『学習心理学特論』レポートへのコメント

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<2006年度版>
【事例編】
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■ 生徒による自律的なクラス運営

  昨年に続き,「生徒に任せる」というテーマについてとりあげてみましょう。高校生という点も同じです。できるだけ多くのヴァリエーションを提示したいので,基本的に同じテーマで2年連続というのはやらないのですが,この話題は,私自身ちょっと興味があります。

  女子生徒の多い実業高校で,荒れているというほどではないが女子生徒の非行が目立つ,という高校に勤務し,1年生を担任することになったこの先生。3年間持ち上がりが原則ということで,こう考えました。

  卒業時に,この生徒たちの胸によぎる高校生活が,自分たちで作り上げたとまではいかなくても,自分たちが関わったもので彩られていると感じてほしい!

  そして先生が考えたのが,<生徒たちによるクラス運営>でした。ちなみに,先生のクラスは女子のみ40名。選択科目は少なく,朝のSHRから放課まで,教室移動はあっても顔ぶれはほぼ一緒。クラブが同じだと放課後も共に過ごすという,密着度の高い環境です。人間関係に問題が生じると,こじれやすいのが大きな問題。

  そこで先生が取り組んだのは,「生徒たちに討議させる」ということでした。生徒たちに話し合いを任せ,決めさせます。最初から冒険はできないので,クラスの掲示物の作成や貼り替え,学級文庫の管理など無難な案件から検討させました。

  生徒たちに決定権を預けたら,質問された場合を除いて,先生はいっさい口を出しません。<生徒たちが決めたことを修正せず,そのまま採用する>という方針です。

  はじめのうちは,“おそるおそる”という感じで,いちいち担任の表情をうかがっているような状態でした。しかし先生は,制限が必要な場合だけははっきりと示しますが,その枠の中でやってくれるなら,あとはみんなの希望通りでいいと伝え,話し合いでどんな意見が出ても口をはさみませんでした。ちょっとふざけた意見や,極端な意見が出たときなど,生徒たちは先生が何か言うかと思っている様子でしたが,やがて,ほんとうに何も言わないことを悟ったようでした。

  話し合いが終わった後は,音頭とりをした正副学級委員長とホームルーム長をねぎらいました。回を重ねるにつれ,議事進行もこなれてきて,意見も活発に出るようになり,クラス全体の意向を考えようという意思が見えてきたところで,先生はすかさずレベルアップを図ります。

  「自分たちで検討事項を出してみたら?」

  すると,自分たちのイベントを行いたいという提案が出てきました。1回めは,LHRの時間を使ってみんなでケーキやクッキーを焼いてお茶会。2回めは本格的にご飯を作って昼食会。そして3回めはクリスマス会を行いました。帰りが遅くなるので保護者に理解を求め,幸い,クラス全員が参加することが出来ました。

  それだけではありません。教室内が散らかりがちなのでその対策,私物の置き場の確保・置き方について,席替えの方法と時期について,などの検討事項が次々に提案され,話し合われました。

  そうした中で,生徒たちから「大勢の前では意見を出しにくい人もいるので,小グループでの検討会を定期的に開き,その意見を全体会で出すというシステムを作ってはどうか」という意見が出てきました。そのときの様子を見てみましょう。

  ある案件で意見がまとまらず,生徒たちは少し興奮し,イラついてきた。
「もっといろいろな人の意見も聞こうよ。このままじゃ,なかなか決まらない。」
「言わない人の意見なんて聞かなくていいよ。どうでもいいと思ってるから何も言わないんだよ。無責任だよ。」
「言えない人もいるよ。」
「どうして言えないの。言わないんだからしかたないじゃない。」
「大勢の前では,言えない人もいるんだよ。その人たちの意見を無視していいとは思わない。」
「じゃ,どうすればいいのさ。」
「紙に書いてもらおうか。」
「かーっ,時間かかるじゃん。」
「近くの人同士で集まって話したら。人数少なけりや,言えるかもしれない。」
「そこまでして聞かなきゃならないかな。」

というようなやりとりがあった後,クラスの中で最も活発な生徒がぼやくのを尻目に,小さいグループでこしょこしょ話し始めた。結局,目新しい意見は出なかったが,それぞれの希望がはっきりし,全体の意向がみえたので,話し合いは終了した。

  先生は最後に,いい提案がなされたこと,各自が自分の思う意見を熱心に話し合ったことを立派だとほめて終了しました。その後,別の機会に,先日出された提案について話を振ったところ,クラスで定期的に小グループでの検討会を設け,そこで自由に意見を出してもらい,LHR時に全体に提案するというシステムにすることが決まったのです。

ポイント

  さて,この事例は,最初に書いたように,昨年の「生徒が主役 Part 1」とよく似ています。先生が黒子役に徹することで生徒たちの自律性を引き出し,活発な活動を促した事例とまとめることができるでしょう。昨年の事例は,「文化祭委員」という,ある程度活動内容への意識の高い人たちの集まりでしたので,もしかしたらそれでうまくいったのでは,と考える人もいるかも知れません。それに対して今年の事例は,ごくふつうのクラスの生徒たちの事例です。もちろん,みんながみんなクラス意識を高く持っているわけではありません。そうした中での実践だからこそ,あえて2年続けて似たような事例をご紹介するわけです。

  「意外にやるじゃないか」というのは,この先生だけでなく,私も読んでいて思いました。「学校生活には,自分たちで作り上げていく部分だって意外とあるんだということに気づき,自分たちのことを討議して決めていくことの面白さを感じ,そしてそれをごく自然に行うことができるようになったことが,このクラスの雰囲気を作り上げたのだと思う」と,この先生は最後にまとめています。

  もう10年以上も前のことになりますが,学習意欲の発達的変化について実証的研究をレヴューしようと先行研究を読みあさっていたとき,ある文献の中で見つけたフレーズを思い出します。さまざまな経験を通して生徒たちは次第に自律的・自己決定的に活動を進めるための態度やスキルを身につけていく。だから,自律的活動は高学年になるほど重要になるのだが,逆に学校教育は,高学年になるほど生徒の活動を制限し,枠にはめようとする傾向にある,というのです。

  学習意欲に関連するさまざまな心理学的概念の発達研究をまとめてみると,その多くが発達とともに低下しており,とくに小学校から中学校,中学校から高校という移行の時期に大きな低下が見られる,というのが一般的な知見なのですが,そうした現象の説明のひとつとして,この著者は,学習意欲につながるような自律的活動経験の多寡を問題にしていたのです。なんだか,受験体制の中に組み込まれていく日本の学校のことを言っているように見えますが,このフレーズは,アメリカの研究者がアメリカの研究をレヴューする中で出てきたものです。どこも事情は同じ,ということでしょうか。

  ところで,この事例での先生の自律性支援をまとめておきましょう。1つめは,<責任を含めて任せる>ということです。

  決めることは,同時に責任を持つことにもなることを教えるため,自分たちが決めたことでうまくいかないときは,生徒たちで解決させた。時間がかかったり,途中で嫌になって,最初からいろいろ決めてもらったほうがよっぽど楽という声もあがった。その意見はその意見として,全体で採用されれば,担任としてはかまわなかったのだが,結局自分たちで運営するほうが楽しかったり,自由を感じてよいと判断したのか,ぼやき程度にしかならなかった。

というように,失敗経験も含めて徹底的に生徒に任せてしまいます。ただし,「先生が決めてくれたほうがよいというのであれば,いつでも引き受ける」という姿勢です。このあたり,「自立=独力」ではない「自律性(援助が必要なときには,他人に頼るのも選択肢のひとつ)」をよく表しているように思います。そんなふうに,いざとなったら最後は先生に頼ってもいい,という安心感があることで,生徒たちはより自由に活動することができるのでしょう。

  そしてもう1つは,<生徒の自律的活動をしっかりみとめる>ということです。これについては先ほども少し出てきましたが,もうひとつあげておきましょう。

  人間関係のトラブルは発生したが,そのつど,生徒同士でフォローが入った。仲間はずれになった人間には,他のグループがさりげなく声をかけていた。担任は,ほとんどの場合見守るだけでよかった。フォローに入った生徒には,担任として感謝の気持ちを述べた。

というように,「自分たちでやりなさい」と言いっぱなしではなく,それがうまくできているときには,しっかりそのことを言語化し,みとめてあげる,というフォローが的確にはいることで,そうした先生の価値観が,生徒の中に着実に根づいていったのだろうと思います。

ポイント
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■ 心もきれいになっていく

  最近,「トイレをきれいにすると運がよくなる」とかいって,お掃除グッズやら掃除法の本やらが出回っているらしく,よくまあ開運のネタを考え出すものだと,つくづく感心させられます。何にせよ,きれいになるのだからいいでしょう。

  で,そんなブームとはまったく関係なく,こんなボランティア活動,ほんとに成り立ってるんだ! と正直びっくりしたのが,某企業が主催しているという「親子で学校のトイレをきれいにする活動を通して親子のふれあいを高め,奉仕的精神を養おう」という活動。これに部として参加した中学生の事例を紹介しましょう。内容が内容なので,何か食べながらこれを読んでいる人は要注意。

  夏休みの日曜日だったので,参加は希望制。生徒だけも親だけでもOKで,もちろん教師も自由参加でした。生徒は,部活動の練習の一環として各部とも行いました。3年生はこの時期,部活を引退しているので,1,2年生が主体となります。この先生が担当していたサッカー部では,練習の一環と説明すると,特に拒否的な態度は見られず,全員が参加しました。

  全員参加が決まったあと,さりげなく何人かの部員に「練習とトイレ掃除どっちがいい?」と尋ねてみると,ほとんどの部員は,「練習にきまっている」と話していましたが,ひとりだけ「練習もいいけど,トイレ清掃もおもしろそう。学校がきれいになるのは気持ちがいい。」と答える生徒がいました。しかし先生は内心,“優等生的な発言”ではないかと半信半疑。そこでみんなに対して,しっかりと外発的な動機づけ要因を投入しておきました。曰く,「清掃後は,ご褒美においしいお昼と飲み物とおやつがでるぞ」,「通知票の生活面の評価も良くなるな,担任には伝えておこう」。しかし,生徒たちの反応は薄く,ちょっぴり喜んだだけだったそうです。

  さて,当日。担当者(活動への参加歴の長いベテラン参加者)から説明があります。これがまたすごくて,「素手で作業をする」「なめても平気なぐらいになるまでやる」という説明には,まわりから当然どよめきが起きましたが,先ほどのB君は,「おもしろそう」という反応を示しました。

  そしていよいよ清掃作業。まずは担当者が手本を見せます。

大便器の中にクレンザーのついたたわしと雑巾を素手で交互に入れ,ゴシゴシとやり始めた。ニコニコ顔で,とうてい便器を掃除している表情には思えなかった。それを見て,まず彼が,続いて他の部員たちが清掃に取りかかった。もちろん教師も行った。

  B君は,便器の周りからていねいに掃除を始め,きれいになったら,中へと進んでいきました。先生がときどき見に行くと,よくやっている様子を強調するように,首にかけたタオルで汗を拭っていました。(先生はまだ彼の行動を“ポーズ”だと考えているようです) 「えらいぞ」と言ったら,ニコッとして「ありがとうございます」と言い,さらに熱心に取り組みました。

  そうした,微妙な雰囲気での清掃活動でしたが,休憩時間を挟んで,大きく変貌します。休憩時に,部員たちは互いの便器を見せ合い,きれいさを比べあっていました。さらに,みんなでベテランの人の便器を見に行きました。そこで彼らが見たものは,黄ばんでいるどころか,穴の中の水垢さえもまったくない真っ白な便器。金属の部分は光沢があり,落ちるはずがないと思われていた便器の両脇のくすんでいた床の汚れも,きれいになっていたのです。

  ベテランの人は,「これぐらいは,みんなもできるよ。絶対きれいになるから頑張って」と言います。

  さて,そのあとの彼らの変貌ぶりを見てみましょう。

  彼らは,休憩時間が終わる前から自分たちの便器の掃除に再びとりかかった。それはまるで,便器というより食器や自分の持ち物(バッグや靴)を洗ったり磨いたりしているようだった。

  見に行くと,いっしょうけんめい取り組む態度を見せようとするのではなく,きれいになった便器を,自分が制作した芸術作品でもあるかのように,「先生,どう?」と聞いてきた。

「見事だ,完璧だね,先生よりきれいにできたね,すごいね,たいしたもんだ,ピカピカだね,プロだね,ベテランの人と変わらないね」

私はみんなに声をかけていったが,それはお世辞ではなかった。「他の人も手伝ってきたら」と言い終わるのも待たずに,彼らはまだ終わっていない人のところに出かけていった。彼らの表情は自信に満ちあふれていて,「こうした方がよい。俺がやってやるから,見てて」などと,こだわりを見せていた。

  お昼になったが,彼らは「あと少しだから,最後までやらせて」と言い出した。B君は,「自分が納得するまでやりたい」とも言った。

  ようやく体育館に参加者全員が集合して食事になっても,彼らの話題は清掃の武勇伝であり,互いに褒めあったり,方法論や感想の自由交換会になっていた。会場は,仕事をやり遂げた雰囲気でいっぱいであった。
ポイント

  この事例のポイントは,明らかにベテラン・ボランティアさんの行動でしょう。トイレ清掃を通じて「親子のふれあいを高める」とか「奉仕的精神を養う」というスローガンは,ちょっと身構えてしまいますが,実際の指導者であるベテラン・ボランティアさんの行動は,少しも説教じみていなくて,もちろん指示でも強制でもなくて,自ら楽しそうにトイレ清掃に取り組むという,それだけでした(それだけって言っても,もちろんなかなかできることじゃありません)。しかもその結果は驚くほどのできばえで,けっしてやっつけ仕事ではないことがわかります。それが,その日の活動のモデルとして生徒たちにドンと提示されたのです。

  おそらく生徒たちの心の中には,「練習の一環」とか「奉仕」とかいった義務的なとらえ方が少なからずあったのではないかと思いますが,この時点で,彼らの活動へのかかわりが,大きく変わったのだろうということは,容易に想像できます。実際,そのあとの彼らの行動からは,自分のやり方にこだわりを持つ,時間で開始・終了しなくなる,他の人への手伝いを嫌がらないなど,内発的動機づけの特徴がいくつも見つかります。この事例では,仲間どうしの競争という要因も大きく関わっているようですが,この場合は,外的な評価を伴うわけでもなく,競争自体も活動の本質と深く結びついていますので,妨害要因とまでは言えないように思います。

  教育というシーンの中で内発的動機づけを高めようという試みは,意外にむずかしいものです。教える側がいっしょうけんめい手を出せば出すほど,生徒の内発性は低くなってしまうという基本構造があるからです。それに対して,このボランティアさんのかかわり方,すなわち自分自身が楽しく,しかもこだわりを持って活動している姿を見せる,というやり方は,ひとつのヒントを提供するのかも知れません。

  さて,その後の生徒たちですが,2学期が始まってからの清掃活動の様子は…,夏休み前と変わらなかったそうです。あらあら。でもまあ,1回限りのイベントではそんなものでしょう。ただ,影響は確実にあったようで,それまでは盛り上がっていた「校内美化コンクール」に対して,「審査されていると,やる気しねー」「賞なんて関係ねーよな」といった不満が続出,すっかり盛り上がらなくなってしまったそうです。

  それから,先生がちょっぴり内発性を疑っていたB君ですが,その後,2学期の途中から市のボランティア活動に参加し,街頭募金や市長へ歩道の点字タイル設置要請などを行うようになりました。その活動が認められて,高校には推薦で入学したそうです。

ポイント
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■ とにかく今できることから

  続いては,高校1年生の英語習熟度別クラスで,もっとも基礎レベルのクラスを指導することになった先生のお話。クラスの生徒たちは,英語という教科にかなり強い苦手意識を持っていて,実際中学1年程度の基本すら定着していないくらいの学力でしたが,みんな素直で,苦手教科ながらも言われたことは実行して何とかついていこうという雰囲気が全体的にありました。その中で,ひときわ目についた男子生徒B君が,このレポートの主人公です。

  B君は,授業の最初は,近くの生徒や教員と気軽に雑談を交わすなどリラックスした雰囲気なのだが,授業内容に入ると,とたんに口を閉ざし表情が硬くなる。ノートも最初少しだけ書くと,あとはぼんやりと黒板を眺めていたり,教員が質問しても,考えもせずに「わかりません」と答えるような状態で,英語学習に強い抵抗感を抱いているように感じられた。

というのが先生の最初の印象です。話を聞いてみると,「自分は勉強ができないのに,親に言われて受験して受かってしまった」のだそうで,「周りの生徒は自分よりずっと勉強ができる」と感じているようです。とくに英語は,中学から全然わからなくて何をしたらいいのかさっぱりわからないし,英語の勉強なんて<自分にはどうせできない>と考えていることがわかりました。つまり英語学習に関しては,「結果期待」も「効力期待」も最低の状態にあったわけです。

  実際,入学後のガイダンスや授業開きで,具体的な学習方法(予習では単語の意味を調べて,英文に何が書いてあるか考えてくるなど)を指示しても,実際に行動を起こすことはありませんでした。結果期待にはたらきかけるような指導をしても,それが自分にもできるという確信,つまり効力期待が低かったため,行動に結びつかなかったのだと考えられます。

Part 1 辞書を引く

  <とにかく今できることから…>と先生は考えます。そこでまず,辞書を使って単語の意味を調べることができるように,という目標を立てました。もともと1年生の最初は辞書指導をしているのですが,その後も毎時間必ず1回は全員で辞書を引く活動を行いました。

  B君が持っていた辞書は,中級者用のあまり見やすくない辞書で,はじめはまったく自分で引こうとはしませんでした。そこで先生は,「辞書をひいて」という指示ではなく,行動を小さな単位に分けて具体的に指示するようにしました。机間巡視をしながら一緒にアルファベットをたどって,「sの次はcだよね。今ここsa…だから,a,b,c…でもう少し後ろだよね。」などと,一つひとつの手順を個別に教えていったのです。すると彼も素直に従い,時間はかかりますが,自分で単語を引けるようになっていきました。

  授業では,各生徒に最低1回は指名するようにしていましたが,B君には,なるべく辞書で引いた単語の意味を答えさせました。はじめのうちは,指名されると,辞書に書いてあることですら「これでいいの?」といった表情で不安そうに小声で答えていましたが,しだいに自信を持ち,普通の声の大きさで答えるようになりました。

  それと同時にB君は,少しずつ他の生徒に「これでいいのかな?」などと質問したり,他の生徒のやり方を見せてもらうといった積極性を見せるようになりました。以前は,先生からはたらきかけなければ何も言わないような生徒だったのですが,自分から質問するようになったのです。

  こうした中で,やがて彼は,予習として新出単語の意味を調べてくるようになり,授業で「この単語の意味は?」と全体に問うと,自分から挙手して答えるようになりました。そのころには,「単語の意味なら<自分で調べられる>」という効力期待が育っていたと考えられます。

  この経過について,先生は次のように分析しています。

  行動を具体的に指示し,また目標を低いところから設定することにより,「何をしたらいいのか」がわかり(結果期待が高まる),同時に「自分にもできそうだ」と判断できたから(効力期待が高まる)だと考えることができる。そして実際に辞書を引き,自分にもできたという経験(遂行結果)を得ることができ,それが次の行動への自己効力を高める重要な情報源として機能したと推測できる。

  加えて,他の生徒に質問するようになったことで,彼は,観察学習という,自己効力を高めるもうひとつの情報源をも手に入れたのである。

  ちなみに,B君の効力感が,「単語の意味がわかる」ということではなく,「わからなくても自分で調べられる」という感覚であったことは,Bandura流の自己効力の性質をよく表していると思います。

  Part 2 音読する

  B君は,音読にも強い苦手意識を示し,実際,最初のころは"open"すら読めない状態でした。ここでも先生は,具体的な指示を出していきます。

「カタカナ振っていいから。それで何回も発音して,だいぶ覚えたなと思ったら,(カナの振ってない)英語だけのプリント見て読んでみて。それで忘れた単語はチェックして,あとでその単語だけ何回も発音して…」

  辞書引きのときと同様,彼は素直に指示を聞き入れ,音読テストでの合格をめざして,積極的に取り組むようになりました。英語を発音することへの抵抗が少なくなると,それは,英単語の学習にも効果を及ぼしました。B君は,今度は<単語を発音して覚える>ことができるようになったのです。

  「覚える方法」を身につけた結果,はじめは10問中0~1問しか正解できずにいたのが,6~7問程度は正解するようになり,不合格だったときは,「これ覚えたはずなのに!」などと悔しがるようになりました。テストの準備でも,他の生徒と問題を出し合いながら楽しそうに取り組む姿が見られるようになりました。こうしてB君は,1学期はじめとは別人のように,のびのびと前向きに英語の学習に取り組むようになり,1学期の終わりには,クラスを活気づける存在になっていたのです。

ポイント

  具体的で達成可能な目標設定によって自己効力を高めるというテーマは,Bandura & Shunckの研究でも出てくるテーマですので,とくにこれ以上説明の必要もないと思いますが,ちょっとよけいなことを書いておきましょう。

  自己効力に関しては,結果期待と効力期待とを区別したうえで,効力期待に焦点を当てる必要性がある,というのがBanduraの見解ですが,結果期待と効力期待とは,完全に独立というわけではありません。とくに,効力期待を育てるという観点からいえば,結果期待へのはたらきかけなしには考えられない,といっていいでしょう。やり方がわかり,実際にやってみて成功することが,効力期待を高めるのです。

  教師のはたらきかけも,基本はやり方を教える・結果期待を高めることにほかなりません。効力期待を強調したからといって,何か特別なことを要求しているわけではないのです。ポイントは,ですから生徒の理解や意欲の状況に応じた課題の選択,目標の設定という点に配慮するということになるでしょう。口で言ってしまえば,教師のはたらきかけの基本中の基本で,すでに言い古された事柄ではありますが,<自分にもできそう>という効力期待を高めるためのやり方だと考えれば,言い古された基本も,ちょっとはちがって見えてくるのではないでしょうか。

- Part 2 につづく -


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