばならないことに触れ、特に、シンボル化の基礎である、知ることの予期的段階と非予期的段階課題の区別を考慮する一方で、学習者の活動に合わせる必要があることを強調している。

 枠組みの最後として、本論文の題材である分数についてのアイデアが述べられている。Confreyなどによる 分割 (spliting) の活動や Streeflandなどによる現実的問題場面の利用などに触れた後、本論文での 基本的なアイデアを繰り返し (iteration) をキーワードとして次のように述べている:「ここで報告する 研究は子どもの分数の学習を数への操作を通して始めるのではなく、心的構造、つまり繰り返しとしての 数を生み出すと仮定される操作を通して始める」(p. 127)。子どもの数についての シンボル化された予期的捉え方は、 1という繰り返し可能な単位からなっているとし、分数スキーマの 最初の構成を促すにあたり、単位をn回繰り返して、元の全体と同じ大きさの区分けされた全体を 再構成するという活動を考えている。Tzur氏はこれが、Steffeの再組織化の仮説、つまり子どもの 全数の知識(特に繰り返し)が分数の知識を生み出すという考えに基づいているとしている。 等しく区分けする (equipartitioning) スキーマ、あるいは一つの部分をある回数繰り返す活動と 多くの等しい部分に区分けされた全体を生み出すという結果の間の予期的意識が、分数を抽象化し シンボル化するための基礎として用いられた。シンボル化された単位を、分数についての後の数的操作 の入力として用いることも促された。

 第2節では方法が述べられている。この論文は、13名の生徒に対する3年間(3年生〜5年生) の教授実験の中で、2名の 生徒(ジョルダンとリンダ)について行われた調査を扱っている。4年生の最初の2〜3ヶ月に 起こった分数の学習に焦点が当てられ、14回のエピソード(各25〜30分)の分析がなされている。 「スティック」と呼ばれるマイクロワールドが用いられたが、これはスクリーン上に棒が表示され、 それらに対して次のような操作ができるようになっている:棒を描く、棒をコピーする、 棒を10色のうちのいくつかで塗る、棒の上に印をつけそれを動かしたり消したりする、 棒あるいはその一部を隠す、棒を2〜99個の等しい部分に区分する、印を付けられたり区分された 棒を分解する、棒やその部分を結合する、印を付けたり区分された棒の一部を取り出す、 棒を定規のところにコピーする、単位となる棒で他の棒を測定する、棒に数のラベルをつける。 この中で、先の繰り返しという点から重要になるのが、棒の複製が作れるという点である。 クリックするごとにコピーが現れる。

また特定の機能を使わせる(あるいは使わせない)ことで、活動の反省や抽象化を促す例として、 7つの部分からなる棒のうち4つの部分を隠すことで、分数についての図像的な考え方から操作的な 考え方への進展を促すことがあげられている。

 授業の進め方はキャンディやケーキの分配といった文脈の課題を用い、真の日常的なものである 必要はないが、子どもにとって現実的なものから始め、課題への取り組みを通して数学的アイデアが 構成されるという意味で、現実的数学教育 (RME) に適うものだとしている。課題を作るに際には 次のことを基にしている:(a) 前のエピソードの作業で示されるような、リンダとジョルダンの 分数スキーマについての、研究と平行して行われる分析、(b) そうしたスキーマについての考えられ うる、あるいは意図される修正についての自分たちの仮説。また追跡用の課題や質問は、あらかじめ 計画されている場合もあるし、生徒の反応に応じてその場で作られることもあった。各エピソードの 分析においては、二つの点に焦点が当てられた:(1) 単位分数および非単位分数についての子ども たちの考え方、あるいはそれらについての操作の仕方、そうした考え方をスキーマやスキーマの 修正により特徴づける、(2) そうした修正を促した教師と学習者の相互作用。分析についてはチーム内、 他の研究者などと議論され、子どもの思考についてのTzur氏自身のモデルは適宜修正されていった。

 第3節ではまず等しく区分けする段階について述べられ、次にリンダとジョルダンがそこから区分的分数スキーマ (partitive fraction scheme) をどのように発達させたかを示している。この論文では等しく区分けするスキーマ →区分的分数スキーマ→繰り返し的分数スキーマ (iterative fraction scheme) という流れが想定されている ようであるが、区分的分数スキーマは最初から考えられていたものではなく、データの分析の中で見出されてきたと されている。このスキーマでは、分数は、区分けされた全体に属するシンボル化された部分(単位)として理解され、 シンボル化された単位への数的操作が行われる。

 等しく区分けするスキーマは、部分を繰り返して(区分けされた)全体を作ることに関わる。つまり、 まずある一つの部分の大きさを見積もり、次にそれを分けるべき人数などの数nだけ繰り返す。そして、 繰り返しの結果としてできた全体と元の全体とを比べ、必要があれば最初の部分を調節する。こうした活動の利用は、 全体をn等分するという活動では、分けられた部分を固有の大きさをもつ量として子どもが捉えにくい、という 彼らの経験による。全体を分解してしまうと全体がなくなってしまい、また各部分の大きさが等しいかどうかに 注意が向けられ、部分と全体との関係が注意されにくくなる。それに対し繰り返しを用いることは、部分どうしの 比較をする必要はなく、繰り返しの結果の全体と元の全体の比較、最初の部分の調整などを通して、全体に対する 固有の量としての部分(単位)というものを抽象することが促されると、Tzur氏は考えている。また、離散的な 場合(ある部分を3回繰り返して24の長さの棒を作った)を考えることで、数的操作を用いて単位の大きさを 予期することなどが行われる。ジョルダンとリンダはこの段階でうまくいっていたと報告されている。

 続く発達の部分は、部分と分数の言葉を結びつけるピリオドAと、単位分数を数的に操作するピリオドBおよびCに 分けて考察されている。ピリオドAでは全体を区分した結果として構成される新たな単位と、分数についての標準的な 言葉(○分の△)とを結びつける (coordinate) ことが目標とされ、こうしたシンボルの構成は新たなスキーマへの 最初のステップとされる。まずは離散的な場合を扱っている。長さ15の棒を繰り返して30の棒を作ったときに、 それぞれの部分が作られた棒のどのくらいかを問うと子どもたちは「半分 (one-half)」と答える。ここでさらに Tzur氏は12、10、9、5の棒を使って様々な全体の半分を作らせている。また実際に操作をしなくても活動の結果を 予想できるようになっており、予期的な関係が用いられたとしている。次に元の棒を3回繰り返すことが行われるが、 子どもたちはこの場合も「半分」と答えている。Tzur氏は正しい言葉は社会的因習であり、子どもたちが自分なりの 記号を使う仕方に耳を傾け応じていくと同時に、子どもたちの経験のある側面に注意を向け、用語を提供することを 教師が行うべきと考えている。3分の1、4分の1の活動を通して、子どもたちは標準的な分数の言葉を部分の繰り返し により全体を作るという経験に組み入れている。また、3分の1といった言い方から6分の1、7分の1などを 子どもは自然に作り出しているが、これは数の系列と分数との結びつきと考えられている。こうした教師との相互作用を 通じて、繰り返される部分が、単位の数的系列としてシンボル化されたと考察されている。

 続くエピソードでは逆のこと、つまり分数の言葉が先にあって、与えられた全体のその分数にあたる単位を見出す ことが行われた。また、離散の場面で30の棒の4分の1を見出すといった、答えのない課題も提示された。これらに 対する子どもの活動からも、言葉と区分けされた全体の部分としての分数との結びつきが見られたとされるが、ここで Tzur氏が注目しているのは、実際の繰り返し代わりにかけ算が用いられたことである。これは全数の知識が分数の 学習を促進したことでもあり、またAがBの4分の1だということがBがAの4倍だという意味で、単位分数の捉え方が 乗法的だともしている。これは、分数の思考を伸ばすことにおけるシンボル化の果たした強力な役割を示すものとも 考えられている。

 次にはこうした活動が連続の場面に拡張される。この場面では九九などの数的関係に頼ることができず、全体に対する部分のイメージを作らねばならず、そのことが固有の量的関係を伴う抽象的構造としての分数というものを内面化するのを促進する としている。スクリーン上では元になる全体が与えられ、右端にいくつかの ”部分”が並んでいる(全部は見えないように) 状況が与えられる。

子どもは右端のものを引っ張ってきて、それが全体のどの位になるかを考える。Tzur氏はそのときのプロトコルを引用しながら考察しているが、教師役のTzur氏の発話は「(二人の間で)意見が違っているようだね」というものだけである。このようにどちらが正しいかを示さないことで、進化しつつある彼らの分数スキーマの主体的な利用を促したとされ、また実際子どもらは自分たちで繰り返しの活動を行い葛藤を解消している。誰が正しいかを言わないことで、子どもたちのこの時点での数学の二つの重要な側面が明らかになったとしている。一つは部分の大きさをシンボル化した分数の言葉を彼らが用いていること。つまり、意味を与えたりコミュニケートする「彼らの」方法になっているということである。二つ目は彼らの部分の捉え方において 繰り返しの活動が鍵となる役割を果たしている点である。こうしたことから、言葉が予期的な単位のポインターとして用いられるようになっており、単位分数についてのシンボル的な思考が起こっているとしている。内面化された構造(単位分数)は区分的な分数の認識の雛形となり、次の操作の入力として用いられる。

 ピリオドBの記述はプロトコルの引用から始まる。そこではジョルダンが自分から6分の2を作ることができると発話し、 それをスクリーン上で実行している。その後教師が6分の5を作ることができるかと問うと、ジョルダンは簡単と答え、リンダは スクリーン上で実行している。しかし、6分の7を作ることができるかという問いには、二人ともできないとしている。 教師役のTzur氏はこの時点で子どもが単位分数を操作することを前もっては予想していなかったが、ジョルダンの発話を受け入れ、 それを励ましている。これにより子どもたちの考えが進められることとなり、子どもたちの重要な再組織化の過程に気付くことが できたと同時に、Tzur氏はここに教授と学習の共発生を見ている。子どもたちは部分を数えられるものとして考えるようになって おり、そこに彼らの数の知識や加法スキーマが結びついており、シンボル化された構造が他の操作の素材となっている(6分の1 (one-sixth) という言葉から6分の2(two-sixth) が出てくるのはシンボル化により促進されたと予想されるが、他方で、 シンボル化が先の繰り返しの活動を通してなされたという性質がここに関わっているのかはわかりにくいように思われる)。 こうした進展にも関わらず、元の全体を越える分数を考えられないことから、単位分数についての子どもたちの考えが 等しい部分の集まりとしての区分けされた全体に基づいており、部分の大きさと全体の大きさの間の不変な関係に基づくもの ではないと述べ、この限界が、区分的分数スキーマをより進んだ繰り返し的分数スキーマから区別するものだとしている。

 ピリオドCでは単位分数でない分数の繰り返しが扱われている。子どもは3/8と4/8で7/8といった結合ができるように なっていたので、Tzur氏は単位分数でないものの繰り返しとなるような活動を設定している。24人いるときに3名のグループの 分け前がどれくらいかを問い3/24を見出した後、もう3人増えて6名のグループならどうかと問うている。リンダは3/24に 繰り返しの操作を施すことで6/24を見出している。ここで、ある分数を作ることと単位分数でない分数を繰り返すという活動との 関係に注意が向けられ、数の知識との結びつきも見られるとしている。3/24から15/24を作るという活動では、数の知識との 結びつき、特に乗法の適用がより明確に見られる。その後のエピソードでは、1を越える分数が再度扱われている。8分のいくつ だけを扱うゲームを行い、1/8、5/8を作り、それらを使って6/8を作ったところで、教師は10/8見たいと言う。リンダは 簡単だとして作り始めるが、そこでは8/10を作ってしまう。Tzur氏はこれまでのエピソードの分析からこうした反応を 予期しており、その際の反応をあらかじめ計画している。すなわち、8/10について考えることに注意を向け、子どもたちが 葛藤を生ずるように発話しており、そこに教師の貢献を見ている。なお、Steffeらの研究を引用してTzur氏はこの時点で 子どもたちが実際に葛藤を解消できると予想していたこと、したがって彼らの制約された思考についてまだ理解できていない ことを報告している。

 最後の「議論」の節では、分数の学習における3つの段階と、シンボル的思考の教授の二つがまとめられている。 3つの段階のうち本稿で中心的に扱われてきた区分的分数については、部分についての考えが全体を分解するとか再構成すると いった文脈に制限されず、区分けされた全体がない状態でも数についての知識を使い、シンボル化された単位に有意味に操作 できる、という点が確認されている。それより進んだ繰り返し的分数では、分数の言葉は単位と全体の不変で乗法的な関係を シンボル化しており、その単位がどのように作られたかとか、その単位にどのような操作を施すかに左右されない。こうした 段階が分析から確認できたことは子どもの分数の学習をよりよく理解することに資するとともに、従来の指導の問題点(例えば、 従来は全体の部分という点を重視し、数的に操作できる量として捉えるような発達を促してこなかったのではないか)を 明らかにするとしている。教授に関しては、適切な課題を設定したり解決することを子どもがするアプローチの利点を 次のようにあげている。

また、シンボル化されるべき構造につながるような活動を子どもがする文脈の中で、教師が標準的な用語を導入することで、 子どもの有意味なシンボルの構成を教師が促進しうるということを強調している。そして、本稿でのアプローチが、 構成主義的スキーマ理論のある側面、つまり活動−効果の関係の反省を特定し、それにより教師が学習場面を生成したり 修正するのをガイドしたものとなっている点に触れて、稿を終えている。

 分数の指導についての研究として見たときには、測定の新たな単位として分数を導入する仕方を正面から取り上げている点が 興味深いが、一方で、こうした導入で1より大きい分数や異分母の四則にどのように接続するかの問題が残っている。また、子どもの学習の 考察で、シンボル化の重要性が何度も言及されながら、特定のシンボル化が次の学習をどのように促したのかの記述はあまり 明らかでないような印象も受ける。しかし、子どもの学習と教師の関わりを詳細に追い、特に子どもの知識の微妙な発展を捉えようと しているという点において、参考にすべき点も多い論文と思われる。


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