数学の授業における教師の意思決定の実際に関する研究

−新たな教材を導入する授業を構想する際の思考過程に焦点をあてて−

教科・領域教育専攻自然系(数学)コース

黒田 匠


1.本研究の背景と目的
 教師が、自ら行う数学の授業の改善を常に目指していることは、間違いのないことであろう。この授業改善は、指導法の改善をはじめ、様々な方向から行い得る。新たな教材の導入は、授業の改善の一つの方向の有り様である。

 本研究の目的は、数学の授業において、教師が新たな教材の導入の決定に至る際の、教師の思考過程を明らかにすることである。ただし、本研究においては、授業以前に行う授業構想も授業に含まれるととらえ、授業構想における教師の意思決定を扱う。

2.本論文の概要
 第1章では、教師の意思決定とは何かを先行研究から分析し、本研究において用いる意思決定を規定した。また、意思決定を記述することの意義についての考察を行った。

 まず「教師は、授業の計画、実践、評価という役割を遂行するために、授業に関わる様々な側面において自己決定する自由と責任を持っている」ということに注目し、教師の内発的な動機付けに基づいた自己決定行為を「教師の意思決定」と規定した。意思決定を記述することは、教師の通常目に見えない思考過程を顕在化することになる。特に、本研究で扱う授業構想段階における教師の行為はその典型であるが、それを記述することの意義は、教師の自己の授業改善行為自体を直視することであり、このことは同時に教師が自己の行為を反省し、自ら成長していくための出発点となるととらえた。

 第2章では、先行研究をもとに、授業において教師がどの様な存在であり、教師の思考過程をどの様な要素が支えるかを述べ、教師の思考過程を分析、考察する上での視点を導き出した。

 まず、Lampertが指摘する点を解釈することにより、「教師」がどの様な存在であるかをとらえた。Lampertがとった教師と研究者の二つの立場を併せ持つという研究手法を、本研究では調査対象の教師と筆者によるティーム・ティーチングにより実現した。

 Bishop等の知見である、教師が思考の対象についての類似性をどの様な点に認め、教材などを選択していく基準をどの様な点に据えるかということは、教師の成長と関わる変化し得る部分であると解釈でき、教師の思考過程をよりよく理解するための背景としてとらえた。

 また、授業を構想する際に、教師が何を思考の対象としているか、対象がどの様に意思決定に関わるかを、Simonの研究の知見を視点としてとらえた。Simonの数学教授サイクルの考え方及びそのモデル(図1)は、本研究における分析、考察のための最も基本の視点である。Simonのこの枠組みの特徴は、一つはサイクルの中央部分に位置する「仮説的学習軌道」と教師のもつ様々な要因が関連し、これらの要因が仮説的学習軌道を支えていることにある。この仮説的学習軌道は、本研究での授業構想に相当する。

<図1 数学教授サイクル

Simonは、教師は子どものもつ知識ないしは学習を評価することに基づき授業を行っていくものであるという立場に立ち、このモデルを設定している。

 新たに導入する教材には、無理数の非通約性に関わるアイディアを採用した。無理数の学習には、岩崎が指摘するように、哲学思想的背景と、数学史上の発見という歴史的意味をそなえた「無理数の陶冶価値」がある。これは、一般に扱われていない内容であるだけでなく、授業改善の一つの新しい方向を示唆するものであった。

 第3章では、授業構想において新たな教材導入を図ることを意図した、授業構想検討会における教師の意思決定の実際を分析、考察した。

 授業構想検討会は、研究の調査対象者となる新潟県の公立中学校の数学教師と筆者とで行った。検討会を記録したVTRおよびATRからプロトコルを作成した。

 プロトコルに見られる教師の思考過程を、主にSimonの枠組に基づいて解釈・分析し、Lampertの視点から考察を加えた。その結果、本研究の主要な結果は次の三点である。一点目は、学習のねらいの受けとめ方は、教師の数学的存在のとらえに強く依存しており、新たな教材の導入に影響を及ぼしたことである。また二点目は、相手教師が自身のこれまでの実践にも問題があると感じ始めたことが、学習のねらいのより適切な理解を促す契機となっていたということである。更に三点目は、実際の授業で取り扱ったことのある教材への部分変更により、子どもの学習を想定することができた時に初めて新たな教材導入を行い得たことである。

 これらの結果は、相手教師の問題意識を共有する事が大切であり、相手教師の仮説的学習軌道の発展として、その新しい視点を位置づけること、そのためには、相手教師の仮説的学習軌道をよりよく理解することが大切であるということを示唆している。

 今後の課題として、(1)本研究で得られた知見が、複数の教師間での授業構想に生かされるための方略を示すこと、(2)授業構想での新たな教材導入への取り組みが、実際の授業の中でどの様に影響を与えるかを明らかにすることがあげられる。

3.主な引用・参考文献

指導   岩崎  浩


調査対象とした教師は、無理数としての「量の存在」を子どもに伝えるところにねらいをおいたのに対し、筆者は、無理数としての存在が、「子どもがこれまで理解している数の世界にはない」ものであることにねらいをおいていた事実があった。
このことは、Simonが述べるように、教師は子どものもつ知識、学習を前提とした学習軌道の想定を行うものであることとも一致する。

まず、新たな教材導入という授業改善行為を取り扱った本研究の立場から考察すると、新しい視点を提案することが、本当の意味での授業改善行為へとつながらなかった。むしろ、相手教師の問題意識を共有することが大切で、相手教師の仮説的学習軌道の発展として、その新しい視点を位置づけることが大切であった。そのためには、(1)相手教師が自分のこれまでの実践にも問題があると感じること、(2)相手教師の仮説的学習軌道をよりよく理解すること、が必要であり、教師がより協力的な関係を維持し、授業改善をすすめていくための重要な視点を提供しているといえた。
更に、調査対象とした教師の思考過程にみられる事実として、二点とらえることができた。一点目は、学習のねらいの受けとめ方が、新たな教材の導入に影響を及ぼしたことである。学習のねらいをどうとらえるかは、教師の数学的存在のとらえにも依存していた。二点目は、子どもの学習活動を想定できるかどうかが、新たな教材導入の鍵であったことである。実際の授業で取り扱ったことのある教材への部分変更により、子どもの学習を想定することができ、新たな教材導入を行い得た。この部分修正により、教師にとってより現実味のある学習軌道を想定し得たためと考え得る。


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