ひとりごと


保存箱 2001.01-06

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● CONTENTS ●

■01.06.18. 子どもにマイクを向けるな

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  また学校を舞台に陰惨な事件が起きてしまった。大阪の小学校で起きた,児童殺傷事件である。事件の概要はインターネットのニュースサイトで知ったのだが,帰宅してテレビを見て,愕然とした。それは事件が悲惨だったからではない。どの局も(そんなにあちこち見て回ったわけではないが),長々と児童へのインタビューの画面を流していたからだ。事件当時の凄惨な状況をじつに淡々と語る子どもたち。それが痛々しい。夜のニュースでは顔は隠してあったが,話によれば夕方の段階では顔もそのまま映していた局があったらしい。いったい何を考えているんだろう。

  メディアはなぜ平然と子どもたちにマイクを向けるのか。彼らは目撃者ではない。れっきとした事件の被害者なのである。犯人の恐怖をまさに自分のものとして体験した当事者なのである。目撃者ならマイクを向けていいというわけではないが,たまたま通りかかって「傍観者」として事件に遭遇した人であれば,多少とも冷静に事件の様子を表現することは可能であるかもしれない。しかし,メディアがマイクを向けた相手はそうではない。自ら途方もない大きさの恐怖を一瞬にして背負った被害者なのである。彼らに事件の様子を思い起こさせ語らせることが,いったいどのような影響を与えるか,わかっているのだろうか。

  できごとを人に語るという行為は,基本的に,そのできごとに関する記憶を頭の中に生き生きと蘇らせる作業を必要とする。そしてその記憶を整理して頭の中に固定する役割を果たす。メディアが行ったことは,子どもたちに,事件の記憶を思い返させ,頭に焼きつける作業を強いるということにほかならない。

  子どもたちが一見冷静に事件のことを語っていたのは,もしかしたら事件のショックが大きすぎて,自我を防衛する機制(話すのを拒否したり強い感情反応を示したり)がうまくはたらいていなかったからかもしれない。そしてそれが,事件を生々しく伝えられるということで,取材者たちのかっこうのターゲットになってしまったのかもしれない。

  同じニュースで,子どもたちの心のケアがだいじだとか,そのために専門スタッフが動き出したと伝えるのを聞くと,いったいこの人たちは伝えているニュースの中身をまともに理解しているのだろうかと,つくづく暗澹たる思いに見舞われてしまうのである。



■01.06.12. コンフェデ杯 その2

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  バスはスタジアムを半周するような形で駐車場に乗り入れる。降り立った白鳥をイメージしたというスタジアムの曲線が,暮れかけてきた空に浮かびあがって美しい。ゲートをくぐる前に,まずは荷物検査。さすがワールドカップの準備大会。いちおうカバンを開けてチェックを受けるのだ(ほとんど形だけだったけどね)。

  階段をあがってスタンドに入ったとたん,視野いっぱいに広がる緑のフィールド。そしてスタンドの歓声。まだ2時間も前だというのにかなりの盛り上がりだ。

  試合前,心配していたことが一つある。前評判ではカメルーンの実力はかなり高く,日本が一方的に押し込まれるような展開になるかもしれない。つまり,サイドによっては45分間何も見えないような場合もあるかもしれないのだ。ま,後半はサイドが変わるからいいようだけど,そのころには日本がそろそろ反撃に転じたりしてね。だから,コイントスが終わって日本選手が反対のコートに散っていったときは,正直(ありゃあ…)と思ったものだ。しかし,試合の展開は予想とはまったくちがっていた。

  日本は試合開始直後から積極的に前線にボールを入れてくる。早々に,小野からのパスを受けた西澤がシュート(DFがカット)。直後に中田浩のロングボールに追いついた鈴木がゴールを決める。どちらもほんの目の前のできごと。周りはそのたびに絶叫し,スタンドは文字どおり地響きをたてて揺れる。いやあ,すごい迫力だ。この雰囲気を味わうだけでも,見にきたかいがあった。

  私たちの後ろの席の人たちは,試合中ずっと立ちっぱなしで,ずっと声を出していた。選手入場時の“ニッポン,チャチャチャ”をはじめとして,聞き覚えのある各種応援歌,選手個人へのかけ声,応援歌。途切れる間もなく声を出している。しかも,よく通る太い声で。20以上はありそうな応援パターンをきっちりこなしているのにも感心したが,試合が終わる近くになっても声が嗄れないというのもすごい。

  試合後半に,どうした加減かスタンドの応援が一瞬止まり,シンと静まり返る時間があった。選手たちが走る音,ボールを蹴る音が浮かび上がる。静寂の中で,川口がDFの選手をコーチングする声が凛と響く。これもまた,緊迫感があっていい。静寂はおそらく,1分と持たなかっただろう。ハッと気づいたように,後ろの応援の人たちがまた声を出しはじめる。

  さて,文を推敲しているうちに,大会は日本の準優勝で幕を閉じた。終わってみると,カメルーン戦はもっとも日本代表らしい試合だったそうだ。なんという幸運。たしかに見ていてとても楽しかった。中盤のプレスがあまりキツくなかったせいか,中盤から前線へのボールの展開が思い通りに決まっているように見えた。一方,期待していたカメルーンのドリブル突破だが,後半私たちのいるサイドが日本ゴールになった頃には,もう疲れはじめていたのか意外にドリブルが少なく,なんだかすぐにパスの相手を探しているようにみえた。それだけはちょっと残念だが,それも,日本の試合運びがうまかったからということなのだろうか。



■01.06.05. コンフェデ杯

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  コンフェデレーションズカップを観に,家族でビッグスワン(新潟スタジアム)に行ってきた。Jリーグの試合は観たことはあるが,日本代表ははじめて。ワールドカップ本選よりは当選確率が高いだろうという読みがみごとにあたって(?),6月2日対カメルーン戦のチケットが,幸運にも届いたのだ。カメルーンは,昨年のオリンピック決勝を見てすっかり気に入ったチーム。あのサイドの自在なドリブル突破が見たかった。

  届いたチケットはゴール真裏の1階席(カテ1は高いし,カテ2は数が少なくて倍率高そうだし,安くて数の多いカテ3で申し込んだのです),しかも前から5列めといういい席。幸運を喜ぶ一方で,ゴール裏はサポーターが騒ぐ場所でゆっくり見られない,という話が頭をよぎって,一瞬不安にもなり…。

  そうこうしているうちにビッグスワンでの第1戦,対カナダ戦が開催される。直後,TVでもインターネットでも,会場へのアクセスの悪さが一斉に報じられ,ちょっとあせる。競技場はマイカー乗り入れ禁止なので,アクセスは駅からのシャトルバスしかない。そのバスが1時間待ち,2時間待ちの混雑で,何時に競技場に着けるかわからないというのだ。1時間かけて歩いたほうが確実との情報も流れていて,そこまでひどいのかと驚く。

  それで,あわてていろんな情報を仕入れて回る。いちばんの問題は駐車場をどこにするか。そして何時に会場に向かうか。渋滞覚悟でシャトルバスで行くか,それとも徒歩で行くか。タクシーは渋滞にかからないか…。考えはじめるとどんどん心配が増える。

  結果,事前研究のかいがあって,アクセスは予想以上に順調にいった。週末なので満車を心配した駐車場は,予定通り安いところにとめられたし,1時間待ちを覚悟で駅からシャトルバス乗り場に向かうと,たしかに長い列が続いてはいるが,ふつうのスピードで歩けるくらいには列は進んでいる。2日前には,まったく列が動かず大混雑の様子があちこちのニュースで映し出されていた切符売場も,スムーズに進む。売場になっている広い駐車場は,ちょうどディズニーランドの待ち行列のようにつづら折りの通路が作られ,うんざりするくらい歩かせられるが,少しずつ流れているのでストレスはたまらない。切符を買った後,一時列がすいて,小走りでないと前の人に追いつかなくなる。すいているのなら,通路をショートカットさせればよけいに歩かなくて済むのにと思っていたら,ササッと係の人たちが寄ってきて通路を直していた。これもディズニーランド並み。バス乗り場も,2日前は列の前から1台ずつバスに乗せていたそうだが,この日は手際よく列を区切って数台のバスに誘導し,満員になりしだい発車していた。

  けっきょく,心配した混乱はまったくなく,気が抜けるほどあっさりとバスはスタジアムに着いた。まだ試合開始2時間前。2日前の混乱はメディアを通してしか知らないが,たった2日の間に,ほんとうによく改善したと言えるだろう。

  バスから眺める道路の両側には,思い思いの選手名を背中につけた青いユニフォーム姿の人たちが歩道を埋め,道沿いのコンビニの弁当は軒並み売り切れ。スタジアムの収容数42,300人という規模の大きさを,少しだけ実感した。ちなみに,ワールドカップ決勝会場となる横浜国際競技場は,70,000人収容だ。



■01.05.18. ウイルス

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  さすが『ニセ首相官邸』,首相交代と同時に内容を更新。ホンモノのWebサイトがデザインを一新したら,みごとにそれに合わせてデザインを変更している。おかげで,前回の世論調査のページもURLが変わってしまったので,あわててリンクを直した。

  さて,先日はじめてウイルスつきメールを受け取った。これまで,無差別にコマーシャルのメールを送りつける,いわゆるSPAMは何度となく受け取ってきたが,なぜかウイルスにはずっと無縁で,騒がれてはいるけれどいったいどんなものかはっきりとはわからなかったのだが。

  届いたメールは見るからに怪しい,本文なし添付ファイルのみのメール。添付ファイルの拡張子は,案の定vbs。せっかくの初メール,ネットワークにつながっていないマシンに移して中身を覗いてみようかともチラッと思ったが,やっぱり怖いので,即ゴミ箱行きにした。

  この手のマクロウイルスは,Microsoftの製品群に共通なマクロ言語で書かれているそうなので,こっそり忍び込んだウイルスがいつのまにか動き出したりしないよう,ネットワークにつながっている端末には,極力Microsoft製品をインストールしないでいる。ワープロもメーラーもWebブラウザも,みんな非Microsoft製品だ。しかし困ったのはIE。Webの見栄えをチェックするためにこれだけは削除するわけにいかない。必要なとき以外は起動しないようにしているが,最近はインストールしているだけで感染してしまうウィルスもあるのだそうで,悩みは深い。

  そういえば,あのウイルスメール。どこから送られてきたか,チェックもせずに捨ててしまった。残念。



■01.04.13. 世論調査という名の

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  おもしろいWebサイトを見つけた。いきなりこのページを開くとめんくらうと思うので,念のためにトップページを紹介しておくと,ここは『ニセ首相官邸ホームページ』。その「ニセ施策」のひとつがこのページというわけだ。

  で,ここで指摘されている「バイアスのかかった」支持率という批判は,けっこういいところを突いている。こんなふうに,調査者が一定の結論を頭の中に思い浮かべながら,その結論に誘導するような設問を意図的・無意図的に作ってしまうことの問題は,心理学でも古くから指摘されていて,研究法の授業ネタとしても格好の材料なのだが,こうして各新聞社の設問が並べられていると,なるほどと思える。そういえば,「支持率10%以下に低下」というセンセーショナルな内容についつい注意が向き,いちいち元の設問を細かくチェックしたりしなかったが,これでは,世論を調査しているのか,一定の世論を形成しようとしているのかわからない。

  対象者のサンプリングは,きちんと書かれているとおり,さすがにしっかりしているんだけどね。(ちなみに,心理学の調査は逆に,サンプリングがなってないので一般的な結論はとても導き出せない,とよく批判されます)

  それで,“バランスのとれた”支持率調査設問(案)が,実にいい。ネガティヴな行動だけでなくポジティヴ(?)な行動を評価させてバランスをとろうとしたり,直接関連のない質問を入れて調査意図をぼかそうとしたり,やり方としてもまちがっていない(と思う,たぶん)。対象者側からのバイアスを避け,より深層での態度をはかるため投影法を使う(!!)というのも,心理テストではよくやることだ。

  それにしても,ロールシャッハやTATの結果,どうやって集計するんだろうね。



■01.03.23. 卒業式

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卒業生  昨日は卒業式。いつもならなんということもなく過ぎてしまう日だが,今年は,はじめて担任した学部生24人が巣立っていく日。まあ,担任といってもたいしたことはしていないのだが,それでもさすがに4年の間にはいろいろあって,ときには学生は知らないけれど裏で走り回ったことも(ほんとにたまには)あったので,卒業ともなるとやはりうれしい。4年間大きな事故や問題がなくて,ほっとしてもいる。

  大学全体の改革の陰ですっかりかすんでしまったけれど,この学年は,学校教育が独自に進めてきたカリキュラム改革の最初の学年にあたる。カリキュラムの骨格は固めたものの,走り出してみると授業どうしがぶつかっていて必要な単位がとれなかったり,教官の転出で予定していた授業が開講されなかったりと,特に前半2年はいろいろ手直ししながらの運営。ようやく4年一回りしてシステムが安定してきたと思ったら,いつのまにか学校教育自体がなくなって新しいコースになる(正確には学校教育が2つのコースに分かれる形だが)ということで,やはりこの世は無常である。

  ところで昨日の式,担任は壇上に上がって卒業生の名前を読み上げる役割になっている。いやあ,これは緊張しましたねえ。近年こんなに緊張したことはついぞないと思うくらい,緊張した。だって,学生にとっては一生に一度の卒業式,名前をまちがえたり,一人飛ばしたりしたら生涯恨まれるにちがいない。同窓会でもあろうものなら,絶対ネタにされるはず。さらに,会場には保護者の方も見えているのだろうなあと思うと,緊張はいっそう高まる。それに,このところ春先になるといつも,アレルギーなのかせきがひどく,この日も朝からのど飴をなめながらの出番待ち。これも大きな不安材料だ。

  やがて,事務の人たちが慌ただしく動き回り,来賓の方々が席に着いて,いよいよ開式。控室には私たち読み上げ係の担任だけが残って待っている。するとだれかがぼそっと,「去年,○○コースでひとり読み飛ばされたんですよね…。」うわあ,聞きたくなかった。

  そうこうするうちに,事務の人に促されて,いよいよ壇上へ。学校教育は1番目なのだ。他の先生を見本にするわけにもいかない。のどが痛い。第一声,「学校教育専修」。あれ? 声が出ない。困った。あわててツバを飲みこむ。もう一度第一声。ひとりめの名前を呼ぶ。あれあれ? 返事が聞こえない。だれも立たない。まちがったか? 声が届いていないのか? 緊張はもう極限状態。どうも学生のほうも1人めで緊張していたらしい。事前に返事して起立するよう説明はあったらしいのだが,よく聞こえていなかったそうだ。

  間が空くのも怖いので,続いて2人目を呼ぶ。「はい!」という返事。よかったあ。ここでようやく落ち着きを取り戻す。あとは勢いで。

  終わってから気づいた失敗。名前を呼ぶための原稿を,いつものくせで手に持ったまま読み上げていたのだが,あれは演壇の上において会場から見えないようにすべきでしたね。事前の頭の中でのシミュレーションでは,どんなふうに読むかだけでせいいっぱいで,原稿をどこに置くかまでは考えてなかった。反省。

    (写真は研究室に来てくれた卒業生たち。クリックすると大きくなります。)



■01.03.20. 脱・成果主義

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  3月19日付の朝日新聞(12版)のトップ記事は,富士通が成果主義にもとづく賃金・人事制度を見直すことを大きく報じている。知らなかったのだが,富士通という会社は年功序列を廃止して成果主義を導入した先駆的な企業なのだそうである。その先駆者富士通が,成果主義を見直す。

  記事によれば,成果主義の弊害は次のようにまとめられるようだ。

  1. 失敗を恐れるあまり長期間にわたる高い目標に挑戦しなくなったため,ヒット商品が生まれなくなった

  2. 納入した商品のアフターケアなどの地味な通常業務がおろそかになり,トラブルが頻発して顧客に逃げられる

  3. 以前は仲間で仕事をカバーし合っていたが,自分の目標達成で手いっぱいになり,問題が起きても他人におしつけようとする

  おもしろいことにこれらの問題は,動機づけの研究者たちが競争構造やパフォーマンス志向性の問題点として早くから指摘し,実証してきたものである。それらの問題が,実社会の中でも認められたわけだ。これはなかなか興味深い。そしてまた,この問題は,「成績主義の教育」にもそのままあてはまるのではないか。

  さて,じゃあどのように見直すかというと,「短期的な成果だけを評価の対象にすることをやめる。長期的なプロジェクトや,結果的に失敗に終わった業務でも,どれだけ熱意をもって取り組んだかも考慮に入れるなどプロセスを重視した仕組みを取り入れる」のだそうだ。「プロセス重視」というのは,最近の教育評価でもキーワードになっていて,動機づけで言えば,マスタリー志向の動機づけを育てようという試みとも考えられるのだが,しかし教育現場での評判は芳しくない。内申書や興味関心の評価など,プロセスを評価する指標の導入によって,かえって日常の学校生活すべてが評価対象となり,毎日監視されてでもいるような窮屈さとプレッシャーを,子どもたちが感じているのではないか,また成績にくらべて熱意や努力は評価基準がわかりにくいので不安を感じるのではないかとの指摘もある。

  社員の動機づけを高く維持しながら,どうやって熱意や努力といったプロセスを評価するか。富士通がこれからどのような仕組みを確立していくか,注目していきたいと思う。



■01.03.12. テレビと暴力 (2)

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  しかし,Banduraたちの立場に100%立つと,なんだかとても窮屈になる。これだと,子どもに暴力のふるい方を教えてしまうおそれのある事象はすべて規制しなければならなくなるからだ。それこそ,包丁もナイフも金属バットも,正しく使える人じゃなければ買えなくなってしまう。そこで,先の2.の方の検討が必要になる。つまり,

あの映像を見て「いじめ」に走るのは,視聴者のほんの一部であり,それは映像のせいというよりは,基本的に本人の心に何らかの問題があるからだ。大多数の健全な視聴者には悪影響はない。

という批判である。これは,私も基本的に同感である。危険なものは目に触れないように隠しておく,というのは小手先の対処法であって,根本的な解決ではない。むやみにテレビのまねをさせないためには,番組をなくしてしまうのではなく,その行為が一歩まちがうといじめにつながるということを,きちんと話してあげるのがスジだろう。有害な情報に接したとき,それを正しく判断できる態度を育てることだ。

  しかし,そうした態度を育てる親のしつけや学校での教育の現状を考えてみると,そうそう楽観的でもいられないのも事実である。つまり,しつけがしつけにならないという状況があるのではないか。だいたい,テレビは各部屋にあるので,たとえ「こういう番組はいじめにつながるから見るんじゃない」と親がチャンネルを変えたとしても,子どもは自分の部屋で自由に見られる。このあたりが,「本人の問題」とか「しつけの問題」と,スジ論を通しきれないところなのではないだろうか…。

  やはり,授業での話と違って現実の問題はむずかしい。けっきょくのところ私はこんなふうに考えている。まず第一に,番組への「批判」と「規制」を分けて考えたほうがいいだろう。で,第三者機関が番組をモニターして,きちんとした理由を付して批判することは,良いことだと思う。「暴力的行為を面白おかしく扱い,芸人たちが笑いながらそれを受け入れることにより,暴力的行為を肯定しているというメッセージを,視聴者に向けて発信している,つまり暴力的行為のモデルを正の強化とともに提示している」という視点をきちんと提示し,公開するなら,それはむしろ歓迎すべきことなのではないだろうか。

  視聴率という基準が唯一の基準として君臨し,おもしろければ何をやってもよい,というような方針で制作されるのは,特に子どもたちに向けた番組にはふさわしくない(今回の番組がそうだというのではなく,一般論として)。そういう意味で,判断材料としていろいろな視点を提供することは重要なことだろう。

  しかし,批判が即「規制」につながるとしたら問題だ。これでは,視聴率という基準がなんとか委員会の承認という基準に置き換わっただけで,単一の視点で番組が作られるという状況に変わりはない。多様な人々が多様な視点を主張すればいい。そうした主張を受けとめながら,視聴者一人ひとりが判断し,選択すればよいのではないか。…まあこれも,家庭での判断力の育成がうまく機能していることを前提にしているので,かなり危ういのだが。

  映画「バトルロワイヤル」をめぐって国会議員が規制を徹底せよと提言し,制作者が激しく反発している,というように論争になっているほうが,そしてそれがそのまま報道されているほうが,無責任な言い方だがよほど健全なのではないか,などと思ってしまうのである。



■01.02.28. テレビと暴力 (1)

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  学部の授業で「観察学習」の話をするとき,大御所Banduraの,攻撃行動のモデリングの実験をネタに使っている。人形に対して暴力をふるっている映像を見せると,幼児たちは報酬もなくリハーサルもしないのにその行動を覚えてしまう,というのがBanduraたちの実験である。そのついでに,暴力映像は是か非かという,当時の論争についてもちょっとふれていて,その際は,暴力映像は危険というBandura側の立場に多少は肩入れすることになる。

  そんな関係で昨年末から少し気になっているのが,バラエティ番組の内容に「いじめを助長するおそれがある」とクレームをつけた「放送と青少年に関する委員会」の見解と,批判対象となったコーナーの打ち切りを決めたテレビ局に対する世間の反応である。

  この問題に対する意見を書いているWebサイトをちょっと探してみた。「こんなにおもしろいコーナーなのに…」というだけで明確な理由を示していないページがほとんどなのだが,ちゃんと書いてあるページを拾って読んでみると,意見はこんなところにまとめられるように思う。

  1. この内容が「いじめ」だとは思えない。自分自身,これがいじめであると思ってみたことは一度もない。

  2. 「いじめ」につながるのは個人の問題で,番組が悪いわけではない。そういう理屈なら,殺人につながるから包丁・ナイフを売るなというのも同様である。

  3. かつてワースト番組の常連だった「8時だよ!全員集合」も,今では高い評価を受けている。これだけ視聴者に支持されている番組を批判するのは,たんに頭が固く古いだけなのではないか。

  1.は,まさにBanduraたちが明らかにした事実へとつながる。実験では,「悪い行為だ」とわかっている場合は,たしかに自発的にその攻撃行動をまねする頻度は低いのだが,お菓子で誘導して行為を再現させてみると,彼らもまた「勇ましくてほめられるべき行為」だと思っていた幼児たちと同じくらい,攻撃行動を再現したのである。つまり幼児たちは,攻撃が悪いことだとわかっていてもいなくても,同じくらい攻撃行動を覚えてしまったのだ。攻撃行動の善し悪しという価値判断とは別に,攻撃行動のやり方そのものを覚えてしまったのである。

  「番組では,みんなでルールを決めたうえで,罰としてやられているのだから,いじめではない」という意見はたしかにそうなのだが,「袋だたき」という行為は記憶されてしまうので,なにかのきっかけでルールのない袋だたきを面白半分に実行してしまう危険性は,あるわけだ。

  だから。いじめだと思ってみているかどうかは問題ではない。いじめへと容易に転化しうる行為そのものを学習していることが問題なのだ。新入生にイッキ飲み防止の啓発ビデオを見せると,その後のコンパで必ずビデオのシーンと同じようにイッキ飲みを始めるヤツがいるのも,同じことだ。

  というのが,Bandura側に立った暴力映像反対派の主張なのだけれど…。  (つづく)



■01.02.16. 手になじむ

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mouse photo  昨年後半からマウスの調子が悪くなった。右方向への反応が悪い。だから使っているうちにカーソルがだんだん左端に寄っていってしまう。ガシガシと力を入れて左右に振ってやるとなんとか元にもどるが,思うように動かないのは,思った以上にストレスがたまる。マウス操作が中心のWebの閲覧は特につらい。

  そこで,つらいWeb操作をがまんして,いくつかのメーカーのサイトを回った結果,たどりついたのがこのマウス。一見不思議な形をしているが,使ってみるととても手になじむ。ちょうど掌をかぶせている感覚で,窮屈に握っている感じがない。動かしやすいし,光学式なので小さい動作に確実についてくる。クリクリ回すホイールも,意外に心地よい。いっぺんで気に入ってしまい,思わず研究室にあるもう1台のパソコンのマウスも,取り替えてしまった。値段はマウスにしては高いけれど,なかなか良い。

  短時間の操作なら,どんなマウスだってそうちがわないが,グラフィックを扱うときなど,細かい操作を長い時間続けなければいけないときは,マウスの使いやすさはけっこう大きな問題である。使いにくいマウスはすぐに疲れてしまう。

  なんだかただのメーカーの宣伝みたいになってしまったけれど,新しく作りはじめたコース紹介パンフレット(新年度版)は,このマウスのおかげで快適に作業が進んでいる,ということを付け加えておこう。



■01.01.29. 人間性を育む(その2)

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  先の「国民会議」の資料,いいこともちょっとは書いてある。まずは,これ。

  これが人間性の育成とどうつながるのか,またまた首をひねるしかないのだが,たしかにこれは言える。ぜひ実行してもらいたい。私,就職したてのころ,税金関係の提出書類を書くとき,「詳しい書き方は説明書きをよく読めばわかる」というのでいっしょうけんめい読んだのだが,たったの1行も理解できなかった覚えがある。あれはショックだった。Aの場合はこう,Bの場合はこうと説明されてはいるらしいのだが,A・Bとは何か,その用語そのものがわからないので,ちっともその先に進めないのだ。最近では記入例がつくようになって,ずっとわかりやすくなったが。

  もっとも,大学の先生の文書もけっしていばれるものではない。どうも,わざとむずかしい漢語を並べたうえに,ムダな修飾語でごてごてお化粧した文章が,よしとされているようなところがあるのだ。だいたい文書の中身自体がミョーに抽象的で具体性に欠ける。そのうえこの文章だから,理解するのがたいへんだ。この提言,けっして他人ごとではないのである。

  これもいい。ただし,ただの休暇制度じゃ実効性が低い。たとえば,学校に出向いて授業の補助をする場合や,地域でのスポーツクラブ・カルチャークラブの指導をする場合に,平日でも学校や地域に出て行けるよう,有給のままでの「講師派遣」の形がとれるようにする。また,そうした活動を積極的に進めている企業を優遇するような税制を考える。そうすれば,学校でももっと地域の人材を活用したカリキュラムを作ることができる。昨今運営がむずかしくなりつつある部活動を,円滑に地域のクラブに移管することもできるかもしれない。とにかく,父親を家庭に返すという発想だけでは,すぐに限界が来る。もっと広く公的な場所で活躍できる機会を,作ったほうがいい。

  もちろん,ここで「父親が」と限定する必要はない。働いている人たちみんなを対象にすればいい。

■01.01.04. 人間性を育む

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  これ,なんだかわかりますか? まるで飲み屋で教育談義を繰り広げるオヤジたちが吐いた放言・暴言を並べたような内容だが,実はこれは「教育改革国民会議」での委員の発言内容をまとめた資料だ。教育改革国民会議といえば,先ごろ一定期間の奉仕活動の制度化(義務化ではなくなったらしいが)を提言した,あの会議である。しかもこの資料は,その中で第一分科会「人間性」を扱う分科会での発言概要であり,「一人一人が取り組む人間性教育の具体策」なのだそうだ。すごいねえ,この内容。床の間と畳が人間性に対していったいどんな効果を持っているというのだろう。

  こんなのもある。

  傑作なのはこれ。

  いいねえ,これ。みんなどんな座右の銘を書くのだろう。まずは政治家が率先してこれを実行してもらいましょう。国会議員在任中は,選挙のときの公約を名刺に刷り込んで持ち歩くことを義務づけてはどうだろう。

  要するに問題はコトバの上での信念ではなく,本気でその信念を実行しているかどうかなのだ。どんなに立派な信念を示しても,そんなの子どもたちの心に響かない。ホンネとタテマエとの絶望的な乖離を,もうみんな知っているからだ。

  教育改革国民会議が奉仕活動の義務化を提言して以来,メディアではこのことが盛んに揶揄されている。たとえば「まず森首相に国民への奉仕を義務づけたい」。つまりそういうことだろう。言っていることは立派だが,やっていることといえば,自分の政党が生き残るために選挙制度を強引に変え,票につながるとなれば赤字財政も省みず新幹線を引くこと。そういう人たちが母国を愛せよといくら説いても,だれも従いはしない。従わないから,奉仕活動として位置づける。しかも義務化して強制する。この悪循環。結局,子どもたちは何も納得しないまま,いやいや従うだけである。それが子どもたちにどれほどの効果があるというのか。

  だから。もし,選挙公約を名刺に刷り込んだ国会議員たちが,その後行動を改めるようであれば,私も考えを変えよう。

  どうもこの会議の全体的雰囲気は,「おれたちのころの教育はよかった,今の教育はなってない」という懐古趣味に彩られているように見える。しかし,こうした厳しい教育を受け,奉仕の精神もさんざんたたき込まれ,戦後の厳しい時代をも経験してきたはずの世代のおとなたちが,その後どうなったかといえば,ある人は拝金主義者となってバブルに踊り,ある人はなりふりかまわず権力にしがみつこうとしている。そうした問題が,今あちこちで噴出しているわけで,それをみんなが見ているのである。これは実に皮肉なことではないだろうか。


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