ひとりごと


保存箱 2002.07-12

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■ 02.12.28. 振り返る

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  年末だからなのか,このところ6月のワールドカップを振り返る番組がいくつも放映されている。それで私も,半年ぶりに懐かしい映像を見てみようと,チャンネルを合わせているのだが。

  何かおかしい。

  なぜかどの番組も,異常にトーンが暗いのである。ワールドカップ2回めの出場でみごとベスト16入りを果たしたというのに,全敗に終わった前回フランス大会の時の方が,もっとずっと華やかに回想されていた気がするのは,気のせいだろうか。前評判の高かったフランスもアルゼンチンも予選敗退した中,前回ようやく初出場を果たし,そのときは1勝もしていない弱小チームが,予選を負けなしで勝ち抜いたというのに,どういうわけかトルコに対して負けたことだけが大きくクローズアップされて,否定的に扱われているのはいったいなぜなのだろう。

  しかもどの番組も,多くの時間を費やして展開しているのは監督批判。これは回顧番組ではなくて,ほとんど監督批判キャンペーンの作りなのである。ベルギー戦の失点のあとに,フラット3と呼ばれる守備戦術が崩壊したという。このあたりはまだまともだ。選手たちの証言を得て,みんなで守備のやり方を考え,自分たちで決めたという事実を提示している。

  とはいえ,これだって監督の戦術が崩壊したとはいえないだろう。私はシロウトだが,番組でもちゃんとコーチが,「戦術を変えたというよりは,応用・発展の範囲内だ」と証言している。しかし番組のトーンはいつの間にか「崩壊」になっている。どうも監督の言うことを一から十まで厳格に聞いていなければ,それは監督の戦術を無視したことになるらしい。

  しかし,こうしたルールに対するかたくなで窮屈な服従が日本人固有の(ネガティヴな意味での)特性であることは,いろいろな人たちが指摘しているところである。トルシエ監督も,チームとしての決まりごとが何十パーセントだかで,その上に各選手の創意工夫が上乗せされることではじめてゲームで効果的な動きができる,というようなことを以前から言ってきたはずだ(いつ言ったか,何パーセントと言ったのかは覚えていないが)。監督がベンチからいちいち指示を与え,それをまた100%選手がその通りに動くなんていうのは,高校の部活の世界だろう。選手たちが自分たちで約束ごとを考えたことを,そんなに画期的なことのようにほめそやすのは,そういう意味では滑稽なことである。

  さらにまた,その「造反」が勝利の源泉だというのなら,ほんとに守備ラインを深くしたことが功を奏したかどうかを検証しないといけないはずである。たいていの番組では,次のロシア戦をその検証に当てているのだが,もともとロシアは一次リーグ対戦国の中で最も攻撃力が高いと言われていた国であり,「全員が献身的に守って勝った」ことをラインの深さと関連づけるのはちょっと強引だろう。ロシアほど攻撃的には来ないと予想されたチュニジア戦・トルコ戦ではどうだったか。特に,フラット3というのは失点を最小にするシステムというよりは,なるべく高い位置でボールを奪うことで,短時間でゴール前にボールを運ぼうという,攻撃に結びついたシステムだったはずだ。深い守備ラインを敷くことで得点機会が減ったのではないか,という視点からの検証も忘れてはいけないはずだ。そうでなくても枠内に飛ぶシュートがめったにない日本代表だというのに…。

  まあ不満はあるけれども,このあたりはまだきちんと事実をふまえた分析である。しかし,話はしだいに監督の人格攻撃へとエスカレートしていく。たとえば,監督は次のキャリアアップのことしか頭になかったというような話。人気のある選手に嫉妬して,わざとつらくあたったという話。自分が戦術に対する決定権を持っていることを誇示するために,あえて奇抜な選手起用をしたという話。

  これらはすべて憶測でしかない。根拠がまったくない。たとえば「嫉妬」説。どういう根拠を持って嫉妬していたと言えるのか。それは検証可能なのか。ある番組ではそれが関係者の口から語られ,別の番組ではナレーションによって,それが事実であるかのように説明される。これは見ていてひじょうに気持ちが悪い。

  ある関係者が,「監督が嫉妬してヘンな選手起用をした」と証言したとしよう。それは,先ほどの守備に関する選手証言と同じだろうか。先ほどの場合は,「自分たちが」決定したわけだから,そのこと自体事実である。しかしこちらの場合は,事実としてあるのは,「奇抜な選手起用」だけであり,それが嫉妬のせいかどうかは,その関係者がそう「感じた」ということでしかなく,事実とは言えないだろう。さらに言えば,「奇抜」かどうかも推測の範囲だ。見る人が見ればきわめて合理的な起用なのかもしれない。

  私のまわりにも,よく「あの人はこんな過去を持っているから,こんなヘンな行動をする」と,相手の心の奥深くを覗き込んで理由づける人がいるが,そういうのはたいてい,自分の意見が受け容れられなかったときの不満の裏返しでしかない。そういう証言を根拠にして,知り得ない相手の心を説明しようとするのは,あまりに脆い論証と言わざるを得ない。こういう推測は,特に不利益を被った人たち,利益を得た人たち,両方の立場の人たちに広く意見を求め,関連する事実を検証してはじめて,説得力が発生するものだろう。監督が日本を去った今,一方的にこういう人格攻撃を展開するのは,どう考えてもフェアではない。

  バラエティ番組ならともかく,報道が売り物のはずのNHKでも,名の通ったジャーナリストがキャスターを務める夜の某ニュース番組でも,一様にこんなあやうい噂話を平気で展開しているのは情けない。「監督嫉妬論」をとうとうと語る関係者を,その横で何の疑いもなくニコニコ同意しながら聞いているキャスターを見ると,昔のドラマに出てくる新聞記者たちが,新米記者に口癖のようにどなっていた「ウラをとれ!」というコトバを,つい思い出してしまうのである。

  そして憶測はついに行き着くところまでくる。すなわち,「選手たちは監督に逆らうと代表からはずされるので,恐くて何も意見が言えなかった。しかしもうワールドカップのメンバーが決まり,その心配がなくなったので,選手たちは監督に逆らって自分たちで考え始め,監督の求心力が急速に低下した」という話。これはあまりにできの悪い憶測で,聞いていて悲しくなる。日本代表レベルの話とはとても思えないのである。それこそ高校生以下のレベルの話だろう。

  こんなふうに問題を矮小化したのが番組の制作者たちだったなら,彼らの発想はじつに幼稚と言うほかないし,もしこれが事実だったとしたら,あるいは少なくとも関係者の何人かがそう感じていたのだとすれば,それは監督の専制ぶりを示していると言うよりは,選手たちの未熟さを示しているだけだ。つまり,これもまたよく指摘されている「日本人は自己主張をしない」という事実をみごとに露呈している。しかもそれをあっさり監督のせいだと責任転嫁し,自分たちの問題だとは思ってもみていないということだろう。仮にも日本代表のとる態度としては,そっちの方こそずっと大きな問題ではないだろうか。

  せっかくの記念すべきワールドカップイヤーだったというのに,どうしてわれわれはベスト16入りを素直に喜んではいけないのだろうか…。なんだか憂鬱な年の瀬ではある。



■02.12.20. 「10年後の私」改訂版

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  だいぶタイミングが遅れてしまったが,月曜の「実践場面分析」の発表に触発された提案をひとつ。

  それは,進路指導の関係で子どもたちに「10年後の自分を想像させる」という授業に対する改善案である。ではまず,なぜそんなことを考えたか,からお話ししていこう。中学・高校生にとって10年後というのは,たしかに具体的にイメージ化できる妥当な未来だと思うし,いちおう天職を見つけ家庭生活を営みはじめる時期として見ても,明確な将来像を描きやすい時期なのだろうとは思う。しかし考えてみてもらいたい。そんな時期をとっくの昔に通り過ぎてしまったわれわれから見ると,20代後半の人たちなんてまだまだ社会人としては“ひよっこ”であって,まださしたる成果も残していない,中途半端な時期である(スポーツ選手などは別だが)。そんな時期を想像して,子どもたちは進路に対して夢が持てるだろうか。

  そこで,子どもたちに「将来の進路に対して夢を抱かせる」,ということをメインに据えてみると,こんな授業も可能ではないか,というのがこの試案である。

    「60歳になって,自分の人生を振り返ってみよう」

これがメインテーマである。たとえば,「明日は自分が定年退職する日。あなたは長年愛用してきた会社の机を整理しながら,会社での仕事や家族のことを懐かしく思い返している」というようなシチュエーション。その中で,「あなたが<考えられる限りの成功を収めたと想定して>回顧録を書いてみよう」というのが,この授業の趣旨である。

  世間にはいろんな職業がある。それぞれによって「成功」や「達成」のカタチはちがう。大金持ちになって何不自由なく暮らす成功。何か新しい技術を作り上げて後世に名を残す成功。大勢の人たちから慕われ,尊敬される成功。また,同じ職業でも,人によってめざす成功はちがうはずだ。それを利用する。いろんな職業を頭の中に思い浮かべ,いろんな成功の中に自分を投影してみたときに,いちばん自分の感覚にフィットする職業はどれだろう,と考えさせてみるのである。

  「成功している」自分を自由に想像させるところがポイント。冷静に10年後の自分を想像させ,計画させるのではなく,嘘でもいいからもっと大きく夢を描いてみて,その中で考えさせようということである。そっちの方が楽しく,しかも関与感を持ちながら活動できるのではないだろうか。

  大金持ちになっても,醜い財産争いを繰り広げる家族の中で生活するのはイヤだとか,とにかく好きな趣味を一日中やって,それで新製品を開発して人に喜ばれるような人生がいいとか,いろんな見方があるだろう。そんないろんな見方を自由に体験しながら,少しずつ客観的な将来設計に進んでいこうということである。

  「考えられる限りの成功を収めた場合」と仮想場面を設定しているので,その人がどんな想像をしても,周りの人たちは「そんなのありえない」などと言ってはいけない。むしろ,荒唐無稽な大ボラを吹くことを教師は積極的に奨励する。そうやって,自由な想像ができる場を保証する。お互い想像の世界だとわかっているので,ほかの人から見て「○○さんはこんな才能がありそうだから,こんな成功を収めそうだ」というように他者評価させてみてもいいかもしれない。

  もうひとつ。これと関連して準備すること。以前,いろいろな歴史上の人物が何歳の時にどんな業績を成し遂げたかを,年齢を軸にまとめた本があったと思うが,ああいう本を教師が総力を挙げて作る。各教科で出てくる有名人,教師自身が好きな有名人の業績と年齢を調べ上げて,それを子どもたちに見せるのである。中には,担任教師が結婚した年齢とか,校長先生が校長になった年齢とか(そんなの上司に聞けないか?),シャレで入っていてもいいかもしれない(教師全員が気合いを入れてかかわっているのだということをアピールしつつ)。そういうものを見ながら,どんな職業についてどんな業績を残せるか,あるいはどんな業績を残したいかを考えてみる。「自分がホントにできるのか」という現実を,ひとまず横に置いておいて,まずは将来に対して夢を持ってみようということである。

  どうだろう。

  あ,でも今は,夢だけは壮大で,ちっともその夢に対して現実的なアクションを起こさない若者が増えているんでしたかね。



■02.11.26. 続・よろしかったですか?

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  ひょんなことから,こんなWebページを見つけた。もしかして,「よろしかったですか?」って(若者コトバの)新潟方言だったのか?

  それにしても,さすがコトバのプロのアナウンサー。文法的な分析をきちんと加えていておもしろい。特に,日本語では現在形と過去形の区別が厳密さに欠けているという指摘は,読んでいてなるほどと思わせられる。「優勝おめでとうございました。」「ありがとうございました。」たしかによく聞く。だから「そんなに目くじらを立てなくても」と言われると,つい素直に従ってしまう。

  しかし。と私は最後にムキになってしまうのだが,私の遭遇したケースでは誤用がさらに一歩進んでおり,「待っててもらってもよろしかったですか」と,未来のことを過去形で聞いているわけだ。これにはやはり違和感がある。まあ,「"よろしい"よりも"よろしかった"の方が、何となく敬語を使っている感じがするという程度のことであろう」と言ってしまえば,それですべて片づく問題ではあるのだが。



■02.11.08. 読了

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  『指輪物語』をようやく読み終えた。

  世間では春の映画公開とともにちょっとしたブームになったというのに,かなり時期的にズレている。しかしこの本,私自身はずっと昔から読んでみたいと思っていた本だ。どれくらい昔からかというと,子どもに『ホビットの冒険』を読み聞かせていたときからだから,考えてみたらもう10年近くにもなる。しかし,本屋さんの棚にズラリと並んでいるこの分厚いシリーズを見ると,読み始めるには相当気合いを入れないといけなくて,横目で見ているだけだったのだ。

  きっかけは,やっぱり映画の公開。「原作を読む前に映画を見るのは邪道ではないか」というヘンな意地がはたらいて,ついに映画は観なかったのだが,それ以来,原作を読まなくちゃという気持ちがしだいに強くなり,この夏休み,一念発起して読み始めたのだ。(シリーズが文庫本化されたというのも,きっかけとしては大きいかもしれない)

  はじめは週末ちびちびと読み進めていて,全部終わるまで1年はかかるかと思っていたのだが,学会往復の電車と飛行機の中に持ち込んだのが,また大きなきっかけとなる。

  まとまった時間じゃまされずに読めたし,ちょうどそれが指輪戦争が始まるところで,物語が一気に展開していく部分なので,読んでいてわくわくする。長い移動時間がちっとも気にならないくらい,夢中になって読んでいた。それで,そのあとは暇を見つけては読み進め,ついに全巻読み終えたわけだ。(忙しいと言いつつ,こんなこともやったのです…)

  それにしても。

  『ホビットの冒険』もそうなのだが,クライマックスになる部分が意外にあっさりと決まってしまうので,ちょっと拍子抜けする。まあ,今回のはちゃんと意味があってのことだというのが,直後に語られるのだが(すでに「旅の仲間」でガンダルフが予言していて,伏線が張られているし),そうはいっても,ハリウッドのヒーロー映画にすっかり毒されている身には,どうしても物足りなく思えてしまう。

  たとえば,これがハリソン・フォードだったら,葛藤の末自分にうちかって,決然と目的を達しただろうし,シュワルツェネッガーだったら,自らを犠牲にして目的を達したかもしれない。ブルース・ウィリスだったら,もしかしたら身を投げた末に,なぜかまた這い上がってきたかもしれない(「アルマゲドン」でも,もしかしたら最後帰ってくるのではないかと1/3くらい期待して観ていたのは,私だけではないだろう)。なのに…。

  ちなみに,学会往復で一気に読み進んだせいで映画の範囲を読み終えたので,ちょうどレンタルが始まっていたDVDを借りてきて,こちらの方も見終えた。映画はなかなかよい出来だと思う。「中つ国」の雰囲気をうまく作り上げている。だいたい,ホビット族と人間との身長差を表現するだけでも,相当な特撮技術なのじゃないだろうか。そういうところが違和感なく自然に見えるというだけでも,すごいなあと思うのだ。



■02.10.18. 一息

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  学会が終わり,『個性の発達心理学』も2回目を終えて,ちょっと一息ついた。

  今年は,新カリキュラムにともなって新しい授業が始まったり,病欠の先生のピンチヒッターの授業が入ったりしたうえに,珍しく学会にも呼ばれ,けっこう準備に気ぜわしい日が続いていたのだ。まあ,こうなることはずっと前からわかっていたのだから,夏休みから準備しておけばよかっただけなのだが,なんとなく受講生の顔ぶれがわかってからでないときちんと準備する気にならないところがあって,いつも新しいことを授業で扱おうとする日は,直前になってあわてることになる。今年はそれがいくつもの授業で同時並行で起こっているので,慢性的にあわてているような状態なのだ。つくづく自分の計画性のなさを恨む。

  ヤマ場は学会のシンポ。なにせ割り当て時間が短い。内容を整理し,論点を絞って,…を何度繰り返しても,なかなか思うようにはいかない。それだけではない。学会出張のために丸5日間別の時間の準備ができない。これもかなり痛い。

  というようなわけで,最後にしわ寄せが来るのがここの更新。前期『学習心理学特論』のレポートへのコメントも早く書かないといけないのだが,今のところ書きかけのまま。講座のページもあちこち手直ししてもいいのだが,これも手つかず。

  すみませんが,もうちょっとお待ちくださいませ…。



■02.10.10. 訂正します

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  新しい端末で電源が切れなくなる問題の原因が,やっとわかった。トラブルというものはいつも,悩んでいるときは逆立ちしてもわからないのに,わかってしまうときは驚くほどあっさりとわかってしまうものだ。

  今回の原因は,ずっと疑っていた周辺機器(本人?の名誉のためにあえて名前は隠すけれど)のせいではなくて,なんと悪さをしていたのはマウスのドライバだった。わかってしまえば,たしかに思い当たることはたくさんある。

  マウスは,新しい端末が設置されていちばんはじめにインストールしたものだ。けっこう特殊な形状で,それがもうすっかり手になじんでいるので,標準装備のマウスがどうにも使いづらかったからだ。ホイールも,標準マウスはボタンを前後に倒す感覚だが,今まで使ってきたマウスは文字通りホイールで,クリクリ回している分だけスクロールしてくれる。だから,端末を使い始めて1分もたたないうちに,なじめない標準マウスをあっさり捨てて,今まで使ってきたマウスを使い続けることにしたのだ,ほとんど何も考えずに。

  急いでインストールCDを探し出してドライバを追加。考えてみれば,このマウスを購入したのはXPが世に出る前だから,ドライバが対応しているわけがない。しかし,インストールしたときは,まったくそんなことは頭に浮かばなかったし,エラーや警告メッセージも出ることなく,さらりと作業は終了したので,安心しきっていたのだ。だいたい,マウスのドライバ“ごとき”が電源管理に関連しているなんて思いもしなかったので,最初から容疑者リストからはずしていた。でも,マウスだって本体の電源から得た電気を通じて本体と情報のやりとりをしているわけだし,使っているマウスは光学式マウスだから,その部分も考えないといけなかったのだろう。愛用のソフトをインストールして,何回か再起動をかけても異常がなかったので(シャットダウンの時しかこの症状は確認しようがない),全然無警戒。

  そうこうしているうちに,他の周辺機器のドライバ更新もすすんでいたのだが,そこにきて,とある周辺機器の登録中に突如「ドライバがXPに対応していない」旨の警告が出る。CDに収録されているドライバはWin98用とWin2000用しかなかったから,これはいかにも怪しかった。「インストールガイド」という紙を見ると,2000でのインストールのしかたまでしか書いていない。だからてっきり,ドライバが古いのだと思い込んでしまったのである。インストールガイドには,ちゃんと「XPは2000用のドライバが対応している」という補足説明の紙がはさんであったのだが(当然,それを見てインストールしたわけだ),ぬれぎぬというものはそういうものだ。

  さて,先ほどのマウス。メーカーのWebサイトをのぞいて見たら,「古いドライバを使うとトラブルが起こるから,必ずXP対応のドライバに変えなさい」とちゃんと書いてある。まったくおっしゃるとおりでした。長くまじめに働いてくれたのに,些細なことからぬれぎぬを着せてしまった某周辺機器には,深くお詫びをしたうえで,また元通り働いてもらっている。


  そういえば前期の授業で,「こんなものに人生をかけてしまったある種の人たちに対して,番組の終了はどんな影響をもたらすのだろう」と述べたTBSの「SASUKE」だが,これはなんと,「筋肉番付」とは別扱いで生き残っていた。さすが看板番組ともなると,いろいろ理屈はつくものなのだろう。これで,あの人たちは人生の目標を失わずにすんだということになる。めでたしめでたし…なのだろうか,ほんとうに。

  牽牛と織女を1年に一度だけ会えるようにするという神様の粋な計らいは,じつは彼らをいつまでも「実らぬ恋」という過去の思い出に縛りつけ,彼らが新しい人生に再出発する機会を奪う,きわめて残酷な刑罰なのではないかと,私はひそかに疑っているのだが。



■02.09.13. 慣れない…

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  学内の端末が一斉に新しいものに切り替わった。マシンが新しくなるたびに一苦労するのがセッティング。今まで使っていたマシンの周辺機器を接続・登録しなおし,ソフトを再インストールして,そのソフトの設定やオプションを再設定(または登録情報ファイルをコピー)する。高性能のマシンに更新してもらっているのだから文句をいうつもりはまったくないが,正直めんどうではある。今年はすでに予定外のセッティング作業をやったこともあって,よけいにめんどくさい。

  そこに持ってきて,今度のOSはWindows XP。これまでの95系列とは互換性が多少低いこともあって,オンラインソフトなどは,一部XP対応版に入れ替えないといけなかったり,周辺機器用のドライバも新しくしないといけなかったり,けっこう細かいところでめんどうだ。XP対応と書いてあるドライバなのに,インストールしてみると電源管理がうまくいかず,マシンをシャットダウンしても電源が切れずに再起動してしまうのにはまいったが,いろいろやってみてもけっきょく症状は少しも改善せず。

  さらに。

  ソフトの方も,XPに標準でついている機能とオンラインソフトの機能とが競合してうまくいかなかったりする。XPから新規ユーザになった人は,きっと苦労なく入れるのだろうが,「マシンを使いやすくするには,自分でユーティリティを入れるしかない(しかも自分仕様に設定して)」のが常識だったころからのユーザにしてみれば,標準機能がしゃしゃりでてくるのはよけいなお節介でしかない。(出てきてもいいが,必要のない人は簡単に機能をOFFにできるようにしてほしいのだ)

  そんなこんなで,もう1ヵ月たつのだけれど…,まだじつは慣れていない。

  Webサーバの切り替えもどうやら終わったようだし,そろそろこちらの更新もしないといけない。ちなみに新しい端末は,今までのCRTではなく液晶ディスプレイになっている。発色のしかたがだいぶちがうので,画面の感じが今までとずいぶん異なる。これからはこの液晶ディスプレイで画面をデザインすることになるので,きっと今までとはちがった色づかいになるだろう。



■02.09.02. 参考になる?

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  例の「心の教育」の関係で,ここ2,3年,一般向けの心理学本を集めている。子どもたちにわかりやすい理論やトピックはないか,おもしろい話の展開はないか,授業の実施を想定した,いわゆるネタ探しである。

  心理学者の書く一般書って,あんまりおもしろくない(と私が言うのは情けないけれど)。「一般向けの心理学本」という意味で言えば,大学の心理学教科書あたりが許容の限界で,そこから先の一般の人たち向けの本との間には,大きなギャップがあるような気がする。そっちになるとなんだか急に個人的エッセイになってしまって,心理学の理論や実験の成果にきちんともとづかずに人間論や教育論を語る傾向があるからだ。昨今の臨床ブームで,「癒される」とか「愛される」とか,ますます曖昧な言葉で人生が語られるようになった気さえする。

  たしかに,図表から何が読みとれるかを解説しても,むずかしくて敬遠されるだろうし,この差はグラフでは差がありそうだけど有意差がないので…なんていう言い方は,研究者の間だけで成立する会話であって,一般の人が聞いてもこんがらがるだけだろうとは思う。しかし,ふだんの研究の進め方とはあまりにかけ離れてしまって,ほんとに「心理<学>書」と言っていいのかどうか,悩んでしまうのだ。もちろん,私だってそんな心理学本の生産に荷担している一人だ。

  そもそも,これらの多くは教師や親向けで,どうやったら子どもをうまく育てていけるか,という方向で記述してある場合がほとんどである。あらためて考えてみると,心理学,特に教育心理学は,教師や親向けの学問というスタンスをとってきており,子どもたち自身の学びを子どもたちに向けて語る学問ではなかったのかもしれない。だから高校生をターゲットとして考えると,もっとちがった心理学本を探さないといけないことになる。でも,さいわいなことに,最近は高校生が読んでもおもしろそうな本が,少しずつ増えてきているようだ。

  いろいろ立ち読みしてみると,最近の一つの傾向は,「雑学本」スタイルとでもいうのだろうか,1ページ1トピックでどこからでも読める,しかも紙面の1/3はイラストで簡単に読める形式の一般書が多いことである。たぶんこういう作りは気楽に読めていいのだろうが,今回はパス。授業の流れを考えると,バラバラなエピソードではなく,ある程度一貫して筋道の立つ説明がなされている本が欲しいからだ。

  こんなスタンスで集めた本から,個人的におもしろかった本を紹介しよう。

●『高校生のための心理学』 松井豊 編  大日本図書

タイトルからして,そのものズバリ。内容は心理学のいろいろな分野領域の紹介で,高校生向けの「ガイドブック」の趣。新書版のページ数に主な分野の説明を詰め込んでいることもあって,各分野をざっと概観する程度で終わっていて,授業のネタ本という観点でみると少々物足りない気もするが,くせがなくて読みやすいし,最初のとっかかりとして生徒が自分で勉強するための読み物教材としてはイチオシ。

この本のもう一つの特徴は,心理学を学ぶため,職業に生かすための進路案内の章が設けられているところ。心理学を学ぶためには何という学部・学科に入ればいいか。心理学を学んだ人はどんな職業に就けるのかをしっかりまとめてある(最近は就職難で,必ずしも大学での専攻を生かした職業に就けるとは限らないのだけれど…)。巻末には,心理学を学べる全国の大学のURLの一覧まである。ちなみに私が持っている第1刷では,うちの大学は「上越国際大学」になっているのだが。


●『図解・心理学のことが面白いほどわかる本』
   渡邊芳之・佐藤達哉  中経出版


ひとつの理論から一貫して説明する,あるいはひとつのテーマについて深く掘り下げる,というのがネタ本としては使いやすいのだが,これは「行動主義学習理論」(もっと専門的には「行動分析」)の観点から,性格や人間関係をはじめ,さまざまな行動のメカニズムを説明しようとしたもの。条件づけのメカニズムの説明は,かなり高度な内容まできっちり解説が加えられているし(ふつう大学でもここまでやりません),しかもわかりやすい。またそのメカニズムを,日常のさまざまな行動に適用して説明しているところが,さりげなくすごいところである。たとえばサラリーマンはなぜやる気をなくすか,人の好き・嫌いをコントロールするにはどうしたらいいか…。こんなふうに,日常の行動のしくみに理論をスポッとあてはめて見せて,なるほどと思わせることは,学問の醍醐味ではある。


●『心理学ほどドキッとする学問はない』 心理学者の会21  PHP研究所

「心理学者の会21」という著者名はいかにもあやしいが,著者紹介を見ると,大部分は医学部出身の精神医学の人たちのようだ。したがって,内容は精神医学から見た心理学。対象もちょっと臨床系の話題に偏っている。個人的には,これを心理学本と言っていいのか多少の違和感があるが,まあ細かいところは置いておいて,一般に難解な臨床系のいろいろな理論が,わかりやすくまとめられているのは好感が持てる。ただし,高校生には少し難しすぎるだろう。一通り基礎理論を聞いたことのある人なら,とてもわかりやすいと思うはず。


●『心理学から学習をみなおす』 市川伸一  岩波書店

こちらは,ひとつのテーマについて深く掘り下げている本。これは「岩波高校生セミナー」というシリーズの1冊で,実際に高校生を集めて行ったセミナーの講演記録を元にしている。内容は記憶と問題解決というテーマに焦点を絞り,いろいろな実験の体験を通じて認知のメカニズムを説明するもので,これも,高校生の日常の勉強と結びつけながら話を進めている。

この本は,この夏に偶然見つけて手に入れた本なのだが,6月に行った公開講座で実施した実験や,昔「学習情報論」という授業で私がやっていた実験と,けっこう重なっていてニンマリ。みんな似たようなネタを使っているのだなあと,妙に納得した。


●『脳のワナ』 鈴木光太郎・監修  扶桑社

これは特に説明はいらない。本1冊丸ごと錯視の本。いろいろなしかけがついていて,実際に作って遊べる。後半部分に解説も付いているが,まずはこの不思議世界を楽しむのがいちばん。



■02.08.26. 何考えてるんだか!

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  先日,東京近辺の某レジャー施設に行ったときのこと。

  近くを歩いていた,たぶん父親と男の子の2人連れ。子どもの履いている靴は,どうやらかかとにローラーがついているやつらしく,やがて彼はつま先をあげて滑り始める。すると,係の人がどこからともなくササッと寄ってきて,危険だからふつうに歩くよう注意する。

  係の人が離れていったあと父親が一言。

「また注意されちゃったねぇ。アハハ…。」

  何を考えているんだ,この父親は!


  さて,上越に帰るほくほく線。疲れきった頭に,携帯の呼び出し音が鳴り響く。これがまたしつこく何度も鳴り続ける。もちろん,発車前のアナウンスは,ほかの人の迷惑にならないようデッキ等で使うよう呼びかけており,信越線の通学列車ならともかく,特急の車内で大きな音で携帯を使っている人は,最近はさすがに少なくなってきている。

  「犯人」はおとなではないのだ。子どものおもちゃなのだ。

  携帯を模したおもちゃだから,音は当然,いかにも携帯らしい音に作ってある。ボタンを押すときのピポパ音も,みごとにうるさく作られている。それが気に入ったらしく,子どもは何度も呼び出し音を鳴らしては,仮想の相手とお話をしているわけだ。

  電車の中で長い時間子どもをおとなしくさせておく苦労は,私にもよくわかるが,それにしてもねえ。子どもだったら許されるのか?

  何を考えているんだ,この母親は!

  ちなみに,あんまりいつまでも続くのでちょっと振り返ってみたら,ちょうど母親と目があって,私は思わずにらんでしまった。(近くの席だったら,もう少し穏やかに注意したかもしれないのだが…) そしたら,なんとその親子はほどなく別の車両に移っていった。後味悪いんだよねえ,こういうの…。



■02.08.09. 林間学校?

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  本名さん(99年度修了生)に誘っていただいて,東村山市教育委員会の夏季宿泊研修会という催しに参加してきた。場所は御嶽山。奥多摩方面に行くのははじめて。電車を乗り継いでいくうちに,周囲の風景が巨大ビル街から急速に山間の集落へと変貌するのには驚いた。直江津を出発して5時間。最終便のケーブルカーに乗って現地へと向かう。

  本名さんからの最初の連絡では,「民宿」に泊まるとのことだったので,こぢんまりとした会なのかと気楽に考えていたのだが,これがとんでもない誤解で,総勢100人を超える一大イベント(あとで聞いたところによると,今年の参加者は140人だそうだ)。初任研や三年次研修が入っているとのことで,この年代の市内の先生方が小中学校問わず集合していることになる。だから,民宿は若い先生たちであふれかえっていて,大広間にずらりと布団を並べて敷いている様子などは,さながら林間学校のノリである。「先生方」とはいっても,年齢だけじゃなく雰囲気も,私から見ると学生とほとんど変わらない人たちなわけで(半年前はまだ学生だったのだから,当然ですね),なかなか見ていておもしろかった。

  さて,私が参加したのは全体の研修とは独立の研究部会で,こちらはベテランの先生方から構成されている。むしろ,全体研修の主催者クラスの先生方がメンバーとなっている会で,最初名簿を見て「校長」やら「委員長」の文字を発見したときは一気に緊張したのだが,行ってみたらそんな堅苦しさはぜんぜんなくて,よかったよかった(短パン,うちわ片手の会でしたし…)。

  といっても,議論の中身はひじょうに濃くて,実際の授業や生徒指導の実態を話題として話は盛り上がり,私もすっかり一参加者として聞き入ってしまった。とっても勉強になりました。…って,私はホントは「講師」として参加したわけで,皆さんのためになるような話を1つや2つはしなきゃいけなかったのだが,ちょっと準備不足でパス。それに,こういう会で一般論としての学習意欲の講義をしてもちっともおもしろくないだろう,という見込みもちょっとはあって。実際,話に加わってみると,たしかに実際の場面に即して具体的にやりとりしている方が,ずっとおもしろい。(もっとも,こんな頼りない講師じゃ,きっともう呼んでもらえないだろうという予感もするが。)

  ともあれ,翌日は暑い下界へと逆戻り。後期の授業ネタにする本と,家へのおみやげを少しばかり仕入れて帰ってきたのでした。



■02.07.11. よろしかったですか?

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  つくづく自分が<おぢさん>になってしまったと実感するのは,若者コトバの解釈にとまどってしまったときである。聞き流せばなんてことないコトバなのだが,文法のおかしさや当てはまりの悪さを気にし始めてしまうと,会話の内容がちっとも頭に入ってこなくなる。彼らは別の意味で使っているのではないかと,よけいな気を回して二重,三重に解釈を試みたりする。だから,若者コトバを操る人たちと会話しないといけない状況に置かれると,異常に緊張してしまうのだ。

  先日,とあるショップに手続きをしに行く必要がでてきて,出かけていった。主に若者をターゲットにしているせいか,どこのショップも店員のおねえさんは,なぜかみんな一様に黄色い髪と不思議な日本語を操る典型的な若者たち。髪の色はべつにどうでもいいのだが,あの鼻に抜けた発音と意味のとれない単語群から,発言の意味をとらないといけないと思うと,どうにも気が進まなかったのだが,説明を聞くまでもなく手続きの内容は決まっていたし,まあいいだろうと意を決して出かけたのである。

  予想通り,めんどうな会話に巻き込まれることもなく手続きは順調に進み,あとは登録作業を待つばかりとなってほっと気を抜いた瞬間だった。おねえさんがつかつかと寄ってきて,私の目の前に1枚の紙を置いてこう言うのであった。

「こちら,注意書きとなります。手続きが終わるまで,これを読んで待っててもらってもよろしかったですかぁ?」

  不意打ちだった。参りました。みごとに固まってしまいました。

  「~となります」は,だいぶ聞き慣れてきた(それでも,これから羽でも生えて変化するのかよ,と突っ込みたくはなるのだが)。「待っててもらってもよろしかったですか」は,完全に予想を上回っていて,一瞬何を答えなきゃいけないのか,さっぱり事情が飲み込めなかった。だいたい,これから行う行為に対して,過去形で聞いてくるからややこしい。「よろしかったか」と聞かれても,私はまだ何もしていないのだから答えようがない。

  短い時間で必死に考えた。この質問に「はい」と答えることがどんな意思表示になるのか,「いいえ」と答えるとどうなるのか。そしてけっきょく,これはたんに「読んで待っていてください」という指示を,何やらていねいに言おうとしただけで,質問でも承諾を求めているのでもないことに,ようやく気づいたのであった。

  いやあ,これだから疲れる。隣では上司らしい人が忙しく技術的な手続きを進めていたのだが,応対の言葉遣いについての教育はしてないのかなあ。天野祐吉さんふうにまとめると,「もう少し正しい日本語を店員に教育してもらって,よろしかったですかぁ?」と言いたくもなる。

  そういえば,公開講座に来た高校生たちはみんな,きれいな日本語を使ってましたよ。念のため。



■02.07.04. 公開講座 その2

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  1回め。「心理学=臨床」というイメージを壊すため,あえて正反対の認知・学習を取り上げてみた。ここはいちおう,私が全部担当する回。しかし,これはみごとに失敗だった。反応が薄い。ちっとも手ごたえがない。そのうち,確実に出ると思われた実験結果も思ったように差が出なくなったりして,もうまったく収拾がつかなくなる。

  落ち込みましたねえ,本格的に。それなりにがんばって準備もしてたから。ひょっとすると,教育実習の研究授業ってこんな感じなのだろうか。一度つまずくと,立て直そうとすればするほど,よけいに事態が悪くなっていくというような…。ほんとにあと3回も続けられるのだろうかと,すっかり見通しが暗くなってきたのであった。

  しかし,幸いなことに2回め以降は私はもっぱら裏方。講義だけでよい,というのはずいぶんと気が楽だ。つくづく私は学生とやりとりしながらの授業が苦手なのだと実感してしまったが,それはそれとして,ともかくこれで,すっかり余裕を取り戻すことができた。生徒さんたちの顔もひととおり見分けられるようになって,質問の傾向もちょっとずつ予想できるようになったしね。

  いつも授業が終わったあとに,残っている人たちと二言三言おしゃべりするのも,けっこう新鮮だった。毎回授業の最後に,時間をとって質問を受け付けていたせいもあっただろうか。聞き足りなかった内容や,授業とはぜんぜん違う心理学の話題など,いろんなことを話しかけてきてくれるのはうれしかった。考えてみたら,大学での私の授業ではまずそんなことはない。大学院の授業だと,授業のあとに質問に来てくれる人たちは多少いて,特に今年は,ほぼ毎回質問があってうれしいのだけれど,これは珍しいケース。今までいかに質問を受け付けない雰囲気を作っていたかを,思い知らされる。

  そんなこんなで,なんとか4回の講座が終わり,最初はみごとにくじけてしまっていたのに,終わったころにはすっかり気が大きくなって,性懲りもなく今度は附属中学校の特別授業に申し込んでしまった私。また思いっきり落ち込むことになるのかもしれないけれど。

  それにしても,授業を作るのはほんとにむずかしい。素材をたくさん持っているからといって,それで授業が作れるかといえば,ほとんど関係ないような気がする。素材から授業を構成していく手腕というのは,やはり現場での場数を踏まないと身につかないのだろう。だれか現職院生で,<心理学の授業作り>にチャレンジしてみようという人はいないだろうか。ネタならいくらでも提供できますよ。



■02.07.01. 公開講座 その1

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  公開講座が終わった。6月に入って4週連続,土曜日の午前中に行われるこの講座,じつは「中学・高校生のための心理学入門」という副題が示すように,私にとって相当に大それた企画であった。なにしろ高校生なんて,これまで一度も教えたことがない。「入門」といったって,どの程度のレベルが彼らにとって入門なのか,どこまで深い話をしていいのか(あるいは話を最少にして,実習体験にあてた方がいいのか),想像もできない。

  なのに,どうしてこんな無謀な企画を持ち出したかというと,

「心のしくみを客観的に理解することで,子どもたちが自分の心をコントロールできるようになるのではないか」(Copyright by 田中先生)

という,過去一度だけ盛り上がって,今や化石と化しつつある「上越教育大学版<心の教育>論」のことが,ずっと頭の片隅にひっかかっていたからだ。

  心はむずかしいものでも,あやしげなものでもない。客観的に了解可能なものだ。中学・高校の教科書では,哲学・倫理学や政治・経済と同列に(たぶんそれだけむずかしいものとして),高学年で扱われているが(しかも,うちの子どもの話によれば,教科書でアイデンティティの部分に入ったとたん,先生は「ここは各自読んでおくように」と軽く流してしまったそうだ…),そんなにこむずかしく構える必要はない。むしろ,日常さまざまな形で自分の生活とかかわっているからこそ,身近な存在としてきちんと知的なレベルで理解しておく必要がある。「不思議」なものとしてではなく,客観的に理解可能なものとして,意識づけていく必要がある。そうすれば彼らは,揺れ動く自分の心に振り回されることなく,しっかり自分をコントロールしていくことができるはずだ。

…ということである。

  当初は,中学・高校生向けの心理学教科書を執筆しようということで始まった(いや,正確には始まってもいない段階でつまずいていた)のだが,やはりそこでも,中学生・高校生がいったいどんなふうに読んでくれるのか,さっぱりイメージがつかめていなかった。

  今回の公開講座は,たまたまローテーションで私に企画担当が回ってきたのだが,いろいろ内容を考えているうちに,そんな記憶が少しずつよみがえってきた。いきなり教科書はむずかしいから,いくつかのトピックを授業に仕立てて,中学・高校生に投げかけてみたらおもしろいかもしれない。彼らの反応を見れば,どんなテーマ,どんな内容が彼らに受け入れられるのか,少しはイメージがつかめるのではないか。

  事務の人の話だと,これまで子どもを対象に実施した公開講座は,いずれも受講者が1ケタ前半とのこと。受講料,高いしねえ。これは大きな不安材料ではあったが,ちょうど今年からの完全週5日制で,土曜午前中の公開講座というのは,案外悪くない気がした。

  そんなわけで,まずは講座全体のテーマを決める。決めたテーマは「自己」。直球勝負だ。私一人で各専門領域のトピックを担当するのは荷が重いので,3人の先生方に応援を頼み,特に実習部分はお任せ。私は主に,基調講演というか,実習前の予備知識の講義を担当することにする。まるまる1回全部をそれぞれの先生に担当してもらう手もあったのだが,そういう「オムニバス方式」の授業が,大学生からもあまり評判がよくないのは知っていたので,この形態にだけはこだわってみた。

  さて,心配された受講者だが,ふたを開けてみれば最終登録は18人。とりあえず,実習で安定した平均値を算出できる10人になれば御の字,くらいのつもりでいたから,これは予想以上の大盛況で,まずは一安心。とはいっても,実際はギリギリ前日になっての登録者追加で,あわてて材料を作ったりもしていたのだが。(続く)




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