ひとりごと


保存箱 2004.01-06

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■ 04.06.28. 子どもの人格を認める

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  先日,PTA全国協議会による子どものインターネット利用に関する調査結果が発表された(たとえば読売朝日)。

  私がこの調査を知ったのは,その日の夜のニュース番組がいっせいにこれを採り上げて報じたからであり,偶然なのか意図的なのか,長崎の事件とみごとにタイミングの合った発表であった。当然のように,どのニュース番組も,調査結果と事件を結びつけようという姿勢がありありで,「親が子どもに自由にネットを使わせていて,規制していない」という実態が,ひじょうに大きく扱われていた。

  TVでの報道を見るかぎり,学校での利用と家庭での利用がきちんと区別されていないまとめかたで(もともとの調査が区別していないのか,TVが区別していないのかは不明だが),全体的にイマイチ説得力に欠けるなあというのが素直な感想だったが,私がびっくりしたのは,ある番組でやっていた街頭インタビューの中の,ひとりのおばさんの発言であった。

  いわく,「子どもにも人格があるので,あんまりのぞいちゃいけないと思い,自由に使わせている」のだそうだ。

  まあ,たったひとりの意見だし,たいていメディアは極端な意見をさも代表的な意見だと思わせるように作るものだから,これだけに過剰に反応する必要はないのだろうが…。

  でもやっぱり言いたくなる。

  誤解を恐れずに言えば,子どもに一人前の人格を100%認めるならば,親なんていらない。近所のおじさん・おばさんでじゅうぶんだ。子どもの人格の中にずかずかと入り込んでいけるのが親であり,だからこそ親は親として存在意義があるのだろう。

  たとえば親は,子どもに起こる出来事を大げさに喜んであげたり,悲しんだりすることによって,子どもの中の未分化な感情を発達・洗練させる。子どもの要求に従わなかったり,子どもに親の要求を突きつけたりすることで,自分の考えが唯一絶対のものと信じて疑わない子どもに対して,ほかの人は他のことを考えている,ということを示す。欲求の赴くままに行動している子どもに,これは危ない,これはダメと叱ったり規制したりすることで,道徳性の基準を形成する。

  どれも,子どもの心の中にずかずかと入り込み,ひっかき回しながら,子どもの心を揺り動かし,その発達を刺激しているといえるだろう。親と子という濃密な相互関係の中だからこそ,こうしたやりとりが可能なのである。まったくの他人だったら,場合によっては子どもの基本的信頼感そのものを破壊してしまいかねない。

  こうした親の働きかけが,やがて子どもの中に行動や判断の基準として内在化されていく。もっとも,内在化されるのは親の意図どおりの基準であることもあれば,親を反面教師として,まったく逆の判断基準を作り上げることもある。子どもの側にだって,親からの働きかけを評価する心の働きがあるからだ。ともあれ,こうして子どもは順調に発達し,自分自身で判断し行動するようになる。と同時に,自分の心にずかずかと入り込んでくる親を疎ましく思い始め,親からの心理的独立を望むようになるわけである。これは,ごく普通の発達過程なのだ。

  だから,小学生くらいの子どもに対して,一人前の「人格を認め」,本人にすべて任せてしまうのは,一見ものわかりのいい親のように見えるが,実際には,せっかくの子どもの心理的発達を,停滞させてしまうだけなのではないだろうか。何も言わないだけではない。子どもの活動に必要な費用を<何も言わずに>提供しているわけで,つまり,親は善悪の判断なしに,子どもの行動を無条件で奨励してしまっている。これでは,子どもはいつまでたっても,自己中心的な判断基準から脱却できないだろう。やがては疎まれるとわかっていても,しっかり自らの価値観をガミガミ子どもに言い続ける必要が,親にはあるのではないだろうか。

  最近,少年の関係する事件報道でとても気になるのは,深夜あるいは明け方に外を出歩いている少年がひじょうに多いことである。親は家庭でなんと言っているのだろうか。それともそもそも何も言わないで自由に任せているのだろうか。行動については何も言わず,ご飯とベッドは無条件で用意してあげるのであれば,それはすでに親ではない。無料の下宿屋だ。


■ 04.06.17. あせっても…仏滅

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  『学校実践解析法』の担当時間が,今年もめぐってきた。この授業は,前半を田中先生が担当して基礎的な事項を説明した後,後半は複数の教員が交代で応用編を担当している。私の担当は半コマ,45分。

  単発の授業はいつも,プレゼンソフトを使って組み立てることに決めている。今年も,担当分のプレゼン資料を準備して(といっても今年は,昨年の資料にほんのちょっと手を入れただけ),ノートの中に入れておく。

  教室になっている講202は,昨年はじめて使ったが,プレゼン型授業にとってはひじょうに使いやすい教室である。プロジェクタが備え付けなので,準備といえばほとんど,機器のスイッチを入れて持ち込んだノートをつなぐだけ,という感じ。まったく手間がかからない。後ろの人用にTVモニタもあるので,字の大きさをそれほど気にしなくていい。そんな気安さのために,今年はすっかり安心しきって教室へと向かったのだが…。

  トラブルが起こるのは,たいていこんなときだ。なんと,スクリーンにコンピュータの画面が出力されない。真っ暗。ケーブルをつなぎ直す。もしかしてドライバの認識に失敗したのかと思い,コンピュータをリセットしてみる。ダメだ。わからない。あせる。

  しばらくあれこれやってみて,やっとわかった。いちばんはじめに操作したはずの,プロジェクタの入力信号の切り替えをし損なっていたのだ。わかってみれば基本中の基本。なんでこんな簡単なことに気づかなかったのかと,自己嫌悪に陥っている間に,すっかり10分も無駄にしてしまった。

  そのあとの進行はさんざんだった。90分の授業なら立て直せるかも知れないが,さすがに45分計画を10分も無駄遣いしてしまっては,どうにもならない。今まで,講演の最後になって,用意したプレゼン画面を次々に切り替えて大急ぎで話を締めようとする人を何度も見てきて,ううむと思ってきたものだが,自分もやっぱりおんなじだ。またまた自己嫌悪。

  プレゼンソフトは,こういうときに融通が利かない。たとえばOHPなら,間を適当に飛ばして話をつなげるのだが,プレゼンソフトだと,とりあえず順序どおりにすべて進行しないといけないからだ。つまり,予定した内容が消化しきれていないのがバレバレなわけで…。これがまた1限めの授業だったもので,その日は一日中,自己嫌悪の深い海に沈んでいたのだった。


■ 04.05.25. 思い立ったら…仏滅

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  やり慣れないことはやるものではない。めずらしく何かちがうことをやろうと思ったりすると,とたんにトラブルに巻き込まれる,というのが,どうも私のいつものパターンであるようだ。

  人込みが嫌いなので,連休に行楽に出かけるなどということはできるだけ避けてきた。明らかに渋滞が予想される有名観光地は,とくに。人が少ない行楽地なんて,つまらないところに決まっているのだから,人込みもしかたがないと家族には言われるのだが,どうも“生理的に”苦手だ。

  それが今年,長すぎる連休のせいもあって,一日車で出かけることにした。しかも高速を使って。ふだん,実家に帰るのもわざと混雑する時期をはずしたりしているので,高速の渋滞というものを一度も体験したことがないのが,ちょっと心配ではあったのだが,一般道よりはましだろうと軽く考えていたのだった。実際,途中で「渋滞2km」の表示があったので,緊張しながら運転していると,ノロノロ運転までもいかない40km前後のスピードで走るうちに,渋滞区間を過ぎてしまった。この程度か,とすっかり安心しきっていたのだ。

  しかし,それは前哨戦だった。

  やがて道路はとあるジャンクションに近づく。前より長い「渋滞9km」の標識が目に入ったとたん,前の車がブレーキをかける。あれ?と思う時間もなく,車はどんどんスピードを落とし,完全に停止。それでもまだ楽観的だった。ちょうど高速の出口が近かったので,きっと降りる車で込んでいるのだろうと思っていたからだ。流れに合わせて車を進めているうちに,出口を通過。あれ? まだ渋滞は続いている…どころかますます進まなくなっている。

  気づくときは一気に気づくもので,出口を過ぎたあたりでとんでもないことに気づいた。“ガソリンが足りない!” 目的地までは持ちそうだったので,帰りにどこかで寄ってくればいいや,くらいに考えて出発してしまったのだ。どうやら本格的に渋滞らしいと気づき,出口を過ぎてしばらくは降りられないとわかったころになって,おそるおそるメーターに目をやると,当たり前のように針は,ガソリンが1目盛り分しか残っていないことを示している。

  このときばかりは,全身の血が凍った。渋滞の先はまったく見えない。このまま何十分,何時間待たされるかわからないのである。最悪,ガス欠で路肩に停めることも覚悟した。そのあたりはジャンクションとインターチェンジがくっついているので,目の前の進入路からは,どんどん車が一般道からあがってくるし,少し先では別の路線と合流するため,ここでも多くの車が流れ込んでくる。

  右の追い越し車線の方が多少流れている気がしたが,「最悪路駐」の場合を考えると,怖くて右車線には出られない。とりあえず,エアコンを切って窓を開け,家族にはがまんしてもらう。そしてひたすら前の車に従う。こんなにハラハラドキドキしながらの運転は久しぶりだ。意味もなくガソリンメーターをのぞいては,ため息をつく。そのうちに少しずつスピードが上がり,進んだり止まったりの間隔が少しずつ開いて,やがて何ごともなかったように普通の高速走行にもどった。この間,20分から30分。渋滞していた距離はけっきょく7kmくらいだろう。ガソリンもなんとか持ちこたえ,エアコンもまたつけて,目的地へと向かった。

  お出かけの際は,ガソリンの残量を確認し,余裕を持って出かけませう。…教訓にしなきゃいけないのは,私だけか。


■ 04.04.09. 思い立ったら

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  唐突に,掲示板を設置してみた。そんな人気のあるサイトじゃあるまいし,掲示板なんか作ったって,だれも書き込んでくれないだろうとヘンな確信を持っていたのだが,このところ,自分で思っている以上にいろいろな人が,ここを覗いてくれていることを知り,ちょっとだけ好奇心が頭をもたげてきた。このページにひっそりとリンクをはっておいたら,いったいどれだけの人が見つけて書き込んでくれるだろうか。

  それにもうひとつには,私との会話ではなく,たとえば修了生の人たちどうしが気軽に近況を知らせあう場があってもいいかな,と思ったこともある。

  まあ,どんなふうに使ってくれてもいいし,書き込みがなくて閑散としていても,それはそれでいいのだけれど,とりあえず初期設定だけはしてみた。ちなみにリンクは,このページの右上に小さく<BBS>と書いてある青いボタン,これだけである。トップページにもアナウンスしない。かなりいぢわる?

  見つけた人は,どうぞ何か書き込んでいってください。


■ 04.04.06. ねじを回す

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  娘がこの春からひとり暮らしをすることになったので,引っ越しの手伝いに行ってきた。関東はすでに桜が散り際。サッシを閉めていると暑いくらいの日差しだ。といっても,のんびりしていられる時間はなく,あちこちの店から次々に運び込まれる新生活用品の山に埋もれながら,黙々と家具のセッティングが続く。

  いちばん驚いたのは,家具がみんな組み立て式だったこと。私が学生していたころも,組み立て式の家具はあったが,カラーボックスに代表される単純な箱状のものか,スチールパイプと棚板を組み合わせて作る,工作マニア向けの家具くらいで,たいていは組み立て済みの家具だった。それにくらべて今は,かなり凝った作りのものも含めて,すべて組み立て式なのである。当然,組み立て作業は予想をはるかに超えて膨大なものになる。

  梱包を開くと出てくる組み立て図は,昔プラモデルでさんざん遊んだおぢさんの好奇心をくすぐりはするのだが,ああいうのは,少しずつ少しずつ手をかけて作り込んでいくから,おもしろいのだ。時間に追われながら,1日に4つも5つも作らなくてはいけないとなると,気持ちもすぐ萎える。

  おまけに,プラモデル少年から見ると,決定的な問題がある。プラモデルの部品には,一つひとつの部品番号を書いた四角い出っぱりが必ずついていて,組み立て図の番号と照合すれば,必要な部品がすぐにわかるようになっている。ところが家具の場合,組み立て図には番号をふってあるのだが,実際の部品には何も書いていないのだ。

  組み立て図に書かれた部品の形と寸法を見ながら,目的の部品を探すのだが,これが同じような形のものばかりなので,なかなか手強い。部品をとめるネジ類も何種類も入っていて,細かく使い分けられているのだが,よ~く見ないと,どれがどれだかさっぱりわからず,実際に木材をとめてみてはじめて,収まりが悪いことに気づいたりもする。ちょっと不親切じゃないだろうか。

  ともあれ,組み立て図と首っ引きで部品を探し出しては,ドライバでネジを締めてくっつける,という作業をひたすら繰り返していく。いったい全部で何本のネジを締めたのだろう。なんだか一日中ただネジを締め続けていたような気がする。(妻は,一日中ひたすら段ボールをつぶし続けた。)

  ほんとうは,TVのセッティングが中心になる予定だったのだが,そんなこんなで家具の組み立てにすっかり手こずってしまい,気づいたらもう夜。肝心のTVは娘に任せてバタバタと帰ってきた。次の朝,組み立てたはずの家具がぐしゃりと壊れていたらどうしようと,一抹の不安を抱えながら。


■ 04.03.18. もともと特別な?

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  「世界に一つだけの花」が,息長くヒットを続けている。昨年末は紅白の大トリという大役を担い,次のセンバツでは入場行進に使われるらしい。あっという間に,卒業式や結婚式で歌われる歌の定番の一つにもなってしまった。

  しかし,私自身はどうもこの曲が好きになれない。SMAPの曲は嫌いではない。「がんばりましょう」といい「夜空ノ向コウ」といい「セロリ」といい,歌のうまさはともかくとして,曲自体はそれぞれおもしろいと思う。しかしこの曲はどうも肌に合わない。…というか,聴けば聴くほど,この歌詞の薄っぺらさが気に障る。

  言っていることは,しごくまともな内容である。長所短所・できるできないの次元ではなく,その人の存在自体まるごと認めようというのは,ロジャーズあたりにも通じ,心理学関係者なら誰でもうなずける内容だろう。しかし,ここで歌われているのは,あまりにストレートで単純な道徳スローガンである。私から見れば,「人類みな兄弟」などというのとさして変わりはない。空疎で具体性のないメッセージだ。

  小学生向けのわかりやすいメッセージとしてなら,まあいいだろう。だから,卒業式で歌われていてもべつにいいと思う。しかし最近,なんだかあちらでもこちらでも,いい歌詞だ,感動したとほめられてまくっている。このあいだは,国際政治のコラムニストの人がこの曲をとりあげ,絶賛していた。こういうのを見たり聞いたりしていると,ちょっとまてよと言いたくなるのだ。

  この歌詞,「他人をONLY ONEとして認めよう」という意味でとらえるか,「自分自身がONLY ONEだぞと主張したい」意味だと感じるかによって,イメージが大きく変わる。前者の意味なら,私も納得できないわけではない。しかし,私にはどうも後者のイメージが強い。もちろん,自分を否定的に見ている人たちに,「あなたもONLY ONEな存在なのよ」と伝える意義はあるのかも知れないが,どちらかといえば,さしたる努力も葛藤も経験していない人たちが,「<もともと特別な>ONLY ONE」などというコトバに甘えて逃げ込んでいるだけにしか見えない。

  繰り返すが,この歌詞は,どのような場面を想定するかでずいぶんイメージが変わる。子どもの頭が悪いと,悪口しか言わない母親に対して,「NUMBER ONEじゃなくてもいいじゃないですか。子どもはそれぞれONLY ONEな存在なんですよ。」と言ってあげるという文脈なら,とくに違和感はない。しかし,私がイメージする場面はちがう。中途半端に挫折した人が,「NUMBER ONEなんか目ざさなくてもいい。何もしなくたって,自分はもともと特別なONLY ONEなんだ。」と自分を正当化しつつ,今の状態のままどんどん沈殿していってしまう。そんな状況が歌詞の間から垣間見えるような気がするのだ。これは困る。

  ONLY ONEはいいのだけれど,それに<もともと>とか<特別な>とかの形容詞を安易にくっつけて,不必要に高い評価を与えてしまうところに,甘さというか薄っぺらさをどうしても感じてしまうのである。


  そもそも,この歌詞。花屋の店先で発想されたことになっているが,これがまた,いかにもものごとの表面しか見ていない人の薄っぺらな発想だ。

  花屋の店先に並んだ花はみんな,だれがいちばんなんて争わず,それぞれ誇らしげに咲いている,というのであるが,ちょっと花を育てる農家の段階を考えてみてほしい。花たちは出荷される前の段階で,さんざん厳しい生存競争に勝ち残ってきたのである。実入りの悪い種や球根は捨てられ,生育の悪い苗は間引かれ,大輪の花を育てるため枝も花芽も間引かれる。傷や虫食いのある花は出荷されないし,せっかくきれいに花をつけても,球根を育てるためにすぐに切り落とされるものもある。彼らはそうした生存競争の中を生き抜き,農家の人たちが「これは売れる」と自信を持って出荷した花なのであって,だから「誇らしげに」咲いているのは,当たり前といえばしごく当たり前なのである。彼らを見て,争うことをしないなんて感心していられるのは,よほど舞台裏を知らない人だけだろう。

  ほんとうにみんながONLY ONEなのだ,尊重しようと歌いたいなら,たとえば,イネの養分や日照を奪うヒエやアワ,花粉症を引き起こすブタクサ,食中毒の原因になるキノコ類など,人間にとって無益であったり害を及ぼす「雑草」の類のことをこそ,きちんととりあげて歌うべきだろう。そうした花たちも,花屋に並んだ花たちと同様,もともと特別なONLY ONEなのだと説明されれば,私も文句は言わない。花の中の<エリートたち>だけを見て,争ったり比べたりするのは無意味なんて言ったってねえ。

  もっともこの曲,最後だけはいいことを言っている。つまり,(ONLY ONEである自分の)花を咲かせることだけに<いっしょうけんめいになればいい>というところである。

  そうなのだ。<いっしょうけんめいになる>からこそ,ちゃんとしたONLY ONEの花を咲かせられるわけで,その過程には,競争だって比較だってあるのだろう。競争に負けてはじめて気づく自分のONLY ONEだってあるはずだ。いろんな挫折や葛藤をいっしょうけんめいに生き抜いてはじめて,自分はONLY ONEだと自信を持って言えるのではないだろうか。けっして<もともと特別な>ものなどではない,と思うのだ。

  人間はどうして一番になりたがるのだろう,僕らはそれぞれちがう,世界にひとつだけの花なのに…,と爽やかに歌いあげ,万雷の拍手に包まれたその直後,みんなコロリと態度を変えて,白組が勝った,紅組が負けたと大はしゃぎしている例の年末の国民的TV番組を見ながら,なんだかなあ…とついついため息が出てしまうのは,私がよっぽどひねくれているから,だけではないはずだ。


■ 04.02.25. 替えました

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  トップページの写真を,5年ぶりに替えた。

  ほんとは,2年前の大学院の新歓コンパで,当時新入生のA氏から「若すぎる」と指摘されたときに替えるはずだったのだが,ずるずるとサボっていたら,先日の追いコン(つまりA氏の学年)で,またまた別のB氏から,ダメ押しのように「最初,別人かと思いました」と指摘されてしまった。しかも,そのすぐあとくらいに親戚から電話があり,「しばらく会っていないが,写真を見ると全然変わっていない様子じゃないか」とのこと。そりゃあ変わってません,5年前の写真だもの。…ついに観念した。

  もともと,前の写真は掲載するときから「若く撮れている」と思って選んだ写真だ。たしか,子どもがやっていたサッカーの関係で,チームの代表やら試合の審判やらをやっていたときの,グラウンド最終戦。やっぱりこういうときは,屈託ない笑顔でいられるものだ。

  考えてみたら,その後,講座のパンフ用の写真以外,ほとんど写真らしい写真を撮られていない。どうしよう。と思ったら,うまい具合にありました。A氏・B氏と同学年のC氏がとある縁で撮ってくれた1枚。これもけっこう屈託ない笑顔になっているのは,知っている人だけが知っている,とある事情によるもの。日中なのに顔がちょっと赤いように見えるかも知れないが,気のせいです。


■ 04.02.20. 読めないのか

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  私の授業の評価は,すべてレポートで行っている。研究室の前に提出用の箱(コピー用紙の箱を流用)を用意して,そこに投入してもらっているのだが。

  今年度になって,なぜかこの提出箱に,レポート以外のものが投げ込まれる“事件”が相次いでいる。どうやら,研究室のドア下の隙間から滑り込ませていく代わりに,ドア前に設置されている箱に入れていくらしいのである。それが何の箱かなど少しも考えずに。

  前期は,業者のパンフレットが紛れ込んでいた。こんなのは無視すればすむだけなのだが,先日投げ込まれていたのは,「国公立大学高専教職員組合」という労組の宣伝ビラだった。法人化を控えて,いろんな動きがあるものだと感心したが,それにしても教職員組合というからには,大学の中で日常活動している人たちなのだろう。そんな人が,なんでまた「レポート提出箱」と大きく書かれた箱に,まったく関係ないビラを平気で入れていくか。

  夜間は何が起こるかわからないので,箱は基本的に日中しか置いていない。つまり件のビラは,日中に投入されたものと思われる。私が部屋の中にいるのにコソコソ置いていくこと自体,頭に来るのだが,そのうえレポート用の箱を平気で使うとは! その鈍感さにはあきれるばかりである。思い出すだけで,また怒りがフツフツと沸いてくる。 まさか字が読めないというわけではあるまい。

  なんといえばいいのだろう。たとえば一生懸命育てた学級花壇に,ゴミを投げ込まれたような気分とでもいおうか。しかも,苦労を知っているはずの上の学年の子どもたちが,おもしろ半分でやっているのを目撃したような。

  いくら立派なことを言っていても(そのビラは,読まずに破り捨てたが),もうその前の時点で,こういう人たちはまったく信用しない。


■ 04.02.10. 10点アップ

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  家庭学習で思い出したが,子どもが中学校のとき,定期試験のあとに「処理ノート」というものを毎回提出していた。これは,試験でまちがったところをもう一度見直し,どうしてまちがったかを自己分析して,やり直した正しい答えとともに記載するというもので,各教科ごとに1冊ノートを作っていたようだ。

  この処理ノートは,けっこう好きな実践だ。市川伸一さんがやっている「認知カウンセリング」の中核である「教訓帰納」の考え方にも通じるところがある。教訓帰納とは,わからなかった問題について認知カウンセラーといっしょにやり直したあとに,自分がどうしてできなかったかや,やり直したことによって,自分がどのような点で「賢く」なったかをきちんと内省させ,それを別の問題にも適用できるような教訓として一般化し,頭に入れておくことである。処理ノートも,「できなかった」で終わりにせず,次は同じ失敗をしないために,できなかったところをきちんと振り返らせようとしているわけである。テスト成績が低くても,処理ノートをしっかり書いて提出することで,多少は挽回できるという評価システムは,なかなかいいシステムだと思う。

  しかし,私が見るところ,ひとつ大きな問題がある。たとえば,テストで95点とった人は5点分だけ処理ノートを作ればいいが,50点の人は50点分,30点の人はなんと70点分の問題を分析しなければならないのだ。その教科が得意な人にとっては,次のテストに役立つよい勉強になるかも知れないが,普通の人にとってはけっこう苦痛,苦手な人にとってはほとんど地獄と化してしまうのではないだろうか。

  彼らが持つであろう目標という点からみても,処理ノートは95点の人にも50点の人にも30点の人にも等しく「次は100点をめざせ」と言っているようなものであり,あまり現実的ではないように思える。

  たとえば,「あと10点アップするための処理ノート」というのはどうだろう。まちがったいろいろな問題をざっとながめて,あとちょっと気をつければ10点くらいはアップできそうなところを選ばせ,その部分を中心にきっちり分析させる。手も足も出ない問題を,うんうんうなってやるのではなく,ここなら自分でも何とかなりそうだと思えるところに焦点を当てさせるわけだ。これなら,苦手な生徒でもなんとかやる気になってくれるのではないだろうか。

  まあ,定期テストは生徒が学習しなければいけない内容を扱っているわけだから,学校教育的には100点をめざすのが当然なのだろうが。どうです,10点アップで手を打ちませんか?


■ 04.02.09. めんどうだろう

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  子どもが学校から何やら連絡物を持ってきた。見てみると,最近家庭学習の習慣がついていない生徒が目立つので,習慣づけのきっかけとなるよう,家庭学習の様子を記録する記録表を作ったとのこと。毎日記録することで生活のリズムを積極的に作り出し,家庭での学習時間を確保する,というのがねらいなので,ぜひ,やってみてほしいという。

  高校生にもなって,家庭学習記録表か!? というツッコミはおいといて,少し冷静に検討してみると,これがまた細かい。おきまりの生活時間配分を示す帯グラフ(何時から何時まで何をやったと塗りつぶすヤツ),国語○時間,数学○時間…,と各教科ごとに学習時間を記入する欄,うまくできたか,理解できたか等の自己評価評定尺度欄などなど。

  でもって,私が疑問なのは,そもそも家庭学習をめんどくさがってやらないような人が,こんな細かい家庭学習記録をつけようとするかどうかだ。他の人のことはわからない。もし私が生徒だったら,おそらく最初の1日2日はがんばってこの表を仕上げ,それだけに時間と精力とを使い果たして家庭学習は終わり。3日めにはあっさり投げ出して,そのままほこりをかぶってしまうにちがいない。

  きちんと計画的に,また手間をいとわずものごとに取り組む人だったら,こういうのは,もしかしたら刺激になるのかもしれない。もっともそういう人は,そんな刺激がなくても,毎日の勉強時間をしっかり確保しているのだろうが。教科書を開くのさえおっくうがっているような生徒が,意欲を持ってこの表に記入するようになるとは,どうしても思えないのだ。

  めんどくさいから,だけではない。「これだけやったんだぞ!」と誇りを持って記入できる箇所がほとんどないからだ。たとえば生活時間。ほんの30分程度の細長い勉強時間の帯を1本引くだけで終わり。あとはテレビだの食事だの,関係ないことの帯が文字通り幅をきかせることになる。教科別学習時間も,ズラリと並んだ教科のうち,1個だけ30分と記入して,あとは空欄のまま。最初の段階ではこんな表しか書けないのだ。何日も続けて書く気になるとは,とても思えない。(でなければ,実行不可能なデタラメの記録をつけて「良い子」を演じるか)

  ちゃんとやっている人だって,1日に4教科も5教科もやっている人は少ないだろう。ぽつんと1,2教科だけ時間が書かれていてあとは空欄という,せっかくの達成感を半減させる体裁は,この方式の構造的な問題だと思う。

  何か,もう少し工夫のしようがないものだろうか。ちょっとだけでも取り組もうとしたことを,自分でほめてあげられるような記録の在り方,明日も続けてみようと自然に思えるような記録の在り方,…そしてもちろん,記録にかける負担を最小限にして,その分を家庭学習そのものに振り向けられるような記録の在り方は,ないものだろうか。残念ながら私は,批判しているわりには,この点に関して具体的な提案を持ち合わせていない。だれか,教えてくれませんか。

  視点を少し変えてみよう。家庭学習がなかなか続かない大きな原因は,家庭学習の成果が具体的に表れにくいことにあるだろう。つまり,努力したことに対して即時的な強化が与えられないのである。

  テスト直前になると,みんな一夜漬けの勉強に走るのは,ともかくその成果が,翌日のテスト成績としてすぐにはね返ってくるからである。予習も,翌日の授業で先生の説明がいつもよりよくわかったとか,指名されて読まされても,つかえないで読めたという「いい思い」をしたことがある人なら,続けようという気も起こる。漠然と「家庭学習をしなさい」と言うだけで,学習したかどうかのみをチェックするのでは,行動を生起させ,維持するしくみとしては不十分なのである。学習した成果をきっちり役立てる機会を学校で提供すること,まじめに家庭学習を継続している人が「いい思い」を味わえるような評価システムを提供することが,教師側の工夫として必要なのではないだろうか。

※念のため。生徒が家庭での学習時間を自己管理することの重要性そのものを,否定しているわけではない。ただ,現在自己管理できていない生徒に対するアプローチのしかたとしてどうか,ということだ。



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