PME 21 の発表より


 今年も7月14日より19日までフィンランドのラーティ市で、国際数学教育心理学会が開催された。夏のフィンランドは非常に過ごしやすかったが、地元の人の話では今年は特に天候に恵まれているとのことであった。会場はラーティの成人教育センターを中心に、同じ文教地区にある市立図書館やフェルマンニ会館の講堂を利用して行われた。今回も会場にはインターネットに接続したコンピュータが10台ほど用意され、参加者は自分の大学のサーバに Telnet することで、メールを読んだり送ったりできるようになっていた。また、会議のアナウンスメントはもちろん、参加者リストや発表者と発表題目の一覧なども、ホームページ上に載せられていたので、出発前に事前にそれらをチェックすることもできた。

 会議はピアノ伴奏による歌曲の演奏 (この素晴らしい歌手もどうも PME の参加者のようであった) と、"Neuromagnetic Approach in Cognitive Neuroscience" と題するゲスト・レクチャーにより始まった。毎日お昼近くに行われる全体講演は以下のような講演者および演題であった。

特に Vinner 氏は、オペラや映画の一部をスクリーンに写して用い、会場から大喝采をあびていた。比較的大きな討論としては研究フォーラムというものが全部で3回設定されており、"Elementary Numerical Thinking"、"Research on the Function Concept"、"Resarch on Mathematical Proof" の3つに分かれて提案・討議が行われたようである。ワーキング・グループは9つ、ディスカッション・グループは5つが設定されていたが、このうち、"Understanding of Multiplicative Concepts" と "A New Research Paradigm for Social Aspects of Mathematics Education: The Evolutionary Process in Gender Based Research" の2つのワーキング・グループはかなりの人気だったようで、会場を講堂に変更する旨の連絡があったようである。58件の口頭発表、22件のポスター、122件の研究発表があった。

 本来ならばこの会議全体の様子をお伝えすべきなのであろうが、筆者の英語力不足によりあまり全体の様子がつかめていないので、以下では筆者が聞いた2つの発表の内容について簡単に報告してみたい。

P. Cobb, Learning from Distributed Theories of Intelligence

 この発表は多くの聴衆が予想されたためか講堂の一つで行われた (他にも Sfard の発表も講堂であった) が、予想に違わず講堂は満員の状態であった。Cobb 氏はステージ上の演題に腰掛けながら話をされていた。基本的には Pea の次の論文と自分たちのグループとの考えを比較する中で、自分たちの立場を明らかにしようとするものと思われた;

この知性の分布的 (distributed) 説明とは、知性が心や人、シンボル的環境や物理的環境に渡って分布するとするもので、主体と利用可能な認知的ツールや補助物からなる全システムが思考過程を実現すると考えることになる。特に、ツールは人の能力を増幅するだけでなく、能力の形成や再組織化を行うことになるが、この点については Cobb は同意しているように思われる。一方でCobb は、Pea らの議論がアメリカ心理学界の流れとして、独立した内的表象の作成者を仮定している、という点で袂を分かっている。Cobb は、そうした内的表象や情報処理を語るのではなく、知性は身体化され、活動の中に位置づけられると考え、また人が世界を写すのではなく、意味の共有される世界を制定すると考えるべきことを主張する。また人とツールが不可分であり、ツールを用いた推論の進化過程を考察する必要性を述べる。結局、彼らの分析の目標は、活動や活動の行われる世界の再組織という観点から、個人の経験の質を推測し、経験の仕方の発達を説明することとなる。

 Cobb の主張は一応分かるものの、個人の経験と内的表象は区別できるのか、また文化的ツールは最初から学習者と不可分なのか、といった疑問も残る。しかしいずれにしろ、ツールを含めた "有機体" のようなものを考える必要はあるのであろう。


R. Garuti, A Classroom Discussion and an Historical Dialogue: A Case Study
 これはイタリアの研究グループによるものであり、会場には共同研究者も来ていた。研究は、自由落下についての数学的モデル化を扱った授業と、同じ内容についてのガリレオの「新科学対話」内の (仮想的な) 対話とを比較したものである。授業では議論の端緒になるような諸見解はガリレオの本から適宜提供されるようであるが、議論そのものについては授業で扱う前には生徒には示されない。にも関わらず、Garuti らの分析によると、授業での議論とガリレオの本での対話の間には、用いられる表現、言及される規則、事例・反例、思考実験に関して、かなりの類似が見られたとのことである (彼女は表現の比較ができる背景として、イタリア語がガリレオの時代からあまり変化していないことをあげていた)。例えば、速さが落とす高さに比例するという考えや、その考えに対する、単純に速さが高さに比例するなら非常に高いところからの落下も一瞬にして終わるはずだという反論などが、言語表現まで含めて両者に共通に見られる。歴史的な議論と同様のものが、数時間の授業で可能となった原因としては、教師のコメントのあり方や、途中でのガリレオの本からの諸見解の提供、科学的概念や考え方に慣れている現代の生徒の現状などがあげられている。なおフロアから、より数学的な内容は扱えないのか、という質問があったが、これについては研究が進行中とのことであった。

 ワーチの「心の声」やバフチンの「ドストエフスキー論」などが引用されていたが、バフチンの"未完のポリフォニー" と、一応の収束を見る数学の授業とがどのように結びつくのかは疑問として残る。しかし、歴史を授業に生かす方法として、また授業で議論を仕組む方法として、彼らの研究は何らかのアイデアをこれから与えてくれるのではないだろうか。


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