ひとりごと

保存箱 2005.07-12

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05.12.26. 補講しました

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  さえない個人的事情によって,全学向けの授業に穴を開けてしまった,その“穴埋め”のための補講を終えて,年内の授業がすべて終わった。

  当日は大雪警報が発令されて大荒れの予報。朝いちの授業なので,早朝から天気が気になる。幸い,家を出るころはまだ,天気はそれほど悪化していなかったのだが,ここ数年なかったくらいの積雪のせいで,道路が予想以上の渋滞。途中で気づいて回った裏道が正解で(手前の交差点が大渋滞で,私が進入した道路に曲がってこれる車が極端に少なかったのが,幸いしたらしい),なんとか少し余裕を残して大学に到着したが,また穴を開けてしまうのではないかと,一瞬あせる。

  朝いちの授業だし,もとはといえば私のせいでの休講なので今日の出席はとらないと掲示してあったし,おまけにこの天気だしで,はたしてどれだけの人が聴きに来てくれるのか,予想がつかない。まあ10人くらいかなあ,もっと少ないかもなあと,何の根拠もなく想像しつつ,5分前には機器をセッティングしに教室へと向かう。

  もうその時点で,10人くらいの人たちが着席して待ってくれていた。ほっとした。それどころか,授業が始まってからも少しずつ人が入ってきて(たぶん同じ渋滞のせいで遅れたのでしょう),最後はかなりの席が埋まっていたのにはびっくりした。と同時に,なんとか少しはみなさんに,休講分の“穴埋め”ができたかなと安堵する。ずっと何か借金でも抱えているようなプレッシャーを感じていたのだが,これで一気に肩の荷が下りた。

  1話完結型の授業はけっこう好きだ。心理学を専門にしている人たちに限らず,もっと対象が広いので,1時間できちんと理解してほしいことは,1つだけに絞る。何をしゃべるか,いちばん言いたいことを1つ決めたら,それをメインとして,周辺にいろんなトピックスをはめ込んでいく。うまくいったかどうかは,当日のお楽しみだ。手持ちのネタはそんなに多くはないので,同じテーマを毎年続けることも多いのだが,そのときも,周辺部のトピックスは毎年いろいろと入れ替えている。今回も,10月に予定していた内容そのままではなく,その後に読んだ本から事例を引っぱって,それに合わせて進行を少しいじってみた。そうして進行の微調整を重ねるうちに,メインの主張までもが,3年くらいのうちにガラリと変わってしまうことがある。

  こういうとき,プレゼンソフトは便利だ。気がついたときに,簡単にあちこち手直しすることができる。OHPのシートのように,確定稿を印刷する必要がないので,直前まで加筆・修正が可能だ。以前,シンポジウムでご一緒した話題提供者の一人は,他の話題提供者がしゃべっている横で,自分の発表原稿をカリカリ打ち続けていた。私も,たいていは前日の夜,ざっと全体を流してみて最後の調整をして,ようやく最終原稿を確定している。ここだけの話だが,私が授業でプリントを配らないのは,半分はこのせいだ。確定稿ができるのがギリギリなので,印刷が間に合わないのだ。

  ともあれ,ああでもないこうでもないと頭をひねるのは準備段階だけで,授業になったら,ひたすらプレゼンソフトの筋書きに沿ってしゃべる。新しく加えたトピックスを説明しながら,受講生の人たちが大きくうなずいてくれたりすると,内心「やった!」とうれしいし,逆にシンとしているのを見ると,「こりゃ,入れ替えだな…」と心の中でチェックを入れることになる。

  さて,なんとか1時間めの授業を終えたころには,天気はまるでこの授業のために出てきたのが何かの罰ゲームでもあったかのような暴風雪。つくづく出席してくれたみなさんには申し訳ないと思いながら,背負っていた負い目からひとまず開放されて,自然と顔がゆるむ私なのでした。

ポイント

05.12.21. 続・反論その2

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     (12.19.のひとりごとからつづいています)

  もっとも,だからといってわれわれ教員に責任がまったくないというつもりはない。大学教員が伝統的に授業を軽視してきたのは,たしかに事実だ。「教授の研究業績と授業のおもしろさは反比例する」などという法則は,昔から言われてきた(ただし,これは必ずしも事実ではないと私は思う)。どちらに力点を置くかということになれば,自分の好きな研究をしている方がよっぽどおもしろいわけだし,かつては教員の評価ももっぱら研究業績によってのみ行われてきたから,どうしても研究の方に力点が置かれやすかったといえるだろう。“学生の自主性の尊重”という都合のいい言葉を言い訳としながら,わかりやすい授業を作る作業をサボってきたところは,素直に反省しなければならない。

  そしてまた現実問題として,先に述べたような学生像が,すでに化石と化しているという実情もある。大学全入時代などともいわれている昨今,最初からその領域に対して研究意欲を持って入学してくる学生など,そうそうお目にかかれなくなってきているわけだし,そこそこの意欲と,授業にさえ出席していればいいという,中学・高校の延長のような学問観を持った学生が,おそらくは大多数になっているのだろう。そして彼らは,少子化で定員確保に必死な大学にとって,だいじなだいじな「お客様」なのだ。

  だから,きっとわれわれも,いつまでも過去の理想にしがみついてないで,さっさと頭を切り換えて,現実の学生たちの要望に対応していかないといけないのにちがいない。

  それはわかってはいるのだが,だからこそ,こんなところでだけは,頑固に「昔はよかった」などと毒づいてみたいのだ。

ポイント

05.12.19. 反論その2

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  大学生の学力が低下していることを,大学教員の6割が問題視しているという新聞記事に対して,大学生からの反論が載っていると,またまた妻が教えてくれた。同じ新聞を読んでいるのに,得ている情報が妻とはまるでずれていることがよくある。目につく記事がお互いにちがっているからだ。私は,投書欄は最近ほとんど読んでいないので,この領域はもっぱら妻から情報を仕入れることになる。

  さて,その反論だが,たしかに学力の低い学生がいることを認めつつも,この人は教員の問題を指摘している。とくに「自主的に課題に取り組む意識が低い」と言われていることについて,「理解しにくい内容の講義を行い,われわれ学生の意欲を駆り立てる講義をしない教授にも原因がある」と彼は主張する。「学生が講義に興味を持ち,学生を行動的な人間にすることが教授たちの務め」なのだそうだ。

  ううむ,これはなかなかむずかしい問題だが,誤解を恐れず言ってしまおう。言わせてもらえば,こういう意見そのものが,大学生の学力低下を端的に証明している,というのが私の基本的な考えだ。

  念のために断っておくが,この人の投書はきちんとまとまっていて論点もわかりやすく,この人の基礎学力を問題視するつもりはまったくない。問題なのは,大学というものに対する基本姿勢だ。どうもこの人は,時間通りに教室に来て座っていさえすれば,あとは「教授」と呼ばれる人たちが手取り足取り懇切丁寧に何から何まで教えてくれるものだと思っているようだ。それだけではない。意欲のない学生に対して,「この学問はこんなに楽しいんですよ,あなたもやってみませんか」と勧誘し,「行動的な人間に」成長させてほしいらしいのである。それが大学というものだ,教授の務めだと彼は言っている。しかし,これはあまりに幼稚な大学観ではないか。

  大学の中心は授業ではない。自分の好きなことを自分の好きなだけ勉強し,研究できる。その機会と場所を提供するのが大学の基本的機能だ。最終的に,それが卒論なり修論なりの形になって,実を結ぶのだ。だから,教授が研究指導をしてくれない,自分のやりたい研究ができない,というのなら決定的な教員批判になるのだが。

  授業の単位というのは,言ってみれば,ちゃんと大学に在籍していたという証明程度のものだろう。タイムレコーダーに出退勤を記録しているようなもので,皆勤くらいは自慢できるかも知れないが,仕事でどれだけめざましい活躍をしたかは,それとはまったく別問題なのだ。

  教授が授業でしゃべる内容なんて,図書館で本を読めばたいていは載っている。もっと専門的な内容だって載っている。だから,たとえ授業に出席しなくても,それに見合うだけの勉強を自分でしているならそれでもOKだし,逆に授業で物足りなければ,どんどんその先は自分で勉強し,または教授に質問しに行けばいいのである。そうした水準の高い研究意欲を支援し,指導するために教授がいる。その学問領域に興味を持てない学生に,一から教え込み,興味まで育てるためにいるわけではない。

  言い換えれば,ある程度の興味と意欲を持って勉強に取り組む学生にとっては,大学というところは,けっこういろいろな材料や情報を便利に提供してくれるようにできているはずなのだが(教員が質問に答えてくれることも含めて),黙って授業を聴いているだけが大学だと思っている学生には,徹底的に冷たいところにしか映らないのだろう。もともとそういうところなのだ。授業の中で,むずかしい内容をわかりやすく,またおもしろく教える技術だったら,小学校の先生の方が数段すぐれている。(と言ったら,小学校の先生はレベルの高い内容は教えられないというのか,と怒られそうだが,これは純粋な尊敬の言葉です。)

  すでにお気づきだろうが,われわれ大学教員(と話を広げてしまうのは,おそらくこの考え方が,私と同年代以上の大学人にはある程度共有されていると思うからだ)と,学生との間には,ひじょうに大きな意識のギャップがある。われわれにとっては,学生は最初からその学問領域に興味を持って入学してきているはずだ,というのがある種の前提になっている。彼らが自ら選んだ大学・学部なのだし,そのために受験勉強もがんばってきたのだろう。だから,学生は「どんどん自分から動く」というのが理想であり,したがって現実の学生にも,そういう取り組み姿勢を要求するのは,ごく当たり前のことなのだ。「授業の中で何もかも教えてくれ」「興味がないから興味を持たせてくれ」などという事態は,まるっきり想定外なのである。

  もちろん,いくらその専門は好きだといっても,必修科目とか単位数を埋めるための科目などといった,興味が持てなくても受講しないといけない授業はあるわけだが,それは最初からそういうものだと割り切ってもらうしかない。

          (つづく)

ポイント

05.12.12. やな感じ

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  CMといえば,このところちょっと気になっているのが某「窓s XP」のCMだ。見るたびにどんどん“やな感じ”にさせてくれるCMという点で,このCMは私の中では群を抜いている。

  はじめて不快に思ったのは,“お兄ちゃんは幼稚園の時に自分の名前を書くのがやっとだったが,自分は小さいころからコンピュータに親しんでいて何でも知っている”とかうそぶく(細かなところはもう正確には覚えていないが,だいたいこんな内容だったはずだ),えらくこましゃくれた女の子が出てくるバージョンである。この子は自分でお話を書いているのだそうで,動画や音楽をいっぱい取り入れているらしいのだが,なんとそれは,(字が読めない)お兄ちゃんのためだというのである。なんとも“やなヤツ”ではないか。

  その後もこのCMは,なぜか次から次へと“やなヤツ”を輩出し続けている。

  たとえば,自分の子どもを「すべてを破壊し尽くす怪獣」だと公言するお父さん(なんか,言い方にちっとも“愛”が感じられない。ニヤニヤしてるし。最後に「ママが大好きな甘えん坊…」とか言うのが,いかにもとってつけたまとめだ)。

  それから,相手チームの弱点をコンピュータで解析して,ついに見つけたと喜ぶおじさん(どうもサッカーの話らしいのだが,草サッカーのレベルの話じゃないだろう,これは。だいたい,コンピュータで解析できるくらい多くの試合をきっちり観察したのだったら,もうその時点で,個々の選手の癖やプレースタイルの1つや2つ,直感的にわかりそうなものだ。まあ,いくら相手の弱点がわかったとしても,そこをきっちり攻めきれないのが,草サッカーの悲しいところなのだけど)。

  そして,外国旅行で見聞きしたものを,写真でもビデオでもどんどん毎日メールで友だちに送るというおばさん(ん~,「行けなかった友だちにも,いっしょに行ったような気になってもらいたいから」とか言うのだけれど,毎日写真やら動画やら送られてきて,友だちはほんとうに喜ぶかなあ。私など,春先になると毎年,どこかのTVの天気予報のお姉さんが,「雪国のみなさんも,気分だけでも春を味わってください」などといって,伊豆や房総の花畑を中継してくれるのだが,ちっとも気持ちが和まないぞ)。

  どれもこれも,いわゆる「ヲタク全開」というか,ちょっとヘンな方向に偏りが強すぎるというか,できればあんまりかかわりたくない人たちに見えるのだが,他の人たちはどう見ているのだろう。

  そういえば,同社が新聞や雑誌に出しているOfficeの広告には,オフィスで働く人たちが恐竜のかぶり物を着て出てくるのだが,話し方もみんな「○○だもんね~」みたいなチャラけた言葉遣いで,とっても不快だ。Officeを使えばやっと人間のレベルになれるとでも言いたいのだろうか,ビジネスシーンで働いている人は,これを見てバカにされていると思わないだろうか。

  どうも,こうしたCMや広告を見せられて,商品を買いたくなる人がいるのかどうか,かなり疑問に思うのだけれど,どうだろう。

ポイント

05.11.29. 反論

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  ちょっと前のこと,珍しく妻がTVのCMを見て怒っていたのだが,その後新聞の投書欄で同じような意見を見つけて,「自分だけではなかった」と喜んでいた。

  妻が怒っていたのは,某おむつのCMである。昼間はもうおむつがとれているくらいの子どもにはかせるパンツ型のおむつらしいのだが,「自我が芽生えたお子様がすすんではいてくれる」ようにと,いろいろな工夫が凝らしてあり,とくに目玉はキャラクターの柄がデザインされていることである。赤ちゃんっぽいのではなく,ふつうのパンツに描いてあるようなおとなっぽい(?)ヤツ。これがまちがっている,というのだ。

  つまり,こういうことだ。おむつというのはしょせん赤ちゃん時代だけのものであって,やがてはパンツに取って代わられるべき性質のものだ。はきたくなったり,愛着を持つ必要などないし,むしろおむつはごわごわしていて気持ち悪かったり,赤ちゃんっぽくてカッコ悪いと思わせることで,おむつではなくパンツを「はきたくなる」ことの方が,ずっと重要なのではないか。それが動機づけとなって,トイレット・トレーニングにも積極的に取り組むようになると予想されるからだ。

  ある男の子は,友だちが立って便器を使っているのを見て,おまるを使うのをやめたそうだ。同じように,オトナっぽいキャラクター柄がついたパンツをつけた友だちを見て,ダサい自分のおむつ姿と見比べ,おむつはずしを決意する,ということはあり得るだろう。それが「自我の芽生え」というものだ。そうであるならば,そうしたオトナの世界への移行に対する意欲を妨げてしまうかも知れない,おむつを「すすんではいてくれる」ように工夫するというのは,やはりポイントがずれていると言わざるを得ない。

  と思っていたら,新聞に先の投書に対する反論が載った。曰く,昼夜にわたる育児の奮闘に疲れ切った私(=母親)の気持ちを,デザインつきのおむつは癒してくれるのだそうで,かわいい紙おむつ姿でハイハイする子どもの姿を見ていると,思わず笑顔になるのだそうだ。

  「核家族化の進んだ今,育児はますます「孤独化」「密室化」しつつあります。……発売される様々な育児グッズによって,やさしい気持ちになれて,育児を「楽しむ」余裕ができるのなら,それはそれですてきなことなのではないでしょうか。」と彼女は結んでいる。ううむ。そうかも知れない。そうかも知れないのだけれど,やはり何かがちがう。

  たいへんな思いをしているお母さんへの同情をあっさりそぎ落としてみると,おかしな点が見えてくる。それはつまり,このおむつの工夫が,子どものためというよりは<親のため>になってしまっている,という点だ。親が癒されたいからというのであれば,それは極端に言えば,ぬいぐるみをかわいがったり,リカちゃん人形(今でもあるのか?)にいろんな服装をさせて遊ぶのと,同じではないのだろうか。

  うがった見方をすれば,ハイハイをする子どもの姿がかわいいのではなく,<かわいい紙おむつ姿で>ハイハイをするのがかわいいと言っているわけで,これも着せ替え人形に似ていて,とても気になる。つまり,子どもにいろんな商品で付加価値をつけ,それで癒されているというのである。子ども本人がかわいいわけではないらしい…といったら言い過ぎだろうか。

  そういえば,親の“趣味”で子どもに奇抜な服装・髪型をさせたり,どう見ても不相応な,高価なアクセサリーを身につけさせているのをよく見かけるようになったが,そういうのとも,根っこは同じなのかも知れない。ついでに言えば,親の見栄から,一流といわれる学校をめざして必死に子どもの尻を叩く姿にも,似た匂いを感じてしまう。親自身の欲求充足が根本にあり,子どもに何か付加価値をつけることで,その欲求を満たそうとしている,とまとめればいいだろうか。

  もっとも,先の反論投稿をここまで拡大解釈してしまっては,投書したお母さんに申し訳ない。おそらく,「まあ,そんな側面もあるよね」と流していい話ではあるのだろう。

  しかし,企業はそうした親の心理をきちんと把握しており,巧みに利用してくるわけで,今回のおむつの企画も,子どもに喜んでもらえるだけでなく,おそらくは親へのウケを計算した上でのことなのではないかと,私は勘ぐっている。たとえば,周りの子どもたちがみんなパンツなのに,うちの子だけ赤ちゃんっぽい柄のおむつで恥ずかしい,というような…。だからこそ,われわれは,もう一度「子どもにとって」何が必要か,必要でないかを考えてみる必要があると思うのだ。

ポイント

05.10.31. 老眼鏡

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  眼鏡のレンズを代えた。遠近両用にしたのだ。

  もう3,4年前から,手元がかなり見えにくくなっていたのだが,見栄を張ってそのままにしておいたのだ。しかし,さすがにもうつらくなってきた。何がつらいといって,自分のサインを書くとき,まるっきり字が見えないのだ。ほとんど指先の感覚だけで書いている。それでもサインなら,多少字が汚くても「わざと崩して書いているのだ」と言い訳することができる。もっと困るのは,住所や電話番号など,ほんのちょっとの文字数なのだが,正確に書かなくてはいけない書類の文字を書かされるときである。そうやって気づいてみると,住所欄や電話番号欄のなんと小さいこと!

  通常,書類を書くときは,最初から眼鏡をはずして紙に向かう。近くにある文字だけをずっと見つめ続ける作業だから,それで問題はない。それさえ,今はほとんどワープロで作成する。事務書類もネット経由で提出が多いので,眼鏡を気にする機会はほとんどない。

  問題は,外での簡単な書類書きの時だ。たとえばホテルのチェックイン。たとえばお店から宅配便を頼むとき。そして,クレジットカードを使ったときのサイン。ほんの何文字か書くだけなのに,見えない。店先でいちいち眼鏡をはずすのもめんどうだし,だいいちカッコ悪い。なんとかせねば。

  それに,ずっと使ってきたレンズが相当くたびれていて,表面のコーティングがはがれたり,拭いたあとの細かい傷のせいだろう,レンズの曇りがとれない感じにもなってきていた。よくよく思い返してみると,今の眼鏡を作ったのは8年か9年前。潮時だ。いや,見栄さえ張らなければ,もうとっくに潮時を過ぎていたのだった。

  そんなわけで,ついに思いきって,眼鏡を代えることにした。金属アレルギーがあるので,今の眼鏡は奮発して,ちょいと高めのフレームにしている。このフレームは,視界を制限しない縁なしフレーム。そのことも気に入っている。そこで,レンズだけを交換するようにした。加工のためにいったんメーカーに眼鏡を送り,待つことちょうど1週間。新しい眼鏡が届く。レンズも当然新品だが,フレームもピカピカになって,お店の照明を浴びて輝いていた。お店の人がお世辞で「きれいですね」と言ってくれるのだが,このときばかりは素直に同意する。しばらく手入れを完全にサボっていたからね。

  さて,遠近両用レンズの使い心地は,たいへん満足している。遠くも手元もストレスなく焦点を動かすことができる。焦点が合うまでの時間,ぼやけた視界と同じようにもやっとした不快感を感じることもなくなった。

  ただ,ひとつだけ問題がある。焦点が合う範囲がそれぞれひじょうに狭いのだ。遠くが見やすいのは上部の横長の範囲。近くの方は下の中央部。下部の左右は焦点が合わない。きちんと対象に対して正対し,その部分で見るようにしないと,焦点が合わないのだ。焦点の合う部分とぼやける部分とのギャップが大きく,近くを見ていると,昔流行った裸眼立体視のように,焦点の合った部分が手前に浮き出して見える。つまり,妙に視野がでこぼこなのである。

  座って,ものをじっと見ているときはいい。動いているときがやっかいだ。目を少し下向きにして動かさず,頭や体を動かすと,視野の左右が大きく歪んで,うねうねと動く。これが,慣れないと相当気持ち悪い。新しい眼鏡に代えた1日めは,ちょっと歩いただけで乗り物酔いにかかってしまった。偏光眼鏡をかけて見る3D映画も,立体感を強調して画面を大きく揺すぶられると,私はすぐに酔ってしまうのだが,これはその比ではない。なにしろ,日常生活そのものが歪んでしまうのだから。まあ,3日めには慣れてきて,今はもう平気になったが。

  今残っている問題は,きちんと顔と対象とを正対させないと焦点が合わないので,寝ころんで適当にTVを見るのが難しくなったこと,くらいだろうか(それでも,なんとかして寝ころんだまま見ているけどね)。

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05.08.17. 時代は変わる

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  一昨年から導入しているSPAM対策の情報をアップしようとして,「ぷろふぃる」の中の「AL-Mail」(私がずっと愛用しているメールソフト)の項を見ていたら,これも長年使っている「AL-TXF」というプラグインが置いてあるサイトが,リンク切れになっていることに気づいた。どこか新しいところに移ったかと思って,いろいろと調べてみたが,ダメ。どうも,サイト自体が廃止になってしまったらしい。

  AL-Mail自体,もう3年もバージョンアップされていない。サポートMLをのぞいてみるかぎり,ユーザ・サポートも事実上終了してしまったようだ。たぶん,他のソフトに乗り換えなければいけなくなるのも,そう遠いことではないだろう。長い間使い続けて手になじんでいるソフトの,こういう状況を見るのはなかなかに悲しいものだ。

  とはいえ,今のところ特に問題を抱えているわけではない。機能が最低限に抑えられている分,最新の○○に対応する必要があるとか,セキュリティ対策をしないといけない,というような心配が少ないし,必要な機能はプラグインで補うことができる。

  一昨年から使い始めた「AL-POPFile」というプラグインも,かなりのすぐれもの。簡単に言えば,自己学習式のメール振り分けソフトであり,SPAMメールを読む前に勝手に捨ててくれるのが便利。メールの中の単語を調べて,SPAMやウイルス・メールに特有な単語パターンを見つけ出し,捨ててくれる。最初は知識がなにもないので,1日,2日は,届いたメールのうちこれがSPAMでこれがウイルス・メールで…,と教えてあげないといけないが,その後はほとんどまちがえることなく分類してくれる。もちろん,まちがいがあったらその都度学習させればどんどん賢くなっていくので,SPAMの選別がずいぶん楽になった。

  すぐれたオンライン・ソフトはたくさんのユーザを生み出し,活発な交流の中で互いにサポートしたり,多様な,しかも良質な関連ソフトを生み出したりする。こうしてどんどん拡大していくのがこの種のソフトの大きな魅力で,最初は多少使いづらくても,盛んに意見が交わされ,改良され,瞬く間に大きな進歩を遂げる。そして…,気づいてみるといつのまにかすきま風が吹いている。なぜかそんなサイクルが一般的にあるように思う。

  これもずっと使い続けてきたWZエディタ(これはいちおう市販品だが)も,今,似たような状況にある。私にとっては,どちらも基本的なソフトであり,操作感のちがう他の製品に乗り換えないといけなくなるとすると,想像するだけでも,たいへんなのが予想できる。で,こういうのはなぜか,いっしょの時期にやってくるんだよね,困ったことに。そうならないことを祈ろう。(AL-Mailが危ないのは,次の端末の入れ替えのときだ。AL-TXFの元ファイルがないので,インストールできなくなってしまうからだ。困った。)

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05.07.25. SOUL FOOD

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  夏になると,どうしても食べたくなるものがある。とりたてて特徴のあるものでも,珍しいものでもないのだが,サケの体の中に染みついた故郷の川の記憶のように,毎年夏になると,心が騒ぎ出す。

  山形の,しかも内陸地方限定らしい郷土料理,“だし”。料理というほどのこともない,簡単な食べ物である。

  材料は,基本形でキュウリとナスとミョウガ。郷土料理の例に漏れず,“だし”の材料にも家庭によってバリエーションがあって,それぞれの家庭によって,ここにさまざまな野菜が加わるのであるが(というか,農家だと,そのときどきの収穫物で材料が変動する),ここはわが家のレシピで進めていく。

  キュウリ・ナス・ミョウガに,シソと長ネギ。これをすべてみじん切りに刻んで混ぜる。生ナスのえぐみが苦手なときは塩水につけておいて,あとで水気を絞るか,最初から浅漬けのナスを使ってもいい。うちの場合,これにふかしたトウモロコシが加わる。これは絶対に欠かせない。実をひとつひとつはずして入れる。

  山形では,これに「納豆昆布」という細かく刻んだ昆布を,水で戻して入れ,納豆のように強くかき混ぜて粘りを出すのだが,納豆昆布はこちらでは手に入らないので,代わりにさっとゆでたオクラを刻んで代用する。

  かき混ぜて粘りが出た材料に,最後に醤油で味つけをする。ただし,納豆昆布を入れていない分,味が弱いので,うちでは醤油ではなくめんつゆで味を付ける。それだけ。一言でまとめれば,材料をひたすら細かく刻んで,醤油をかけて仕上げるだけだ。しかし,これがじつにおいしい。ごはんにのせて食べるのが基本形だが,冷や奴にのせてもいい。うどんやそうめんにもOK。

  夏の朝,熱いごはんに冷たい“だし”をかけて食べるのが,子どものころの定番の朝ご飯だった。言ってみれば,私にとっての夏休みの原風景でもある。私が感じる“だし”のおいしさには,たぶんにこうした思い入れが入り込んでいる。だから逆に,そうした思い入れのない人から見れば,見た目は鳥のエサだし,彩りも悪いし(特にナスの変色が),青臭いし,どこがおいしいのと言われそうなただの田舎料理ではあるのだが。

  数年前から,このへんのスーパーでも,季節になるとときどき出ているので,懐かしくなってよく買ってきて食べていた。しかし,やはりそこはそれ,インプリンティングされた家庭の味ではないので,いまいち魂は満たされない…。ということで,今年はもっぱら自分で作ることにした(まだ2回しか作っていないが)。

  ちなみに,今年新しく発見したのは,白石名産の温麺とよく合うこと。いただきものの温麺に,ちょうどタイミングよく作った“だし”を,たっぷりのせて食べてみたら,これがとてもおいしかった。ふつうのそうめん・うどんだと,麺が長くて“だし”が全体に絡まず,味に濃淡ができてしまうことがあるのだが,温麺は短いので“だし”がよく絡む。長い麺をすすっているうちに“だし”がポトリと落ちてしまうこともなく,箸でとると,麺と“だし”の両方がちょうどいい感じでとれる。これは,うまいです。

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05.07.15. 電子音玩具

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  身内に不幸があって,週末から5日ほど,妻の実家に出かけていた。実家には甥が赤ちゃんを連れてきていて,集まった家族の注目を一身に集め,そこだけ盛り上がって,沈んだ雰囲気をずいぶんと和らげていたような気がする。やっぱり子どもの力はすごい。

  で,よく見ると育児グッズの進化に驚く。私たちが赤ちゃんを育てていたころから,まるまる1世代経過したわけであるが,その間,おむつも離乳食の食器もグンと使いやすくなっているし,玩具の類もずいぶん様変わりしている。まあ,私が最初の子どもを育てていたころは,「紙おむつは赤ちゃんの情緒的発達を阻害する」という説が心理学の中にあって,私もいちおう心理学者なので,布おむつを使用を宣言(外出するときなどに,紙おむつも併用)していたから,そこから大きく変わっているのは当然と言えば当然なのだが,情緒発達疎外論を捨てたわけではないが,あっさり紙おむつに転向してしまった2ばんめの子どものときから見ても,格段の進歩である。

  しかしその中で,ひとつだけ気になったものがある。それはひとつの玩具である。ガラガラの仲間と言えばいいのだろうか。手に持って振ると,カランコロンと音が出る,あれだ。私が見た玩具は,そのカランコロンが電子音になっているものであった。振動に反応して電子音のカランコロンが鳴る。

  実際に音を聞いてみて,すぐに強烈な違和感を覚えた。なぜだろう。もう少し聞いて,理由がわかった。要するに一本調子なのである。軽く振っても力を入れて振っても,出てくる音はあらかじめプログラムされている同じ調子の音のみ。変化がない。ほんとうのガラガラだったら,力を入れて振れば大きく荒っぽい音が出るし,そっと振ればチロンと可愛い音が出て終わりになるはずだ。もっとそっと振ったら,音が出ないかも知れない。力の入れ方に応じて,音は多彩な変化を見せてくれる。

  さらに,何度も降り続けてみるとどうなるか。本物のガラガラだったら,うるさいくらいカランカランと音が出るはずだが,このガラガラはちょっと違う。いったん音が鳴り始めると,プログラムされた音の系列が終わるまではそれが鳴りっぱなしになる(と言ってもほんの1,2秒だが)。それが終了してはじめて,次の系列がはじまる。だから,こっちがたとえば0.8秒周期でガラガラを振っているのに,音は1.2秒周期で聞こえてくるような感覚。力を入れるタイミングと音の出方が微妙にズレるのだ。そして相変わらず,終始同じ調子のカランコロン。大きくも小さくも変わらなければ,前の音をさえぎって別の音が入って来たり,音が干渉しておかしな音になったり,などということもない。

  自分の行動に応じて環境に変化があらわれるから,子どもは自分の行動を自分で調整するということに興味を持つ。力の入れ方にあわせて音が変わるから,子どもは力の入れ方の微妙なちがいを知り,どんなふうに力を調整したらいいかを学ぶのだ。それで,子どもの行動は飛躍的に発達していく。行動だけではない。自分の行動を自分で調整できるということを知ることは,調整する自分と調整される自分とが分離するということであり,いわゆる<自己>を客観視しはじめる第一歩なのである。たかが玩具と侮ってはいけない。子どもにとっては遊ぶことが全生活であり,その中ですべての発達が進行しているのである。

  実際,「音が出てびっくりする」などというのはほんのはじめのうちだけで,やがて子どもは,力の入れ方やタイミングをいろいろと変えながら,何度も何度もガラガラを振る。そうやって,どんな音の変化があらわれるかを試しているのだ。そのうち,子どもはこう振ったらこんな音が出るはずだ,と予想するようになる。そして実際にやってみて,うまくいくとニンマリと笑うのだ。

  どんなに力の入れ方を変えても,同じメロディが同じ調子で鳴るだけだったら,あるいは自分の行動のタイミングと無関係に音が出たとしたら,こんな行動は起こらない。子どもはすぐに飽きてしまうだろう。

  結局のところ,なぜガラガラに電子音<でなければならないか>がさっぱりわからない。なんか,振動センサーと電子音を発生するチップを何かに使ってみたかった,くらいの発想しかないのではないか。それか,電子音にすることが物珍しくてウケるだろう,くらいか(まあ,たしかに親にはウケるかも知れないが)。ものすごく複雑な構造で,ちゃんと作ると高価になる,というような事情があるならわかるが,ガラガラの構造は単純で,安価である。にもかかわらず,電子音よりずっと豊かな音のちがいを,赤ちゃんにフィードバックしている。音だけではない。音を出す仕掛けのおもりが動いたり,鈴が転がる感触をも,赤ちゃんに伝えているのである。それに比べて,最先端の技術であるはずの電子音ガラガラときたら…。

  邪推だけれど,このガラガラを商品化した人たち,子どものころガラガラで遊んだことがないのではないだろうか。振り方で音が多彩に変わる,そして持っている手におもりの振動が響いてくる,あの感覚を味わったことがないのではないだろうか。もしかすると,赤ちゃん時代からピコピコ音の世界だけで育ってきた人なのかも知れない。

  「電池を使わない玩具を子どもに与えよう」という運動は昔からあって,それには私も共感する。電気仕掛けの玩具は,動く仕組みがブラックボックス化されて関与しにくいからだ。「この玩具は電気で動く」という説明で納得してしまい,「どうして動くのだろう」という興味が起きにくくなる。ギヤを使って動きを作っているような玩具ならまだ興味を持てる余地があるが,ICチップ化されて音がピコピコ,光がチカチカ,というような玩具だと,ほとんど手も足も出ない。基盤の上で何かが進行しているらしい,それしかわからない。たしかに派手で,最初のうちは子どもの興味を引くかも知れないが,しかしそれだけだと思う。

  だから私も,昔はがんばって探しました。電池を使わないで,しかも動きのおもしろい玩具を。当時でもそれらは,売り場の隅っこに追いやられて数は少なかったのだが,たまに掘り出し物のように,なかなかすごい仕掛けのものに出会う。そういうものは,例外なく子どもたちには好評で,事実,長い期間飽きずに遊んでくれた。

  ああいう優れた玩具,今でもちゃんとお店に置いてあるのだろうか。隅っこの隅っこでいいから,ちゃんと生き残っていてほしい,と強く願わずにはいられない。

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05.07.08. 一途さ

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  リドリー・スコットにハマってしまったかも知れない。

  『キングダム・オブ・ヘブン』を,公開終了間際になって観てきた。「アイラブ・オーリー」路線の宣伝に,なんだ史実に絡ませた安っぽい恋愛映画か? と,ちょっと腰が引けていたのだが,それでもやはり『グラディエイター』のリドリー・スコットというのがずっと気になっていた。先日,『スター・ウォーズ』の上映予定を調べようと,たまたまのぞいた映画館のサイトで,もうすぐ公開終了になることを知って,急にいても立ってもいられなくなり,映画館に飛び込んだのだ。(というのは大げさで,もう1日1回しか上映がなかったので,それに合わせて土曜の朝イチで出かけただけなのだけれど…。)

  終了直前ということで,スクリーンも小さく,音響も隣の部屋の重低音がけっこう漏れてくる最悪の環境だったが,観客5人というほぼ貸し切り上映で,ゆっくりと観ることができた。

  まず映像が美しい。冒頭の雪のシーンから一転して,見わたすかぎりの砂の世界。砂嵐。舞いあがる砂ぼこりとはためく軍旗。あくまでも青い空。小さなスクリーンからでも,乾いた暑さが十分すぎるくらいに伝わってくる。戦闘シーンの,“斃れる人目線”とでもいうのか,下から見上げるようなアングルと,飛び散る血や土をスローモーションで描く手法は,『グラディエイター』ですっかりおなじみ。さすが産油国というか,油を使った攻撃があちこちに出てきて,特に夜の戦闘シーンは,炎のついた矢が飛び交い,投石機から放たれた燃える石が城壁を打ち破り,地面に炎の川が走り…,と凄絶な美しさ。

  音響も,風の音や鳥や虫の声といった自然の音がずいぶんと強調されている印象。大きな映画館だったら,きっともっと感動したのだろうが,こちらは残念ながら隣の音がどんどん侵入してきて,じっくりとは味わえない。

  さて,あのオーリー君ことオーランド・ブルームだが,この映画の主役かと聞かれたら,たぶんそうではないのだろう。たしかに,エルサレム攻防戦での活躍はあるが,それよりむしろ,彼(バリアン)の視点から見た様々な人たちの生き方と言葉にこそ,主役の座を用意すべきだと思う。ボードウィンIV世とサラディンの圧倒的な存在感は別格としても,父ゴッドフリー,その友人(?)のホスピタラー,ティベリアス,すべての登場人物がきちんとした個性を持って描かれ,含蓄のある言葉を発している。このテの話は,まだ映画を観ていない人にはネタバレになってしまうので,詳しく書けないのが苦しいところだが,みんなそれぞれに魅力的だ。

  神への信仰を見失ってしまったバリアン君が,そうした人たちの影響を受けながら成長し,いつのまにか群衆を前に大演説をぶってしまったりするのだが,それはそれとして,バリアン君はきわめて純粋で一途な青年として描かれている。その一途さは,ある意味『グラディエイター』のマクシマス将軍とも重なるが,私はずっと昔に見た『ブラザーサン・シスタームーン』を思い出していた。キリスト教会の腐敗と堕落に絶望し,いっさいの財産を捨てて自然に身をゆだねようと説いた(すみません,遠い映画の記憶だけで言っています,事実に誤認があったらごめんなさい),アッシジの聖フランチェスコの映画だ。バリアンの純粋さも相当極端なのであるが,それが周囲から浮いて見えないのは,やはり周りの人たちの個性のせいだろう。全体としてはリドリー・スコットらしい「男臭い」映画だ。小難しすぎず,理想主義すぎず,しかし娯楽のみに走らず,見応えのある作品だった。

  とはいえ,台詞だけからはよく理解できないこともある。あとで調べてみたら,監督は3時間くらいにまとめていたようであるが,劇場公開のために2時間に縮めたとのこと。ディレクターズ・カット版のDVDも,どうやら発売されるらしい(『ロード・オブ・ザ・リング』と同じ流れか…)。

  また,この映画でもいろいろと字幕の誤りが指摘されている。字幕問題を扱っているサイトを見てみると,映画を観ながらあれ?と疑問に思っていたことが,ことごとく誤訳に引っかかっていた。なあるほど,ほんとうはこう言っていたのか,字幕には出ていなかったけど,こんな発言もしていたのかと,ひとつひとつ納得する。こういうサイトがあると,ほんと助かります。…ほんとは,こういう手助けなしに,映画の台詞を聞きとれる「英語耳」を持てるようになるのがいちばんなのだが,これはどうも望み薄だ。

ポイント

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