ひとりごと


保存箱 2003.01-06

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■ 03.06.19. PowerPointをめぐる怪談

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  しばらくぶりの「ひとりごと」だというのに,なんかヘンな話題を書かないといけない。(あ,べつにだれも書いてくれとは思ってないのだろうけど)

  今日,「学校心理解析法」の担当部分を講義して,その時使ったPowerPointの資料をWebにアップした。そしたら,その日のうちに「見えない!」というメールが続々届く。さっそく自分でもチェックする。しかし,自分のところではちゃんと見えている。アップしたときもいちおう確認したのだから,まちがいない。おかしい。

  ちなみに,私の使っているPowerPointは2000。バージョンアップしていない。私が愛用しているブラウザはNetscape。今のバージョンは7.02。このWebサイトも,Netscapeでいちばんきれいに見えるように調整しているので,IEだと少し見え方が違う。さて,おかしいと思って,めったに使わないIEを立ち上げて,表示を確かめる。ありゃ,たしかに表紙1枚がどんと見えるだけで,次に進めることができない。なぜ?

  htmlを見て,原因を探るのが王道なのだけれど,ソフトのhtml出力というのはたいていごちゃごちゃ無駄な装飾が施してあって,かなり見にくい。めんどうなので,とりあえずの処理として,もう一度「html形式で保存」し,それをWebにアップする。

  よかった,今度はIEでもちゃんと見える。IE<でも>? 念のためNetscapeでも表示を確認してみる。すると,なんと今度はこっちがうまく表示されない。エラーメッセージのページに飛ばされてしまう。曰く,「このページはより最近のIEに都合がいいように作られているので,あなたのブラウザではうまく見えないことがある。それでも進みたい人はこっち」。そうまで言われたら,進んでみないわけにはいかない。敢然とリンク先をクリックしたら…,あららほんとに見えない。なぜ? ますますわからない。

  同じPowerPointからのhtml出力なのに,なんで一度目はIEで表示できなくて,なんで二度目はNetscapeで表示できないのだろう。しかも,ファイルをみてみると,一回目のファイルの大きさと二回目のファイルとでは,大きさが微妙に違っている。同じ保存操作をしただけなのに…。これ,どゆこと?

  2回の保存操作で何が違ったか。ひとつだけ思い当たることがあった。それぞれ別のOSが載っているマシンで作業したのだ。1回目はプレゼン用のノートでXP搭載。IE・Netscapeとも最新版を入れてある。2回めの作業は,Win98SEマシンで,こちらはネットにつながっていないので,標準でついてきた古いIEしか入れていない。

  もしやと思って,大学から配布されている端末(XPマシン)に入れてあるPowerPointでファイルを読み込み,3回めの保存操作。やはりまたできたファイルのサイズが違う。1回目のファイルはもう消えてしまっているので確認できないが。おそるおそるIEとNetscapeに読み込んでみると,今回はなんとかどちらでもちゃんと表示されるようだ。うむむ。

  <事件>は解決したのだが,心はちっとも晴れない。同じソフトなのに,作成環境がちがったら作成されるファイルがちがってくるって,いったいどういうことなのだろう。もしかすると,そのマシンにインストールしてある関係ソフトを調べて,それに応じて,ご親切にも最適な出力を考えてくれているのだろうか? そりゃ,個人でその出力を使うのならそれでもいいけれど,htmlなんてWebに載せて不特定多数の人たち(不特定多数のブラウザ)に見てもらうのが一般的な使い方だから,そんな配慮をしたって何もならない…どころかかえってよけいなめんどうがかかるだけだ。

  ほんとのことは何もわからない。しかし,どうもソフト側でよけいなお節介を焼いていることだけはたしかなようだ。これだからMicrosoft製品は! とためいき。これが今日午後の一騒ぎの顛末なのでした。


■ 03.03.04. 昔聞いた話…その2

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  子どもの頃何かで読んで,なぜか今でも忘れられないひとつのお話。ただのジョークなのだが,そのときはミョーに納得し,感心したものである。

  「近ごろ,新聞では毎日事件や事故の暗いニュースばっかりだけど,世の中どうなっちゃうの?」と聞く子どもに対して,父親答えて曰く,「大丈夫さ。ニュースは珍しいことほど価値があるんだ。だから,暗いニュースが新聞をにぎわすのは,まだまだ暗いニュースの方が珍しくて価値があるってこと。ほんとうに心配なのは,毎日新聞に明るいニュースばかりが載るようになったときなんだよ。」

  なるほど,なるほど

  さて,昨今のテレビや新聞。都会の川に迷い込んだアザラシが,今日は何分姿を見せたとか,だれかがエサをまいたとか捕まえようとしたとか,いやに克明に,また連日のように報道している。連日といえば,帰国した拉致被害者の人たち。地元と言うこともあるのだろうが,こちらはとにかく文字通り連日,一挙手一投足を欠かさず報道している。免許を取っただの資格をとっただの,どこへ行っただの,だれそれが訪ねてきただの,ほんとにどうでもいいような出来事を,際限なくとりあげる。

  挙げ句の果てに,甲子園出場が決まった高校がその人の母校だからといって,何かといってはコメントを求めたりする。なんだかその人のおかげで甲子園出場が決まったかのような扱いをしているものもあって,じつに迷惑な話ではある。

  こんな,どうでもいいような出来事が連日ニュースにとりあげられる今の日本の状況は,先のジョークからすれば,もしかするとほんとうに心配な状況なのではないだろうか。




■ 03.03.04. 雪国の美徳

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  たしか高校のときの美術の先生が,授業の中で言っていたのだと思う。ずっとそれは,先生のオリジナルな話だとばかり思っていたのだが,こちらにきてから,たぶん杉みき子さんが同じような話をされていると何かで聞いて,ちょっとがっかりした覚えがある。まあ,それはさておき。

  新雪が降り積もった朝,人の踏み跡をたどって歩いているうちに自然にできたような,人ひとりがやっと通れる細い道で。

  そんな細道を歩いていると,ところどころ道の<両側に>,道から足を踏み外して雪の中に足を突っ込んだあとが見られる。ほとんど必ず,それは道の<両側に>対になってある。ただ足を踏み外したのなら,それらはバラバラにあるはずだ。なぜ両側に対になっているのだろうか。特にそこが滑りやすい危険な場所というわけでもないのに。

  答えはこうだ。道が狭いので,当然すれ違いなんて無理。細道を歩いていて,向こうからも人が歩いてきたら,どちらかが雪の中に足を踏み入れて道をあけ,相手を通してやるしかない。さて,そうやって道を譲ってもらった人はどうするか。道はあいているのだから,その人は堂々とその道を通ることができるのだが,その人はあえて自分も雪の中に足を踏み入れて通っていく。だからそこには,道の両側に足を踏み込んだあとが残っているわけだ。

  「君たちは笑うかもしれないが,自分から雪の中に足を踏み入れて他人を通してあげようとすることも,そうして相手が冷たい思いをしながら道を譲ってくれたことに対して,自分も雪の中に足を踏み入れて答えようとすることも,雪国の人たちが培ってきたたいせつな美徳なんだよ。」と先生は言った。

  翻って現代。譲りませんねえ,みんな。つくづくそう思う。道いっぱいに広がって歩くということに,何の抵抗もないように見えることが,すごく多い。狭い廊下で向こうから人が来るのが見えていても,横方向に少し詰めて,人ひとりやっと通れる空間を作ればそれでOK。ぶつからないために相手が体を横に向けてようやくすれ違っているのに,まったくそのことに気づかない。自分が列の後ろに下がって,空間を広くあけようという発想をしてくれる人に,なかなか出会えない。

  ふだん生活している場所が場所だけに,どうしても学生・院生に目が向いてしまいがちだが,この傾向はけっして若者だけではない。自分たちのおしゃべりに夢中で傍若無人なオバさんグループも,けっこう始末が悪かったりするし,おぢさんたちだってそう変わらない。

  いったいいつからこんなふうになっちゃったかなあ。今,「雪国の美徳」なんて話をしたって,きっとだれも見向きもしないにちがいない。「せっかく譲ってもらったのに,わざわざ雪に足を突っ込んで何の意味があるの」と一笑に付されるだけかもしれない。でも,「君たちは笑うかもしれないが……」。



■ 03.02.06. 『指輪物語』その後

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  昨夏から我が家もADSL環境になり,情報探索が格段に楽になった。何を調べたらいいかわからないものは,とりあえずキーワードを入れて検索をかければ,たいていどこかのサイトが引っかかってくるし,きちんと解説してくれているサイトに,必ずといっていいほど行き当たる。世界中を探せば,それぞれのトピックにこだわりを持っている人が,必ずどこかにいるということだろう。それに気づくだけでもおもしろい。

  『ロード・オブ・ザ・リング』の2作目が出るというので,昨年末から,検索をかけてみているのだが,その中で,1作目「旅の仲間」の字幕に対する抗議運動というのがあることを知った。しかもそれは,そうとう大々的な運動であった。原作を理解していないための誤訳があまりに多く,このままでは作品に対して誤った理解を生じさせかねない,というのがその主張である。

  最初は,やはり原作がいわゆる古典的な名作だから,自分の持つ『指輪物語』の世界観を壊されたくない,というようなコアなファンたちの運動なのかと,ちょっぴり疑っていたのだが,そんなことはまったくなくて,抗議の内容はひじょうに論理的で,そして徹底している。映画を見て聞き取った原文と字幕とを対比して,ここは原作に照らすとこういう意味だからこの翻訳はまちがっているという解説が,綿密に繰り広げられている。しかも,字幕の改善案まで(字数までちゃんと考慮して!)提示されている。

  たとえば,次第に指輪の魔力に魅入られて,自分を失ってしまうボロミアが,字幕では自分の意志にもとづいて,指輪を狙う悪党として描かれていることが指摘されている。たしかに,いくつかの字幕を並べてみると,そんなふうに性格づけされているらしいことがよくわかる。そのほか,体格に似合わない頑固さと粘り強さを持っているはずのホビット族を,長年の友人であるガンダルフがなぜか理解していない(つまり翻訳者が理解していない)とか,アラゴルンに対してフロドが突然ぞんざいな口をきく,というような字幕の奇妙さが,いろいろな部分で指摘されているのだ。

  そしてまた,そこでは“our people”という言葉にもこだわっている。最後のボロミアの死の場面,アラゴルンが語りかけ,ボロミアがそれに感銘を受けて繰り返す言葉である。このpeopleとは何を指すか。ourは何の意味なのか。

  原作では「二つの塔」の冒頭に置かれているボロミアの死だが,映画ではこれを第1作のクライマックスとして用いている。そして,そこに至るアラゴルンとボロミアの心の変遷が,映画では大きなテーマの一つとして描かれているわけだが,字幕の表現では,なぜボロミアがアラゴルンの言葉に感動したのかがひどくわかりづらくなってしまう…ということが,ていねいに,明晰に解説されている。なるほど,なるほど。

  ここまで誤訳解説のページを読んできて,はたと気づいた。このページは,抗議というよりはむしろ,良質な作品解説になっているのである。映画を何度か観たあと,この対訳ふうの解説ページを読むと,とてもよくわかる。このシーン,この言葉にはこんな意味があったのか,といろいろなことに気づく。

  昔,国語の授業で,文学作品を一文ずつ細かくこれはこうであっちはどうでと先生が解釈を進めていくのを,けっこう冷ややかに聞いていた私だが,同じように一文ごとの対訳・解説の文章なのに,このページは一気に読めてしまうのである。

  やはり,こだわりを持っている人たちのパワーは,すごい。

※  ※  ※

ちなみに,この文章を書いていたのはだいぶ前で,そのころには,映画のセリフと字幕の内容をほぼ全文にわたって記載し(何度も映画を見ながらメモをとったそうだ),その誤訳を解説しているWebサイトが存在していた。この文章はだから,そのページについて書いたものなのだが,著作権の問題からか,それともビデオ発売時に字幕が改善された(らしい)ためか,そのページはいつの間にかなくなっている。

現在は,そのほんの一部が「憤慨字幕一覧」に残されているようだ。それから,抗議運動とは関係ないが,ボロミアの死の場面の解説は,「ピーター・ジャクソンのアラゴルン解釈」がわかりやすい。




■ 03.01.23. 参考図書

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  すっかり書くのを忘れていた。昨秋読んでおもしろかった本。

授業を考える教育心理学者の会 1999 『いじめられた知識からのメッセージ』 北大路書房

  なにかいかにもあやしげで,ちょっと手にとってみるのに勇気がいる本なのだが,中身はいたってまっとうな心理学からの教育書である。著者は伏見陽児さんや麻柄啓一さんを中心としたグループで,たぶん「極地方式」と呼ばれる学習指導法の研究グループなのだろう。伏見さんたちのアプローチは,認知的動機づけを重視している点で,私の研究領域からはひじょうに納得できる。

  さて,このあやしげなタイトル。昨今「関心・意欲・態度」が大きく採り上げられている一方で,知識が軽視され,あるいは「敵視」されていることを憂え,知識こそが興味を生み出すという視点を強く訴えようとしているようなのだが…,やっぱりちょっと気負いすぎていて,書店に並んだとき損をする気がする。

  ともあれ,この本ではこうした知識を重視する視点から,授業実践に対してさまざまな(というよりは,首尾一貫した,と言った方が当たっているかもしれない)提案を行っている。つまり,「興味→知識」ではなく「知識→興味」という基本的図式である。

  だから,最初のところでは内発的動機づけを否定するような記述が見られ,あれあれと思われるかもしれないが,実際のところ主張はほぼ変わらない。たとえば,授業のはじめに子どもたちの興味づけに行われる活動や演示実験を,彼らは批判する。私も,このやり方が「内発的動機づけを喚起している」とは必ずしも言えないと思う。単に子どもたちをおもしろがらせるためだけの活動は,往々にして,その授業で扱う教材の本質とは大きくズレたところで,子どもたちの興味をひくことになりがちだ。教材そのものの魅力を引き出すような活動でなければ,それは内発的動機づけにはなり得ない。活動が終わって先生が本来の授業に入ったとたん,興味がしぼんでしまうのも当然である。

  そこでこの本では,子どもたちに知識がないまま自由に活動させるよりは,知識を与えることによって喚起される興味を重視し,活動を展開させることを提案している。これなら確実に,得られた知識自体に対する内発的動機づけにもとづく学習活動と言えるわけである。

  もうお気づきの方もいるだろう。このあたりの視点は,後期の『臨床心理援助法』の最後にチラリとお話ししたことである。いちおう断っておくと,授業でお話しした内容は,この本とは独立に私が考えたものなのだが,結果的にはひじょうに似通ったものになっている。じつを言うと,授業でこんなお話しをしようという内容がほぼ固まったころ,ちょうどこの本に出会い,あまりに主張が一致していてびっくりしてしまったのである。中に出ている授業例も,話のネタにちょうどよかったのだが,なんだか主張ごとパクったように思われかねないので,あえて利用するのを控えたくらいだ。

  だから,『援助法』の授業で,「授業と動機づけの関わりについてのトピックをアトランダムに…」とお話しした部分,私の拙い説明でよくわからなかった人は,ぜひこの本を読んでみてください。

  ちなみに,同じ北大路からこんなのも出ています。

伏見陽児 1999 『心理実験で語る授業づくりのヒント』 北大路書房




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