ひとりごと

保存箱 2006.01-06

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06.06.21. スピーチの舞台裏・蛇足

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  送っていただいた披露宴のDVDを観ていて,気がついたことが2つある。1つめは,スピーチをしながら,自分の体が揺れていること。

  いや,「気がついた」というのは正確ではない。これは前から自覚していた。ただそれを他人の視線から冷静に見て,こんなに揺れているのだと再確認したということだ。ううっ,頼むからもうこれ以上アップにしないでくれ!

  体を揺らすのは,緊張の高いスピーチのときによく出る癖だ。とくに,話しはじめのころに出やすい。自分の中では,体を揺らすことでリズムをとって,それに合わせてなんとか言葉を押し出している,という感覚なのだ。肩を動かす動作ではずみをつけて,ひとつひとつの言葉を引っぱり出しているのである。教卓があるところでは,みんなから見えない教卓の陰で,片方の足のつま先でトントンと床を蹴っていることもよくある。

  黒板の前を意味もなく歩き回ったり,腕を振り動かすことのできる授業はわりあい楽なのだが,スピーチの場合はじっとしていないといけないのがつらいところで,足も手も動かせないから,ついつい肩が動いてしまうのである。だから,ちょっとは気にしているのだが,いっこうに治る気配がない。

  もう1つ,気づいたこと。

  どうも観ていると,みょうに言いよどむというか,言葉が口から出てくるまでに異常に時間のかかる言葉がある。まるでその言葉をど忘れしてしまったかのような間合いなのだが,自分では忘れてあせったという意識がないので,そういうわけではないのだろう。

  その不思議な言葉というのは,なんと「愛」。

  いやあ,いかにふだんの生活で使い慣れていないかを思い知らされる。たしかに,原稿を書いている時点から,この言葉には抵抗があって,この言葉が出てくるたびに,なんだか背中がムズムズして,居心地の悪さを感じていたのだが,まあ結婚式なんだし,自分のことを言うわけでもないのだから,ちょっと無理してでもカッコよく使ってみようと,入れておいたのだ。しかし,それでもやはりしゃべるときになると抵抗は大きかったわけで,イタリアの男性のように,スマートに「愛」を語るなんてことは,きっと私には逆立ちしてもできそうにない。 やれやれ。

ポイント

06.06.16. スピーチの舞台裏・2

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  原稿を作ったはいいけれど,当日それをどうやって見たらいいだろう。紙に全文を印刷して,一字一句忠実に読みあげる,というのは性に合わないし,読みあげはしないとしても,とにかく全文を印刷したところで,この老眼では,短時間で見て原稿を確認するのは不可能だ(しかもしゃべりながら!)。といって全文暗記というのも,緊張する席上では危険が大きすぎる。頭の中がホワイトアウトして沈黙してしまうか,アドリブ話がどんどん脱線していって収拾がつかなくなるのがオチだ。

  そこで考えた。ふだん授業で使っている情報カードに印刷しよう。情報カードなら,なにしろ使い慣れているし,大きな紙にダラダラと書いていくよりもずっと必要な部分が探しやすい。それに,当日来てくれた修了生の人たちにも,ちょっとはウケてもらえるのではないかといういたずら心もあって。

  授業のときは,話す内容の要点や専門用語を書いている。しゃべる直前にチラリと見て確認できる程度の文字の量だ。しかし,スピーチ用としては,ちょっとやり方を変えてみた。各段落の冒頭部分10文字程度をカードの「見出し」として書き,その下に段落の要点や,絶対言わないといけない「キメのコトバ」を箇条書きで書いていく。最低限,見出し部分だけ見れば話の流れが確認できるし,詰まってしまったら,箇条書き部分をざっとチェックすればいい。

  カードができあがった。あとは,カードを見ながら内容を頭に叩き込むだけだ。ほんとうは,声に出して練習し,時間を確かめておくべきなのだけれど,私はこれがどうにも苦手だ。これまで,挨拶でも講演でも,声に出して練習したことはまったくない。1人でブツブツやっているのを想像するだけで気恥ずかしく,実際にやり始めても,すぐに黙読に戻ってしまう。だから,いつものように頭の中だけでリハーサルを繰り返した。カードに書かれた「見出し」を頼りに,話の順序と要点をチェックし,しゃべってみる(もちろん,頭の中で)。意識的にゆっくりとしゃべって,スピーチのペースをつかんでおく。

  そして,いよいよ本番。

  しかし,白状してしまうと,記憶がない。最初の,結婚式が済んだことの報告が終わり,さあこれから新郎新婦の紹介,というところまでは鮮明に覚えているのだが,そこから先の記憶がすっぽり抜けている。気がついたら,「最後に,皆様にひとつお願いがあります」というセリフをしゃべっていた(その「最後に」から先が,また長いんです…反省)。いくらお気楽な私でも,やはり相当に緊張していたのだろう。ここで間違ったとか言いよどんだとか,局面,局面の記憶はあるのだが,次はこれをしゃべって,その次は…という流れの記憶が,ぜんぜん残っていないのだ。

  記憶がないなりに,失敗したことだけはしっかり覚えているのだから,始末が悪い。しゃべりながら気づいていたいちばんの失敗は,新郎新婦の呼び方(苗字か名前か)が,結局ぐちゃぐちゃになってしまったことだ。これも白状してしまうと,名前で呼ぶのは案外呼びやすいものだった。こういう席だけ名前で呼ぶというのも,なれなれし過ぎるという思いが頭の片隅には浮かびつつ,しかし,一度名前で呼んでしまうと,次にすっと出てくるのは名前の方なのだ。どうも意識的には制御しきれない。というか,しゃべり続けているので,頭の切り替えができない。たまにそれに気づいて,あわてて苗字に戻したりするので,すっかりぐちゃぐちゃになってしまったのだ。

  もう一つの忌み言葉の方も,ひとつ大きな失敗をしてしまった。あるエピソードを紹介するときに,修論提出間近の状況を描写するのに,「みんな<浮き足立っている>時期」という修飾語を考えていたのだが,やはり使い慣れない表現を得意がって入れるものではありません,「浮き足立つ」がどうしても思い出せない。少しの間逡巡したあげく,頭の中にポッと浮かんだのが,元の修飾語とは似ても似つかない「殺気立っている…!」。言ってしまった。そしてその瞬間,汗が背中を伝った。これはさすがにマズイ。あわてたけれど,言ってしまったものを戻すことはできない。ここはちょっとアドリブっぽくしゃべりたかったので,あまりきっちり覚えておかなかったのが,敗因だろう。

  一方,拍手をいただく演出は,なんとかうまくいった。もちろん,「拍手してください」などとはひとことも言わずに,会場から“自発的に”盛大な拍手が響いてくる予定だったのだが,心配なので,披露宴が始まる前に,来てくれた修了生をつかまえて“仕込み”をしておくつもりだった。しかし,考えてみたら仲人は招待客とは別行動なので,当然打ち合わせの機会もなく,またスピーチで演出に向けて話を盛り上げようとがんばったら,肝心なところが噛み噛みになってしまったこともあって,ドキドキしながら反応を待った。そしたら,ちゃんとみなさん,話を聞いてくれていて,新郎のために暖かい拍手を送ってくれたのだった。よしよし。心の中でニンマリ笑っていた。

  ところで,講演のときはわりとこまめに時計をチェックして,話題を延ばしたりはしょったりするのだが,まさか礼服の袖をめくりあげて時計をチェックするわけにもいかず,時間はとても気になっていながら,スピーチの最中はまったく確認できなかった。体感的には,予定時間(10分)を2,3分オーバーしたかな,くらいだったのだが,やはり記憶がとんでいた人の記憶だけあって,ちっともあてにならない。後日,DVDを送っていただいたので,さっそく妻と反省会を開いたのだが(えらいでしょ?),まっ先にチェックしたのは,この時間だった。なんと,12分どころか全体で16分強!

  長話である。真ん中あたりに入れようとした拍手の演出が,ちょうど8分だったのはご愛敬だが,だんだん,画面に映し出されるみなさんの表情ばかりが気になってくる。あくびしてないだろうか。寝ていないだろうか…。申し訳ない。

  内容を聴き直してみて,気がついた。本番前に削除したはずの文章が,なぜかあちこちで復活しているのである。そういえば,最終稿ができて練習をはじめる以前に,内容を縮めるべく原稿をさんざん読み直していたわけで,そのときのリハーサル量の方が圧倒的に多いのである。話の流れでそれらの話題がすらすら頭に浮かんできたとしても不思議はない。

  それを聞いていた妻がポツリと言う。「削除した文に,赤で×をつけておけばよかったのに」。なるほど,「ここはしゃべってはいけない」と。たしかに,原稿感覚で,不要な文はどんどん削除し,視界から消えたことで満足していたが,スピーチでは「しゃべらない」部分の情報も,重要な意味を持っていたのだ。勉強になった。

  それにしても,やはり私はしゃべりが苦手だ,としみじみ実感する。書いた文字を何度も読み返し,手直ししながら原稿を作っていく方が,自分の思考パターンに沿っている。言ってしまったら元に戻せない話し言葉は,不用意にヘンな方向に広がっていったり,うまく展開できずにしぼんでしまったり,どうも扱いにくい。(実際,こうしてこの文章を書きながら,気がついて前編の方も少し手直ししている。どこが変わったかわかりますか?)

  ともあれ,仲人の大役は,披露宴の冒頭16分でほぼ終了。あとはもうすっかりリラックスして,おいしいワインをいただき,いろいろな人たちと話を交わしながら,楽しく過ごさせていただいたのだった。終始ニコニコ笑顔の花嫁とは対照的に,たぶん入場のころからずっと泣いていた妹さんの姿が印象に残る,すてきな結婚式でした。

ポイント

06.06.12. スピーチの舞台裏・1

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  「仲人」などというものを,柄にもなく引き受けてしまった。とはいっても,今どき式に出席するだけの,いわゆる「媒酌人」であって,実質的に2人を結びつけるようなたいへんなお仕事があるわけでもなく,披露宴の冒頭にスピーチをするのが,唯一公式の役目といえばいえる程度なのだけれど。

  社会の常識とかマナーとかいうものが,私に決定的に欠けていることをよく知っている妻は,最初から最後まで反対していたのだが(そのぶん,妻が気を揉まなければいけないのは,目に見えているので),私自身はいたってお気楽で,たしかにはじめてのことだから,不安も少なくなかったが,頼まれるうちが花,一生に一度は体験してみてもいいかなという妙な好奇心が,むくむくと頭をもたげてくる。もちろん,ゼミの修了生がせっかく頼ってきてくれたのだから,というのもあるし。

  じつをいうと,仲人はおろか,これまで披露宴に呼ばれてスピーチをしたことさえ,ただの一度もない。一度だけ,急に出席できなくなった先輩の代わりに,式場にFAXで届いたメッセージを代読してくれないかと,直前になって新郎に頼まれたことがある。先輩というのは新郎の主賓なので,来賓最初のスピーチ。迷う時間も緊張する時間もないくらい,頼まれたのが直前だったので,うっかり引き受けてしまったのだが,そのときはとにかく,ギザギザのFAX文字を判読するのに精一杯で,原稿を握りしめながら,ただひたすら読みあげていた。もちろん,幸か不幸か主賓の挨拶だったから,ただの友人である私が,自分のコメントを差し挟む余地などどこにもなく,スピーチをしたという実感はまったくない。そのとき以来である。

  さて,大切なお仕事であるスピーチ。

  立ち読み情報によれば,スピーチは3~5分程度に収めるのがいいらしい。媒酌人の挨拶は,2人の紹介をする都合上,もう少し長くて7,8分くらいまでOKらしいのだが,それでも短い。短すぎる。授業や講演なら,前置きだけであっさりこれくらいの時間になってしまう。「さあ,これから本題」という時間の中で,話をきちんとまとめてしまわなければいけないわけだ。これはキビシイ。時間の単位が1ケタ違う感じだ。ふだん,いかに時間を無駄に使いながらしゃべっているかを,思い知らされるのだが,しかし,だからといって型どおりのコトバでごまかすようなことはしたくない。できるだけ自分のコトバで語りたいという,ヘンなこだわりもあって,この時間のカベには最後まで悩まされた。

  話の骨組みは,2人が挨拶に来てくれた昨年夏には,ほぼ固まっていた。…というとカッコいいが,媒酌人の挨拶といえば,式の報告,2人の生い立ちとなれそめ,2人の人柄,あと最後に気の利いたおコトバと,だいたい流れが決まっているので,これはそれほど悩む必要はない。どういう人柄をアピールするか,どういうエピソードをメインに据えるか,といったところを決めればいいだけだ。

  本格的に準備をはじめたのは,1ヵ月前。スピーチの時間が短いので,授業のように,ポイントだけメモしてあとは“出たとこ勝負”というわけにはいかない。きちんと原稿を作って字数をしっかり数えておかないと,きっとすぐに破綻する。そこで,原稿を執筆するときと同じやりかたで進めることにした。

  最初の稿ができあがった。字数換算で約15分ぶん。そこから削りに削って10分まで短くしたが,そこから先,パタリと進まなくなった。本の原稿を書くときだったら,行の最初2,3文字で終わっている段落を集中的に修正し,読点を省いたり修飾語を削除したりして,その2,3文字ぶん少なくすれば,まるまる1行削ることができるのだが,話し言葉の場合,2,3文字の削除はあくまでも2,3文字の削除でしかない。そんな姑息な手段では,ちっとも縮まらないのだ。やるなら,エピソード丸ごと削るしかない。しかし,エピソードを1つ削ってしまうと,まったく話がつながらなくなってしまう。別の短いエピソードに代えてみようとすると,書いているうちにそのエピソードもどんどん長くなっていく…。

  文例集を1冊買って,省略可能な内容がないかどうかすみずみまで探し回る。形式的な挨拶を極力短縮し,ご両親のお名前の紹介を削り,せっかく2人が書いてきてくれたプロフィールも大半を削って,無理やり8分程度にしたが,ここでついに力尽きた。8分といっても,授業の感覚での8分であり,挨拶だともっとゆっくりしゃべるはずだから,これで10分ギリギリだろう。それが本番1週間前。

  削れない文章と格闘していたくせに,無謀にも1つ演出を考えていた。ちょうど半分くらいのところで,聴いている人たちの拍手をもらおうという作戦だ。リスナー参加型(?)のスピーチである。話の節目になるし,じっと聴いているだけの退屈さに,ちょっとはアクセントがつくのではないか。その拍手に向かって盛り上げる演出のせいで,ますます文章が削れなくなっていったのだけれども。

  それとは別に,問題が2つあった。1つは,新郎新婦をどう呼ぶか。一般的には苗字でなく名前で呼ぶというのは,経験上わかってはいたが,私自身,学生を名前で呼ぶという習慣がまったくないので,名前の記憶があやしいのだ。ゼミ生はいろんな書類に名前も書いているので,まあ大丈夫だろうが,お相手の方は,苗字はともかく名前は相当あぶない。途中で名前を忘れてしまったらどうしよう。いや,間違えて他の人の名前を呼んでしまったら,なんて言ってフォローしよう。てことで,今回は強引に苗字で通すことにした。まあ,大学のセンセーだから,少々堅苦しい呼び方でも許してもらえるのではないか。ただし,話の内容から,どうしても名前で呼ばないといけないところも若干ある。たとえば,家族に言及するときはみんな同じ苗字だから,名前を特定せざるを得ない。これが本番で混乱のタネになるのだが,それはまたあとで。

  もう1つ大きな問題は,「忌み言葉」だ。これは,原稿を書いている段階でもある程度は注意していたのだが,字数調整の参考に買ってきた文例集を見たら,とてもそんな生やさしいものではなかった。たとえば,「思い切って」は「切る」なのでダメ。「決断」も「断つ」なのでダメ。「ますます」「いよいよ」のような重ね言葉は,再婚を暗示するのでダメ。すべてこんな調子。まともに従っていたら,ほぼ全面的に書き直さないといけない。忌み言葉を避けて別の言葉に置き換えると,どうしてもまわりくどい言い回しになりがちなので,それを補うために周辺も書き換えないといけなくなるからだ。これではますます字数が増える。

  ちょっとだけ悩んだが,これは早々にあきらめた。直せば直すほど,どんどん「自分のコトバでのスピーチ」というコンセプトからはずれていってしまう気がしたからだ。なんだか「当たり障りのなさ過ぎる」話に落ち着きそうだったし,「夫婦ゲンカ」などというあぶない単語も,話の展開上はずしたくなかったしね。最初の部分だけ見直した原稿をあっさり放棄して,元バージョンの原稿に戻して作業続行。まあ,常識のないセンセーだと思われても,それはそれでしょうがない。開き直ったら,気持ちがすっと楽になった。

<続く>

ポイント

06.03.16. 楽しもうと思う・ADVANCED?

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  オリンピックは,最後の最後になって日本唯一のメダルが金メダルと,なんだかとても微妙な展開になった。開会前の大騒ぎから,一時は一転して冬季競技の競技環境の厳しさをとりあげはじめ,報道という本来の役割の片鱗を見せるかに見えていたメディアも,またコロリと態度を変えて大騒ぎ。きっと何人分・何パターンも用意していたのだろう「感動秘話」を,ようやくオンエアできるとばかりに,各局・各番組こぞって流している。まったく,うんざりするほど朝から晩までイナバウアーだ。ネタが尽きたからといって,カメやオットセイまで引っぱり出すことはないだろう。

  さて,その荒川静香さんだが。試合後のインタヴューを聞いて(これもさんざんどの番組でも流されているので…),驚いた。彼女もまた「試合を楽しみたいと思っていた」そうなのである。ありゃ。これは先日の「ひとりごと」を撤回しないといけないか…。

  で,もう少し荒川さんを素材にして考えてみた。ヒントはすぐに見つかった。たしか1日経った別の番組でのインタヴューで,荒川さんはこんなことも言っていたのだ。

「試合を純粋に楽しむということが,こんなに大変なことだとは思わなかった」

  この頃になると,スタジオに招いてじっくり話を聞く番組が増えてきたので,インタヴュアーしだいでは,おもしろい内容が聞けるようになっていたのだが,残念ながらもうこちらの方がニュースに飽和状態で,このときも片手間に聞いていたので,悔しいことに前後の文脈がまったくわからない。だからこの言葉が,開会前までの長いスパンでの話なのか,試合当日の短期間での話なのかはっきりしないのだが,とりあえず推測で話を進めよう。

  長期的な話だとすると,話はわかりやすい。というか,これはメディアが流す「感動秘話」から,なんとなくイメージできる。採点基準の変更によって,「高い点を取るために」はずしていたイナバウアーを,悩んだ末に,「自分らしさを出すために」もう一度復活させたという,あの話だ。

  おもしろいのは短期的な話の方だ。これも何度もビデオが流れていたが,彼女,自分の演技順が来るまで密閉型のヘッドホンをつけ,横を向いて黙々とアップしていた。あとのインタヴューによると,他の選手が演技しているときの音楽や歓声が耳に入らないようにしていたのだそうだ。観客の歓声を聞くだけでも,どれくらいいい演技だったか推測できるのだそうで,そういう情報をシャットアウトしていたのだ。自分の演技のことだけを考えるために。

  なんだか「楽しもう」などというと,単純に弛緩して何も考えずに試合に臨むようにも見えるのだが,彼女の「楽しむ」姿勢は,それとは正反対のように見える。私たちなら,ふつうは「集中する」というような表現を使うだろう。「自分の演技のことだけ考えようと思った」「最高の演技を観客に見てもらいたいと思った」というのも,インタヴューの中でよく聞かれた言葉だが,これらが「試合を楽しもうと思っていた」とセットで語られているのを見ると,彼女の中ではこれらは一体なのだろう。

  メディアでは,ライバルたちが,オリンピックで未勝利だったり,前回4位でメダルに手が届かなかったりで,メダルへの思いが強かったのに対して,荒川さんの場合はいったん引退を考えたりしたこともあって,プレッシャーが低かったのだろうなどと分析されていたが,実際に彼女自身が,他の選手や勝敗への意識を排除して自分の演技だけに集中するために,相当な努力をしていたわけで,このことを見過ごしてはいけない。いってみれば,「楽しむために苦しんでいた」のである。これなら「こんなに大変なことだとは思わなかった」というのも納得できるし,そういう彼女の行動を踏まえての「楽しもう」なら,私も何の異論もない。

(もしかすると,「楽しもう」と発言していた他の選手たちも,人知れず相当な努力をしているのかも知れないが,それはそれとして,彼らがメダルをとって「感動秘話」が紹介されたら,そのときにしっかりフォローすることにしよう。)

ポイント

06.02.21. 「交流感」

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  ちょっと時間が経ってしまったが,『臨床実践援助法』のレポートについて書いておこう。今年はちょっと“特殊”だったので,レポートも少ないかと思っていたのだが,例年よりは少なめながらも,ちゃんと書いてくれる人は書いてくれたようで…,というか内容的には,例年よりおもしろく読ませていただいた。さすが,出席義務なしでもわざわざ1時間めから出てきてくれた人たちだけのことはある,というべきか。

  いや,「おもしろい・おもしろくない」という切り方は,昨年までの人たちに失礼だ。正確に言えば,私が授業の中で強調したかったことを,きちんとレポートの中で取り上げて,書いてくれたものが多かった,ということである(レポートの内容は自由なので,それに沿っていなくても問題はないわけだ)。こういうレポートをたくさん読むと,来年の授業準備にもいっそう力が入るというものだ。

  コメントのページを立ち上げるほどでもないので,その中で,ここでは2つだけ簡単に紹介しておこう。

  その1。授業の冒頭で,生徒に任せっぱなしにして動機づけに失敗した授業の例を紹介しているのだが(こっそり白状すると,これは毎年同じ話をしている),それとおんなじような授業を,生徒の立場で受けたという人の報告。

  小学校3年生だったそうだし,実際の授業内容も私がお話しした事例とは違っているので,とりあえず,私が話を聞いた先生の生徒さんではなかったようだ。それは,ちょっとほっとしているのだが,それにしてもみごとにおんなじ授業の展開。「何でもやっていいよと言っているのに,何でできないの?」と毎回のように困った顔で注意する,という先生の描写が,なんだか泣ける。

  生徒だった彼女にとっては,「いつ思い出しても疑問符ばかりが浮かぶ授業」だったのだそうだが,私の授業を聞いて,「内発的動機づけへの誤解」だったのではないかと考えられるようになったそうで,心のわだかまりの解消に,少しはお役に立てたでしょうか? それにしても,小3のころのエピソードだというのに,この鮮明な記憶はどうだろう。よほどインパクトの強い授業だったのだろう。この授業もやはり,3ヵ月の長期にわたる授業だったようだし。つくづく罪深い理論であることよ >内発的動機づけ。

  その2。これはレポート内容とは直接かかわらない話なのだが,その昔,うちの大学で日本教育心理学会の総会を開催したことがある。その時に,Deciさんをお招きして講演をしてもらったのだが,学会が間近に迫っても通訳がつくかどうか確定できなかったので,念のためDeciさんから前もって送られてきていた講演要旨を和訳して参加者に配ることになった。で,その訳が私に回ってきたのだ。

  Deciさんたちの研究はだいたい読んでいて,流れは理解していたし,Deciさんの英語もひじょうに平易なので(著書になるとちょっと哲学が入ってわかりにくくなるが,対照的に雑誌論文はきわめて明快なのが,Deciさんの英語の特徴だ),当然私が引き受けるべき内容ではあったのだが,中でひとつだけ,当時わが国ではまだなじみのない概念が含まれていた。それは,"relatedness"という概念である。

  最初Deciさんたちは,「有能性」への欲求と「自己決定性=自律性」への欲求の2つから内発的動機づけを説明していたのだが,後になって,この"relatedness"への欲求を3ばんめの欲求として取り上げ,研究し始めたのだ。当時はだから,この概念自体それほど世間に広まってはいなかった。学会のあとにDeciさんに手紙で聞いたら,彼らもまだそれほど目立った成果をあげていないというような状況だったから,まして日本ではほとんど知られていなかった。もちろん,定訳もない。さあ,どう訳そうか。

  ふつうに訳せば「関係性」でじゅうぶんいけるだろう。しかしこの「関係性」,すでに"relation"や"relationship"の訳語として使われているので,ひじょうに意味の範囲が広い。関係が強いことも弱いことも,すべてひっくるめて関係性なのである。"relatedness"は,すでに"related"しているという状態やその感覚のことなので,強く深い関係しか含まない。Deciさんたちも,この概念の原型を乳幼児のアタッチメント(愛着)であるとしており,アタッチメントはしばしば,一般向けに母子間の「絆」などとも訳されることからもわかるように,かなり強い関係のことをさしている。「関係性」ではどうにも弱いのだ。

  また,もうひとつの問題は,それらの欲求と個人の感覚とのつながりである。「有能性への欲求」は「有能感」と,「自己決定への欲求」は「自己決定感」とそのままつながるのに対し,「関係性」と訳してしまうと,「関係感」ではどうにも日本語にならない。

  さんざん悩んだ末に,思い切って意訳することにした。選んだ言葉は,「交流性・交流感」。周囲の人たちと心がつながっている様子をかろうじて表現できそうだと,「交流」という言葉を使ってみた。明らかに超訳であるのはわかっていたけれど,それがいちばんもとの単語に含まれるニュアンスに近い気がしたのだ。

  けっきょく,間際になって通訳がついたので,講演要旨はほとんど意味がなくなった。せっかく用意したので配布はしたが,通訳の方がみごとに訳してくれていたし,そのうえDeciさんはお話もうまく,使う単語も発音も,とても聞き取りやすいものだったのだ。専門用語の定訳を確認したいというので,通訳の方にも講演要旨を直前にお渡ししたのだが,彼女は私の超訳と一般的な訳語とに相当に悩んだらしく,毎回交流性・関係性と2つ並べて訳していた。ごくろうさまでした。

  その後,講演記録を『教育心理学年報』というのに収録するというので,これまた私が訳したのだが,おそらくこれがわが国で唯一"relatedness"を「交流性」と訳した文献だろうと思うくらい,その後はみんなあっさりと「関係性」と訳していて,当たり前のことだけど,「交流性」という訳語はまったく日の目を見なかったのだ。

  と,ずっと思い込んでいたのだが,障害児コースの人が書いてくれたあるレポートを読んでびっくりした。ちゃんと「交流性」というコトバが,ある領域で使われているらしいのである。レポートの参考文献には,例の講演抄訳があげてあったので,"relatedness"の訳であることは間違いなさそうだ。どんなふうに使われているのか,詳しいことはわからないのだけど,何日かうんうんうなって考え出した訳語だけに,どこかでひっそりとでも息づいていてくれているのは,素直にうれしい。

  なんだか,あの講演抄訳を見つけてくれて,あの訳語を気に入ってくれた人の手を握りしめて,力いっぱい握手したいくらいの気分なのだが,ま,さすがに気持ち悪がられるだろうね。

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06.02.17. 楽しもうと思う

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  オリンピック真っ最中である。メディアが煽るだけ煽っておいて,いざ本番となると,なんだか寂しい結果に落ち着いてしまうのはいつものパターンだが,それでも,こういう機会でしか見られないいろんな競技に毎日出会え,ハイライトではなく時間をかけてじっくりと楽しめるのは,なかなかいい経験である。カーリングの息詰まる緊張感も,スノーボードクロスのスリル感も,こんな機会でしか味わえない。解説の人に助けられながら,ルールと戦略についての知識をそこそこ身につけつつ,楽しくTV画面に引き込まれている。

  「楽しむ」で思い出した。何人かの日本選手が,インタビューで「楽しむ」という言葉を口にしているのを聞いて,なにか違和感を感じたのである。先日TVで見たインタビューでは,ある選手がこんなふうに言っていた。

「試合を楽しもうと思って臨んだんですけど,緊張でガチガチになってしまいました。次こそは楽しもうと思っています。」

  こまかいところは覚えていないけれど,ざっとこんな感じだったと思う。う~ん,おかしくないか,これ?

  思うに,「楽しい」とか「楽しむ」という言葉は,現在形または過去形で語られるべきものであって,未来形の表現にはそぐわないのではないだろうか。今やっていることが楽しいとか,昨日見たTVが楽しかった,と言うとき,そこには実体としての楽しさがある。語っている方にも聞いている方にも,何が楽しいのかハッキリわかり,互いにその感覚が共有できる。

  未来を語るにしても,「~が楽しみだ」という言い方ならわかる。出来事が起こるのは未来だが,「楽しみにしている」というのは今の感覚だからだ。将来起こるだろうことに対して,今,わくわくドキドキしているわけだ。それなら共感できる。

  「楽しもうと思っている」というのはどうだろう。なんか実感がない。言い方にもよるのだろうが,いったい何をどう楽しもうというのか,聞いていてイマイチ,ピンと来ないのだ。ストレートに「楽しもう」ではなく,それプラス「と思っている」だからかも知れない。どことなく楽しいであろう対象とまだ距離があるような気がするのだ。はたして,しゃべっている選手自身は,どんなふうに楽しみたいか,きちんとしたイメージを持っているのだろうか。

  というか,決意表明の場に,この「楽しもうと思っている」という言葉は似合わないだろう。べつに楽しんではいけない,いつも日の丸を背負って悲壮な決意で臨まないといけないというつもりはまったくないのだが,ここだけ聞いていると,なんだか「楽しむこと」自体が決意表明のように聞こえてしまう。あるいはまた,それがリラックス法のひとつであって,無理にでも「楽しい」と思い込まないといけないかのような雰囲気が漂ってくるのである。義務とか決意とか,「~しなければいけない」とかいうのは,「楽しむ」ことからはもっとも遠い状況ではないだろうか。だから,聞いている方はちっとも楽しくならないのだ。

  昔,新聞の4コマ漫画にこんなのがあった。

1コマめ。
オリンピックの選手団を見送る風景。「むかし」
 「がんばれ~」「がんばれ~」の大声援。
2コマめ。
それを聞いて,「がんばらなくちゃ・がんばらなくちゃ」とガチガチに緊張する選手団。
3コマめ。「いま」
「楽しんで来いよ~」「楽しんで来いよ~」と送り出す人たち。
4コマめ。
「楽しまなくちゃ,楽しまなくちゃ」とガチガチに緊張する選手団。

  これはたしかにありそうだ。

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06.02.06. 10年経ちました

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  気がついたら,このWebページの正式公開からもう10年が経っていた。われながら,よく投げ出さずに続けてきたものだと感心する。

  まあ,定期的に更新をチェックしてくれている人には申し訳ないくらいの更新頻度と,気まぐれな不定期度だから,「続けてきた」などとは,とてもいばって言えないのだが,いや,その程度だからこそ,ほそぼそと更新し続けて来れたとも言えるわけで,フクザツな気持ちではある。

  この間,いろいろな人に声をかけていただいた。修了生や知り合いはもちろんだが,ときには個人的に面識のない,というか論文で名前を見かけたことがある程度の人から,「楽しませてもらっています」などと挨拶されることも何度かあって,そのたびに,「なんて書いたっけなあ? 心理学的にまちがってないだろうなあ?」と,忘れかけた文章を必死で思い返しては,ヒヤヒヤしていた。

  いちばんびっくりしたのは,「学習心理学特論」のレポートへのコメントが,とある教育委員会の方の目にとまったらしく,「コピーして配ってもよいか」との問い合わせがあったことである。もちろん,活用していただけるのはたいへん結構なことなので,即座にOKしたのだが(URLだけ明記してください,と注文はつけたが),いったいあんなマイナーなページ,どこからどうやってたどりついたのだろうか? さすがはインターネット,身内しか見ていないと思って,めったなことは書けません。

  このページを見て,自分の卒論や修論についてメールで相談してくる人もけっこう多い。ときには,ホンモノの指導教員をさしおいて,論文完成までおつきあいすることもある(一方では,こちらが返信したっきり,何の連絡もなくなる人もいるのだけどね)。こういうのも,このページへの「反響」のひとつといえるだろう。

  こうしたさまざまな反響が,明らかに「間欠強化」となって,それがここまでこのページの継続を支えてきたように思う。実際,しばらくほっぽらかしていたページなのに,感想を聞いたとたんにグレードアップすべく手直しすることが何度もあったし…。

  さて,これからのことなのだが。

  いやいや,とくに節目だからといって決意も何もしていないので,きっと相変わらずほそぼそと続けていくのだろうけど,とりあえず近日中に新しいページをオープンする予定です。…といっても,中身はさして目新しいものではありませんし,しかもターゲットがピンポイントですので,期待せずにお待ちください。

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06.01.31. 過去は消せません

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  個人情報保護がうるさくなり,今まではそれほど気にしていなかったいろいろな書類が,なんだか急にみんな「マル秘」扱いに見えてきた。ふだんからコピーの裏側を使っているのだが,使ったあとで裏返して,元の文面を見てみると,個人名が入った会議資料だったりして,ドキリとする。

  そんなわけで,私も研究費で個人使いのシュレッダーを購入しようかと,ネットで情報を仕入れていたのだが。

  こんな楽しいページにたどりついた。とにかく,いちばん下までスクロールしてみてください。

  最初,全然気づかなかった。上に書いてあるのはいたってまじめな製品紹介なので,てっきりPL法がらみの「使用上の注意」だろうくらいに思っていたからだ。でも,イラストのおじさんの表情がなんかあやしい。「あれ?」と思って文章をちゃんと読むと,「過去は消せません。」なのだ。

  ううむ,このセンス。微妙だ。でも,ちょっとほしいかも,過去を消せるシュレッダー。

  ちなみに,ページの上の方に商品のリストがあるが,これをたどっていくと,他のページでも同じように「お使いになれません」が書いてある。徹底している…と思ったら,あとの方は息切れしてしまったのか,バカバカしくなってしまったのか,なくなってしまっている(製品番号からすると,きっと左側から順に売り出したのだろう)。微妙なセンスとはいえ,こうやって全部の商品を見てしまうのだから,宣伝効果はたしかにあるのにちがいない。

ポイント

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